月に隕石がぶつかったのはかれこれ二年前、高校受験真っただ中だった中学三年生の秋。

 直接見ることはなかったけれど、何度も月に隕石がぶつかる瞬間の映像がテレビやネットなどあちこちで流れた。

 誰もが予想していなかった突然の出来事に当時は世界中が大騒ぎになり地球への影響が懸念された。

 正直、受験どころではないんじゃ……と私はそちらを心配した。

 結果、隕石とぶつかったことで月の一部がえぐれるという事態にはなったが、月に守られる形で地球は助かった。

 姿の変わった月を眺め歓喜の渦に包まれた人類は、しばしお祭り騒ぎとなった。そして私の受験も無事に成功。県内一の進学校に入学できた。

 しかし感謝してもしきれない月という存在が、恐怖の大王に変わったのは昨年末。

 球体だった月が欠けたことで地球との引力のバランスを崩し、一年以内に月が地球に落ちてくる可能性が非常に高いという情報が、それこそ隕石のごとく全世界に衝撃を与え一気に駆け巡った。

 なんの冗談なの?と最初に思ったのは一人や二人ではない。現に私もそうだった。志望校に入学しそれなりに楽しい高校生活を送っていたのに、とんでもない横やりだ。

 けれど嘘でも冗談でもデマでもなかった。テレビをつければ各国の首相や大統領が真っ青な顔でなにやら今後について話し合う映像が映し出され、NASAの偉い手が連日、演説でもするかのように説明を繰り返している。

 おかげで彼の顔と名前を嫌でも覚えてしまった人も多い。どんどん現実味が帯びてくる事態に、世界は大混乱に陥った。

 月が地球に落ちてくる事態はどうも免れそうにない。

 確率は九十三パーセントらしい。百パーセントではないのを喜ぶべきか、せめてもの気休めとして受け取るべきなのか。

 NASAの公表した情報を鵜呑みにするならば、地球が助かる可能性はたった七パーセントというわけだ。

 その数字がどういう根拠に基づいて出されたものなのか私は知る由もないし、説明されてもきっと理解できない。

 肝心なのは九死に一生どころか、ほぼほぼの確率で地球は滅亡する。一度救われた月という存在によって。

 運命の日は明日かもしれないし、一ヵ月後かもしれない。もしかすると今日かも。

 世界はもうすぐ終わるんだ。

 心の中で唱えると、喉の奥がきゅっと締まるような不快感を覚えた。普段、あまり意識しないようにしているのに、突然発作みたいに不安や恐怖の波が襲ってきてじっとしていられなくなる。今日もまさにそうだった。

 部屋の中に閉じこもっていても、こうして外に出て来ても状況はなにひとつ変わらないのに。むしろこうして現実を突きつけられるだけだ。

 隣にいるカップルは相変わらず結論の出ないやりとりと繰り返している。そして不毛なやり取りを終わらせるかのごとく、突然男性が女性の肩を力強く抱いた。

「俺はどんなことがあっても、お前のそばにいるし絶対に守るから」

「守るって、どうやってよ……」

 表情は見えないけれど、女性の声は震えて涙が滲んでいた。

「わからない。でも俺はお前のためなら命を懸けられる。そのために生まれてきたんだって自信を持って言える」

 ああ、すごいな。

 映画なら間違いなく最高のワンシーンだ。あくまでも自分が観客ならの話で、同じ当事者としては、そう呑気に受け止めてはいられないけれど。それでも私は純粋に感動した。

 はっきりと、自分はなんのために生まれてきたのかを言えるんだ。

『どうせ限られた命なら、誰かの、なにかのために役立てたい。そんな人になりたいんだ』

 不意に彼の台詞が鮮明に蘇った。彼はこうなる事態を見越していたのかな? 今、どこでなにをしているんだろう。

 意を決し私はカップルに背を向けて、歩きはじめた。

 太陽に背を向け、地面にできた自分の影を睨む。不思議なもので、動いているときよりもこうして止まったときの方が全身から汗が噴き出しそうになる。

 暑さのせいもあるがそれだけじゃない。だから動いていないと。

 頭を軽く振ると、麦わら帽子のつばがわずかに揺れ、影もそれに倣う。私は再び一歩前へ進みだした。

 四国の片田舎であるここ、月城(つきしろ)市は比較的治安もマシだった。市といっても人口は一万五千人にも満たないほどで、今はもっと少ないと思う。

 元々近隣の村が合併により市の称号を得たもので、栄えているかといえば話は別だ。でも、その微妙さのおかげで私は今もここに無事に住んでいられる。

 都心部では地球滅亡と聞いて自暴自棄になった人々による強盗、殺人が日常茶飯事に起こり、食料や必要物資の買い占めなどで人がごった返しているらしい。

 死人が出ることも珍しくはない。みんな殺気立っていた。

 肩が触れ合っただけでどちらかが死ぬ。日本とは思えないような出来事が続き、厳戒態勢が布かれるものの警察官や自衛隊員の数さえ不足した。

『ヨーロッパなら安全だ』『日本でも北海道なら大丈夫だ』『ロシアやアメリカなら……』

 情報が錯綜し、多くの人々が文字通り踊らされる。遠く離れて住む家族と合流したり、はたまた外国まで足を伸ばしたり。

 私の周りはどんどん人がいなくなった。消えていった。みんなどこに行ったんだろう。

 一部のお金持ちや権力者たちの間では宇宙への移住について冗談ではなく、真剣に考えている人もいるんだとか。でも一般市民には関係のない話だ。

 『俺、宇宙に行きたいんだ』

 そういえば彼はそんなことも言っていた。閉じ込めていた思い出はふたを開ければ次々と心の奥底からあふれ返ってくる。

 忘れようとしたのに、懐かしい声がリアルに頭に響く。すると、じわじわと恋しさにも似た焦がれる気持ちが胸を覆っていく。

 会いたい。

 衝動的に私は駆け出しそうになる。自転車を取りに帰ろうか迷って、その時間さえ惜しくなり、このまま自分の足で行こうと決める。しっかりと地面を蹴って前に進み出した。

 どうして今なんだろう。今までにも機会はあったのに。全部今さらに終わるかもしれない。自棄を起こすってこういうことなのかな。

 どうせ自分を痛めつけたいのなら、なにかに心を縛られるならこっちの方がよっぽどいい。

『運命かも』

『なんの?』

 うん。様々な条件が重なってこうして今、私が彼に会うために行動に移せたのが運命なのだとしたら……。

『それは、これから考える』

 本当に考えたの? 答えは出た? 聞いてみたい。

 彼の家の場所は前に一度だけ教えてもらった。学校から月見ケ丘ニュータウンを過ぎ、さらに東の駅の近くにある。幸い記憶力はよかった。

 会えないかもしれない、という可能性は考えない。

 世界に溶けてぼやっとしていた自分の輪郭がはっきりした気がした。