父はこちらの様子を窺っていた。自分の鼓動音が大きく響く。
「お父さん」
かすれた声。一瞬、気持ちがぐらついたが、必死で踏ん張る。大丈夫、私はひとりじゃない。言い聞かせてから、自分の心の奥底にあった気持ちをゆっくりと解き放つ。
「私、ずっと謝りたかった。お母さんとまなかのこと……ごめんなさい」
声も、唇も震えて、上手く言葉を紡げない。堪えきれずうつむくと、涙の膜で視界が一気にぼやけた。感情が勝手に走りだす。
「なんでほのかが謝るんだ」
「だ、って。私の、せいで。私が、お守りを頼んだから。だから、お母さんとまなかは……」
涙が溢れだし、もう制御不可能だ。
責めてくれたらよかった。お前のせいだってはっきり言われた方が楽だったのかもしれない。
重すぎる罪悪感を自分で処理することはできなくて、ずっと苦しかった。でも実際は怖くて……父に拒絶されるのも不安で言い出せなかった。
静かに嗚咽を漏らして泣いていると、私の頭に大きな手が乗せられた。
「ほのかはなにも悪くない。それだけは言える」
ゆっくりと、はっきりとした父の声。こんな近くに父がいるのはいつぶりだろう。
「でも、私が……」
「でも、じゃない。天国の母さんもまなかも、ほのかを責めるような気持ちはひとつも持っていない。絶対にだ」
私は手で乱暴に涙を拭う。熱い液体が皮膚に染みた。鼻を軽くすすり、調子を取り戻そうと試みる。
「お父さんは……私に怒ってるから、こんな状況になっても仕事をずっと続けているんじゃないの?」
「そんな理由なわけないだろ」
反射的に否定されたものの、それから言葉がない。しばしの沈黙。それを経て父は唐突に語りだした。
「母さんとな、約束したんだよ」
その言葉に私はゆるゆると顔を上げる。いつ見る厳格な父の面影はなく、どこか寂しそうで切なそうな表情だった。
「もし自分になにかあっても、どんなことがあっても警察官としての役目を果たせって。あなたはそれができる人なんだからって」
初めて語られる話だった。今まで父から母の話を聞く機会などほとんどなかった。
「車を運転していた犯人を憎んだ。落ちてくる月を恨んだ。自棄を起こしそうにもなった。でもな、母さんとの約束があって、ほのかがいたから父さんはここまで生きてきたんだ」
「私、お父さんにあまり好かれていないと思ってた。お父さんはいつもまなかの方を可愛がっていたし」
予期せぬ本音も思わず漏れ、父は虚を衝かれたような顔になる。それを受け、珍しく動揺しているのが伝わってきた。
「誤解だ。父さんは、ほのかもまなかも同じように大事に思っているよ。ただ……まなかは母さんに似ていて、ほのかは自分に、父さんに似ていたから」
父から飛び出た言葉に、今度は私が狼狽える。そこで一区切り入れるた父は顎を触りながら、続きを悩んでいるように見えた。
「父さんもどちらかといえば人付き合いが苦手で、自分からあまり誰かと関わっていくのは得意じゃない。だから、ほのかが人間関係で悩んでいるって母さんから聞いたときは、痛いほど気持ちがわかったよ」
母になにげなく愚痴をこぼすように人間関係について相談した覚えがある。上手く振る舞えない自分に嫌気が差すって。
それからしばらくして非番で家にいた父が突然、私の部屋のドアをノックして顔を出した。
『ほのか。みんなにいい人って思われなくてもいいんだぞ。お前が大事にしたい人のために、誠実でいたらそれでいいんだ』
前触れもなくあまりにも唐突に言い捨て、父はその場をさっさと去っていた。私は意味がわからず、しばらくぽかーんと口を開けたままだった。
そっか。父は父なりに私を気遣ってくれていたんだ。嫌われていたわけでもなくて、私だって自分から父に歩み寄ろうとしなかった。
どちらも受け身なら、関係は進まない。やっぱり私たちは親子で似た者同士なんだ。
結論付けてようやく私は笑えた。ずっと長い間、遠回りしていたんだ。
さらに父の弁明によると、地球が終わりそうだからとはいえ、元々仕事人間だったのもあり今さら娘とどう接していいのかずっと悩んでいたのだという。
基本的に家にいる私に安堵していたそうで、だから今日、谷口商店で私を見かけ驚きと外にいることで強く当たってしまったんだとか。
「ほのかまでいなくなってたら、父さんはきっと今、生きていない。ごめんな。父さんも自分のことでせいいっぱいでほのかの気持ちを汲んでやれなくて」
涙で顔がぐちゃぐちゃだ。私は大袈裟に首を左右に振る。
思い出した。私が勉強を頑張りだしたのも、小学生のとき普段無口な父が『ほのかは頭がいいんだな』と成績を褒めてくれたからだ。
「……お父さん、私が生まれたとき嬉しかった?」
「嬉しかったよ。ほのかとまなかが生まれたときが、生きてて一番幸せだと思った」
そう言って父はハンカチを差し出してくれた。真っ白の綺麗なハンカチだ。申し訳なく思いつつ私は遠慮なく受け取ると、顔に押し当てて涙を拭った。
「お父さんとは話せた?」
「うん」
穂高は律儀にも派出所前から少し歩いた角で、私と別れたところで待っていてくれた。泣いたおかげで私の瞼はまだ腫れている。なので、この顔で彼に会うかどうか悩んだけれど、もう諦めた。
私はぽつぽつと父と話した内容を穂高に伝える。
「お父さん、前より少しは家に帰ってきてくれるって」
「そっか。それはよかった」
穂高は、まるですべてを見越していたかのように満足気な顔をしている。私は素直にお礼を告げた。
「ありがとう、穂高のおかげだよ」
「ほのかが頑張ったからだよ」
その言葉を受けて確認するように空を見上げる。お昼過ぎに空に浮かんでいるのを見かけた青白い月は、今は黄金色に輝き西の方へと移動している。
星が輝く暗さになり、雲がないので天体観測にはちょうどよさそうだけれど、こ照明などがほとんどない道を歩いて、山奥にある西牧天文台に向かうのは無謀だ。
それは穂高もわかっている。ごめんね、と謝ろうとしたら突然、乱暴なクラクション音が辺りに響く。さらにはライトの眩しさに私は眉をひそめた。
迷わず車がこちらに近づいてくる。とっさに穂高が私を庇うように肩を抱いた。すると車はスピードを落とし、私たちのいるところへ横付けする形で止まった。
白い軽トラだ。どういうつもりなのかと不安で身をすくめていると、軽トラの窓が開く。
「おい。お前らこんなところでなにしてんだよ? 天文台には行ったのか?」
「宮脇さん」
運転席から顔を出したのは、まさかの宮脇さんで、となると乗っている車は谷口さんのものだろう。それにしても、どうしてここに?
浮かんだ疑問に答えるように宮脇さんは面倒くさそうに続ける。
「谷口さんとか、あそこにいた連中がやっぱり心配だから送っていってやれって言い出したんだよ。で、車乗って追いかけてみても、どこにもいねぇし」
「す、すみません」
「で、行ったのか?」
「それが……」
私は首を縮めながら言いよどんだ。それで宮脇さんは察したらしい。
「乗れよ。ここまで来たんだから乗せてってやる」
「え」
「ただしふたりとも荷台にだ。落ちないようしっかりつかまっておけ」
「派出所前で言います?」
穂高が呆れたようにツッコんだ。すると宮脇さんが愉快そうに笑う。
「いざ月が地球に落ちてきそうになったら、みんな荷台にでも乗り込んで必死で生きようと逃げるんだろ。警察もいちいち取り締まってらんねぇよ」
どうだろう。父に見つかったら普通に違反として捕まるかもしれない。そんな考えが過ぎる。でも宮脇さんの言う通り、こんな状況だ。
私と穂高は顔を見合わせる。ふたりの気持ちは一緒だ。
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
宮脇さんは運転席から降りると、軽トラの荷台部分を囲っているうしろのあおりを倒した。穂高が先に乗り込むと、ぎしっと軋む音がする。
不安になりながらも、手を差し出してくれたので私は彼に引っ張り上げてもらい乗り込んだ。宮脇さんが再びあおりを起こし、運転席に戻る。ゆっくりと車は走り出した。
「ほのか、こっちに移動できる?」
「う、うん」
ぼこぼこしていてお世辞にも座り心地はいいとはいえない。バランスを取ながら荷台の上を這うようにして穂高の方へ移動する。
穂高の隣に座りあおりにしっかりと背中をつけ体勢を安定させた。ぎこちない私に穂高が問いかける。
「怖くない?」
「全然! むしろワクワクしてる」
風を受け、髪を押さえながら私はつい声を張り上げて答えた。
不思議。もうすぐ世界は終わるのに。絶望と不安と諦めしかなかったのに。
軽トラの荷台に乗ったのももちろん初めてで、今から天文台に行ける期待もあるのかも。心地いい高揚感が不安や恐怖などを押しのける。
穂高は私を固定するためか、さりげなく私の腰に腕を回して自分の方に引き寄せた。心拍数が一気に上昇する。これくらいの密着で照れるのは、今さらだ。
そうは思っても、まともに顔が上げられず穂高の顔が見られない。
『大丈夫。俺がいるから』
ようやく自覚した、彼に対する想いを。愛とか恋とか知らないし、今まで色恋沙汰とは無縁だった。だから、これを恋と呼んでいいのか自分で判断もできない。
でも穂高は特別なんだ。それだけは確信をもって言える。今まで出会ってきた誰とも違う。
いつ地球が滅びるかもしれないというこんなときでも、私はこうして彼と一緒にいたい。この気持ちは本物なの。
荷台に乗っている私たちを考慮してか、宮脇さんはわりとゆっくりと走ってくれた。それでも暗い山道を軽トラの荷台で、というのはなかなかスリリングだ。
ひたすら山道を走り続けてでこぼこな道を登っていくと、木々の合間から白いドームのような建物が顔を覗かせる。あれが西牧天文台だ。
夜でも外観は目立ち、徐々に全貌が現れる様は期待感を膨らませていく。そして開けたところに車が出ると、天文台は目前だった。想像していたよりもずっと大きい。
車が停まったのを受け、ほっと胸を撫で下ろすと、降りてきた宮脇さんが行きと同じようにあおりを倒してくれたので、私はゆっくりと地に足をつけた。
車酔い知らずの私だったが、今回ばかりは『車に酔う』という感覚を初めて味わった気がする。平衡感覚がおかしくてふらつくところを穂高が支えてくれた。
「大丈夫か?」
私は大きく息を吐いて足に力を入れる。
「うん。なかなかできない体験をさせてもらったね」
「お前ら、帰りはどうするんだよ。本当にここで夜を越すのか?」
談笑を遮った宮脇さんの質問には、穂高が答える。
「一応、そのつもりです。ここの管理者さんに話はつけていますから」
「迎えが必要なら、適当な時間に来てやるぞ」
「でも」
宮脇さんは軽く手を振って鬱陶しそうな顔をする。
「俺はお前らのことなんてどうでもいいんだけどよ、ほかの連中がうるせぇんだ。健二とか、意外と谷口さんもな。あの女医さんは、家に連れて来いって何度も言ってくるし……」
みんなにあれこれ詰め寄られている宮脇さんを想像し、本人には申し訳ないがなんだか微笑ましく感じた。
穂高も同じように思ったのか、笑みを浮かべたままだ。そしてゆるやかに返事をする。
「じゃぁ、すみません。お言葉に甘えて二時間後にお願いしてもいいですか?」
「わかった。じゃぁ、せいぜい地球を滅ぼす月でも観察しておけ」
悪態をつきながら宮脇さんは運転席に乗り込み、来た道を戻っていく。
きっと真面目に二時間後に来るんだろうな。それもみんなに押されてしょうがなく、と言いながら。
私は思い切って今度は自然と私から穂高の手を取った。あまり意識しないようにさらっと。
「アルビレオ見えるかな?」
誤魔化すように話題を振る。冷静さを装いつつ内心では動揺が広がっていた。彼は笑いながら空いている方の手を上げて、天上を指す。
「見るだけなら、ここからでも確認できるよ」
「え、嘘!?」
私は驚いて穂高の隣に並び、視線を合わせてみる。彼はゆっくりと空をなぞるように指を滑らせた。
「アルビレオははくちょう座のくちばしの部分にあたるんだけれど、そのはくちょう座の一番の目印は一等星のデネブなんだ」
「デネブって……たしか夏の大三角形の?」
小学校の理科で習ったのを思い出す。星座盤をもらって観察したっけ。
「そう。ほら、あそこ」
彼が指す方を見れば、簡単に夏の大三角形を見つけられた。デネブ、ベガ、アルタイル。そこまで星に興味のない私でも、これらの星の名前は知っている。
こんなふうに空を見上げるのはいつぶりだろう。地球を滅ぼす月が怖くて、目を背けたくて極力見ないようにしていた。
でも、暗闇に輝く星は色も明るさも違う。空は、宇宙はこんなにも壮大で綺麗だ。
「デネブから三角の中側に位置する星に線を結んで、十字になるのがわかる?」
「なん、となく」
目を凝らして必死に頭の中で線を繋いでみる。穂高の指先を必死に目で追った。つくづく星座を考えた人は本当に想像力豊かだと思う。
「あとは中で見ようか。そのために来たんだから」
いつも通りの優しい声、穏やかな笑顔。胸がぎゅっと締めつけられる。意識しているのが私だけみたいで悔しい。
「行こう、ほのか」
さらには繋いでいた手を力強く握り返され、あっさりと主導権は彼に移った。
もう、ずるい。
私は色々な意味でドキドキしながら穂高に続き、天文台の中へと足を進めた。
西牧天文台は天文台と天文学習館を併設し、夜通し天体観測をするためか仮眠できるような部屋もあるらしい。当初はそこに泊まろうと穂高は考えていたんだとか。
例年通りなら、この時期は小学生を対象とした天文教室や趣味の天文サークルの人たちで賑わうはずだった。けれど今は、静まり返っている。
電気も最低限で薄暗い。ひんやりした空気が沈黙と共に肌に刺さる。そのとき、奥の事務室のようなところからひとりの男性が出てきた。
「これはこれは。珍しいお客さんだね」
眼鏡をかけ、六十代くらいかな。ひょろっとした体格で髪は薄く、頭頂部が見えかけているるが紳士的な穏やかな雰囲気だ。
「白木(しらき)さん、こんばんは」
穂高が挨拶すると、男性は目を細める。
「穂高くん、久しぶりだね。こんなときになんだが元気にしてたかい? 体調は?」
「おかげさまで。今日も星を見せてもらおうと思って」
穂高の回答に白木さんは声をあげて笑った。
「君も本当に宇宙が好きなんだね。しかも今日は可愛いお嬢さんまで一緒とは」
そこで白木さんの視線と共に、穂高の目も私に向けられる。
「ほのか、こちら白木卓(すぐる)さん。ここの管理者でもあり、さらには天文家でもあるんだ」
「アマチュアだけどね」
白木さんが照れくさそうに付け足す。
「それで、今日はどの星を見たいんだい?」
「彼女にアルビレオを見せて欲しいんです」
「なるほど。トパーズとサファイヤか。ついてるね、今日は何度も雲が空を覆っていたのに、今は引いている」
歩き出す白木さんに私と穂高も続く。神様なんて信じていないけれど、きっと運が味方してくれたんだ。
かすかな記憶を辿って見るものの、小学生のときに訪れたのが昼間だったからか、印象がかなり違う。
観測室のドアが開くと、中は思ったよりもシンプルだった。プラネタリウムのような丸い天井に、真ん中には、天井を貫くような大きな円筒の機械がある。
たぶんこれがメインの望遠鏡なのは予測できた。そこから別に伸びたパイプのような棒の先に、双眼鏡みたいなものがセットされている。
さらに横には小さな望遠鏡がくっついていた。
「すごい」
「天文設備としては、かなり小さいものだけどね」
そう言いながら、白木さんは部屋の脇にあるパソコンへ向かった。キーボードを叩き弄りだすと、真ん中にある望遠鏡も音を立てだす。
驚く私に穂高が解説を入れた。
「コンピューターで制御してるからね。ここで見たい天体を入力すれば自動で見つけてくれるんだ」
あまりにもハイテクで驚く。私にとってはなにもかもが未知の世界だ。それから白木さんがパソコンと望遠鏡の前を行 ったり来たりをする。
「はい、入ったよ」
「見てごらん、ほのか」
穂高に促され、私はおそるおそる望遠鏡を覗き込んだ。ぱっとふたつの星が目に入る。
「わぁ、綺麗」
思わず感嘆の声を漏らした。やや大きめのオレンジの星に寄り添うように青い星が並んでいる。
くっきりと、それぞれの星の大きさも色が違うのもわかる。これが普段はひとつの星に見えるなん不思議だ。
じっくりと眺めて、私は望遠鏡から顔を離す。
「なんだか地球と月みたい」
「近いかもね」
穂高がもうひとつの望遠鏡を調整していた。
「さっき白木さんも言ってたけど、あの有名な『銀河鉄道の夜』で作者の宮沢賢治はアルビレオをトパーズとサファイヤに例えているんだ」
それぞれの星にも一応、記号的な名前が割り振られているらしいが、『アルビレオ』というのはこのオレンジと青の星を合わせての名称だ。どちらが欠けてもアルビレオにはならない。
「それにしても、ひとつの星に見えるってことは地球からものすごく遠いの?」
「地球からの距離は四百三十四光年先と言われているよ」
「全然、ピンと来ない」
「とにかく、すごく遠くってことだよ」
穂高は笑った。今、空に見えている星でも、光が地球に届くまでの時間の関係で実際にはもう存在しないものもあるという話をよく聞く。
広い宇宙で新しい星が生まれ、命を終えていく。
「もしかして、アルビレオにも私たちみたいな人間が存在したりするかもしれない?」
「だとしたら、まさか自分たちの星が四百三十四光年先の星にいる生物たちに観察されているなんて思いもよらないだろうね」
「僕たちも、どこかの星から観測されているかもしれないよ?」
白木さんが間髪を入れずにおかしそうに言ってきた。確かにその通りかもしれない。想像して私と穂高も笑う。
「この広い宇宙でずっと離れずに、ふたつの星は回って輝き続けているんだね」
アルビレオを地球と月に置き換えて想像してみる。目を閉じると、瞼の裏に、輝くオレンジと青の星が映った。
「……意外と、地球としては本望なのかな? どこからか突然やってきた隕石や地球に住む人間のせいで滅んだりするくらいなら、ずっと傍にいた月に終わらされるのが」
「まだ終わるとは決まってないだろ」
穂高が力強い声で言い切った。肯定するように白木さんが続ける。
「そう。進歩はしているものの天文学……宇宙については、まだ未知な部分ばかりだ。月に隕石がぶつかったのもなんだかんだで予想できなかったし、月に地球が落ちてくるという話だって専門家の間でも意見が割れていたりする」
「落ちてこないかもしれないってことですか?」
希望を持って聞いてみる。しかし、それに対しては力強い返事は得られなかった。
「なんとも言えないね。一応、対策としてNASAとしては、探索機や宇宙ステーションの打ち上げなど色々試みているみたいだが、どれも期待できそうにないらしい。先日も月に向かって打ち上げたロケットが不発に終わって犠牲者を出したという話だし」
そのニュースは私もテレビでちらっと見た。穂高を見ればその顔はわずかに陰っている。やっぱり覚悟を決めないといけないんだ。
背筋がぞくりと震え、心臓を冷たい手で掴まれたような痛みと不快感に脂汗が滲む。
「でも不思議ですね。落ちる、落ちるって言われて、もう八月まで来た」
穂高が呟く。月が地球に落ちてくると言われ世界は混沌と化した。それこそ世界の終わりという言葉がぴったりなほどに。
だから一説では、いつ落ちてくるのか実ははっきりしているが、公表したらいよいよ世界が大混乱になるとしてわざと伏せているのではないかとも言われている。
本当のところはわからないけれど。
三分後かもしれない、一時間後かもしれない、明日かもしれない。そうやってずっと緊張状態でいるのも正直疲れた。
張りつめていた糸が私を含め皆、徐々に緩んできたんだ。なにもしなくてもお腹は空くし眠くもなる。
怯えや不安、絶望しながらもそれを抑えて日常生活を送るしかないと気づいてきた。
それだけじゃない。終わる世界でもこうして誰かを好きになって、星を見ることもできる。恐怖だけじゃない、こんなにも温かい気持ちになれるんだ。
これも全部穂高のおかげだ。星を観測している穂高の横顔をそっと盗み見る。最後に見ることができなくても、この顔をしっかりと覚えておきたい。今日の出来事も含めて全部。
それから白木さんや穂高の天体話に耳を傾けつつ、ほかの星もたくさん見せてもらった。気づけば宮脇さんと約束した二時間はあっという間だ。
「今日は、本当にありがとうございました」
私と穂高は白木さんにお礼を告げる。白木さんは終始穏やかな表情だ。だからあまり緊張せずに私はさらっと尋ねてみた。
「白木さんは、どうしてこちらにいらっしゃるんですか?」
私の質問に白木さんは目を白黒させると、やっぱり優しく微笑んだ。
「ここはね、亡くなった妻との思い出の場所なんだよ。妻とは社会人になってから星好きの集まりみたいなものを通して知り合ってね。ふたりでよく星を見た」
白木さんはなにかを思い出すように目を閉じる。
「だから最期はここで迎えたいと思ってね。宇宙や星好きの妻のことだ。いざ地球に月が落ちてくるとなったら、見逃せないと思ってきっと会いに来てくれるだろうから」
穂高が似たような話をしていたのを思い出す。質問しておきながら私はなんて返せばいいのか言葉が見つからない。
ただ、白木さんの奥さんに対する想いはしっかりと伝わってきた。夫婦の形も親子の形もきっと十人十色でそれぞれの絆があるんだ。
穂高が一歩前に出る。
「白木さん、今日はありがとうございました。また」
右手を白木さんに差し出すと、白木さんも力強く穂高の手を握った。
「こちらこそ。穂高くんも体を大事にね」
ふたりの手が離れると、白木さんは今度は私に向き合った。
「お嬢さんもありがとう。よかったらまたおいで」
差し出される白木さんの手を私も握る。穂高の手より小さくて皺もある。けれど同じように温かい。
「はい、また」
応えるように指先に力を込めた。全員、次はないかもしれないってわかっている。これが最後かもしれないって。
でも「また」という言葉には希望が宿っていた。口にして音となり耳に届くと、本当に叶いそうな気がする。暗闇の世界にわずかな光を灯した。
外に出ると、山の上というのもあってわりと涼しい。剥き出しになっている腕を無意識に摩り辺りを見渡してみたが宮脇さんはまだ来ていなかった。
「穂高、今日はありがとう」
唐突に、でも言わずにはいられない。たくさん、一言では表せられないほど彼には感謝の気持ちでいっぱいだ。
「どういたしまして。俺も楽しかったよ。ほのかとこんなふうに過ごせるなんて夢にも思っていなかったから」
相変わらずストレートな彼の言葉に私は反応に困ってしまった。わざとらしくうしろで手を組み、一度空を見上げる。
「ねぇ、なんで日本語や現国が苦手だって嘘ついたの?」
「嘘?」
突拍子もない質問に穂高はおうむ返しをする。私は軽く頷いた。
「うん。勉強を教えているときからずっと思っていたんだけどね。今日も日本語に困る素振りはまったくないし、むしろすごく上手だし。さらには宮沢賢治の銀河鉄道の夜まで読んでるんだもん」
薄々と勘付いていたものが、今日彼と一緒に過ごしたおかげで確信に変わり、思い切って聞いてみる。
私がなにかを教えるほど、彼は現国の成績が悪いわけでも、日本語を理解できずに困っているふうでもなかった。穂高は否定せずに、困惑気味に眉尻を下げている。
「そう、だね。両親が日本人だし、本をたくさん読む人だったから。アメリカでいたときも日本語の補習校にはずっと通っていたんだ」
「だったら、なんでわざわざ私に勉強を教えてほしい、なんて言ってきたの?」
「なんでだと思う?」
穂高は打って変わって意地悪い笑みを浮かべた。質問に質問で返すのはどうなんだろう。
だって、あれこれ理由を考えてみるけれど、自分の都合のいい思いつかない。
自惚れでなければもしかすると穂高は――。
「俺はクドリャフカになりたいんだ」
いきなり、彼が不意打ちのように言ったので、私の思考は一瞬停止する。聞き慣れない単語なのでうまく拾えなかった。頭を切り替えてあれこれ考える。
「俺さ、クドリャフカになりたかったんだ」
今度は過去形で念を押される。力強くはっきりと言葉にしてくれたおかげで、ようやく単語として聞き取れた。
けれど、それがなんなのかはまったく見当がつかない。彼はたしか、宇宙に行きたいと言っていたような気がするけれど関係あるのかな?
なんだか素直に尋ねるのが癪で私は別の角度から質問を投げかけてみる。
「それって、どれくらいの確率でなれるの?」
彼は私と目を合わせると、笑顔を作った。外が暗いからという理由だけじゃない。
悲しいのか、楽しいのか、嬉しいのか、寂しいのか。彼の感情の奥底にある本音を読み解くのはいつも難しい。
じっと見つめると、穂高の形のいい唇が動く。
「地球が助かる確率と同じくらいだよ」
大きく目を開いて言葉を失っていると、豪快な音と共に車のヘッドライトが視界に映る。宮脇さんが約束の時間よりやや遅れて私たちを迎えに来た。
おかげで私は彼になにも返すことなく、話はそこで終わってしまった。
帰りも軽トラの荷台に乗り込む。行きと違って下り坂な分、タイヤが跳ねる衝撃が強く、その度に振動が伝わってきて私たちも揺れた。
穂高は私を支えるために隣に座るよう指示すると、腕を伸ばして体を密着させた。長い一日で、疲労が滲みお互いどうしたって言葉数が少ない。
でも疲れのせいだけかな。車酔いとはまた違った、吐き気にも似たぐるぐると中からかき混ぜられる様な気持ち悪さがどうしても続く。
この言いしれない不安はどこから来るの?
結局、私の質問の答えにも、穂高が突然話しだした内容についても、すべてが中途半端のままだ。
軽トラは樫野さんの家、自宅兼助産院の前で止まった。谷口商店のわりとすぐ近くで、一軒家にしては大きくて新しい。車の音を聞きつけてか、中から人が現れる。
「おかえりなさい、ほのかちゃん、穂高くん。星は見えた?」
迎えてくれたのは家の主ではなく理恵さんだ。続けて樫野さんもやって来た。
「ふたりとももう遅いし、うちに泊まっていきなさい。石津さんも体調が万全じゃないのもあって、泊まっていってもらうようにしているから手間じゃないわ」
「すみません、よろしくお願いします」
私たちはまだ未成年で、ここは大人の好意に素直に甘えよう。少し前なら遠慮したかもしれないけれど、今はすんなりと頼れる。
お父さんにも心配をかけてしまうし。
「宮脇さん、明日はよろしくお願いします」
理恵さんは宮脇さんに向かって腰をきっちりと曲げて深々と頭を下げた。私たちの出迎えというより、彼に挨拶したかったのかも。
宮脇さんはぶいっと顔を背けぶっきらぼうに告げた。
「いいから、横になっとけ。明日は九時過ぎに来るからな」
「はい」
そこで宮脇さんの視線が穂高に移る。
「おい、そっちは女ばっかりだから、気を使うならこっちに来いって谷口さんが言ってたぞ。部屋は余ってるらしいからな。健二も喜ぶだろうし」
宮脇さんの提案に穂高は困ったように頬を描いた。
「お気遣いありがとうございます。でも、俺はほのかと一緒でいいです」
「あらあら。でも部屋は別よ」
「わかってますよ」
樫野さんのからかうようなツッコミを穂高はさらっと返す。深い意味はないはずなのに私はなんだか恥ずかしくなった。
改めてお礼と挨拶をすると、宮脇さんは谷口さんのところに戻っていく。というわけで私たちは樫野さんのお宅で泊まることになった。
まずはシャワーを借りて、一日の汗を流してさっぱりする。簡易な浴衣のようなものを着替えとして用意してもらったので、パジャマ代わりにしようと袖を通した。
こうして世界が終わりそうでも、誰かのおかげで水道や電気、ガスは使えるんだから有難いな。顔も知らない誰かに支えられて、私たちは生きている。
皮肉にも世界が終わりそうになって、当たり前が当たり前じゃないんだって気づかされた。
髪をさっと乾かし、いつもは二階に上がっていくところを、今日はバリアフリーの廊下をまっすぐに歩いていく。極力足音を立てないように。どこか旅行に来たかのような感覚だ。
部屋を案内されて気づいたのだが、私の部屋はどうやら穂高の隣の部屋らしい。
理恵さんは万が一を考慮して、樫野さんの自室近くの部屋を宛がわれていると聞いている。
部屋に入ってドアを閉め、私は壁際のベッドに横になった。
べつになにもないし変に意識することでもない。とはいえ妙に緊張してしまうのも事実だ。疲れているのに目が冴えてしまう。
わりとどこでも眠れる太い神経の持ち主だと思っていたけれど、その認識は改めた方がよさそうだ。
そもそも月が地球に落ちてくると聞いてから熟睡なんてしたことあったかな。浅い眠りを繰り返してばかりな気がする。
意識すると眠気はさらに遠のく。まだ少し湿っぽさを残す髪が頬にかかり、私は静かに息を吐いた。
穂高は今、なにを考えているんだろう。疲れているからもう寝ちゃったかな?
あれこれ悩んだ末、私はがばりと身を起こして立ち上がった。そっと部屋を抜け出し忍び足で隣の部屋のドアまで近づく。
わずかに廊下の軋む音に肩を震わせ、息をひそめた。耳鳴りがするほど静かで自分の鼓動音がやけに煩い。
肌にまとわりつく空気はべたっとして不快だ。でも私はしばらく穂高の部屋の前で葛藤した。
どうしよう。これといった用事があるわけでもないし……迷惑かな。夜中に異性の部屋を訪れるなんて、顰蹙ものだ。今までの私なら考えられない。性格的にも、常識的にも。
でも、もうこんな機会、二度とない。
決意して軽くドアをノックしようとする。その寸前、中からドンっとなにかがぶつかるような低い音が聞こえた。
躊躇いなんて吹っ飛び、私は後先考えず部屋の中に踏み込んだ。
「穂高!?」
暗い部屋の中で目にしたのは、ベッドで上半身を起こし苦しそうに胸元を押さえている穂高の姿だった。私はすぐさま彼の元に駆け寄り、腰を下ろす。
「どうしたの? 大丈夫!?」
穂高は突然現れた私にちらりと視線を寄越したが、なにも答えない。苦痛に耐えるように顔を歪め、息を荒くしている。
どう見ても調子が悪そうなのは明白で、放っておいてよさそうなものでもない。
不安で心臓が一気に早鐘を打ちだす。どうすればいいのかパニックを起こしそうになったが、この家にはお医者さんがいるのを思い出し、私は立ちあがった。
「樫野さんに」
「いい」
腰を浮かそうとした私に、穂高は掠れた声で答えた。いいわけない。彼の言葉を素直に聞けるはずもなく、夜だというのも忘れて私はすぐさま反論する。
「でもっ!」
「いいから」
穂高は私の腕を掴んで行動を阻む。本気で止めようとしているのか、加減をする余裕もないほどなのか遠慮のない力の入れ方に驚いた。
「薬も、飲んだ。心配ない」
荒い息遣いで切れ切れに言われても説得力皆無だ。不安から涙が出そうになる。
「心配ないって……」
「いいから、ここにいろ!」
彼にしては珍しく乱暴な口調だった。私はびくりと体を震わせる。穂高は掴んでいた私の腕を引き、自分の方に私を寄せた。
体勢を崩しながらも彼に抱きしめられる。
「ごめん。でも、本当に平気だから……今は、ほのかがそばにいてくれたらそれでいい」
たしかに苦しそうではあるけれど、心なしか声には平静さが戻っている気がする。でも、彼の言い分を鵜呑みにして安心はできない。
「穂高、どこか悪いの?」
抱きしめられているので、彼の顔は見えない。正面から包まれる温もりは、胸騒ぎを増幅させた。空気を肺取り込もうとしているのか、懸命に息を吐いては吸ってを繰り返している。
穂高はなにも言わない。
「ねぇ、答えてよ」
彼の肩口に顔をうずめながら、どうしても責める言い方になってしまう。通常の倍以上に早い心音は私のものなのか彼のものなのか区別がつかない。
穂高は深呼吸して調子を整えてから、なだめるように私の頭を優しく撫でた。
「少し。けど、今は薬を飲めば大丈夫だから」
「今は、って……」
「ほのか。俺が日本に戻ってきたのは、検査のためだったんだ」
突然語りだされた思いもよらぬ彼の事情に私は目を丸くする。
「検査ってなんの? どういうことなの?」
震える声で問いかける。急かしたくないのにどうしたって不安から心が逸る。
穂高はぎこちなく語りだした。
「十歳を過ぎた頃からかな。ずっと調子が悪くて、常に息苦しさを感じていた。原因がわからない状態がずっと続いてたんだけど、日本にいい先生がいるからって思いきったんだ。宇宙飛行士になるには健康が絶対条件だからね。そしたら……珍しい呼吸器系の病気だった。症例も少なくて、世界的に見ても珍しいらしい」
彼の言葉はちゃんと耳に届いたのに、情報の理解が追いつかない。脳が受け入れるのを拒否している。なのに彼は淡々と事実を告げていく。
「それこそ発症率は人口の数パーセントにも満たないって。驚いたよ、治すつもりで意気込んで日本に来たのに。しかも、はっきりと診断されたのは月が地球に落ちてくるっていう発表があった直後だったんだ……すごいだろ。地球が助かる確率よりも低いものを俺は当てたんだから」
彼が学校をよく欠席していたのはそういう理由だったのかと、今になって繋がる。
穂高の声には落ち着きが戻ってきて、むしろわざとらしく明るいトーンだった。でも無理して作っているのがバレバレで、代わりに私の涙腺が緩みだす。
必死で泣くのを我慢する。泣きたいのは穂高だ。
「今は薬で症状を抑えているけど、それもいずれは効かなくなる。最終的には手術しないと助からない」
「手術したら治るの?」
涙声で尋ねた質問に、沈黙が返ってくる。穂高の顔を見たいのにきつく抱きしめられているので、それも叶わない。穂高は私の頭を撫でていた手を止めた。
「……症例が少ない分、手術例も希少で成功率もかなり低い。ましてや世界がこんな状態だと」
「そんな」
「でも、もういいんだ」
私の言葉を遮るように穂高は力強く言い切った。
「今のままでも、地球の終わりまでは生きられる」
「まだ終わるって決まってないでしょ!」
噛みつくように私は言い放つ。いつもと立場が逆だ。それは穂高も思ったのか、かすかに笑ったのが伝わってきた。
「日本に帰ってきて、ずっと焦ってた。自分には目標があって、こんな回り道をしている場合じゃないのにって。高校生活も病院に通う傍らの暇つぶし程度だった……でもよかった、ここでほのかに出会えたから」
私は小さく頭を振る。いいことなんてひとつもない。穂高が病気になるくらいなら、出会えなくてもよかった。
彼が日本に帰国する必要もなく、アメリカで自分の夢を目指して叶える方がよっぽどいい。
その考えに至り、ついに私の目から涙が溢れだす。我慢するも喉を震わせ嗚咽が漏れてしまい、そんな私を心配してか、穂高が腕の力を緩めてこちらを覗き込んできた。
「なんでほのかが泣くんだよ」
「だって……」
困惑気味の笑顔。穂高は親指で優しく私の涙を拭った。
「俺さ、クドリャフカになりたいって言っただろ」
語り掛けるように穂高は話を振ってくる。天文台を後にして彼が唐突に私に話してきた内容はしっかりと覚えている。私は静かに目で応えた。
「クドリャフカは、世界で初めて宇宙に行った動物なんだ」
穂高は寂しげに説明を始めた。
人類が宇宙に行く前に、幾度となく安全性などを確認するために試験的に犬がロケットに乗せられ、打ち上げられた。
その最初の犬の名前がクドリャフカ。雌だという彼女は適性検査をクリアし、数多の犬の中から選ばれた正真正銘の優秀な一匹だった。
一通りの訓練を終えた彼女は世界初の宇宙船に乗せられ、空へ旅立っていったという。
そこまで聞いて、計画は順調だったんだと窺えた。でも――
「それで、クドリャフカはどうなったの?」
おそるおそる尋ねると、穂高は私の頭をよしよしと撫でた。まるで慰めるかのように。犬にするみたいに。
「最初からこの計画にクドリャフカが戻ってくる予定はなかったんだよ」
なんとなく予想はしていたもの、まさか始めからクドリャフカの運命は決まっていたなんて。まったく関係ないのに、胸が痛んで勝手に傷つく。
「幼い頃に父さんにこの話を聞いて、ものすごくショックを受けたんだ。父さんの仕事や研究に反発心も抱いた。でも人間のエゴだって責めて終わりにするのはなにか違うと思って……。クドリャフカのおかげで人類は宇宙への道を開けて、全容はまだまだでも未知なものの解明に取り組めている」
彼の好きな宇宙の話をしているのに、いつもの雰囲気は微塵もない。暗がりの中、一瞬だけ目に映った穂高の表情は、まったく知らない人みたいだった。
今日一日ずっとそばにいて、見てきたはずなのに。
「今、月の落下騒動をなんとかしようとNASAを中心に世界が必死になって動いているだろ。核兵器にミサイル。いがみ合っていた国同士が手と手を取り合って懸命に対策を練っている。でも、どれも上手くいっていない。ほのかも知っているとだろうけど……」
穂高がなにを言おうとしているのか、彼から続けられる言葉は予想できない。ところが頭の中では、なにかが警鐘を鳴らしている。これ以上、聞きたくないと叫んでいる。
「成功率が極めて低いのはわかっている。どれも実験段階で不安定だ。犠牲者だって出ている。でも月の落下を食い止めるためには誰かが命を懸けないといけないんだ。クドリャフカみたいに」
そこで彼はまたあのセリフを口にした。
「俺はクドリャフカになりたいんだ」
肌に突き刺さるほどの静寂。キーンという耳鳴りが収まらない。ここまできて、ようやく彼の意図するものがわかってきた。
「なん、で」
どれくらい時間が経ったのか。声になったのかさえ自分でも曖昧だ。穂高はあくまでも冷静だった。
「地球が助かったとしても、俺は長く生きられない。だったらこの命を地球のために懸けてもいいと思ったんだ」
「やだ」
反射的にかぶせた声に穂高は変わらない調子で続ける。
「もうずっと前から決めていたんだ。父さんと相談して、アメリカに渡る準備も整っている」
私は大きく目を見開いて固まった。それを見て穂高は笑う。困ったような、悲しそうな顔だ。
「誰にも言わないつもりだった。誰にも会わないままここから消えるつもりだった。けれどまさか、ほのかかが会いに来てくれるなんて思ってもみなかったから……嬉しかったよ」
まるで終わったかのような、思い出を語るような彼の言い草が胸に刺さる。
「やだ、やだよ。なんで? どうして穂高なの?」
病気になったことも、彼が命をかけようとしていることも。なにもかもが納得できない。真面目に自分の目標に向かって生きていた彼がなにをしたの。
理不尽な思いは散々してきた。わかっていた、この世界に平等さなんてなにひとつない。
「ごめん。でも俺はどっちみち長く生きられないなら、なにかを成し遂げたい。自分の生きた意味を残したいんだ。もし自分の命で誰かが、地球が救われるなら十分だよ」
『どうせ限られた命なら、誰かの、なにかのために役立てたいって俺は思うんだ』
彼の言葉が脳裏に過ぎる。なにげなく交わしてきた穂高とのやりとりの中、彼がどんな強い決意を抱いて言っていたのかを今になって思い知った。
『……どうだろう。でも俺はここにずっといない存在だから』
『そして人類のために大きな偉業を成し遂げるんだ』
私は息と共に言葉もぐっと飲み込む。喉の奥が詰まって苦しい。穂高はこんな苦しさをずっと抱えていたのだろうか。
学校でいる彼は、微塵もそんな様子を感じさせなかった。でもそれは彼が感じさせないようにしていただけで、私がなにも気づかなかっただけだ。
穂高は複雑そうな顔で私をじっと見つめる。そして私の反応を気にしながら再びぎこちなく抱き寄せた。
そのまま彼がベッドに体を横たわらせたので、私も一緒に倒れ込む。私はなにも言わず彼に身を委ねた。
ベッドの軋む音が静かな部屋に響くと、穂高は抱きしめる力を緩め、私の顔を確認してくる。大きな瞳がすぐそばにあり、彼の腕を枕にするかたちで私も視線を合わせた。
「泣くなよ。ほのかは笑ってたらいいんだ」
「泣かせたのは、誰よ」
極力いつも通りの口調で返した、つもりだった。けれど涙は止められず、重力に従い流れ落ちて彼の腕を濡らしていく。頬も、耳も、なにもかもが冷たい。
すると穂高は顔にかかった私の髪をそっと掻き上げ、私の目尻に唇を寄せた。驚きで瞬きさえできずに固まる。そんな私を見て穂高は笑った。
「涙が止まるおまじない」
余裕たっぷりの彼に私は眉をひそめる。いくら彼がスキンシップが日本よりも激しいアメリカ育ちとはいえ、こういう手慣れた感はどうなんだろう。
そもそもこの体勢だって……。
「会いに来たのが私じゃなくても、こんなふうにしてた?」
どうしても確かめたくなって私は尋ねた。穂高にとって、私はタイミングよく現れたただの思い出作りの存在なのかな? 私じゃなかったとしても――。
「しない。ほのかだけだよ」
額と額を合わせられ、お互いの吐息を感じるほどの距離だった。打って変わって彼の茶目っ気は鳴りを潜め、声にも表情にも真剣さだけを纏っている。
軽く音を立て額に口づけが落とされた。伝わってくる温もりに再び涙腺が緩む。力強く抱きしめられ、窒息しそうになる。溺れそう。
でも離さないでほしい。
確実に世界は終わるのに、それがいつなのかわからないのは希望を持てる半面生殺しの状態だ。もういっそ、と何度思っただろう。
だから私は、もしも世界が終わるときを選べるなら間違いなく今だと答える。
苦しいのも、悲しいのも、寂しいのも、涙を流すのも、全部私がまだ生きているからなんだ。穂高が温かいのも、力強いのも、優しいのも、全部。
何度も瞬きを繰り返すうちに急激に睡魔が襲ってくる。眠りたくないのに次第に意識が遠のいていく。
瞼が重たくて目が開けていられない。穂高は大きな手で、いつまでも私の頭を撫でてくれていた。
目を覚ますと、部屋の中はほんのり自然光の明るさで照らされていた。まだ太陽が昇る前独特の色だ。
そこで意識が覚醒し、がばりと身を起こす。ここは自宅ではなく樫野さんの家で、どうやら私はあのまま眠ってしまったらしい。
状況を把握したところではたと気づく。肝心の穂高の姿がどこにもない。
急速に心がざわめきだし、私は部屋のあちこちに視線を飛ばしてからドアを開けた。廊下にも彼の姿はない。なんとなくこの家に穂高はいない気がした。
昨日ずっとすぐそばにあった彼の気配が今はない。
私は慌てて隣の部屋に戻り着替えると、樫野さんや理恵さんを起こさないように家の外に出た。まだ時刻は午前六時にもなっていない。
久しぶりの朝焼けに目が眩(くら)みそうになる。東の空は赤と青が入り混じり、爽やかすぎる透き通った色合いが逆に不安を煽った。
弾かれたように私は走り出す。
ただでさえ人が少ないのに、この時間はほかの誰の存在も感じない。まるで世界に私ひとりだけ取り残されたような感覚だ。
差し迫るような胸騒ぎを消したくて、私は全力で駆ける。谷口商店の方にも向かったけれど、やっぱり穂高はいない。
どこ? もしかして……。
『アメリカに渡る準備も整っている』
息が切れて苦しい。胸の奥が焼けるように熱くて痛い。この痛みの正体はなんなんだろう。
穂高の意志はきっと変えられない。私は彼になにを言うつもりなの? お別れをちゃんとしたいの?
『誰かを気遣ってあれこれ悩むくらいなら、自分の思うように動けばいいんだよ。どうせ相手の気持ちを百パーセント理解するなんて無理だ。だから自分が、ほのかがしたいようにすればいいんだ』
私は胸元をぎゅっと押さえて走った。大通りに出て月城市の方向を見つめる。
とにかく会いたい。会わなくちゃ。今すぐ彼に――。
足を一歩踏み出したところでかすかに風がそよいで頬を撫でる。誰かに呼ばれた気がして私はなにげなく振り向いた。
そして、たった一瞬の出来事に私は大きく目を見開く。
お母、さん? まなか?
道路を挟んで斜め向こうの堤防を背に、母と妹は優しく微笑んでこちらを見ていた。私が部屋で見送ったあのときの服装で、見守るように穏やかな表情だ。
けれど、あっという間にふたりの姿は視界から消える。夢幻そのもので、目を凝らしてみたけれど、そこには誰もいない。
白昼夢ってこんな感じ? 私の記憶が都合のいい映像を見せただけなのかもしれない。でも導かれるように私は母と妹がいた場所に近づいた。
そこでようやく波の音に気づく。たしか堤防から砂浜に下りる階段があったはずだ。
まさか……。
祈る気持ちで私は足を動かす。お願い、神様。そこですぐに思い直す。
神様なんていない。何度もそう実感したくせにやはり土壇場で頼ってしまう自分がいた。馬鹿だな。
だから私は祈る相手を替える。
お願い、お母さん、まなか。どうか――。
私は堤防を乗り越え、砂浜に顔を覗かせた。そして遠くに人の姿を確認する。
「穂高!」
お腹の底から声をあげる。こんな大声を出したのはいつぶりだろう。私の声は届いたらしく、呼ばれた人物はこちらに視線を寄越した。
驚いたのがここにいても伝わってくる。穂高は波打ち際に立って遠くを見つめていた。
風で揺れる髪を押さえ、急いで階段を下りていく。手すりもないのに岩のごつごつした作りは不安定にもほどがある。さらに砂浜を踏めば、足元が安定せず思うように進めない。
けれど私は彼の元へと迷わずに駆け寄った。
『各々の命の重さが同じなのだとしたら、一人の命で多くの人間の命が救われる事態になった場合、それは是か非か』
『安曇くんはどう思う?』
『俺は、ありかな』
『そうなの!?』
穂高の複雑そうな表情をしっかりと捉えながら、彼がなにかを言う前に私は強く叫ぶ。
「クドリャフカにならないで!」
膝に手をつき肩で息をする。止まった瞬間、汗が噴き出してきた。必死で呼吸を整えて私は言葉を続ける。
「なら、ないで。だって十分だから」
『どっちみち長く生きられないなら、なにかを成し遂げたい。自分の生きた意味を残したいんだ』
「クドリャフカにならなくても、もう十分だよ。穂高が成し遂げたものはたくさんある。生きている意味だって。私は穂高がいたから変われた。諦めていたものにまた手を伸ばすことができたの。それは穂高が生まれて、ここまで生きてくれていたかなんだよ!」
もう終わるからってすべてを受け入れていたわけじゃない、諦めていただけの自分。けれど穂高が手を差し出してくれたから、こんな終わりそうな世界で私は歩き出せた。たくさんの人に出会えた。