西牧天文台は天文台と天文学習館を併設し、夜通し天体観測をするためか仮眠できるような部屋もあるらしい。当初はそこに泊まろうと穂高は考えていたんだとか。
例年通りなら、この時期は小学生を対象とした天文教室や趣味の天文サークルの人たちで賑わうはずだった。けれど今は、静まり返っている。
電気も最低限で薄暗い。ひんやりした空気が沈黙と共に肌に刺さる。そのとき、奥の事務室のようなところからひとりの男性が出てきた。
「これはこれは。珍しいお客さんだね」
眼鏡をかけ、六十代くらいかな。ひょろっとした体格で髪は薄く、頭頂部が見えかけているるが紳士的な穏やかな雰囲気だ。
「白木(しらき)さん、こんばんは」
穂高が挨拶すると、男性は目を細める。
「穂高くん、久しぶりだね。こんなときになんだが元気にしてたかい? 体調は?」
「おかげさまで。今日も星を見せてもらおうと思って」
穂高の回答に白木さんは声をあげて笑った。
「君も本当に宇宙が好きなんだね。しかも今日は可愛いお嬢さんまで一緒とは」
そこで白木さんの視線と共に、穂高の目も私に向けられる。
「ほのか、こちら白木卓(すぐる)さん。ここの管理者でもあり、さらには天文家でもあるんだ」
「アマチュアだけどね」
白木さんが照れくさそうに付け足す。
「それで、今日はどの星を見たいんだい?」
「彼女にアルビレオを見せて欲しいんです」
「なるほど。トパーズとサファイヤか。ついてるね、今日は何度も雲が空を覆っていたのに、今は引いている」
歩き出す白木さんに私と穂高も続く。神様なんて信じていないけれど、きっと運が味方してくれたんだ。
かすかな記憶を辿って見るものの、小学生のときに訪れたのが昼間だったからか、印象がかなり違う。
観測室のドアが開くと、中は思ったよりもシンプルだった。プラネタリウムのような丸い天井に、真ん中には、天井を貫くような大きな円筒の機械がある。
たぶんこれがメインの望遠鏡なのは予測できた。そこから別に伸びたパイプのような棒の先に、双眼鏡みたいなものがセットされている。
さらに横には小さな望遠鏡がくっついていた。
「すごい」
「天文設備としては、かなり小さいものだけどね」
そう言いながら、白木さんは部屋の脇にあるパソコンへ向かった。キーボードを叩き弄りだすと、真ん中にある望遠鏡も音を立てだす。
驚く私に穂高が解説を入れた。
「コンピューターで制御してるからね。ここで見たい天体を入力すれば自動で見つけてくれるんだ」
あまりにもハイテクで驚く。私にとってはなにもかもが未知の世界だ。それから白木さんがパソコンと望遠鏡の前を行 ったり来たりをする。
「はい、入ったよ」
「見てごらん、ほのか」
穂高に促され、私はおそるおそる望遠鏡を覗き込んだ。ぱっとふたつの星が目に入る。
「わぁ、綺麗」
思わず感嘆の声を漏らした。やや大きめのオレンジの星に寄り添うように青い星が並んでいる。
くっきりと、それぞれの星の大きさも色が違うのもわかる。これが普段はひとつの星に見えるなん不思議だ。
じっくりと眺めて、私は望遠鏡から顔を離す。
「なんだか地球と月みたい」
「近いかもね」
穂高がもうひとつの望遠鏡を調整していた。
「さっき白木さんも言ってたけど、あの有名な『銀河鉄道の夜』で作者の宮沢賢治はアルビレオをトパーズとサファイヤに例えているんだ」
それぞれの星にも一応、記号的な名前が割り振られているらしいが、『アルビレオ』というのはこのオレンジと青の星を合わせての名称だ。どちらが欠けてもアルビレオにはならない。
「それにしても、ひとつの星に見えるってことは地球からものすごく遠いの?」
「地球からの距離は四百三十四光年先と言われているよ」
「全然、ピンと来ない」
「とにかく、すごく遠くってことだよ」
穂高は笑った。今、空に見えている星でも、光が地球に届くまでの時間の関係で実際にはもう存在しないものもあるという話をよく聞く。
広い宇宙で新しい星が生まれ、命を終えていく。
「もしかして、アルビレオにも私たちみたいな人間が存在したりするかもしれない?」
「だとしたら、まさか自分たちの星が四百三十四光年先の星にいる生物たちに観察されているなんて思いもよらないだろうね」
「僕たちも、どこかの星から観測されているかもしれないよ?」
白木さんが間髪を入れずにおかしそうに言ってきた。確かにその通りかもしれない。想像して私と穂高も笑う。
「この広い宇宙でずっと離れずに、ふたつの星は回って輝き続けているんだね」
アルビレオを地球と月に置き換えて想像してみる。目を閉じると、瞼の裏に、輝くオレンジと青の星が映った。
「……意外と、地球としては本望なのかな? どこからか突然やってきた隕石や地球に住む人間のせいで滅んだりするくらいなら、ずっと傍にいた月に終わらされるのが」
「まだ終わるとは決まってないだろ」
穂高が力強い声で言い切った。肯定するように白木さんが続ける。
「そう。進歩はしているものの天文学……宇宙については、まだ未知な部分ばかりだ。月に隕石がぶつかったのもなんだかんだで予想できなかったし、月に地球が落ちてくるという話だって専門家の間でも意見が割れていたりする」
「落ちてこないかもしれないってことですか?」
希望を持って聞いてみる。しかし、それに対しては力強い返事は得られなかった。
「なんとも言えないね。一応、対策としてNASAとしては、探索機や宇宙ステーションの打ち上げなど色々試みているみたいだが、どれも期待できそうにないらしい。先日も月に向かって打ち上げたロケットが不発に終わって犠牲者を出したという話だし」
そのニュースは私もテレビでちらっと見た。穂高を見ればその顔はわずかに陰っている。やっぱり覚悟を決めないといけないんだ。
背筋がぞくりと震え、心臓を冷たい手で掴まれたような痛みと不快感に脂汗が滲む。
「でも不思議ですね。落ちる、落ちるって言われて、もう八月まで来た」
穂高が呟く。月が地球に落ちてくると言われ世界は混沌と化した。それこそ世界の終わりという言葉がぴったりなほどに。
だから一説では、いつ落ちてくるのか実ははっきりしているが、公表したらいよいよ世界が大混乱になるとしてわざと伏せているのではないかとも言われている。
本当のところはわからないけれど。
三分後かもしれない、一時間後かもしれない、明日かもしれない。そうやってずっと緊張状態でいるのも正直疲れた。
張りつめていた糸が私を含め皆、徐々に緩んできたんだ。なにもしなくてもお腹は空くし眠くもなる。
怯えや不安、絶望しながらもそれを抑えて日常生活を送るしかないと気づいてきた。
それだけじゃない。終わる世界でもこうして誰かを好きになって、星を見ることもできる。恐怖だけじゃない、こんなにも温かい気持ちになれるんだ。
これも全部穂高のおかげだ。星を観測している穂高の横顔をそっと盗み見る。最後に見ることができなくても、この顔をしっかりと覚えておきたい。今日の出来事も含めて全部。
例年通りなら、この時期は小学生を対象とした天文教室や趣味の天文サークルの人たちで賑わうはずだった。けれど今は、静まり返っている。
電気も最低限で薄暗い。ひんやりした空気が沈黙と共に肌に刺さる。そのとき、奥の事務室のようなところからひとりの男性が出てきた。
「これはこれは。珍しいお客さんだね」
眼鏡をかけ、六十代くらいかな。ひょろっとした体格で髪は薄く、頭頂部が見えかけているるが紳士的な穏やかな雰囲気だ。
「白木(しらき)さん、こんばんは」
穂高が挨拶すると、男性は目を細める。
「穂高くん、久しぶりだね。こんなときになんだが元気にしてたかい? 体調は?」
「おかげさまで。今日も星を見せてもらおうと思って」
穂高の回答に白木さんは声をあげて笑った。
「君も本当に宇宙が好きなんだね。しかも今日は可愛いお嬢さんまで一緒とは」
そこで白木さんの視線と共に、穂高の目も私に向けられる。
「ほのか、こちら白木卓(すぐる)さん。ここの管理者でもあり、さらには天文家でもあるんだ」
「アマチュアだけどね」
白木さんが照れくさそうに付け足す。
「それで、今日はどの星を見たいんだい?」
「彼女にアルビレオを見せて欲しいんです」
「なるほど。トパーズとサファイヤか。ついてるね、今日は何度も雲が空を覆っていたのに、今は引いている」
歩き出す白木さんに私と穂高も続く。神様なんて信じていないけれど、きっと運が味方してくれたんだ。
かすかな記憶を辿って見るものの、小学生のときに訪れたのが昼間だったからか、印象がかなり違う。
観測室のドアが開くと、中は思ったよりもシンプルだった。プラネタリウムのような丸い天井に、真ん中には、天井を貫くような大きな円筒の機械がある。
たぶんこれがメインの望遠鏡なのは予測できた。そこから別に伸びたパイプのような棒の先に、双眼鏡みたいなものがセットされている。
さらに横には小さな望遠鏡がくっついていた。
「すごい」
「天文設備としては、かなり小さいものだけどね」
そう言いながら、白木さんは部屋の脇にあるパソコンへ向かった。キーボードを叩き弄りだすと、真ん中にある望遠鏡も音を立てだす。
驚く私に穂高が解説を入れた。
「コンピューターで制御してるからね。ここで見たい天体を入力すれば自動で見つけてくれるんだ」
あまりにもハイテクで驚く。私にとってはなにもかもが未知の世界だ。それから白木さんがパソコンと望遠鏡の前を行 ったり来たりをする。
「はい、入ったよ」
「見てごらん、ほのか」
穂高に促され、私はおそるおそる望遠鏡を覗き込んだ。ぱっとふたつの星が目に入る。
「わぁ、綺麗」
思わず感嘆の声を漏らした。やや大きめのオレンジの星に寄り添うように青い星が並んでいる。
くっきりと、それぞれの星の大きさも色が違うのもわかる。これが普段はひとつの星に見えるなん不思議だ。
じっくりと眺めて、私は望遠鏡から顔を離す。
「なんだか地球と月みたい」
「近いかもね」
穂高がもうひとつの望遠鏡を調整していた。
「さっき白木さんも言ってたけど、あの有名な『銀河鉄道の夜』で作者の宮沢賢治はアルビレオをトパーズとサファイヤに例えているんだ」
それぞれの星にも一応、記号的な名前が割り振られているらしいが、『アルビレオ』というのはこのオレンジと青の星を合わせての名称だ。どちらが欠けてもアルビレオにはならない。
「それにしても、ひとつの星に見えるってことは地球からものすごく遠いの?」
「地球からの距離は四百三十四光年先と言われているよ」
「全然、ピンと来ない」
「とにかく、すごく遠くってことだよ」
穂高は笑った。今、空に見えている星でも、光が地球に届くまでの時間の関係で実際にはもう存在しないものもあるという話をよく聞く。
広い宇宙で新しい星が生まれ、命を終えていく。
「もしかして、アルビレオにも私たちみたいな人間が存在したりするかもしれない?」
「だとしたら、まさか自分たちの星が四百三十四光年先の星にいる生物たちに観察されているなんて思いもよらないだろうね」
「僕たちも、どこかの星から観測されているかもしれないよ?」
白木さんが間髪を入れずにおかしそうに言ってきた。確かにその通りかもしれない。想像して私と穂高も笑う。
「この広い宇宙でずっと離れずに、ふたつの星は回って輝き続けているんだね」
アルビレオを地球と月に置き換えて想像してみる。目を閉じると、瞼の裏に、輝くオレンジと青の星が映った。
「……意外と、地球としては本望なのかな? どこからか突然やってきた隕石や地球に住む人間のせいで滅んだりするくらいなら、ずっと傍にいた月に終わらされるのが」
「まだ終わるとは決まってないだろ」
穂高が力強い声で言い切った。肯定するように白木さんが続ける。
「そう。進歩はしているものの天文学……宇宙については、まだ未知な部分ばかりだ。月に隕石がぶつかったのもなんだかんだで予想できなかったし、月に地球が落ちてくるという話だって専門家の間でも意見が割れていたりする」
「落ちてこないかもしれないってことですか?」
希望を持って聞いてみる。しかし、それに対しては力強い返事は得られなかった。
「なんとも言えないね。一応、対策としてNASAとしては、探索機や宇宙ステーションの打ち上げなど色々試みているみたいだが、どれも期待できそうにないらしい。先日も月に向かって打ち上げたロケットが不発に終わって犠牲者を出したという話だし」
そのニュースは私もテレビでちらっと見た。穂高を見ればその顔はわずかに陰っている。やっぱり覚悟を決めないといけないんだ。
背筋がぞくりと震え、心臓を冷たい手で掴まれたような痛みと不快感に脂汗が滲む。
「でも不思議ですね。落ちる、落ちるって言われて、もう八月まで来た」
穂高が呟く。月が地球に落ちてくると言われ世界は混沌と化した。それこそ世界の終わりという言葉がぴったりなほどに。
だから一説では、いつ落ちてくるのか実ははっきりしているが、公表したらいよいよ世界が大混乱になるとしてわざと伏せているのではないかとも言われている。
本当のところはわからないけれど。
三分後かもしれない、一時間後かもしれない、明日かもしれない。そうやってずっと緊張状態でいるのも正直疲れた。
張りつめていた糸が私を含め皆、徐々に緩んできたんだ。なにもしなくてもお腹は空くし眠くもなる。
怯えや不安、絶望しながらもそれを抑えて日常生活を送るしかないと気づいてきた。
それだけじゃない。終わる世界でもこうして誰かを好きになって、星を見ることもできる。恐怖だけじゃない、こんなにも温かい気持ちになれるんだ。
これも全部穂高のおかげだ。星を観測している穂高の横顔をそっと盗み見る。最後に見ることができなくても、この顔をしっかりと覚えておきたい。今日の出来事も含めて全部。