役場前の派出所は、すでに明かりが灯っていて遠くから見てもよく目立っていた。近づく度に心臓の音が大きくなる。

 空は急速に闇を濃くしていき、かすかになびく風はすぐそばの海の匂いを運んでくる。波の音も届かず、蝉は活動を終わらせたのか静かだった。

 大通りに並ぶほとんどの店はシャッターが下りていて、犬猫の気配もない。もちろん人も。かすかに聞こえるのは虫の声だけ。必死に鳴いて、自分の存在を主張している。

 まだ、ここにいるんだって。

 派出所の入り口近くに来て、私の足が止まった。

 どうしよう。なにを話せばいい? なんて言えばいい? その前に、いないかもしれない。心臓が早鐘を打ちはじめ、私はごくりと唾を飲み込む。

 立ちすくんでいると、すぐ隣にいる穂高が心配そうにしているのが伝わってくる。大きく息を吐いて私は意を決した。

 彼の顔を見て軽く頷き手を離す。ひとり私は歩き出した。

 おそるおそる派出所の入り口に顔を出せば、中には同じ制服を身に纏ったふたりの警察官がいた。ひとりは父だ。

「お父さん」

 声をかけていいものか悩みつつ弱々しく呼びかける。すると私に気づいた父は大きく目を見張った。

「ほのか。お前どうしてここに?」

「ほのかちゃん?」

 父だけではなく、父と話していたもうひとりの警察官が私の名前に反応する。

 髪を短く刈り上げ、父よりも若い男性だった。どちらかといえば穏やかな雰囲気で、こちらに近づいて私を確認し笑顔になった。

「うわぁ、大きくなったね。うちの娘がもう五才だから高校生か?」

「あの」

 戸惑う私は奥にいる父に視線を送る。

「父さんの部下の飯島(いいじま)だ。娘さんが生まれたとき、家族でお祝いを持って自宅にお邪魔したんだ。覚えているか?」

 私は自分の記憶を辿り、ぎこちなくも頷いた。飯島さん本人はともかく、たしか小学生の頃に家族で赤ちゃんを見にいった覚えはある。

 ベビーベッドでぐっすり眠る赤ちゃんを見ながら、まなかと『可愛いね』と言い合った。

 すると母が『あなたたちもこんなに小さくてとっても可愛かったのよ』と話してくれたような。

 優しい記憶に胸が軋む。それを振り払うようにして、我に返った。

「今日はどうしたの? お父さんに用事があったのかな?」

「はい、あの。でもまだお仕事なら……」

 飯島さんに尋ねられ、私の返答は尻すぼみになる。私の不安を吹き飛ばすように飯島さんは笑ってくれた。

「いいよ、大丈夫。それに紺野さんには今まで随分と負担をかけてきたから。俺も現場に戻ってきたし、ほかにもそういう連中が何人かいるから、これからは前より家に帰ってもらえると思うよ。ほのかちゃんにも迷惑かけてごめんね」

 飯島さんに切なそうに謝られ私は首を横に振った。

「どうして、戻って来られたんですか?」

 つい口が滑る。なかなかデリケートな質問だし、この場でするようなものじゃない。相変わらずすぐに気持ちをストレートに口にする自分に嫌気が差した。

 しかし、飯島さんは嫌な顔ひとつしない。

「最初はね、もうどうせ世界が終わるなら最後まで家族と過ごそうと思ったんだ。だから仕事も放棄して、安全だって言われるヨーロッパへの移住も考えた。でも信憑性も低いし、実際は難しくてね」

 苦笑して飯島さんは、わずかに視線を落とす。その表情は穏やかだ。

「しかも、こちらは神経すり減らしてピリピリしているのに子どもは無邪気でね。本当にいつも通りなんだ。逆に、どうして自分は幼稚園に行かないのか、どうしてお父さんは家のいるのかって質問ばかり。そんなとき、混乱した都心部の様子がテレビに映し出されているのを家族で見てね。娘に言われたんだよ。『パパは警察官なのになんでみんなを守らないの?』って」

 私はぎゅっと唇を結ぶ。奥にいる父はなんとも言えない面持ちだ。対する飯島さん力強く続けた。

「だから決めたんだ。むしろ娘の望む通り、最後まで普段通りのままでいようって。娘にとって俺は警察官で正義の味方だからね。それに妻にも『もし地球が助かったら、あなた無職のままどうするの?』なんて言われてさ」

 思わず笑ってしまいそうになる。飯島さんは、ちらりとうしろにいる父に目を遣った。

「ちょうど紺野さんがほぼひとりで、このエリアを担当して奔走しているっていうのも聞いてね。俺はなにしてるんだろうって情けなくも思ったよ」

「そんなことないだろ」

 父がすかさず口を挟む。飯島さんは父に向って軽くお辞儀をすると、再び私に笑顔を見せた。

「ま、いざ月が落ちてくるってなったら、なにを差し置いても俺は家族の元に帰るけどね。それくらいの時間はあるさ」

 冗談混じりの口調だけれど、本気だと感じた。続けて飯島さんは笑顔を収め、真面目な顔で父に告げる。

「では、さっき話していた木田(きだ)さんの家に行ってきます」

「わかった。暗くなったし気をつけろよ」

「はい」

 そう言って飯島さんは派出所を後にした。私と父のふたりになると、あっという間に静寂が舞い降りる。