「で、結局なにが起きてたの?」
割り箸を真ん中でまっぷたつに割った樫野さんが改めてさっきの現状を尋ねる。谷口さんは再び忙しく肉を焼きはじめながら答えた。
「言った通りだよ。ちょうどいい番犬を見つけたんだ」
「番犬って……」
宮脇さんが横目で谷口さんを見る。その宮脇さんの皿に谷口さんは焼けたお肉をひょいっと入れた。
「お前、車は運転できるのか?」
「……一応。ミッションも持ってる」
「ならいい。ちょっと店を手伝え」
「は?」
素っ頓狂な声を出した宮脇さんの顔を谷口さんはようやく見つめた。
「金はあまり出せねぇが、食べ物と仕事はやる。俺も目がだいぶ霞んできて運転がきつくなってきてな。牛を割ってもその肉を卸す場所がない。でも車使って中心地まで行けば、それなりに取引相手はいる。店に置く商品も仕入れて欲しいしな。その面と体格なら簡単には襲われないだろ」
「じゃぁ、ウインナー食える?」
「かもな」
無邪気に尋ねた健二くんに谷口さんは軽く答えた。宮脇さんは呆然として口を開けたままだ。
ややあって、うつむくように静かに頭を下げた。そして顔を上げた宮脇さんが見つめたのは谷口さんではなかった。
「おい坊主」
「な、なんだよ」
肉を頬張ろうとしていた健二くんは、突然話題を振られ怪訝そうに答える。
「肉のお礼に、ウインナー探してきてやるよ」
しかし続けられた宮脇さんの言葉に、健二くんは目をぱちくりとさせる。そして満面の笑みをみせた。
「おう。兄ちゃん頼んだ!」
それを聞いて宮脇さんだけではなく、谷口さんも微笑んだのに私は気づいた。なんていうか、言葉では上手く言い表せないけれど温かい気持ちになる。
「あの、すみません」
そこで理恵さんが口を挟んだ。
「図々しいお願いだとは思うんですが、もし車を運転されるなら私も県庁のところあたりまで乗せていってもらえませんか?」
県庁近くには国立病院がある。そういえば理恵さんは元々体調が悪くて病院に行こうとしていたのを今更ながら思い出した。
確認するように理恵さんの皿を見れば、肉を食べた様子もない。
「理恵さん、大丈夫ですか?」
「どうした? どこか調子悪いのか?」
私と谷口さんの声がほぼ重なる。理恵さんはその場にいる全員の視線を一気に引き受け、どこか居心地悪そうにしながらも、ぽつりと呟いた。
「実は私……妊娠してるんです」
「え、ええ!?」
思わず椅子から立ち上がって叫んだのは私で、周りを見ればどう考えても過剰反応だった。
でも、まったく予想もしていなかったので本当にびっくりした。それと同時に納得する。
妊婦さんと接した経験はほとんどないけれど、つわりと呼ばれるものがあるのは私も知っている。どこか悪い病気でもと心配していたので少しだけ安心した。
ふと我に返り、話の腰を折って恥ずかしくなりながらも、そろそろと椅子に座り直した。
ところが理恵さんの顔はどうも浮かない。
「相手の方は?」
冷静に尋ねたのは樫野さんで、その質問で私は、はっとした。
「……同じ職場だった人で、両親が亡くなった際もすごく支えてもらいました。しばらくして妊娠がわかって一緒にこっちに来たんです。でも翌日に彼の姿は車と一緒に消えていて」
絞りだすような声だった。なにかを堪えるような、痛みに耐えるような。理恵さんは肩を震わせながら続ける。
「つわりもひどいし、私ひとりでどうしようって。ばちが当たったのかもしれません。私のせいで両親も亡くなって、この子にも申し訳なくて。もうすぐ世界は終わるのにこんなときに妊娠して……ちゃんと生んであげられないかもしれない」
押し殺していた不安と共に理恵さんは吐露する。最後は嗚咽混じりで言葉が消えた。
呼応するように私の心臓は握り潰されるように、ぎゅっと痛む。七輪の炭がバチッと音を立てて赤い色を宿していた。
世界はもうすぐ終わるんだ――。
暗闇に飲み込まれそうな自分を想像した。消えて、なくなってしまう。
「おめでとう」
力強く明るい発言が私の意識をはっきりとここに戻す。理恵さんも顔をゆるゆると上げた。
理恵さんの隣に座っていた樫野さんが椅子を寄せ、理恵さんを支えるように肩を抱いた。
「あなたひとりでよく頑張ったわね。つわりがひどいのはつらいけれど、いつかは落ち着くわ。そんなに自分を責めないで。大丈夫よ。まだ月が地球に落ちてくるとも、世界が終わるとも決まったわけではないでしょ?」
「ほぼ確定だろ。九十三パーセントだぜ?」
「でも七パーセントの可能性で助かる」
樫野さんに横やりを入れたのは宮脇さんで、さらに穂高が間髪を入れずに静かな声で告げた。イラついた顔で宮脇さんが穂高を睨む。
樫野さんは理恵さんに言い聞かせる。
「あのね、自分が今ここに存在している確率って考えたことがある? 自分の両親が出会って愛し合い、妊娠してからお母さんのお腹で大きくなって、外に出てからはたくさんの人に助けられ守られて、今こうして生きているって確率」
理恵さんは目を瞬かせながら、樫野さんの話を聞いている。それは他の人もだった。樫野さんの言い分には理屈ではない、なにかを突き動かすような熱いものがみなぎっている。
「すごい可能性じゃない? ましてや、この生物が育っていける地球が存在する確率なんて考えだしたら、きりがないわ」
穂高と話した内容を思い出す。ほかのどの惑星でも駄目だった。
そしてこの広い世界で、もしもお父さんとお母さんが出会わなければ、結婚して妊娠しなければ、無事に生まれてこなければ……どれを欠いても私はここに存在しない。
「だから確率だけ考えても意味ないのよ。未来は誰にもわからない。たとえ一パーセントでも起こるときは起こるし、九十九パーセントでもはずれるときははずれるわ。だったら自分の決めた未来を突き進んでいけばいいと思わない?」
初めて会ったときとは印象が違い、樫野さんは饒舌だった。でも一つひとつの言葉が身に染みて、さっきまで私の心を覆いそうだった黒い靄を消してくれる。
「詭弁だろ」
そこに水を差したのは宮脇さんだ。小さな椅子に窮屈そうに腰掛けて鼻を鳴らす。
「なにを言っても、月は地球に落ちてきて俺たちはみんな終わりなんだよ」
「お前は終わらない気でいたのか?」
谷口さんは静かに口を開き尋ねた。宮脇さんの眉がぴくりと動く。谷口さんは弱くなった七輪の火をじっと見つめていた。
わずかに灰が舞い、小さくなった炭が音を立てて崩れる。
「命あるものは尽きる。それは月が落ちてこようが関係ないだろ。不意の事故や病気などで突然命を奪われることもあれば、長生きして自然と逝く者もいる。でも、みんないつかは終わりがくる。だから必死で生きるんじゃないのか?」
そこで谷口さんが顔を上げた。遠くを見据え、その瞳は迷いがない。強い決意を感じさせた。
「俺はな、ひとつだけ決めてることがある。隕石降ろうが月が落ちてこようが、立派でなくても、情けなくても最後の最後まで必死で生きてやるってな。俺たちはなにかの命をもらってここまで生きてきたんだ。なのに自分から生きるのを諦めるなんて、頂いてきた命に示しがつかねぇだろ」
水を打ったように場が静まり返った。ライトが落とされたように辺りもすっと暗くなる。
いつも命と向き合ってきた谷口さんの言葉には強い信念を感じた。だから、こんなにも刺さるようにずっしりと響くんだ。
「……俺はずっと娘と会っていなかったんだ」
ところが続けられた谷口さんの告白は、弱々しいものだった。内容が内容だけにみんなの意識が集中する。谷口さんはそっと健二くんに視線を投げかけた。
「健二の母親である聡子(さとこ)が、芸術家になりたいって言ったときは反対してな。んなもんになれるかって俺は頭ごなしに否定した。あんなのごく一部の人間しか成功しねぇ。苦労はして欲しくなった。できれば進学するなり、手に職をつけて欲しかったんだ」
谷口さんは娘さんが中学生の頃に奥さんを亡くし、それからは男手ひとつで娘さんと向き合ってきたらしい。仲のいい父子だった、と谷口さんは物悲しく話す。
割り箸を真ん中でまっぷたつに割った樫野さんが改めてさっきの現状を尋ねる。谷口さんは再び忙しく肉を焼きはじめながら答えた。
「言った通りだよ。ちょうどいい番犬を見つけたんだ」
「番犬って……」
宮脇さんが横目で谷口さんを見る。その宮脇さんの皿に谷口さんは焼けたお肉をひょいっと入れた。
「お前、車は運転できるのか?」
「……一応。ミッションも持ってる」
「ならいい。ちょっと店を手伝え」
「は?」
素っ頓狂な声を出した宮脇さんの顔を谷口さんはようやく見つめた。
「金はあまり出せねぇが、食べ物と仕事はやる。俺も目がだいぶ霞んできて運転がきつくなってきてな。牛を割ってもその肉を卸す場所がない。でも車使って中心地まで行けば、それなりに取引相手はいる。店に置く商品も仕入れて欲しいしな。その面と体格なら簡単には襲われないだろ」
「じゃぁ、ウインナー食える?」
「かもな」
無邪気に尋ねた健二くんに谷口さんは軽く答えた。宮脇さんは呆然として口を開けたままだ。
ややあって、うつむくように静かに頭を下げた。そして顔を上げた宮脇さんが見つめたのは谷口さんではなかった。
「おい坊主」
「な、なんだよ」
肉を頬張ろうとしていた健二くんは、突然話題を振られ怪訝そうに答える。
「肉のお礼に、ウインナー探してきてやるよ」
しかし続けられた宮脇さんの言葉に、健二くんは目をぱちくりとさせる。そして満面の笑みをみせた。
「おう。兄ちゃん頼んだ!」
それを聞いて宮脇さんだけではなく、谷口さんも微笑んだのに私は気づいた。なんていうか、言葉では上手く言い表せないけれど温かい気持ちになる。
「あの、すみません」
そこで理恵さんが口を挟んだ。
「図々しいお願いだとは思うんですが、もし車を運転されるなら私も県庁のところあたりまで乗せていってもらえませんか?」
県庁近くには国立病院がある。そういえば理恵さんは元々体調が悪くて病院に行こうとしていたのを今更ながら思い出した。
確認するように理恵さんの皿を見れば、肉を食べた様子もない。
「理恵さん、大丈夫ですか?」
「どうした? どこか調子悪いのか?」
私と谷口さんの声がほぼ重なる。理恵さんはその場にいる全員の視線を一気に引き受け、どこか居心地悪そうにしながらも、ぽつりと呟いた。
「実は私……妊娠してるんです」
「え、ええ!?」
思わず椅子から立ち上がって叫んだのは私で、周りを見ればどう考えても過剰反応だった。
でも、まったく予想もしていなかったので本当にびっくりした。それと同時に納得する。
妊婦さんと接した経験はほとんどないけれど、つわりと呼ばれるものがあるのは私も知っている。どこか悪い病気でもと心配していたので少しだけ安心した。
ふと我に返り、話の腰を折って恥ずかしくなりながらも、そろそろと椅子に座り直した。
ところが理恵さんの顔はどうも浮かない。
「相手の方は?」
冷静に尋ねたのは樫野さんで、その質問で私は、はっとした。
「……同じ職場だった人で、両親が亡くなった際もすごく支えてもらいました。しばらくして妊娠がわかって一緒にこっちに来たんです。でも翌日に彼の姿は車と一緒に消えていて」
絞りだすような声だった。なにかを堪えるような、痛みに耐えるような。理恵さんは肩を震わせながら続ける。
「つわりもひどいし、私ひとりでどうしようって。ばちが当たったのかもしれません。私のせいで両親も亡くなって、この子にも申し訳なくて。もうすぐ世界は終わるのにこんなときに妊娠して……ちゃんと生んであげられないかもしれない」
押し殺していた不安と共に理恵さんは吐露する。最後は嗚咽混じりで言葉が消えた。
呼応するように私の心臓は握り潰されるように、ぎゅっと痛む。七輪の炭がバチッと音を立てて赤い色を宿していた。
世界はもうすぐ終わるんだ――。
暗闇に飲み込まれそうな自分を想像した。消えて、なくなってしまう。
「おめでとう」
力強く明るい発言が私の意識をはっきりとここに戻す。理恵さんも顔をゆるゆると上げた。
理恵さんの隣に座っていた樫野さんが椅子を寄せ、理恵さんを支えるように肩を抱いた。
「あなたひとりでよく頑張ったわね。つわりがひどいのはつらいけれど、いつかは落ち着くわ。そんなに自分を責めないで。大丈夫よ。まだ月が地球に落ちてくるとも、世界が終わるとも決まったわけではないでしょ?」
「ほぼ確定だろ。九十三パーセントだぜ?」
「でも七パーセントの可能性で助かる」
樫野さんに横やりを入れたのは宮脇さんで、さらに穂高が間髪を入れずに静かな声で告げた。イラついた顔で宮脇さんが穂高を睨む。
樫野さんは理恵さんに言い聞かせる。
「あのね、自分が今ここに存在している確率って考えたことがある? 自分の両親が出会って愛し合い、妊娠してからお母さんのお腹で大きくなって、外に出てからはたくさんの人に助けられ守られて、今こうして生きているって確率」
理恵さんは目を瞬かせながら、樫野さんの話を聞いている。それは他の人もだった。樫野さんの言い分には理屈ではない、なにかを突き動かすような熱いものがみなぎっている。
「すごい可能性じゃない? ましてや、この生物が育っていける地球が存在する確率なんて考えだしたら、きりがないわ」
穂高と話した内容を思い出す。ほかのどの惑星でも駄目だった。
そしてこの広い世界で、もしもお父さんとお母さんが出会わなければ、結婚して妊娠しなければ、無事に生まれてこなければ……どれを欠いても私はここに存在しない。
「だから確率だけ考えても意味ないのよ。未来は誰にもわからない。たとえ一パーセントでも起こるときは起こるし、九十九パーセントでもはずれるときははずれるわ。だったら自分の決めた未来を突き進んでいけばいいと思わない?」
初めて会ったときとは印象が違い、樫野さんは饒舌だった。でも一つひとつの言葉が身に染みて、さっきまで私の心を覆いそうだった黒い靄を消してくれる。
「詭弁だろ」
そこに水を差したのは宮脇さんだ。小さな椅子に窮屈そうに腰掛けて鼻を鳴らす。
「なにを言っても、月は地球に落ちてきて俺たちはみんな終わりなんだよ」
「お前は終わらない気でいたのか?」
谷口さんは静かに口を開き尋ねた。宮脇さんの眉がぴくりと動く。谷口さんは弱くなった七輪の火をじっと見つめていた。
わずかに灰が舞い、小さくなった炭が音を立てて崩れる。
「命あるものは尽きる。それは月が落ちてこようが関係ないだろ。不意の事故や病気などで突然命を奪われることもあれば、長生きして自然と逝く者もいる。でも、みんないつかは終わりがくる。だから必死で生きるんじゃないのか?」
そこで谷口さんが顔を上げた。遠くを見据え、その瞳は迷いがない。強い決意を感じさせた。
「俺はな、ひとつだけ決めてることがある。隕石降ろうが月が落ちてこようが、立派でなくても、情けなくても最後の最後まで必死で生きてやるってな。俺たちはなにかの命をもらってここまで生きてきたんだ。なのに自分から生きるのを諦めるなんて、頂いてきた命に示しがつかねぇだろ」
水を打ったように場が静まり返った。ライトが落とされたように辺りもすっと暗くなる。
いつも命と向き合ってきた谷口さんの言葉には強い信念を感じた。だから、こんなにも刺さるようにずっしりと響くんだ。
「……俺はずっと娘と会っていなかったんだ」
ところが続けられた谷口さんの告白は、弱々しいものだった。内容が内容だけにみんなの意識が集中する。谷口さんはそっと健二くんに視線を投げかけた。
「健二の母親である聡子(さとこ)が、芸術家になりたいって言ったときは反対してな。んなもんになれるかって俺は頭ごなしに否定した。あんなのごく一部の人間しか成功しねぇ。苦労はして欲しくなった。できれば進学するなり、手に職をつけて欲しかったんだ」
谷口さんは娘さんが中学生の頃に奥さんを亡くし、それからは男手ひとつで娘さんと向き合ってきたらしい。仲のいい父子だった、と谷口さんは物悲しく話す。