なにか言ってほしくて背後を歩く穂高に視線を送る。目が合った彼は複雑そうな表情を浮かべているので、少しだけ胸が軋んだ。
「あの」
「理恵さん」
冷静な声で名前を呼んだのは穂高だ。私と理恵さんは足を止め彼に注目する。なぜか緊張している自分がいて、はっきりと彼から否定の言葉が出るのを待った。
すると、どういうわけか穂高は私の頭にそっと手を置き、まったく予想していなかった内容を告げた。
「今、微妙なところなんですから、あまりほのかに余計なことを言わないでください」
微妙? 余計なこと?
抽象的な穂高の物言いに私は混乱する。彼より私の方が現国も日本語も得意なはずなのに。
「そっか。それはごめんね」
ところが理恵さんには通じたらしく、私だけ置いてけぼりだ。とはい自らこの話題を突き詰めてもいけない。意気地なしの自分。
「やっぱり地球が終わるときには誰かと一緒にいたいわよねー」
唐突に理恵さんが前を向いて歌うように言い放った。
月はうっすらとまだ空にいる。あれが地球に向かってくるとき、私は誰かといるのかな?
一緒にいたいと思える人に会いに行くくらいの猶予はあるんだろうか。
月城市から西牧村に入った看板を目にして、海沿いの大通りから奥の道へと入っていく。理恵さんの家は、どちらかといえば月城市寄りだった。
水害を考慮してか、高めの階段を三段ほど上ったところに自宅はあった。昔ながらの、というかそれなりに年季が入っている。
ドアだけ新しくしたのか、綺麗さが逆にアンバランスだった。
「よかったら上がっていく?」
ドアを半分開けた状態で理恵さんは思い立ったように聞いてきた。
「いえっ。遠慮します。そんなつもりじゃなかったですし」
「そう? ハンカチのお礼もしていないのに」
きっぱりと断った私に理恵さんはどこか悲しそうだ。
「おひとりで大丈夫ですか?」
穂高が気遣うように尋ねる。すると理恵さんは笑顔になり、さらにドアを開けた。
「平気よ。それにさっきはいないって言ったけど、実は一昨日から家族が増えたの」
どういうことか尋ねようとして、玄関の靴箱の上にある鳥籠が視界に入る。ぱっと見、中に鳥がいるようには思えない。
近くに寄るよう勧められ、私と穂高は遠慮がちに中に足を進めて鳥籠のそばに寄った。
「家の近くで怪我してるのを保護したの。早く元気になってくれたらいいんだけど」
籠の下の方にひっそりとインコがいた。緑色が鮮やかで、可愛らしい。
しかし右の羽がぼさぼさで不自然に毛が抜けて、飛ぶ素振りを見せない。病気というより、なにかの動物にでも襲われた感じだった。
「そういえば理恵さん、ここらへんで猫を見かけませんでした?」
同じ考えに至ったのか穂高が質問した。
「猫?」
「茶色いぶちで、すごく体が大きいんです」
私も補足する。けれど理恵さんは首を横に振った。
「見てないわね。探してるの?」
「私たちの猫じゃないんですけど……。『谷口商店』の息子さんが探しているみたいなんです」
「そうなの。でも谷口商店って久々に聞いたわ。まだしてるんだ。子どもの頃、そこの近くにある焼肉屋さんによく行ったのよね。こじんまりしたお店だったけれど、美味しくて」
理恵さんは懐かしそうな顔をしながら『さすがにそちらはもうないか』と呟いた。そしてふっと含みのある笑顔を浮かべる。
「猫探しもいいけど、気をつけないとだめよ。ここらへんジェイソンが出るんだから」
「ジェイソン?」
私は目を見開いて抑揚なく繰り返した。出るにしても、あまりにも突拍子のないものだったから。
私の反応に満足したんか、理恵さんはそれこそ猫のように目を細め、にやりと笑った。
「そう。子どもの頃から噂があってね。目撃証言もいくつかあったの。遅くまで外で遊んでいると、大きな斧を持った血まみれの男が『なにをしているんだ?』って声をかけてくるのよ」
想像しただけで私の背筋は凍った。あいにくホラー映画は苦手だ。まだ口裂け女とかの方が笑って流せそうなのに、ここは田舎で生い茂った場所も多いので尿にリアリティがある。
そのとき突然、うしろから肩に手を置かれ私は思わず叫んでしまった。
「わっ!」
犯人は穂高で、呆れた面持ちでこちらを見下ろしている。続けて彼は私の頬に軽く手の指を滑らせた。
「ビビりすぎ。本気にするなよ」
「だ、だって……」
「ごめんなさい、怖がらせすぎちゃったかしら?」
理恵さんは困ったように笑っている。穂高に触れられた箇所を慌てて手で覆うと、違う意味で心臓がドキドキしてくる。
なごやかな空気が玄関に戻ったところで、すぐに事態は一変した。理恵さんが前触れもなく再び顔面蒼白になり靴を脱いで奥へと駆けて行ったのだ。
胸騒ぎが起こり、不安な気持ちになる。ややあって理恵さんはのろのろと玄関に戻ってきた。
「ごめん、なさいね。上がってもらってお礼したかったのに」
先ほどとは違い、覇気のないしゃがれた声だった。私は早口でまくし立てる。
「いえ、こちらこそ体調が悪いのに長居してすみません。とにかく休んでくださいね。お体大事になさってください」
病院にちゃんと行ってください、というのは言えなかった。公共交通機関もほとんど動いていない状態で、それがどれほど難しいことなのかわからないほど自分も現実を見えていないわけじゃない。
お医者さんも、バスの運転手さんもみんな人間で、それぞれに家族や大事な人がいる。みんながみんな、どんなときでも職務をまっとうできる人ばかりじゃない。
ここらへんでも機能している病院はひとつやふたつだ。それも個人経営の小さなもので、もし重症な病気なら県の中心部にある医療センターや国立病院などに行くしかない。
こういうとき田舎はどうしても不便で不利だ。
複雑な思いで理恵さんの家を後にして、私と穂高は歩き出した。手は繋いでいない。黙々と足を進めていた。
「穂高は優しいね」
自分の中でざわついているなにかをぶつけるように私は彼に声をかけた。
「優しい?」
「うん。だってあの状況で送っていくって言えるんだもん」
私はそこまで頭が回らなかった。受け答えに精いっぱいで理恵さんのためになにかできるとは思えなかったし、提案する余裕もなかった。
だから少しだけ妬けてしまう。優しい穂高に。
「私は自分のことばかりで……」
「最初に彼女にハンカチを差し出したのはほのかだろ」
きっぱりとした口調に、私は思わず続けようとした言葉を詰まらせた。
「そう、だけど」
横に並んでいた穂高がちらりと視線をこちらに送ってきた。目が合うと彼は目線を前に戻し、口を開く。
「正直、俺はあんな行動取れないよ。それに理恵さんを送るのも本当はどっちでもよかったんだ。有難迷惑になる可能性だってある。でも、ほのかがものすごく心配そうにしてたから」
彼の言い分に私は目を白黒させた。
「あそこで彼女と別れていたら、ほのかはずっとその後も気にしていただろ。だからだよ」
彼の言い分に私は押し黙る。まさか穂高が私のことまで考えていてくれたとは思いもしなかった。
そして理恵さんが帰ると言ったときに、自分が抱えていたモヤモヤの正体が少しだけ判明した。あのままでいいのかと悩んだ自分。でも、それって――。
「自己満足……だよね」
穂高が言うように、有難迷惑だったかもしれない。理恵さんのためというのは建前で、本当は自分が放っておけないから善意を押し付けただけだ。
穂高は立ち止まり、今度は真っすぐに私を見つめてきた。
「べつに。誰かを気遣ってあれこれ悩むくらいなら、自分の思うように動けばいいんだよ。どうせ相手の気持ちを百パーセント理解するなんて無理だ。だから自分が、ほのかがしたいようにすればいいんだ」
「……うん」
小さく呟くと、今度は思い切って自分から穂高の手を握ってみる。不安を吹き飛ばすように力を込めた。
昔から勉強はできるけれど、人間関係を築くのはどうも苦手だった。だって正解がないから。
無意識に相手を傷つけた経験もあって、発言や行動を後から後悔することも日常茶飯事だ。それがますます誰かと関わるのを億劫にさせた。
でも穂高の言葉に少しだけ心が軽くなる。
たしかに相手の気持ちを百パーセント理解するなんて無理な話で、だからこそ自分で想像して考えないといけない。結局、決めるのは自分なんだ。
もっと早く、穂高とこんな話ができていたらよかった。
心の中で呟き、これがまた後悔にも似た感情で私は慌てて考えを振り払う。
逆だ。今だから彼とこんな話ができたんだ。後悔はしない。するなら感謝だ。
いつのまにか彼も私の手を握り返してくれていた。そして、せっかくなので谷口商店に寄ってみようという話になる。
なにか飲み物か食べ物などがあれば補充しておきたいし。
ところが谷口商店があると思われるおおよその場所まで来たものの、少し周りが入り組んでいて見つけられなかった。派手な店構えでもないだろうし。
どうしようかと迷っていると、反対側からこちらにやってきた女性の存在に気づく。
「あの、すみません。このへんに『谷口商店』ってありますか?」
穂高が声をかける。おそらくこの周辺に住んでいるのか、彼女はとくに大きな荷物も持っていない。
五十代くらいで、白髪交じりの髪は肩につかないくらいで切りそろえられている。黒縁の眼鏡をかけ真面目そうな印象だった。学校の先生のような雰囲気がある。
ただ、エプロンというより割烹着のようなものを来ていた。それが妙に似合っているのだから、ついまじまじと見つめてしまう。
女性はすっと腕を伸ばした。
「こっちの道をまっすぐ行ってしばらくすると小さな四つ角になるの。そこを左に曲がって、さらに細い道を入ると看板が見えてくるわ」
教え方もよどみがなくはっきりしている。声も凛としていた。
「ありがとうございます」
穂高が踵を返すので私も女性に頭を下げて、彼に続こうとする。
「ちょっと、あなた」
しかし、まさか呼び止められるとは思ってもいなかった。しかも女性の視線からするとどうやら彼女が用事があるのはピンポイントで私だけのようだ。
「はい」
まさに先生に声をかけられたかのごとく緊張して女性を見つめると、彼女も私の顔をじっと覗き込むようにして見つめてきた。
「ちょっとごめんなさいね」
続けて女性の起こした行動に私は心臓が跳ね上がる。彼女は私の顔に手を添えると、目の下に親指をやり皮膚を引っ張ったのだ。俗に言うあっかんべーの状態だ。
「あなた生理中?」
「え? い、いえ。違いますけど!?」
あまりにもナチュラルに尋ねられ、私は戸惑いながらも上擦った声で正直に答えた。いったい、なんだというの。
質問内容にしたって、異性である穂高の前でされるには恥ずかしすぎる。
「ちゃんと月経は来てる? 止まってない?」
なのに彼女は空気を読んでくれない。私も私で彼女の先生らしい厳しさに下手に逆らえなかった。
「今のところ……」
蚊の鳴くような声で答えると女性はようやく私から手を離す。
「そう。それにしてもわりと重症な貧血ね。よかったらこれ、あげるわ」
話しながら彼女は割烹着のポケットに手を突っ込み、なにやら連なっている粉薬のようなものをこちらに差し出してきた。
「それ鉄分を増やす薬だから飲みなさい。この状況なら仕方ないかもしれないけど、自分を大事にね」
言い終えると女性は、さっさとその場を後にする。私は呆然としてしばらく動けなかった。
まるで狐につままれたかのようだ。とっさに受け取ってしまった薬を確認してみると薬品名が印刷されていた。たぶん本物だろう。
あの女性の愛飲サプリなのかな。お節介というか親切な人もいるんだな、と素直に好意として受け取る。
「大丈夫か?」
穂高に声をかけられ、急いで我に返る。気まずさもあって、私は彼の顔を直視できずうつむき気味になった。
「う、うん。大丈夫。変わった人だったね、びっくりしちゃった」
「そうじゃなくて」
そこで帽子越しに彼の手が私の頭に触れる。
「貧血って言われてただろ。体調は? つらかったらちゃんと言えよ」
貧血どころか一気に血が体内を駆け巡った。誤魔化すように私は返す。
「でも、そんな自覚症状とか全然ないし」
「自覚症状が出てからじゃ遅いだろ」
間髪を入れずに返ってきた穂高の口調は珍しく厳しい。そこで彼は調子を取り戻すためにか、ひと呼吸忍ばせる。
「あの人の台詞じゃないけど、自分を大事にしろ。ほのかは女の子なんだから」
くらくらするのはどうしてなんだろう。本当に貧血なのかな。それとも暑さのせい?
頬が熱くなり、心臓が強く打ちつけるのを私はぎゅっと堪えた。どちらともなく足を進める。
さっきの理恵さんに対する態度といい、アメリカはレディファーストの国だから穂高にとって女性を大事にするのは当然というか、なんというか……。
頭の中で必死に理論づける。すぐそばに本人がいるんだから聞けばいいのに。でも聞けない。私は彼にとって少しは特別なのかな。
頭の中で飛び交う思考を一度沈め、今は谷口商店を目指すことに専念した。
女性の言った通り四つ角を左に曲がると、錆びついて文字も薄れているが『谷口商店』という小さな看板が目に入った。
お店は引き戸になっていて、私たちはゆっくりとドアを開ける。立て付けが悪いのかガタガタと軋む音が響いて、はめ込まれているガラスが揺れた。
中は薄暗くエアコンが効いているわけでもないのにひんやりとしていて、汗がすっと引いた。
昔ながらという言葉がぴったりで下は剥き出しのコンクリート、棚も木製で力を入れたら崩れそうな具合だ。
生ものはほとんどなく、しなびた不揃いな野菜が中心で、他には缶詰やお菓子などがまばらに並んでいる。賞味期限が怪しいものも絶対に混ざっていそうだ。
食べ物以外にはラップや絆創膏など日用品も置いてあった。今の時代を考えればどれも貴重な商品だ。しかし誰もいないのは不用心すぎる。
「誰も、いないね」
「ちょっと、声をかけてみよう」
穂高が奥に足を進めたところだった。私たちが来たときと同じようにドアが音を立て、来訪者の知らせを告げたのは。
自然と私たちの意識は揃ってそちらに向く。
店主かと期待して見れば、入ってきたのは若い男性だった。体格はがっしりとしていて、アメフトか柔道選手を彷彿とさせる。
色褪せたTシャツにジーンズという格好で、無精ひげをはやし吊り上がった目は血走っている。
髪は寝癖なのか癖毛なのか妙な方向にうねっていて、お世辞にも人相がいいとは言えない。どう見てもこの店の人間じゃないのも明白だ。
「なんだ、先客がいたのかよ」
私たちの存在に気づき、男性はちっと舌打ちした。その仕草ひとつで私は嫌悪感にも似た恐怖で体がすくむ。
さりげなく穂高が私を背に庇うようにして前に出た。
その様子を男性は薄気味悪い笑みを浮かべて見やると、私たちからふいっと視線を逸らし店内にさらに足を進め、中を物色しはじめた。
そしてお菓子や乾物系の棚の前に立つと、乱暴にそれらの商品を開けて中身を頬張っていく。食べるというよりは、胃に押し込むといった感じ。手あたり次第だ。
こういった光景は珍しいものじゃない。綺麗事だけじゃ今は生きていけない。もう慣れていたはずだ。
しかし、目の当たりにするとやっぱり異様さが滲み出ている。
「それ」
「うっせー! 邪魔するならぶっとばすぞ。こっちはもう三日もなにも口にしていないんだよ!」
わずかに穂高が反応したことに対し、男性は唾を飛ばしながら鬼の形相で激昂する。勢いで彼のうしろの棚が音を立てて崩れた。少ない商品が床に転がり盛大な音を立てる。
男性の気迫もあって、私は止めるように穂高の背中のシャツを必死に掴んだ。
彼がこちらに向かってくるんじゃないかと思い、気が気じゃない。歯の根が合わずに体が震えだす。
商品なんてどうでもいい。それを食べて気が済むなら持っていくなりして、早くどこかに行ってほしい。
そのとき店のドア越しに、ちらりと人影が写った。どうやらシルエットからして女性らしい。
助けてほしい一心で目を凝らすと、なんと先ほど谷口商店までの道を教えてくれた女性だった。
この際、誰でもいい。祈るように視線を送ると、彼女は中の異常さに気づいたのか、すぐにドアを離れ行ってしまった。
絶望にも似た感情が体を支配する。今の地球ではこんなこと日常茶飯事で、誰だって厄介事に巻き込まれたくない。触らぬ神になんとやら、だ。
でも当事者となってしまっては、見放された気持ちで泣きそうになる。
「おい」
そこで一際低い声が響き、驚きで飛び上がりそうになった。目の前の男のものではない。だって聞こえてきたのはうしろからだった。
おそるおそる顔だけそちらに向けると、ものすごい光景が飛び込んできた。
白い髪は短く刈り上げられ、険しい表情をしている男性が、じりじりとこちらに近づいて来ている。さらに目を引くのはその格好だ。
男性はビニールタイプのエプロンをしているが、そこにははっきりと血痕のようなものがついている。
さらに彼は斧のような鉈のようなものを持っていた。
『ここらへんジェイソンが出るんだから』
ふと理恵さんの台詞が脳内で再生され、私の心拍数を上昇させる。この人は、いったいなにをしていたんだろう。そして、なにをするつもりなの?
『大きな斧を持った血まみれの男が『なにをしているんだ?』って声をかけてくるのよ』
「なにをしてるんだ?」
他者を威圧するような声、鋭い眼差し。それは店内を荒らしていた男性だけはっきりと向けられている。
私や穂高の存在なんてまるで無視だ。さっさと私たちの横を通り過ぎ、彼は男性へと距離を縮めていく。
「な、なんだよ、お前は!」
持っていた商品を手から落とし、男性は狼狽えだした。
「それは必要としている人間がほかにもいる。置いていけ」
あくまでも冷静な声に対し、男性は喚き散らした。
「命令すんな! しょうがねぇだろ。地球が滅びるとか知らねえけど、その前に飢え死になんて俺は御免だ!」
子どものワガママのような主張に初老の男性は鼻を鳴らす。
「だったら、なおさらそれを置け。もっといいもんを食わしてやる」
まさかの発言に耳を疑ったのは私だけではないはずだ。その証拠に言われた男性もぽかんと口を開けている。張りつめていた空気が一瞬にして溶ける。
さらに店のドアが開いたかと思えば疲労感の漂う少年の声が聞こえてきた。
「じいちゃん、やっぱりミケ見つからねぇよ」
「もういい加減諦めろ。弱肉強食は自然界の摂理だ」
「セツリ? 焼肉定食はもういいって」
状況に相応しくない少年の発言と彼の祖父のやりとりに気が抜ける。そして彼には見覚えがあった。それは彼も同じようで私たちに気づくと、ぱっと目を輝かせた。
「あー、あのときの! なに? もしかしてミケ見つかった?」
期待に満ち溢れた表情詰め寄ってくる少年に、私はぎこちなくも答えた。
「そういうわけじゃないんだけど……」
「なーんだ」
少年はあからさまに肩を落とした。その姿に胸が痛む。
「健二(けんじ)。少し早いが飯にするぞ」
「はーい」
健二くんはぱっと切り替える。この状況になにも思わないのか、祖父の姿に対してもなにもツッコまない。
彼の祖父は孫に指示を出すと。さらにまだ放心状態の男性に声をかけた。
「お前も手伝え。働かざる者食うべからずだ」
「兄ちゃんたちもせっかくだし食べていきなよ」
健二くんが私達にも明るく提案してきた。しかしどう答えればいいのか、すぐに返事はできなかった。
月が地球に落ちてくるとか、私の理解を超える出来事はたくさんある。それでも今この目の前の状況もまったくもって不可思議だった。
どうして店を荒らされそうになった人と、盗みを働こうとした人が一緒に食卓を囲もうとしているのか。そして私たちはなぜここに同席しているのか。
今、谷口商店の前には本格的な七輪が用意され、被害者と加害者は協力し合い、そこに穂高も加わって火おこし中だ。
無事に炭に火がついたもののこれで終わりではないらしい。ご主人が支持する形で、穂高と男性が風を送ったり、炭を動かしたりしている。意外と手際がいい。
私と健二くんはその様子をぼんやり眺めて待っていた。七輪の周りを囲むように簡易な折り畳み椅子が適当に並べられ、そこに腰を下ろしている。
店の前は車が横付けできるほどの幅があり、それなりに広い。補整されていない剥き出しの土や砂利なので椅子は安定せずにぐらぐらするが、あまり気にならない。
空はまだ明るく時刻は午後五時を過ぎている。曇ったりしていたけれど西の空が綺麗なオレンジ色の夕焼けなので、明日の天気もどうやらよさそうだ。
ご主人の名は谷口正志(まさし)さん。ミケを探していた谷口健二くんの母方の祖父らしい。
火力が強くなったのを確認し、網に肉を並べていく。鮮やかな色をしたお肉だった。まさに血が通っているとでもいうような。
「ほら、しっかり食えよ、今日割ったばかりの新鮮な牛だ」
「俺、ウインナー食べたい。牛飽きた」
「贅沢言うな!」
すかさず手を上げて自己主張した健二くんを谷口さんは一喝する。
庭で作ったという茄子やピーマンも用意されたが、七輪の上はほぼ肉のみが占拠している状態だ。次第に煙が落ち着き、いい香りが漂いだす。
タレはたくさんあるそうで、健二くんがお酌するかのように勢いよく紙皿に注いでいく。谷口さんは肉を焼きながら、誇らしげに話してくれた。
昔から牛を育て、近くにある屠畜場(とちくじょう)で牛を処理するところまで自分でしてきたのだという。だから味も安全性もお墨付きだと。
肉の大半を業者に卸しながらも自ら焼肉店を経営し、自慢の牛をお客さんに食べてもらっていたらしい。
なのでさっきのスタイルは昔かららしく、理恵さんの話の出所にも合点がいた。冗談抜きにすごい迫力だったので、本気でジェイソンと勘違いしそうになったのをこっそり心の中で謝る。
今は卸す業者もないので、自分のところで食べるしかない。
網の上で焼かれている肉も谷口さんが大事に育ててきて、昨日まで生きていたのだと思うと簡単に口に運べない。
知識だけなら知っていても、自分の育てた牛を自分で処理するというのは私には考えられなかった。どうしたって情が湧いてしまうだろうし、つらくなると思う。
当たり前のようでいて、こうして命を処理する人がいるから、私たちは肉を口に運べるんだ。どうして『いただきます』というのか。谷口さんの話を聞いて改めて考えさせられた。
それにしても肉自体口にするのは久しぶりだ。それ以前にこうして大人数で食事するのはいつぶりだろう。
『いただきます』としっかりと手を合わせ、紙皿に置かれた肉を口にした。
口の中に広がる肉の美味しさに頬が緩む。味の違いがわかるような味覚は持ち合わせていないけれど、柔らかくてジューシーな肉本来の旨味が舌から伝わってくる。
一切れでほくほくと私が幸せを感じている間、店を襲った男性は一心不乱に焼かれていく肉を次々に口に頬張っていた。
「で、おめぇはなんであんなことしたんだよ」
一段落したところで、谷口さんが問いかける。あんなにひどい形相をしていた男性は今は憑き物が落ちたかのようだった。
箸を置き、ぽつぽつと自分の話を始める。
彼の名前は宮脇(みやわき)五郎(ごろう)さん、二十九歳。大学を卒業して全国的に有名な大手企業に就職したが、そこでの激務に体を壊し、退職して実家に戻ったんだという。
西牧村のさらに東にある町出身らしい。療養を終えフリーターという立場で、気が向いたときに働きに出たものの基本的には家に引きこもりがちだったとのこと。
「そこで、あの月の落下騒動だよ。両親は変な宗教にハマって家に帰って来なくなった。家の食料もつきて頼れる人間もいないから、ふらふらしてたんだ」
ばつが悪そうな顔をして宮脇さんは言い捨てた。スーパーは閉店している中、谷口商店の存在を思い出してやってきたのだという。
空腹もあり、こんな状況だから店のものを手にするのに罪悪感はあまりなかったらしい。しかし今はそうでもないようだ。
改めて宮脇さんを見ると、顔は怖いが雰囲気はそこまで尖っていない気がする。
「まぁ、民家襲ったり、誰かを傷つけようとしなかったのは立派だ。生きようとしたのものな」
谷口さんは肉を焼きながら静かに告げた。そしてなにか言葉を続けたとした瞬間。
「あのー、お店ってもう閉まってますか?」
不意にかけられた声の主に全員の注目が向く。鳥籠を持った女性の姿に私は反射的に叫んだ。
「理恵さん!?」
「あら、ほのかちゃんに穂高くん? どうしてここに? あ、猫が見つかったの?」
「えっと……」
「色々あったんです。体調は大丈夫ですか?」
説明するのは難しく、言いよどんでいた私の代わりに穂高が答えた。相変わらずこういうところはそつがない。理恵さんはかすかに笑う。
「ええ、少し横になって楽になったわ。ここに来たのは、この子の餌になるようなものがないか探そうと思って」
理恵さんが鳥籠の中に視線を送ると、インコは小さく鳴き声をあげてわずかに羽ばたいた。
「ミケ!」
そしてどういうわけか、それを見た健二くんが弾かれたようにやってくる。辺りを見回したけれど猫の姿はない。しかし健二くんは迷わずに鳥籠にへばりついた。
「よかった、ミケ無事だったんだ!」
「え、健二くんの探してたのは猫じゃないの?」
尋ねると彼は目を爛々とさせて元気よく答える。
「そうだよ。庭先に吊るしていた籠に猫が飛びついて、ミケをさらって行ったんだ。それが茶色いぶちの大きな猫でさー」
なんと、私はとんでもない勘違いをしていたらしい。それは穂高も同じだったようで目を丸くしている。だって……。
「インコなのにミケって名前なの?」
「うん。ミケランジェロから取ったんだ」
「お前、ミケランジェロが誰なのかわかっているのか?」
穂高が苦笑しながらツッコんだ。小学生にしてはなかなかマニアックなところを突いている。
「知ってるって。あの裸でポーズを決めてる兄ちゃんの名前だろ」
残念ながらそれはダビデ像で、ミケランジェロはその製作者の名前だ。私と穂高が吹き出すと健二くんは『なんだよー』と怒りはじめる。
「そっか。ちゃんと飼い主がいたのね」
私たちのやりとりを聞いていた理恵さんは、安堵の声を漏らした。籠の中のインコと健二くんを交代に見る。
「この子、君に返すね」
「お姉さん、本当にありがとう!」
感動の再会。でも私は信じられない気持ちだった。
猫にさらわれたという時点で絶望的なのに、ミケは理恵さんに保護され、こうして元の飼い主である健二くんの元に戻ってきた。
「そうだ。お姉さんもよかったら肉食べていきなよ! ね、じいちゃんいいだろ!」
谷口さんはトングを持ち上げ、『おう』と軽く返事する。宮脇さんだけが席に着いて黙々とお肉を食べていた。
「どうしてお肉が……」
「じいちゃんが牛を育ててるんだよ! 俺も世話、手伝ってるんだぜ」
理恵さんの質問に健二くんは胸を張って誇らしげに答えた。それでピンと来たのか理恵さんが谷口さんを見た。
「もしかして……『おおつき食堂』をされていました?」
肉を焼いていた谷口さんが手を止めこちらに顔を向けた。
「ああ。節子(せつこ)が、家内が元気なときにやってたんだよ。あんた地元の人かい?」
「はい。小さい頃、おおつき食堂さんによく両親とお邪魔しました。お肉がとても美味しくて、県外に出てもよく思い出してましたよ」
「そうか、それは有り難いね」
谷口さんの視線は再び七輪の上に向けられる。一見、無表情に見えるけれど、微妙に口角が上がっている。嬉しさが隠しきれていなかった。
「あんた、名前は?」
「石津理恵です」
「ああ、東島(ひがしじま)の石津さんのとこかい?」
「はい」
谷口さんは合点がいったという顔で今度は素直に笑う。目尻の皺を増やし目を細めた。
「おー。ってすると、あの小さかった女の子があんたかい。覚えてるよ。ご両親は元気かい?」
理恵さんの顔が曇り、私は勝手にハラハラと成り行きを見守る。控えめの声の理恵さんの声がさらにすぼめられる。
「……父も母も亡くなりました」
小さいけれど凛とした声は全員が聞き取れた。
無関心だった宮脇さんもさすがに反応して、口に運ぼうとしていた肉を皿に戻す。そしてじっと理恵さんに視線を送る。
沈黙を受けてか、理恵さんはゆっくりと語りだした。
「月が地球に落ちてくる可能性が高いって報道されて、両親は私に会社を辞めて実家に戻ってくるように言ってきました。でも私は半信半疑で……仕事もあるし、すぐに帰るのは無理だって取り合わなくて」
一つひとつを思い出すような、後悔を乗せた声色だった。私は自然と自分の手を強く握る。
「あの頃は電話もインターネットも繋がりにくくなっていましたから、直接話そうとしたのかもしれません。それで私を車で迎えに来ようとして両親揃って事故にあったんです」
『月が地球に落ちてくる』
そのニュースが世界を駆け巡ったとき、大半の人々は冷静さを失った。混乱と動揺により、多くの場所で事故が相次ぎ殺人や強奪なども増えた。
国民的アイドルが『月に殺されるくらいなら自分で命を終わらせる』というセンセーショナルな遺書を残し自殺したことで、自殺者も後を絶たなかった。
たくさんの人が亡くなる日々で報道も追いつかず、正確な数も出来事も知らない。あまりにも死がありふれて感覚が麻痺しそうになった。
誰も言葉を発しない。この沈黙を裂いたのは意外な人物だった。
「お姉さんも父さんと母さんがいないんだ。なら俺と同じだな」
声変わり前のあどけない健二くんの声が場を包む。彼はにかっと白い歯を見せて笑うと、理恵さんの手を取った。
「でも俺には、じいちゃんとミケがいるんだ。お姉さんも家族になればいいよ」
「え……」
「とにかく飯食おうぜ。おい、兄ちゃん。全部ひとりで食うなよ」
「食わねーよ」
最後は宮脇さんに対しての台詞だ。唖然としている理恵さんの手を引いて健二くんは座るように促した。
「あら? これってどういうことなの?」
またまた唐突に第三者の声が間に入る。穂高が『え?』と小さく声を漏らし、私も声の主を視界に捉えて目を見張った。
驚いたのは私たちだけのようでは谷口さんは冷静だった。
「樫野(かしの)さん、あんたどうしたんだ?」
『樫野さん』と呼ばれた女性は、先ほど店を覗いて去っていた女性だ。その前に突拍子もなく私に貧血の薬をくれた人で……。
「それはこっちの台詞よ。さっきお店の前を通って中を覗いたら、なんだかただごとじゃない雰囲気だったから、お巡りさんを呼びに行って一緒に来てもらったの」
「お父さん!?」
「ほのか?」
樫野さんから遅れて現れた人物に、私は思わず今日一番の声をあげる。見慣れた紺色の制服、制帽。樫野さんが連れてきた警察官は、まぎれもなく私の父だった。
「え、お父様?」
樫野さんが不思議そうな顔をして、私と父を交互に見た。父の顔はすっと険しくなり、眉間に皺が深く刻まれる。
「こんなところでなにをしてるんだ。もう日も沈みそうだっていうのに」
「お父さんに関係ないでしょ!」
私は突っぱねる。それは父の感情を逆なでするだけだった。
「関係あるだろ。だいたい、お前は」
「あの」
ヒートアップしそうになる寸前で私たちの間に穂高が入った。視界には彼の逞しい背中が映り、続えて穂高は父に深々と頭を下げた。
「ほのかさんの高校の同級生で安曇穂高といいます。すみません、今日は俺が誘って彼女を連れ出したんです」
意表を突かれたように父は目を見開いた。すかさず理恵さんが私の右隣にやってくる。
「それで私が体調を崩していたら、娘さんが気遣って家まで付き添ってくれたんです」
「いなくなったミケも探してくれたんだよ」
いつのまにか健二くんも私の左側にしがみつくようにして主張した。
「孫が世話になった礼に、ここで夕飯をご馳走していたんですよ」
締めくくるように谷口さんが現状を伝える。父は立て続けの勢いに押されてぽかんとしている。ややあっておもむろに口を開いた。
「店に不審者がいるという話は……」
「ああ。ちょっと知り合いに店の整理を手伝ってもらっていたんだが、なんせ初めてで棚を倒したりしてな。粗暴だがこのご時世、番犬にはいいだろ」
谷口さんのフォローに宮脇さんが目を丸くして視線を送った。さらに樫野さんがつけ加える。
「ごめんなさい。私の勘違いだったみたいね。ほら、今はこんな世の中だから少しのことで怖くなってしまって」
父は目を伏せて制帽を整え直した。
「いえ、なにもなかったのならよかったです。しかし空き巣や喧嘩も増えています。皆さん、戸締りはしっかりしてください」
警察官の顔を見せた後で父は私の方を見つめた。
「ほのか。遅くなるかもしれないが、今日は仕事を切り上げてくる。お邪魔にならないようここで待ってなさい。家まで送っていく。君もだ」
最後は穂高を見つめて父は言った。有無を言わせない重たさを感じる。でもそれでは私たちの目的は達成できない。
もっと夜にならないと星は見えない。とはいえ正直に話して父が納得してくれるとも思えなかった。
「私は……」
言い返そうとしたものの言葉に詰まる。
「よかったらうちに泊めますよ」
前触れもない助け舟は、樫野さんからだった。
「さっきもお話しした通り、部屋はたくさんありますから。みんなで集まっていた方が防犯の意味でもいいでしょ?せっかくの機会ですしお父様もお仕事終わったら、こちらにいらっしゃいませんか?」
「なんであんたが仕切ってるんだ」
お約束のように谷口さんがツッコんだけど樫野さんはまるで聞こえてもいないかのように父と向き合ったままだった。
「いいえ。仕事がありますから。ほのか、迷惑にならないようにな」
「……うん」
静かに答えると、父は踵を返してさっさと行ってしまった。複雑な感情を抱えながら父の背中を見送る。
結局その場に理恵さん、樫野さんも加わり、行きずりといってもいい共通点がまったくないメンバーで七輪を囲む状況になった。
「で、結局なにが起きてたの?」
割り箸を真ん中でまっぷたつに割った樫野さんが改めてさっきの現状を尋ねる。谷口さんは再び忙しく肉を焼きはじめながら答えた。
「言った通りだよ。ちょうどいい番犬を見つけたんだ」
「番犬って……」
宮脇さんが横目で谷口さんを見る。その宮脇さんの皿に谷口さんは焼けたお肉をひょいっと入れた。
「お前、車は運転できるのか?」
「……一応。ミッションも持ってる」
「ならいい。ちょっと店を手伝え」
「は?」
素っ頓狂な声を出した宮脇さんの顔を谷口さんはようやく見つめた。
「金はあまり出せねぇが、食べ物と仕事はやる。俺も目がだいぶ霞んできて運転がきつくなってきてな。牛を割ってもその肉を卸す場所がない。でも車使って中心地まで行けば、それなりに取引相手はいる。店に置く商品も仕入れて欲しいしな。その面と体格なら簡単には襲われないだろ」
「じゃぁ、ウインナー食える?」
「かもな」
無邪気に尋ねた健二くんに谷口さんは軽く答えた。宮脇さんは呆然として口を開けたままだ。
ややあって、うつむくように静かに頭を下げた。そして顔を上げた宮脇さんが見つめたのは谷口さんではなかった。
「おい坊主」
「な、なんだよ」
肉を頬張ろうとしていた健二くんは、突然話題を振られ怪訝そうに答える。
「肉のお礼に、ウインナー探してきてやるよ」
しかし続けられた宮脇さんの言葉に、健二くんは目をぱちくりとさせる。そして満面の笑みをみせた。
「おう。兄ちゃん頼んだ!」
それを聞いて宮脇さんだけではなく、谷口さんも微笑んだのに私は気づいた。なんていうか、言葉では上手く言い表せないけれど温かい気持ちになる。
「あの、すみません」
そこで理恵さんが口を挟んだ。
「図々しいお願いだとは思うんですが、もし車を運転されるなら私も県庁のところあたりまで乗せていってもらえませんか?」
県庁近くには国立病院がある。そういえば理恵さんは元々体調が悪くて病院に行こうとしていたのを今更ながら思い出した。
確認するように理恵さんの皿を見れば、肉を食べた様子もない。
「理恵さん、大丈夫ですか?」
「どうした? どこか調子悪いのか?」
私と谷口さんの声がほぼ重なる。理恵さんはその場にいる全員の視線を一気に引き受け、どこか居心地悪そうにしながらも、ぽつりと呟いた。
「実は私……妊娠してるんです」
「え、ええ!?」
思わず椅子から立ち上がって叫んだのは私で、周りを見ればどう考えても過剰反応だった。
でも、まったく予想もしていなかったので本当にびっくりした。それと同時に納得する。
妊婦さんと接した経験はほとんどないけれど、つわりと呼ばれるものがあるのは私も知っている。どこか悪い病気でもと心配していたので少しだけ安心した。
ふと我に返り、話の腰を折って恥ずかしくなりながらも、そろそろと椅子に座り直した。
ところが理恵さんの顔はどうも浮かない。
「相手の方は?」
冷静に尋ねたのは樫野さんで、その質問で私は、はっとした。
「……同じ職場だった人で、両親が亡くなった際もすごく支えてもらいました。しばらくして妊娠がわかって一緒にこっちに来たんです。でも翌日に彼の姿は車と一緒に消えていて」
絞りだすような声だった。なにかを堪えるような、痛みに耐えるような。理恵さんは肩を震わせながら続ける。
「つわりもひどいし、私ひとりでどうしようって。ばちが当たったのかもしれません。私のせいで両親も亡くなって、この子にも申し訳なくて。もうすぐ世界は終わるのにこんなときに妊娠して……ちゃんと生んであげられないかもしれない」
押し殺していた不安と共に理恵さんは吐露する。最後は嗚咽混じりで言葉が消えた。
呼応するように私の心臓は握り潰されるように、ぎゅっと痛む。七輪の炭がバチッと音を立てて赤い色を宿していた。
世界はもうすぐ終わるんだ――。
暗闇に飲み込まれそうな自分を想像した。消えて、なくなってしまう。
「おめでとう」
力強く明るい発言が私の意識をはっきりとここに戻す。理恵さんも顔をゆるゆると上げた。
理恵さんの隣に座っていた樫野さんが椅子を寄せ、理恵さんを支えるように肩を抱いた。
「あなたひとりでよく頑張ったわね。つわりがひどいのはつらいけれど、いつかは落ち着くわ。そんなに自分を責めないで。大丈夫よ。まだ月が地球に落ちてくるとも、世界が終わるとも決まったわけではないでしょ?」
「ほぼ確定だろ。九十三パーセントだぜ?」
「でも七パーセントの可能性で助かる」
樫野さんに横やりを入れたのは宮脇さんで、さらに穂高が間髪を入れずに静かな声で告げた。イラついた顔で宮脇さんが穂高を睨む。
樫野さんは理恵さんに言い聞かせる。
「あのね、自分が今ここに存在している確率って考えたことがある? 自分の両親が出会って愛し合い、妊娠してからお母さんのお腹で大きくなって、外に出てからはたくさんの人に助けられ守られて、今こうして生きているって確率」
理恵さんは目を瞬かせながら、樫野さんの話を聞いている。それは他の人もだった。樫野さんの言い分には理屈ではない、なにかを突き動かすような熱いものがみなぎっている。
「すごい可能性じゃない? ましてや、この生物が育っていける地球が存在する確率なんて考えだしたら、きりがないわ」
穂高と話した内容を思い出す。ほかのどの惑星でも駄目だった。
そしてこの広い世界で、もしもお父さんとお母さんが出会わなければ、結婚して妊娠しなければ、無事に生まれてこなければ……どれを欠いても私はここに存在しない。
「だから確率だけ考えても意味ないのよ。未来は誰にもわからない。たとえ一パーセントでも起こるときは起こるし、九十九パーセントでもはずれるときははずれるわ。だったら自分の決めた未来を突き進んでいけばいいと思わない?」
初めて会ったときとは印象が違い、樫野さんは饒舌だった。でも一つひとつの言葉が身に染みて、さっきまで私の心を覆いそうだった黒い靄を消してくれる。
「詭弁だろ」
そこに水を差したのは宮脇さんだ。小さな椅子に窮屈そうに腰掛けて鼻を鳴らす。
「なにを言っても、月は地球に落ちてきて俺たちはみんな終わりなんだよ」
「お前は終わらない気でいたのか?」
谷口さんは静かに口を開き尋ねた。宮脇さんの眉がぴくりと動く。谷口さんは弱くなった七輪の火をじっと見つめていた。
わずかに灰が舞い、小さくなった炭が音を立てて崩れる。
「命あるものは尽きる。それは月が落ちてこようが関係ないだろ。不意の事故や病気などで突然命を奪われることもあれば、長生きして自然と逝く者もいる。でも、みんないつかは終わりがくる。だから必死で生きるんじゃないのか?」
そこで谷口さんが顔を上げた。遠くを見据え、その瞳は迷いがない。強い決意を感じさせた。
「俺はな、ひとつだけ決めてることがある。隕石降ろうが月が落ちてこようが、立派でなくても、情けなくても最後の最後まで必死で生きてやるってな。俺たちはなにかの命をもらってここまで生きてきたんだ。なのに自分から生きるのを諦めるなんて、頂いてきた命に示しがつかねぇだろ」
水を打ったように場が静まり返った。ライトが落とされたように辺りもすっと暗くなる。
いつも命と向き合ってきた谷口さんの言葉には強い信念を感じた。だから、こんなにも刺さるようにずっしりと響くんだ。
「……俺はずっと娘と会っていなかったんだ」
ところが続けられた谷口さんの告白は、弱々しいものだった。内容が内容だけにみんなの意識が集中する。谷口さんはそっと健二くんに視線を投げかけた。
「健二の母親である聡子(さとこ)が、芸術家になりたいって言ったときは反対してな。んなもんになれるかって俺は頭ごなしに否定した。あんなのごく一部の人間しか成功しねぇ。苦労はして欲しくなった。できれば進学するなり、手に職をつけて欲しかったんだ」
谷口さんは娘さんが中学生の頃に奥さんを亡くし、それからは男手ひとつで娘さんと向き合ってきたらしい。仲のいい父子だった、と谷口さんは物悲しく話す。
娘さんが進路の相談に来たとき、谷口さんは大反対したのだという。
「俺たちは似たもの親子だった。一度言い出したら聞かない頑固者同士。娘は家を飛び出し、何年も帰ってこなかった。俺も気にはなっていたが、こちらから連絡もできなかった。すぐに弱音を吐いて帰ってくる、そう高をくくってたんだよ」
そして娘さんが戻ってきたのは実に十年後だったらしい。ひとりではなく男の子を連れてだった。当時五歳になる健二くんだ。
「相手の男とは別れたと言ってそれ以上は話さなかった。俺も聞きはしねぇ。ただ娘と孫が帰ってきてくれて俺は純粋に嬉しかった。でもな、あいつは娘としてではなく、母親として戻ってきたんだよ」
意味がわからずにいると、今度は樫野さんが谷口さんの話を継ぐように口を開いた。
「……聡子ちゃん、病気だったのよね」
肉が網の上で焦げそうになっている。でもそれを指摘する人は誰もいなくて、炭っぽい独特の香りが辺りを包んでいった。
樫野さんは目を閉じて、静かに息を吐いた。
「もう手の施しようもなかった。聡子ちゃんもわかっていたんだと思う。だから谷口さんに健二くんを託すつもりだったんでしょうね」
聡子さんは、往診を受けながらお父さんと息子の健二くんと一緒に最期までここで静かに暮らしたんだという
そして、ミケは聡子さんが亡くなる前に、健二くんに与えたものらしい。だから名前がミケランジェロのミケななんだ。
勝手な想像だけれど、聡子さんが好きだったのかな? 健二くんがどんな思いで名付けたのかを想像し、また切なくなる。
直接知っている人でもないのに、まるで自分の知り合いを亡くしたかのようだった。私も母を亡くしたから健二くんに同調しているのかもしれない。けれど、きっとそれだけじゃない。
「でも母ちゃん言ってた。じいちゃんとミケが俺の家族になるから大丈夫だって。いつも俺とじいちゃんとミケを見守ってるから心配しなくていいって」
不意に健二くんが言葉を発し、全員の注目が集まった。彼はそれを受けるように全員をぐるっと見渡し立ち上がる。その表情はいつになく真剣だ。
「だいたい、みんなが言ってる七パーセントってそんなに難しいのかよ?」
必死で訴えかけているのに、机がないので手に皿と箸を持ったままなのがどこか締まらず、健二くんには申し訳ないけれど、つい気が緩んでしまう。
「七パーセントっていえば……医学部の平均合格率がそれくらいかしら?」
彼の質問を真面目に考え、曖昧に答えたのは樫野さんだ。それを聞いた健二くんは、閃いた!という顔になる。
「じゃ、俺医学部に入って医者になるよ! そしたら地球が助かるって証明できんだろ?」
突拍子もない宣言に皆、目が点になった。ややあって一番に吹き出したのは宮脇さんだ。
「どういう理屈だよ、それ」
「なんだよ。そういうことじゃねーの?」
「なら、まずはミケランジェロが誰なのかちゃんと知るところからだな」
穂高も笑っている。私も自然と顔を綻ばせた。
「なら健二くんには、是非うちの後継者になってもらおうかしら?」
なんの後継者だろうと口を挟もうとしたら、谷口さんがやれやれといった調子で説明する。
「この人、医者だよ。国立病院でずっと産婦人科を担当していたらしく。今は自宅で助産院をしている」
まさかの職業に私は樫野さんを二度見した。それは理恵さんも同じようで、まじまじと樫野さんを見つめている。
ただ、初対面での樫野さんとのやりとりを思い出せば納得だ。たしかにまさに診察というか医師という感じだった。先生というところまでは直感的にあっていたらしい。
「安心して。まずはやっぱり大きいところで診てもらって、異常がないようならうちで面倒見てあげるから」
どんっと厚くない自分の胸板を樫野さんは叩く。続けて神妙な面持ちになった。
「ずっと田舎の産科医不足が気になっていたの。出産するのにここから中心地まで来る人も珍しくなかったし、でもいざというときにそれだと困るでしょ? だから思い切って二年前に自宅を改装して助産院を開いたもの。ところが隕石やら、月が降ってくるわで閑古鳥状態で……」
肩をすくめて樫野さんは笑う。私たちに泊まっていくようにと『部屋がたくさんある』と言ったのは、出産した人の入院用にと設けられたものだったというわけだ。
「たぶん国立病院なら機能していると思うわ。なんなら知り合いの先生宛に紹介状を書いてあげるから」
「はい。ありがとうございます」
「お礼はいいわよ、医者だもの。私もやっと自分の役割を果たせて嬉しいわ」
気づけば、理恵さんの頬には涙が伝っていた。
「おい」
ところが不機嫌な声に理恵さんの肩がぴくっと震える。宮脇さんは怖い顔のままぶっきらぼうに言い放った。
「道路事情も不明だし、病院の混み具合もわかんねぇだろ。だから明日の朝にこっち出るぞ。早めに医者に診せた方がいいんだろ」
「よ、よろしくお願いします」
「兄ちゃん、軽トラだけど飛ばすなよ」
「ったく、わかってるよ」
すっかり打ち解けた様子の宮脇さんと健二くんがやりとりし、二人の間に挟まれた谷口さんが『思い出した』と口にした。
そのまま谷口さんの視線は理恵さんに向けられる。
「そういや石津さん夫婦があんたが生まれる前におおつき食堂に来たんだよ。奥さんが妊娠して、やっと体調が安定したから焼肉食いに来たって、嬉しそうだった。だから周りも、俺もおめでとうって声をかけたんだ」
谷口さんは優しい顔をした。慈しむような、懐かしそうな表情だ。
「両親が亡くなったのは自分のせいだとか、ばちとか思うなよ。親は子どもが幸せだったらいいんだ。あんたも腹の子のことを考えてるんだからもう立派な母親だよ。……おめでとう、ご両親も喜んでるだろうな」
理恵さんは両手で顔を覆い、何度も頷いた。『ありがとうございます』というのは嗚咽混じりで、でもしっかりと届いた。やがて理恵さんは涙目ながらも、柔らかく微笑む。
「私、妊娠がわかって、彼がいなくなって、どうしようってずっと不安でした。つらいこともたくさんあったから。でもこの子がいるから、ここまで生きてこられたんです」
そう語る理恵さんの笑顔は、もうすっかりお母さんの顔だった。
一年以内に地球が滅びると聞いて、誰もが未来を奪われたと思った。思い描いていた夢は、叶わずに消えるだけなんだって。
世界が終わりを迎える間際になり、多くのものを失っていく。それは物であったり、大切な誰かだったり、信念やプライドという曖昧なものかもしれない。
そして月の落下が伝えられ、露になっていく人間の醜い部分ばかりを見ていた。他者を押しのけてでも自分が一番という人が多くて、争いも絶えない。
私を含めて人は弱いのだと思い知らされた。
だから人間関係を上手く築けない自分は、誰も信じずに関わらないのが最善だと思った。部屋に閉じこもって勉強で現実逃避をした。
ところが今、私の目の前にいる人たちは、みんなほぼ初対面で他人なのにも関わらず、それぞれなくしたものを補い、支え合っている。
人ってこんなに優しかったんだ。
それから他愛もない会話を再開させる。終始和やかな雰囲気とは言えないけれど、こうして誰かと食卓を囲むなんて久しぶりだった。
キャンプみたいで楽しい、という感想は不謹慎かな?
世界の終わりとか、月が落ちてくるとか、そんな話題はもう出てこない。笑い声も聞こえてくる。ただ私はその一方でずっと自分のお母さんやお父さんのことを考えていた。
食事を終え、久々に満腹という状態に身を落ち着かせる。といっても胃が小さくなっているのか私の食べた量はたいしたことない。
片付けしようと腰を浮かしたところで理恵さんに声をかけられた。
「ほのかちゃんのお父さん、こんなときでも仕事を優先するなんて警察官の鏡というか、正義感の強い人なんだね」
父を褒められているはずなのに、私の心はざわつき返答に迷う。お茶を濁していると樫野さんも話題に入ってきた。
「あの人、たいてい役場前の派出所にいてくれてね。もちろんほかにも何人か警察官はいるみたいだけれど、必要があればどこにでも来てくれて、地域の人にとってはすごく有り難い存在なのよ」
「そう、なんですか」
「ほのか」
私の知らない父の話に少しだけ興味が湧いた。しかし穂高に名前を呼ばれ、私の意識はそちらに向く。
「そろそろ行こうか。あまり遅くならないうちに」
「そうだね」
当初の目的を思い出して私は彼のそばに駆け寄る。西牧天文台に行くには、山道を登っていかなくてはならない。
車も通れる道とはいえ外灯も気持ち程度しかなく、暗くなってからは危ないだろうという判断だ。まだかろうじて空が明るさを残している今出発しないと。
「ふたりだけで歩いて大丈夫? 帰りはどうするの?」
理恵さんが穂高に尋ねる。
「まだ暗くなっていませんし平気ですよ。天文台を管理している人と知り合いで、泊めさせてもらうこともできると思うので」
「こんなときに天文台って頭おかしいだろ。降ってくる月でも見るつもりか?」
心配そうな理恵さんとは対照的に宮脇さんは小馬鹿にしたような言い草だ。
無理もない、たいていの人は私たちが今からしようとすることを聞けば彼みたいな反応だろう。
谷口さんに改めてお礼を告げ、私たちは谷口商店を出発した。もう日も落ちているので麦わら帽子はかぶらず、かばんに引っ掛ける。
穂高はためらいなく私の左手を取ると、さっさと歩き出した。強引だけれど乱暴さはなく、疲れているのか口数は少ない。
彼に手を引かれ大通りに戻り、迷わず進んでいく穂高になにも言わずついていく。しかし私はふとあることに気づいた。
「ね、ちょっと。西牧天文台ならこっちの大通りじゃなくて、東島公園のルートから行った方が近いんじゃない?」
私の質問に穂高はなにも答えない。こんな初歩的な間違いを彼がするだろうか。
なにかを避けようとしている?……それとも、別のどこかに向かっている?
不安になって、もう一度同じ内容を尋ねようとしたときだった。
「ほのかのお父さんに会いに行こう」
彼の口から信じられない提案が突然飛び出し、私は目を白黒させる。
「な、なんで?」
「ほのか、お父さんに言いたいことがあるんだろ。だから、ちゃんと話せ」
「なに言ってるの? 話したいことなんてないって」
そう言っても穂高は足を止めない。繋がれている手も痛いくらい強く握られている。
「強がりも、嘘もいらない」
穂高はこちらを見ようとしない。だから私はカチンときて彼に噛みついた。
「強がりでも、嘘でもないよ! なんで穂高がそんなふうに言い切れるの!?」
彼は足を止め、ゆっくりとこちらを向いた。真剣な表情に私は思わず息を呑む。穂高は私から視線を逸らさずに告げた。
「ずっとほのかを見てたんだ。だから、わかるよ」
ほんの一瞬、風も、海も、すべてが凪いだ。瞬きも呼吸も忘れて時が止まったような感覚に陥る。
穂高は私の手を握り直した。
「今、話さないと後悔する。ほのかはまだ、話ができるだろ」
『お父さんとお母さんは?』
『いないよ』
『家族はね、いないの』
健二くんや理恵さんの寂しそうな表情が頭に浮かんだ。かまわず歩き出そうとする穂高にとっさに声をあげる。
「待って!」
彼の視線がまたこちらに向けられ、逃げるように私はうつむき気味になった。
「でも、お父さんはきっと私と話したくないと思う。……お父さんは私を嫌ってるから」
私の発言を受け、わずかに穂高に緊張が走ったのが繋いでいる手から伝わってきた。続きを言う勇気が出ない。
喉の表面を空気が掠め、声を出そうにも何度も不発に終わる。
「……私のせいなの。お母さんとまなかが、妹が死んじゃったのは」
なんとか振り絞って出せた音はカラカラだった。
「年末にお母さんの実家に帰省する予定だった。お父さんは仕事でいけないから私とまなかとお母さんの三人で。でも……」
ありありと蘇る思い出を、痛みを伴いながら口にする。
出発前夜、私が体調を崩し急遽帰省するのは母と妹だけになった。父は仕事だし、ふたりは私を置いていくか悩んみ、中止にしようかとも言いだした。
それを私が断固反対した。飛行機のチケットも取っていたし、なによりおばあちゃんが待っている。
『ほのか、本当にひとりで大丈夫? お父さんは夜には帰ってくる予定だけど、つらかったら遠慮なく連絡しなさいね。お父さんにも言ってるから』
家を出る直前まで、母と妹は私の部屋で名残惜しそうに心配していた。
『寝てれば平気だよ。おばあちゃんによろしくね』
『お姉ちゃん、なにか欲しいものある? お土産買ってくるよ。お年玉はばっちりもらっておくから、それ以外で』
必死に尋ねてくるまなかに私は苦笑した。みっつ年下の可愛い妹。成績は普通だけれど、明るくて朗らかで優しくて。友達もたくさんいる。
人懐っこくて、誰からも愛されるような性格だ。私とはまるで正反対。
『じゃぁ、お守り買ってきて』
ベッドからふたりの顔を見上げ、私は母と妹に告げた。東京で学問の神様として有名な神社の名を挙げる。
一度、お参りしてみたいなと思っていた。祖母の家に行くときに、もし寄れたら行ってみよう。それくらいの気持ちだったけれど、せっかくなのでねだってみる。
『お姉ちゃん、それ以上頭よくなってどうするの?』
呆れた様子のまなかに母は『ほのからしいわね』と笑った。
『わかった。ほのかの分もお参りして買って帰ってくるわ』
母が私の額にそっと手を乗せた。ひんやりとして熱が奪われていく。心地よくて手が離れたときは、寂しく思えた。もう小さい子どもでもないのに。
『早くしないと飛行機乗り遅れちゃうよ。年末で混んでるだろうし』
気持ちを誤魔化すように指摘すると、母は時計を確認した。
『そうね、そろそろ行くわ』
『お姉ちゃん、またメールするからね。しんどくなったらお父さんに電話するんだよ』
『うん、ありがとう』
ベッドから母と妹を見送る。部屋のドアがゆっくりと閉まり、ふたりの姿が消えると、なぜだか私の頬にひと筋の涙が伝った。
待って。行かないで。私を置いていかないでよ。
心の奥底にあった本音が溢れる。でも声に出せない。体調を崩しているから心が弱っているのかな。
胸騒ぎが収まらない。吐き気とは違うなにかが体の中をかき回しているような不快感だ。
きっと予兆だった。第六感とでもいうのか。
この日、政府から地球に月が落ちてくるという発表があった。瞬く間に人々はパニックに陥り、人の多い都心部はとくに酷かったらしい。そして――
「自棄になって暴走した車が、ごった返す人たちの中に突っ込んだの。そこにお母さんたちもいて………」
場所は私が話した神社前の大通りだった。ふたりとも即死だったらしい。
遠くに飛ばされ、後から返ってきた母のバッグの中には、私の頼んでいたお守りが大事そうに入っていた。
私がお守りなんて頼まなければ。私が体調を崩さなければ。私が……。
月が落ちて世界は終わる。けれど、その前にうちの家族は壊れてしまった。
世界の行く末を伝える大きなニュースを前に、母や妹の死はメディアに取り上げられることもなかった。それがいいのか、悪いのか。
運転手はかろうじて命は助かったらしいが、重傷を負い不自由な体になったと聞いた。なにを望んでいたのだろう。知る気さえも起きない。
混乱のさなか、ひっそりと葬儀が執り行われ、母と妹は白い灰になった。あの厳格な父が静かに泣くのを初めて見た。
誰を、なにを恨めばいいんだろう。この感情をどこにぶつけたらいいの?
それから父は以前にも増して仕事に力を入れるようになった。正義感や使命感に燃えていると、周りの人は口々に評する。
でも、そうじゃない。きっとがむしゃらになにかをしていないと押し潰されそうだったんだと思う。それとも私と距離を取りたかったのか。
母と妹が亡くなり、喪が明けた頃だった。
『ほのか、父さんは仕事に行く。状況が状況だからあまり頻繁には帰って来られないが、戸締りはちゃんとしておけ。当分、必要なものはこちらで用意するから極力外を出歩くな』
『うん』
言葉通り父は仕事に精を出し、私とじっくり話す機会もなくなった。とはいえ、まなかが一緒ならまだしも元々私と父が一対一で過ごした思い出もあまりない。
あまり口数が多い人でもないし、仕事も不規則で忙しそうだったから。そんな父にまなかは懐いていて、いつも素直に甘えられる妹が羨ましかった。
父もきっと私より妹の方が可愛かったと思う。
家族ふたりになったのに、家に父がいても居たたまれなくなり私は部屋にこもってしまう。そして、気づけば父は仕事に向かっている。父とこの状況で真正面から向き合うのが怖かった。だって――。