月が地球に落ちてくるとか、私の理解を超える出来事はたくさんある。それでも今この目の前の状況もまったくもって不可思議だった。

 どうして店を荒らされそうになった人と、盗みを働こうとした人が一緒に食卓を囲もうとしているのか。そして私たちはなぜここに同席しているのか。

 今、谷口商店の前には本格的な七輪が用意され、被害者と加害者は協力し合い、そこに穂高も加わって火おこし中だ。

 無事に炭に火がついたもののこれで終わりではないらしい。ご主人が支持する形で、穂高と男性が風を送ったり、炭を動かしたりしている。意外と手際がいい。

 私と健二くんはその様子をぼんやり眺めて待っていた。七輪の周りを囲むように簡易な折り畳み椅子が適当に並べられ、そこに腰を下ろしている。

 店の前は車が横付けできるほどの幅があり、それなりに広い。補整されていない剥き出しの土や砂利なので椅子は安定せずにぐらぐらするが、あまり気にならない。

 空はまだ明るく時刻は午後五時を過ぎている。曇ったりしていたけれど西の空が綺麗なオレンジ色の夕焼けなので、明日の天気もどうやらよさそうだ。

 ご主人の名は谷口正志(まさし)さん。ミケを探していた谷口健二くんの母方の祖父らしい。

 火力が強くなったのを確認し、網に肉を並べていく。鮮やかな色をしたお肉だった。まさに血が通っているとでもいうような。

「ほら、しっかり食えよ、今日割ったばかりの新鮮な牛だ」

「俺、ウインナー食べたい。牛飽きた」

「贅沢言うな!」

 すかさず手を上げて自己主張した健二くんを谷口さんは一喝する。

 庭で作ったという茄子やピーマンも用意されたが、七輪の上はほぼ肉のみが占拠している状態だ。次第に煙が落ち着き、いい香りが漂いだす。

 タレはたくさんあるそうで、健二くんがお酌するかのように勢いよく紙皿に注いでいく。谷口さんは肉を焼きながら、誇らしげに話してくれた。

 昔から牛を育て、近くにある屠畜場(とちくじょう)で牛を処理するところまで自分でしてきたのだという。だから味も安全性もお墨付きだと。

 肉の大半を業者に卸しながらも自ら焼肉店を経営し、自慢の牛をお客さんに食べてもらっていたらしい。

 なのでさっきのスタイルは昔かららしく、理恵さんの話の出所にも合点がいた。冗談抜きにすごい迫力だったので、本気でジェイソンと勘違いしそうになったのをこっそり心の中で謝る。

 今は卸す業者もないので、自分のところで食べるしかない。

 網の上で焼かれている肉も谷口さんが大事に育ててきて、昨日まで生きていたのだと思うと簡単に口に運べない。

 知識だけなら知っていても、自分の育てた牛を自分で処理するというのは私には考えられなかった。どうしたって情が湧いてしまうだろうし、つらくなると思う。

 当たり前のようでいて、こうして命を処理する人がいるから、私たちは肉を口に運べるんだ。どうして『いただきます』というのか。谷口さんの話を聞いて改めて考えさせられた。

 それにしても肉自体口にするのは久しぶりだ。それ以前にこうして大人数で食事するのはいつぶりだろう。

 『いただきます』としっかりと手を合わせ、紙皿に置かれた肉を口にした。

 口の中に広がる肉の美味しさに頬が緩む。味の違いがわかるような味覚は持ち合わせていないけれど、柔らかくてジューシーな肉本来の旨味が舌から伝わってくる。

 一切れでほくほくと私が幸せを感じている間、店を襲った男性は一心不乱に焼かれていく肉を次々に口に頬張っていた。

「で、おめぇはなんであんなことしたんだよ」

 一段落したところで、谷口さんが問いかける。あんなにひどい形相をしていた男性は今は憑き物が落ちたかのようだった。

 箸を置き、ぽつぽつと自分の話を始める。

 彼の名前は宮脇(みやわき)五郎(ごろう)さん、二十九歳。大学を卒業して全国的に有名な大手企業に就職したが、そこでの激務に体を壊し、退職して実家に戻ったんだという。

 西牧村のさらに東にある町出身らしい。療養を終えフリーターという立場で、気が向いたときに働きに出たものの基本的には家に引きこもりがちだったとのこと。

「そこで、あの月の落下騒動だよ。両親は変な宗教にハマって家に帰って来なくなった。家の食料もつきて頼れる人間もいないから、ふらふらしてたんだ」

 ばつが悪そうな顔をして宮脇さんは言い捨てた。スーパーは閉店している中、谷口商店の存在を思い出してやってきたのだという。

 空腹もあり、こんな状況だから店のものを手にするのに罪悪感はあまりなかったらしい。しかし今はそうでもないようだ。

 改めて宮脇さんを見ると、顔は怖いが雰囲気はそこまで尖っていない気がする。

「まぁ、民家襲ったり、誰かを傷つけようとしなかったのは立派だ。生きようとしたのものな」

 谷口さんは肉を焼きながら静かに告げた。そしてなにか言葉を続けたとした瞬間。

「あのー、お店ってもう閉まってますか?」

 不意にかけられた声の主に全員の注目が向く。鳥籠を持った女性の姿に私は反射的に叫んだ。

「理恵さん!?」

「あら、ほのかちゃんに穂高くん? どうしてここに? あ、猫が見つかったの?」

「えっと……」

「色々あったんです。体調は大丈夫ですか?」

 説明するのは難しく、言いよどんでいた私の代わりに穂高が答えた。相変わらずこういうところはそつがない。理恵さんはかすかに笑う。

「ええ、少し横になって楽になったわ。ここに来たのは、この子の餌になるようなものがないか探そうと思って」

 理恵さんが鳥籠の中に視線を送ると、インコは小さく鳴き声をあげてわずかに羽ばたいた。

「ミケ!」

 そしてどういうわけか、それを見た健二くんが弾かれたようにやってくる。辺りを見回したけれど猫の姿はない。しかし健二くんは迷わずに鳥籠にへばりついた。

「よかった、ミケ無事だったんだ!」

「え、健二くんの探してたのは猫じゃないの?」

 尋ねると彼は目を爛々とさせて元気よく答える。

「そうだよ。庭先に吊るしていた籠に猫が飛びついて、ミケをさらって行ったんだ。それが茶色いぶちの大きな猫でさー」

 なんと、私はとんでもない勘違いをしていたらしい。それは穂高も同じだったようで目を丸くしている。だって……。

「インコなのにミケって名前なの?」

「うん。ミケランジェロから取ったんだ」

「お前、ミケランジェロが誰なのかわかっているのか?」

 穂高が苦笑しながらツッコんだ。小学生にしてはなかなかマニアックなところを突いている。

「知ってるって。あの裸でポーズを決めてる兄ちゃんの名前だろ」

 残念ながらそれはダビデ像で、ミケランジェロはその製作者の名前だ。私と穂高が吹き出すと健二くんは『なんだよー』と怒りはじめる。

「そっか。ちゃんと飼い主がいたのね」

 私たちのやりとりを聞いていた理恵さんは、安堵の声を漏らした。籠の中のインコと健二くんを交代に見る。

「この子、君に返すね」

「お姉さん、本当にありがとう!」

 感動の再会。でも私は信じられない気持ちだった。

 猫にさらわれたという時点で絶望的なのに、ミケは理恵さんに保護され、こうして元の飼い主である健二くんの元に戻ってきた。