『でもシェルターには限りがあって、特別な人しか入れないの』

『俺は、特別な人間じゃないからね』

「……穂高は特別でよっぽど価値のある人間だと思うけどな」

 渡辺さんが穂高も連れて行きたいと思ったのは彼に対する好意の他にも、彼の能力に惹かれた部分もあると思う。

 どういった基準かは定かではないにしても、もしもシェルターに入れる人間を選別するのだとしたら、間違いなく彼は選ばれだろう。

「そんなことない。だいたい、特別や価値って誰が決めるんだよ」

 珍しく怒った口調だった。私はぎこちなくも微笑む。

「本当、そうだね」

 そこで私は唐突に話題を振った。

「冬休み前、現国の時間に出された課題の内容を覚えてる?」

 前触れのない会話のパスに穂高は大きい目を瞬かせた。

「『一人の命で多くの人の命が助かるのだとしたら』ってやつだよ」

「ああ」

 私の簡単な説明で彼はすぐに思い出したようだ。私はわざと明るく続けた。

「あのときは、いまいちピンとこなくて、自分の考えもはっきりさせられなかったんだ。おかげでどう課題に取り組もうか悩んだけれど、今この状況なら誰もがイエスって答えそうだよね」

 わざと穂高の顔は見ずに前を見据える。映画にありそうどころかリアルにありえそうな事態になってしまった。

「ほのかも?」

 穂高の問いかけに言葉を迷い、私はそっと目を伏せた。

 月が地球に落ちてくる可能性が高くなって、今まで以上に理不尽な出来事が増えた。

 なにも悪いことをしていない善良な人たちが簡単に亡くなって、自分勝手で他者を押しのける人たちがまだ生きていたりする。裁く人も咎める人もいない。

 希望を抱くのも馬鹿らしい。けれどそうやって人の醜さが露わなっていく世界で、つらいニュースや報せを聞くたびに胸が締めつけられるのは、非難からでも絶望からでもないと気づいてしまった。

「私も……同じだよ」

 出せた声は震えていた。まるで罪を告白するみたいに。

「私も自分が助かりたくて、誰かを犠牲にするかもしれない。誰かの命で大勢の人が……自分が助かるならイエスって言うかもしれない」

 自分の中にもそんな感情が眠っているなんて思いもしなかった。汚くて醜い真っ黒な部分。

 それでいて世界のためにも、誰かのためにもなにかしようと動くこともできない。非力で無力で、自己嫌悪に陥って殻に閉じこもっているだけ。

 もっと自分になにか誇れるものがあったら。渡辺さんみたいに自分は当然、特別な人間だって思えるほどの揺るぎのないものがあったら――。

「私はどうして生きているのかな?」

 生まれてきた意味って? 私の価値ってなんだろう? 

「ほのかが生まれて、今日まで必死で生きてきたから今ここにいるんだろ」

 深みにはまりそうな思考を、穂高の力強い声が引き戻す。まっすぐな眼差しが私を見据えていた。

「誰かを犠牲にするにしたって、ほのかはきっと結論を出すのにすごく迷うんだと思う。現に今も迷っているんだろ。正しい、正しくないかじゃなくて、自分の気持ちの奥底にあるところで」

 疑問系じゃなく確信めいた言い方は、反発心どころかストレートに私の心に飛び込んでくる。一つひとつ、はっきりと彼から紡がれていく言葉が沁みていく。

 穂高はふっと優しく微笑んだ。

「大丈夫。綺麗なだけの人間なんていないよ。なんだっけ。聖人君子? じゃあるまいし。だからいいんだよ。悩んで迷って出した答えは、どんなものでもきっと意味があるから」

 穂高はそう言って私の手を再び取った。指先が大きな手に包まれる。

「俺はさ、ほのかがここにいてくれて嬉しいよ。なんたって奇跡なんだろ?」

 最後は軽やかな口調にウインクまで飛んできた。

『私がここにいるのは、ある意味奇跡なんだからね』

 彼の家で思わず放った台詞だった。でも奇跡ならさっき彼女も言っていた。

『ここで私に会えたのはとんでもない奇跡なんだから』 

 だから、おずおずとつい可愛くない切り返しをする。

「渡辺さんに会ったことよりも?」

 穂高はまるでさっきの渡辺さんとのやりとりなど忘れていたとでもいう表情だ。目を丸くした後で、やっぱり彼は笑った。繋いでいる手を軽く持ち上げ、今度は白い歯を覗かせて思いっきり。

「もちろん。俺にとってはこっちの奇跡の方がとんでもなく貴重だね。だから手放すわけにはいかないんだ」

 貴重なのは、こうして今一緒にいるのが奇跡だと思うのは、私も同じだ。むしろ彼以上にそう感じている。

 誰にも吐き出せなかった自分の心の奥底にある感情を、まさか穂高の前で吐露するとは思ってもみなかった。痛みさえ伴ったけれど、逆にそれが教えてくれた。

 大丈夫、彼も私もまだ生きている。

 伝わってくる彼の手の温もりを感じながら。そんな単純な事実に私はひどく安心した。