二人が着いたのは都会にある、かなり大きな病院だった。
「ここだ」
「今日もまた病院?」
「ああ、そうだ」
その病院の中に入ると、手術台の上で赤ちゃんが手術を受けていた。
そのすぐ横で若い夫婦が手術着を着て立ち会っている。
この赤ちゃんの両親だ。
赤ちゃんの意識は無い。
母親は顔を伏せたまま泣いていた。
もうこれが最期ということなのだろう。
「ジャンク、まさかこの赤ちゃんが?」
「そうだ・・・」
「そうだって・・・この子、まだ生まれたばかりじゃないの?」
「ああ、生後一週間しかたってない」
「どうして?」
「出産の時に母体にトラブルがあってな。正常な分娩じゃなかったんだ」
「でも・・・たった一週間って・・なんとかもう少し延せないの?」
「ダメだ。人の寿命は生まれた時に既に決まっているんだ。これはどうしようもねえ」
「だって・・・だってかわいそうだよ! たった一週間なんて!」
「それがこの子の運命なんだ」
人の寿命という運命は誰にも変えることはできなかった。
「この子のパパとママもかわいそう。一週間だけなんて酷すぎるよ」
「そうだな・・・実はこの夫婦には前にも娘がいたんだけど、六歳の時に亡くしてるんだ」
「えっ! そうなの。それなにのまた・・」
「さあパレル、仕事だ。この子に楽しい思い出を見せてあげろ」
「だって生まれてたった一週間だよ! 思い出なんて何も無いじゃない!」
「そんなこたねえ。さあ」
「・・・ダメだよ。私には無理だよ」
思い出を集めて見せることは、召喚者が若ければ若いほど難しい。記憶の量が少ないためだ。
このような生まれて間もない赤ちゃんはベテランの死神でも難しい仕事だった。
「やるんだパレル! お前しかこの子を救えねえんだ」
「救う? 救うって、どうせこの子死んじゃうんでしょ!」
パレルの目からぽろぽろと涙がこぼれ出した。
「この子を寂しいまま死なせてしまっていいのか?一週間とはいえ、この夫婦に愛情をいっぱい注いでもらったはずだ。その愛情が思い出になるんだ」
パレルは泣いたまま、まだ動けない。
「パレル! お前しかできねえんだよ! やるんだ!」
ジャンクの強い口調にパレルは覚悟を決めた。
「わかったよ・・・」
パレルは涙をぬぐいながら赤ちゃんに顔を近づけて目をつむった。
赤ちゃんの記憶がパレルの頭に入ってくる。
しかし、見える記憶の映像は薄暗くよく見えなかった。
「ジャンク、どうなってんの? 暗いし、ぼやけてよく見えないよ」
「ああ、生まれたばかりだから、まだよく目が見えないんだ」
「見えないって・・・どうすればいいの?」
「声だ。声が聞こえるだろう?」
「声?」
確かに聞こえる。パパとママの声だろう。
とても喜んでいる弾んだ声だ。
薄暗くぼーっとしか顔は見えないけど、両親のいっぱいの愛情が強く伝わってくる。
その溢れてくる愛情を赤ちゃんに伝えるしかない。
「お願い・・・少しでも幸せな気持ちを感じて・・・」
パレルは祈りながら心の中で叫んだ。
その時、薄暗くも微かに見えていた記憶が突然、真っ暗な暗闇になった。
「どうしたんだろう?真っ暗になっちゃった。それに声も聞こえない」
パレルは途方に暮れた。
「ジャンク、どうしよう? 何も見えないよ」
呼びかけたがジャンクからの返事は無い。
しばらくすると、突然、記憶が再び映り始めた。
「よかった。見えてきた」
パレルはホッとしてあたりを見渡した。
そこには広い芝生が生い茂り、まわりの花壇には色とりどりの花が咲き乱れていた。
どこかの家の庭だろう。とても綺麗だ。
「パパとママが二人で笑ってる」
どうやら両親とボール遊びをしているようだ。
「あれ? そう言えばこの子、目が見えてる? それに生まれて間もないはずなのにもう歩いてるし、何で外で遊んでるんだろ?」
家の窓ガラスに姿が映った。それは赤ちゃんではなく、五,六歳の幼い女の子だった。
どうやらこの記憶はさっきの赤ちゃんのものではないようだ。
「誰? これ?」
「パレル、大丈夫か?」
ようやくジャンクの声が聞こえた。
「ジャンク、どういうこと? わけわかんないよ。これ、誰の記憶?」
「ああ、たまにあるんだ。生まれたばかりの赤ちゃんは前世の記憶が残っていることが多いんだよ」
「え? じゃあこれ・・・この赤ちゃんの前世の記憶ってこと?」
「そうだな」
「でも変だよ。パパとママはさっきと同じ人だよ」
ジャンクはしばらく黙っていた。
「どうしたのジャンク?」
ようやくジャンクの口が開いた。
「この赤ちゃんな・・・以前亡くなったという前の娘さんの生まれ変わりだ。この記憶、その子のだよ」
何それ? 生まれ変わりっていうことは、同じパパとママのところに生まれ変わることができたの? え? でもまたすぐに死んじゃうってこと?」
「そうだ・・・」
「そうだじゃないよ! そんなの酷すぎるよ! ダメだよそんなの!」
「これがその子の運命なんだ・・・」
「運命って何? そんな酷い運命、誰が決めたのよ!」
「神様に決まってるだろ」
「じゃあ私、神様に文句言ってくる! 頼んでみる! この子死なせない!」
「無茶言うな、パレル」
「私、もう試験落っこちてるから何も怖いものないもん!」
「ダメだ! 決められた運命はもう変えられない!」
「だって・・・だって可哀そうだよ・・・せっかく生まれ変われたんだよ・・・」
パレルの声が涙でかすれる。そしてその涙はパレルの頬を溢れんばかりに覆った。
あまりにも非情な運命に対し、パレルは何もできない自分が悲しく、何よりも悔しかった。
記憶は何も知らずに楽しそうにボールを追いかけて遊んでいる。
『優奈!』
母親がこの子の名前を呼んだ。
「優奈?・・・」
この名前がパレルの脳裏に突き刺さる。
「え?・・・あれ?」
その響きはパレルの心の奥底にあった記憶の塊をゆっくりと溶かし始めた。
「ゆうな・・・ゆうな?・・・」
「この家・・・この庭・・・憶えてる・・」
まるで雪溶け水が流れ出した川のように、溶かされた記憶がどんどん溢れ出てくる。
「優奈、私の名前だ! これ私の記憶だ!」
そう、これはパレルの前世の記憶。
この子はパレルの前世だった。
パレルの記憶が甦る。
パレルは思い出した。
パレルが誰よりも大好きだったパパとママだ。二人が今、目の前にいる。
「パパ! ママ!」
声にはならない。
けれど心の中で大声で叫んだ。
「パパ、ママ、私だよ! 優奈だよ!」
パレルはパパのママに抱きつこうと二人のほうへ行こうとする。
しかし体は振り返り、なぜか反対のほうへと向かった。
「えっ、何? そっちじゃないよ」
遊んでいたボールがてんてんと転がっていく。
そして、そのボールは庭から飛び出し、外の道路へと転がっていった。
映像(きおく)はそのボールを追いかける。
「あっダメ! そっちへ行っちゃ!」
もちろん声なんか出ない。
でもパレルは心の中で呼びかけ続ける。
『優奈っ! 止まって!』
母親の叫ぶ声が聞こえる。
「ダメだってば!」
パレルは懸命に止めようとするが、その体は全く言うことを利かない。
記憶はそのままボールを追いかけて道路へと飛び出した。
「あぶないっ!」
記憶が転がっていたボールを手に取った瞬間、視界は大きな影に覆われた。
すぐ横を見ると、目の前の大きなトラックが獣のように襲いかかってきていた。
体は凍りついたように全く動かない。
『優奈っあああ!』
母親の悲鳴のような叫び声が響いた。
次の瞬間、記憶は真っ暗になった・・。
「パパ、ママ、ごめんなさい。私、何もできずに・・・なんにも親孝行できずに・・・死んじゃったんだ・・・」
しばらくの間、真っ暗な闇の時が続いた。
パレルは心の中でパパとママにずっと謝り続けた。
すると、パレルの目の中のその闇の奥に小さな光が見え始めた。
そしてだんだんと広がっていく。
それはまたたく間に大きくなり、眩い光と共に一気に視界が開けた。
「まぶしいっ!」
しばらくすると徐々に光にも慣れ、あたりが見えてきた。
すると目の前にパパとママの顔が映っていた。
「あれ? ここ、さっきの病院? パパとママがいる。これ、またあの赤ちゃんの記憶?」
いや、違う。これは記憶ではない。
手と足に感じる感触。肌から感じる暖かさ。明らかにこれは現実だった。
「私、あの赤ちゃんになってる?」
『もう大丈夫ですよ! 奇跡だ!』
横にいた医師が叫んだ。
『よかった! 本当によかった!』
パパとママが泣きながら抱き合って喜んでいるのが見える。
「一体どういうことだろう?」
「おめでとう! やったなパレル!」
「ジャンク、どこ? どこにいるの?」
パレルはジャンクの姿を捜した。でも、どこにも見えなかった。
「お前はもう現世の人間に戻ったからな。俺の姿はもう見えないよ。もうすぐ声も聞こえなくなるだろう」
「どういうこと? これ」
「お前はこの天界研修でトップの成績だったんだ。天使たちを抑えてだぞ。それで特待生に選ばれたんだよ」
「トクタイセイ? 何それ?」
「うーん。簡単に言うと、一所懸命に頑張ったからご褒美を貰えるということかな」
「ご褒美?」
「そうだ。お前はまたパパとママのところに生まれ変われるんだ」
「私、またパパとママの子になれるの?」
「そうだよ、パレル。この赤ちゃんはお前の生まれ変わりだったんだ」
パレルはまだ実感が湧かない。しかし、じんわりと伝わってくる暖かな肌の感触がこれは現実なんだということを教えてくれた。
「よかったな、パレル」
「ありがとう、ジャンク」
「礼なら神様のゼウスに言いな。全てあの人が決めたことだ」
「そうなの? 一度会いたかったな、神様」
「まあ、いづれ会えるさ。まだ随分先の話だがな」
「え?」
「ああ・・・なんでもねえよ」
ジャンクは誤魔化すようにふっと笑った。
「俺、そろそろ行かなきゃ。元気でな、パレル」
「え? ジャンク、行っちゃうの?」
突然の別れの言葉にパレルは驚く。
「ああ、俺にはまだまだいっぱい仕事があるからな」
「ジャンク、また会えるよね?」
「死神に物騒なこと言うんじゃないよ。俺に会う時は死ぬ時だぞ。お前と次に会えるのは確か九十年以上先・・・・おっといけない、これは本人には喋ってはいけない規則だった。まあいいか、この記憶はすぐに消えるだろうし」
「この私の記憶、消えちゃうの?」
「ああ、あと十分程度かな。死神だった時の記憶は全て消える」
「私、ジャンクのことも・・・忘れちゃうの?」
「ああ」
「ジャンクも私のこと・・・忘れちゃう?」
パレルは悲しそうに俯いた。
ジャンクも困ったように下を向いた。
「俺は忘れないよ、お前のこと」
「じゃあ私も忘れない! ジャンクのこと」
パレルは元気いっぱいに笑った。
その輝く笑顔と思わぬ言葉にジャンクは顔を横に逸らした。
目に潤んだものを隠すつもりだったのだろうが、その姿はパレルにはもう見えない。
「あのなパレル・・・実は・・・」
「なあに?」
「・・・いや、何でもない」
ジャンクは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ありがとな。お前の笑顔はどんな天使よりも天使らしいよ」
ジャンクはめいっぱい平然を装った。涙を悟られぬように。
「あれ? もしかして、ジャンク泣いてるの?」
「・・・泣いてねえよ!」
「相変わらず嘘が下手ね、ジャンク。また泣いてるんだ」
聞き覚えのある女性の声が後ろから聞こえた。
姿は見えないがクレアの声だ。
「え? もしかしてクレアさん?」
「よかったわね、パレル。おめでとう!」
「ありがとうございます。クレアさん」
「おめでとうございますパレルさん。すごいです。全研修生でトップなんて!」
クライネスの声だ。
「ありがとう、クライネス」
「ジャンクはね、以前あなたが死んだ時に、それはもう大変だったのよ・・・」
「クレア、余計なこと言うな!」
慌ててジャンクが止めた。
「え? 私が以前、死んだ時って何?」
「ジャンク、あなたパレルに何も話してないの?」
ジャンクは黙ったまま背けた。
「どういうことですか?」
「私とジャンクはね、あなたが以前に召喚、つまり死んだ時の担当だったの」
「え?」
思いもしなかったクレアの言葉にパレルは固まった。
「すまねえパレル。黙ってて」
ようやくジャンクが口を開いた。
「お前が車に轢かれて死んだ時、俺はお前のすぐそばにいたんだ」
「うそ? ジャンクが私の死んだ時の・・・」
「ああ、本当だ。でもその時、俺はお前にいい思い出を見せてやることができなかった。俺が下手くそのせいでな」
確かにパレルには死んだあとの記憶がほとんど無かった。
「召喚する時にいい思い出が見ることができないと魂が不安定になるんだ。特に子供はな。天使試験の成績が悪かったのもそのせいだよ。本当にすまなかった」
しばらくパレル黙っていた。
しかし、クスっと小さく笑ったあと、ゆっくりと首を横に振った。
「ジャンクのことだから、どうせクレアさんにでも見惚れてボーっとしてたんでしょ?」
「ばかやろう!そんなわけねえだろ!」
「フフっ、いいよ謝らなくて。死神、けっこう楽しかったよ。ジャンクにも会えたしさ」
「ありがとうな、パレル。そう言ってもらると俺も・・・」
ジャンクは俯きながら静かに笑った。
「もう時間だな。そろそろお別れだ、パレル」
「またいつか会おうね。絶対に」
「ハハ、そうだな・・・百年くらい未来でな。ヨボヨボのおばあちゃんになったお前を迎えに来てやる」
「うん、待ってるよ!」
「ああ、もう車の前に飛び出すんじゃないぞ。パパとママに親孝行しろよ」
「ジャンクも美人の天使にデレデレすんなよ! 死神のプライド持ってね!」
「うるせえな、分かってるよ。じゃあ元気でな」
「うん。ジャンクも元気でね」
「俺はもう死んでるけどな」
「ふふ、そうだった」
「今度は幸せになるのよ、パレル!」
「がんばって下さい、パレルさん!」
クレアとクライネスが最後の別れの言葉を掛ける。
「ありがとうクレアさん、クライネス。さようなら」
声がだんだんと小さくなり、聞こえなくなってきた。
もう残された時間は僅かだ。
「ありがとう! またね、ジャンク!」
パレルはめいっぱいに叫んだ。
それを聞いたジャンクは最後に大声で叫んだ。
「生きろパレル! 達者でな!」
「ここだ」
「今日もまた病院?」
「ああ、そうだ」
その病院の中に入ると、手術台の上で赤ちゃんが手術を受けていた。
そのすぐ横で若い夫婦が手術着を着て立ち会っている。
この赤ちゃんの両親だ。
赤ちゃんの意識は無い。
母親は顔を伏せたまま泣いていた。
もうこれが最期ということなのだろう。
「ジャンク、まさかこの赤ちゃんが?」
「そうだ・・・」
「そうだって・・・この子、まだ生まれたばかりじゃないの?」
「ああ、生後一週間しかたってない」
「どうして?」
「出産の時に母体にトラブルがあってな。正常な分娩じゃなかったんだ」
「でも・・・たった一週間って・・なんとかもう少し延せないの?」
「ダメだ。人の寿命は生まれた時に既に決まっているんだ。これはどうしようもねえ」
「だって・・・だってかわいそうだよ! たった一週間なんて!」
「それがこの子の運命なんだ」
人の寿命という運命は誰にも変えることはできなかった。
「この子のパパとママもかわいそう。一週間だけなんて酷すぎるよ」
「そうだな・・・実はこの夫婦には前にも娘がいたんだけど、六歳の時に亡くしてるんだ」
「えっ! そうなの。それなにのまた・・」
「さあパレル、仕事だ。この子に楽しい思い出を見せてあげろ」
「だって生まれてたった一週間だよ! 思い出なんて何も無いじゃない!」
「そんなこたねえ。さあ」
「・・・ダメだよ。私には無理だよ」
思い出を集めて見せることは、召喚者が若ければ若いほど難しい。記憶の量が少ないためだ。
このような生まれて間もない赤ちゃんはベテランの死神でも難しい仕事だった。
「やるんだパレル! お前しかこの子を救えねえんだ」
「救う? 救うって、どうせこの子死んじゃうんでしょ!」
パレルの目からぽろぽろと涙がこぼれ出した。
「この子を寂しいまま死なせてしまっていいのか?一週間とはいえ、この夫婦に愛情をいっぱい注いでもらったはずだ。その愛情が思い出になるんだ」
パレルは泣いたまま、まだ動けない。
「パレル! お前しかできねえんだよ! やるんだ!」
ジャンクの強い口調にパレルは覚悟を決めた。
「わかったよ・・・」
パレルは涙をぬぐいながら赤ちゃんに顔を近づけて目をつむった。
赤ちゃんの記憶がパレルの頭に入ってくる。
しかし、見える記憶の映像は薄暗くよく見えなかった。
「ジャンク、どうなってんの? 暗いし、ぼやけてよく見えないよ」
「ああ、生まれたばかりだから、まだよく目が見えないんだ」
「見えないって・・・どうすればいいの?」
「声だ。声が聞こえるだろう?」
「声?」
確かに聞こえる。パパとママの声だろう。
とても喜んでいる弾んだ声だ。
薄暗くぼーっとしか顔は見えないけど、両親のいっぱいの愛情が強く伝わってくる。
その溢れてくる愛情を赤ちゃんに伝えるしかない。
「お願い・・・少しでも幸せな気持ちを感じて・・・」
パレルは祈りながら心の中で叫んだ。
その時、薄暗くも微かに見えていた記憶が突然、真っ暗な暗闇になった。
「どうしたんだろう?真っ暗になっちゃった。それに声も聞こえない」
パレルは途方に暮れた。
「ジャンク、どうしよう? 何も見えないよ」
呼びかけたがジャンクからの返事は無い。
しばらくすると、突然、記憶が再び映り始めた。
「よかった。見えてきた」
パレルはホッとしてあたりを見渡した。
そこには広い芝生が生い茂り、まわりの花壇には色とりどりの花が咲き乱れていた。
どこかの家の庭だろう。とても綺麗だ。
「パパとママが二人で笑ってる」
どうやら両親とボール遊びをしているようだ。
「あれ? そう言えばこの子、目が見えてる? それに生まれて間もないはずなのにもう歩いてるし、何で外で遊んでるんだろ?」
家の窓ガラスに姿が映った。それは赤ちゃんではなく、五,六歳の幼い女の子だった。
どうやらこの記憶はさっきの赤ちゃんのものではないようだ。
「誰? これ?」
「パレル、大丈夫か?」
ようやくジャンクの声が聞こえた。
「ジャンク、どういうこと? わけわかんないよ。これ、誰の記憶?」
「ああ、たまにあるんだ。生まれたばかりの赤ちゃんは前世の記憶が残っていることが多いんだよ」
「え? じゃあこれ・・・この赤ちゃんの前世の記憶ってこと?」
「そうだな」
「でも変だよ。パパとママはさっきと同じ人だよ」
ジャンクはしばらく黙っていた。
「どうしたのジャンク?」
ようやくジャンクの口が開いた。
「この赤ちゃんな・・・以前亡くなったという前の娘さんの生まれ変わりだ。この記憶、その子のだよ」
何それ? 生まれ変わりっていうことは、同じパパとママのところに生まれ変わることができたの? え? でもまたすぐに死んじゃうってこと?」
「そうだ・・・」
「そうだじゃないよ! そんなの酷すぎるよ! ダメだよそんなの!」
「これがその子の運命なんだ・・・」
「運命って何? そんな酷い運命、誰が決めたのよ!」
「神様に決まってるだろ」
「じゃあ私、神様に文句言ってくる! 頼んでみる! この子死なせない!」
「無茶言うな、パレル」
「私、もう試験落っこちてるから何も怖いものないもん!」
「ダメだ! 決められた運命はもう変えられない!」
「だって・・・だって可哀そうだよ・・・せっかく生まれ変われたんだよ・・・」
パレルの声が涙でかすれる。そしてその涙はパレルの頬を溢れんばかりに覆った。
あまりにも非情な運命に対し、パレルは何もできない自分が悲しく、何よりも悔しかった。
記憶は何も知らずに楽しそうにボールを追いかけて遊んでいる。
『優奈!』
母親がこの子の名前を呼んだ。
「優奈?・・・」
この名前がパレルの脳裏に突き刺さる。
「え?・・・あれ?」
その響きはパレルの心の奥底にあった記憶の塊をゆっくりと溶かし始めた。
「ゆうな・・・ゆうな?・・・」
「この家・・・この庭・・・憶えてる・・」
まるで雪溶け水が流れ出した川のように、溶かされた記憶がどんどん溢れ出てくる。
「優奈、私の名前だ! これ私の記憶だ!」
そう、これはパレルの前世の記憶。
この子はパレルの前世だった。
パレルの記憶が甦る。
パレルは思い出した。
パレルが誰よりも大好きだったパパとママだ。二人が今、目の前にいる。
「パパ! ママ!」
声にはならない。
けれど心の中で大声で叫んだ。
「パパ、ママ、私だよ! 優奈だよ!」
パレルはパパのママに抱きつこうと二人のほうへ行こうとする。
しかし体は振り返り、なぜか反対のほうへと向かった。
「えっ、何? そっちじゃないよ」
遊んでいたボールがてんてんと転がっていく。
そして、そのボールは庭から飛び出し、外の道路へと転がっていった。
映像(きおく)はそのボールを追いかける。
「あっダメ! そっちへ行っちゃ!」
もちろん声なんか出ない。
でもパレルは心の中で呼びかけ続ける。
『優奈っ! 止まって!』
母親の叫ぶ声が聞こえる。
「ダメだってば!」
パレルは懸命に止めようとするが、その体は全く言うことを利かない。
記憶はそのままボールを追いかけて道路へと飛び出した。
「あぶないっ!」
記憶が転がっていたボールを手に取った瞬間、視界は大きな影に覆われた。
すぐ横を見ると、目の前の大きなトラックが獣のように襲いかかってきていた。
体は凍りついたように全く動かない。
『優奈っあああ!』
母親の悲鳴のような叫び声が響いた。
次の瞬間、記憶は真っ暗になった・・。
「パパ、ママ、ごめんなさい。私、何もできずに・・・なんにも親孝行できずに・・・死んじゃったんだ・・・」
しばらくの間、真っ暗な闇の時が続いた。
パレルは心の中でパパとママにずっと謝り続けた。
すると、パレルの目の中のその闇の奥に小さな光が見え始めた。
そしてだんだんと広がっていく。
それはまたたく間に大きくなり、眩い光と共に一気に視界が開けた。
「まぶしいっ!」
しばらくすると徐々に光にも慣れ、あたりが見えてきた。
すると目の前にパパとママの顔が映っていた。
「あれ? ここ、さっきの病院? パパとママがいる。これ、またあの赤ちゃんの記憶?」
いや、違う。これは記憶ではない。
手と足に感じる感触。肌から感じる暖かさ。明らかにこれは現実だった。
「私、あの赤ちゃんになってる?」
『もう大丈夫ですよ! 奇跡だ!』
横にいた医師が叫んだ。
『よかった! 本当によかった!』
パパとママが泣きながら抱き合って喜んでいるのが見える。
「一体どういうことだろう?」
「おめでとう! やったなパレル!」
「ジャンク、どこ? どこにいるの?」
パレルはジャンクの姿を捜した。でも、どこにも見えなかった。
「お前はもう現世の人間に戻ったからな。俺の姿はもう見えないよ。もうすぐ声も聞こえなくなるだろう」
「どういうこと? これ」
「お前はこの天界研修でトップの成績だったんだ。天使たちを抑えてだぞ。それで特待生に選ばれたんだよ」
「トクタイセイ? 何それ?」
「うーん。簡単に言うと、一所懸命に頑張ったからご褒美を貰えるということかな」
「ご褒美?」
「そうだ。お前はまたパパとママのところに生まれ変われるんだ」
「私、またパパとママの子になれるの?」
「そうだよ、パレル。この赤ちゃんはお前の生まれ変わりだったんだ」
パレルはまだ実感が湧かない。しかし、じんわりと伝わってくる暖かな肌の感触がこれは現実なんだということを教えてくれた。
「よかったな、パレル」
「ありがとう、ジャンク」
「礼なら神様のゼウスに言いな。全てあの人が決めたことだ」
「そうなの? 一度会いたかったな、神様」
「まあ、いづれ会えるさ。まだ随分先の話だがな」
「え?」
「ああ・・・なんでもねえよ」
ジャンクは誤魔化すようにふっと笑った。
「俺、そろそろ行かなきゃ。元気でな、パレル」
「え? ジャンク、行っちゃうの?」
突然の別れの言葉にパレルは驚く。
「ああ、俺にはまだまだいっぱい仕事があるからな」
「ジャンク、また会えるよね?」
「死神に物騒なこと言うんじゃないよ。俺に会う時は死ぬ時だぞ。お前と次に会えるのは確か九十年以上先・・・・おっといけない、これは本人には喋ってはいけない規則だった。まあいいか、この記憶はすぐに消えるだろうし」
「この私の記憶、消えちゃうの?」
「ああ、あと十分程度かな。死神だった時の記憶は全て消える」
「私、ジャンクのことも・・・忘れちゃうの?」
「ああ」
「ジャンクも私のこと・・・忘れちゃう?」
パレルは悲しそうに俯いた。
ジャンクも困ったように下を向いた。
「俺は忘れないよ、お前のこと」
「じゃあ私も忘れない! ジャンクのこと」
パレルは元気いっぱいに笑った。
その輝く笑顔と思わぬ言葉にジャンクは顔を横に逸らした。
目に潤んだものを隠すつもりだったのだろうが、その姿はパレルにはもう見えない。
「あのなパレル・・・実は・・・」
「なあに?」
「・・・いや、何でもない」
ジャンクは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ありがとな。お前の笑顔はどんな天使よりも天使らしいよ」
ジャンクはめいっぱい平然を装った。涙を悟られぬように。
「あれ? もしかして、ジャンク泣いてるの?」
「・・・泣いてねえよ!」
「相変わらず嘘が下手ね、ジャンク。また泣いてるんだ」
聞き覚えのある女性の声が後ろから聞こえた。
姿は見えないがクレアの声だ。
「え? もしかしてクレアさん?」
「よかったわね、パレル。おめでとう!」
「ありがとうございます。クレアさん」
「おめでとうございますパレルさん。すごいです。全研修生でトップなんて!」
クライネスの声だ。
「ありがとう、クライネス」
「ジャンクはね、以前あなたが死んだ時に、それはもう大変だったのよ・・・」
「クレア、余計なこと言うな!」
慌ててジャンクが止めた。
「え? 私が以前、死んだ時って何?」
「ジャンク、あなたパレルに何も話してないの?」
ジャンクは黙ったまま背けた。
「どういうことですか?」
「私とジャンクはね、あなたが以前に召喚、つまり死んだ時の担当だったの」
「え?」
思いもしなかったクレアの言葉にパレルは固まった。
「すまねえパレル。黙ってて」
ようやくジャンクが口を開いた。
「お前が車に轢かれて死んだ時、俺はお前のすぐそばにいたんだ」
「うそ? ジャンクが私の死んだ時の・・・」
「ああ、本当だ。でもその時、俺はお前にいい思い出を見せてやることができなかった。俺が下手くそのせいでな」
確かにパレルには死んだあとの記憶がほとんど無かった。
「召喚する時にいい思い出が見ることができないと魂が不安定になるんだ。特に子供はな。天使試験の成績が悪かったのもそのせいだよ。本当にすまなかった」
しばらくパレル黙っていた。
しかし、クスっと小さく笑ったあと、ゆっくりと首を横に振った。
「ジャンクのことだから、どうせクレアさんにでも見惚れてボーっとしてたんでしょ?」
「ばかやろう!そんなわけねえだろ!」
「フフっ、いいよ謝らなくて。死神、けっこう楽しかったよ。ジャンクにも会えたしさ」
「ありがとうな、パレル。そう言ってもらると俺も・・・」
ジャンクは俯きながら静かに笑った。
「もう時間だな。そろそろお別れだ、パレル」
「またいつか会おうね。絶対に」
「ハハ、そうだな・・・百年くらい未来でな。ヨボヨボのおばあちゃんになったお前を迎えに来てやる」
「うん、待ってるよ!」
「ああ、もう車の前に飛び出すんじゃないぞ。パパとママに親孝行しろよ」
「ジャンクも美人の天使にデレデレすんなよ! 死神のプライド持ってね!」
「うるせえな、分かってるよ。じゃあ元気でな」
「うん。ジャンクも元気でね」
「俺はもう死んでるけどな」
「ふふ、そうだった」
「今度は幸せになるのよ、パレル!」
「がんばって下さい、パレルさん!」
クレアとクライネスが最後の別れの言葉を掛ける。
「ありがとうクレアさん、クライネス。さようなら」
声がだんだんと小さくなり、聞こえなくなってきた。
もう残された時間は僅かだ。
「ありがとう! またね、ジャンク!」
パレルはめいっぱいに叫んだ。
それを聞いたジャンクは最後に大声で叫んだ。
「生きろパレル! 達者でな!」