翌日の放課後、私は廃ホテルへ向かう。

昨日一晩考えても揺るがなかった気持ちを伝えるために。

「やあ」

 おじさんはすでに噴水に腰掛けていた。手には、ノートとハンカチを持っていた。

「こんにちは」
「あ、忘れないうちに。はい、これ」

私が彼の横に座ると、ハンカチを差し出された。可愛らしいレースがあしらわれている、見るからに高価そうなハンカチだった。

「これ、時田君から。よくわからないけど、ハンカチのお礼だって。 昨日ここで、ずっと君のことを待ってたんだよ」
「えっ……。昨日は朋君と話をしてたから、ここに来れなかったんです。悪いことしちゃったな……」
「そうそう。昨日あまりにも待ってるもんだから、『今日は用事があるって言ってたから、明日には来るよ』って教えたら、『おじさん渡しといてください』って言って逃げたよ。時田君、気が弱そうな子だね」

おじさんはけらけら笑って、ハンカチをずいっと差し出す。もったいなくて使えなさそうなくらいきれいなハンカチで、お節介を焼いてしまったことを後悔しながら受け取った。

「で? 朋君との話はうまくいった?」

いよいよ聞かれてしまった。手に持つハンカチに、力がこもる。

「……はい。好きだって。付き合ってほしいって、言われました」
「……そっか」

さっきまで笑顔だったおじさんの顔が引き締められて、それからすぐにふにゃっと緩められた。

「高校生っていいねー、青春だね! 彼氏できてよかったね」
「断りました」
「え?」
「朋君のこと、好きだけどそういうのじゃないってわかったから、断りました」
「えええええええ!?」

おじさんはなぜか自分のことのようにショックを受け、頭を抱えた。今日は左の髪の毛がぴょこんと跳ねていた。

「なんでさ!」
「だって私、おじさんが好きだもん」
「ふぁあ!?」

おじさんが間抜けな声をあげる。ふぁあって、言葉にすると可愛いのに、おじさんが言うとちっとも可愛くなくて、少し笑える。

「一晩考えけど、私はおじさんが好き。だけどおじさんには大切な人がいるから、付き合いたいとは思わないよ。ただ、好きって伝えたかっただけ。だって、明日会える保証はないから。言わないと後悔するから。……でしょ?」

ちらりとおじさんのほうを見ると、おじさんの顔はトマトみたいに真っ赤になっていた。

本気で照れているのか、目がきょろきょろ泳いだあと、はあと息を吐いて両手で自分の顔を覆った。相当うろたえているらしい。

「高校生まぶしいよー、直視できないよー」
「ちょっと、真面目に言ったんだから茶化さないでくれます?」
「ごめん、茶化してないよ。いやね、照れるよ。嬉しい、ありがとう。……好きだなんて、すっごく……ハッピーな単語だよね……」

顔を隠したままのおじさんは、どんな表情をしているかわからない。だけど、声は震えていた。とてもハッピーな様子には見えない。

「本当にね、すごくうれしいんだ……。ごめんね、本当にごめんね」
「いいんです。私がおじさんに出会うのが遅かったのが悪いんだし。……って、出会うのが早くても、おじさんが高校生のころ私まだ小学生か。どっちにしろだめじゃん」
「……ごめんね。心春ちゃんはなんにも悪くないんだよ」

おじさんはしばらく黙った。顔を覆ったままだから、もしかしたら泣いているのかもしれない。

私はおじさんの、穏やかに笑う顔、真剣な顔、悲しそうな微笑み、それだけしか知らない。もっと知りたかった。私が、もっといろんな表情をさせたかった。

おじさんが顔をあげて、空を見上げる。放置されている木々が高く伸びていて、群青色の空は遠くて狭い。

「僕の奥さんはね、もう死んじゃったんだ」

おじさんはその辺にあった薔薇の花から、花びらを一枚むしった。赤色のそれは、彼の奥さんに対する愛を表しているようだった。

私は何も言えなくて、唇をきつく結ぶ。鈍い痛みと共に、血の味が口に広がる。その赤は、薔薇の花の美しさには勝てない。

「もっと好きだって言えばよかったとか、もっと抱きしめればよかったとか、後悔は尽きないけれど……」
「……はい」
「一番は、僕のせいで死なせてしまったこと」
「……え?」

おじさんは、薔薇の花びらを噴水に溜まっている水に浮かべた。

枯葉や虫の死骸が浮かんだり沈殿したりしている濁った赤褐色の水に、赤はまぶしいくらいに映えていた。