一日で一番楽しみな時間は放課後だ。
「心春(みはる)、一緒に帰んぞ」
部活が終わり帰り支度をしていると、肩に衝撃が走る。反射的に「痛っ」と言いながら見上げると、幼なじみの朋君が不機嫌そうな顔をして、私の肩に手を置いていた。
「あー、今日はむり!」
「なんでだよ。最近付き合い悪くね?」
「ごめん、また今度誘って!」
「今度誘ってもどうせ断るんだろ」
「あはは、そんなことないかもよ?」
「うっせ、じゃーな」
朋君は肩に置いていた手を離して、私の腕をバシッと叩く。そしてそのままひらひらと手を振ったので、私も振り返す。
私と朋君は家が近くて昔から仲の良い、いわゆる『幼馴染』というやつで、自動的に登下校を共にしていた。しかし最近はその慣習も終わりつつある。
放課後、私はひとりで行きたい場所があるからだ。誰にも教えるつもりはない、秘密の場所。
学校を出て左に曲がって、カビ臭いガード下をなるべく息を止めて進む。通り終わったら細いわき道に進み、林道をしばらく歩いていくと、廃ホテルへたどり着く。
ガラス片に気をつけながらホテルの外周をぐるりと回る。腐食した扉を開けて建物の中に入ったり出たりを繰り返してジグザグに歩いていると、小さな噴水がある庭園に到着した。
昔はここで人を癒やしてきたのであろう、ロココ時代を思わせるような繊細かつ優美な彫刻がなされた噴水は、今はただの雨の受け皿となっている。
その周りには薔薇などの上品な花が咲き乱れており、剪定されず伸び放題になったそれらは逆に芸術品を思わせる雰囲気がある。
ベンチはふたつほどあるが、雨風に晒されているせいかところどころ腐っており、虫の住処となっているため座る勇気はない。
落書きやタバコの吸い殻、鳥の糞などで汚れた建物の真ん中にぽつりとあるこの庭は、ここだけ時が止まっているかのような美しさがあった。
私だけが見つけた、秘密の場所だった。
日が暮れるまでこの噴水に腰掛けて、宿題をしたり音楽を聴いてぼんやりする時間が、今は一番大好きなのだ。
でも、今日は違うらしい。
「あれ……先客かな」
いつものようにのんびり宿題をしながら過ごしていると、困惑したような情けない声を発した男性が、寝癖のついた頭を掻きながらやってきた。
「……!」
非日常的な空間に私以外の人が現れるなんて思ってもいなかったので、おばけに遭遇してしまったかのように心臓が大きく跳ねて、言葉を失った。
「ごめんね、邪魔した?」
「あっ、いえ! だ、大丈夫です!」
男性は穏やかな笑みを浮かべながら自然な動作で隣に座るので、慌てて腰を浮かしながら彼の顔をまじまじと見つめた。
無精ひげが生えていて、髪の毛は無造作に伸びている。目には黒いクマがある。寝巻にでもできそうなジャージを着ていて、年齢は20代後半から30代前半くらいだろうか。
なんだか全体的に野暮ったくて、不審者オーラぷんぷんだ。
「ここはね、僕の家が所有してる土地なんだ」
「あ、そうなんですね! すみません、もう二度と来ません……」
一刻も早く立ち去ろうとすると、「待って!」と、背中を叩くような大声がした。恐怖と緊張のせいで、足が地面に縫い付けられたように動かない。なんとか首だけを動かして、後ろを向いた。
青白い顔をした男性の、暗い目と目が合った。
「別に帰らなくていい。君はこの場所が好きなんだろう?」
「……え?」
「僕もここが好きなんだ。時間が止まってしまったような、まるで過去にタイムスリップでもしてしまったかのような、不思議なところだから。ここにいると、現実を忘れることができるよね」
「……!」
初対面の相手なのに、その手をとって全力でうなずきたい衝動に駆られた。
私が思っていることを言い当てたみたいに、男性の考えは私と同じだった。先程まで不審者だと思っていたが、自分の感性と似ていると分かると途端に親近感を抱いてしまった。
「あの、私もそう思っています。ここにいると、将来のこととか考えなくて良いような気がするから、こころが落ち着くんです」
男性の隣に再び腰かける。それを見た彼は安心したのか、柔和な表情を浮かべた。
「一緒だね。……僕は君くらいの時からここを知ってるんだよ。高校生の頃はそれこそ毎日のように来ていたけれど、最近は忙しくてね。久しぶりに来たけれど、やっぱりここはいいね」
「えっ、そんな前からここに……?」
「そんな前って言ったって、僕が学生の頃だから……ああ、もう10年ほど前のことになるのか……。僕も老けたな」
「あはは」
男性がおどけた口調で言うので、私も自然と笑顔になる。
10年ほど前が高校生なら、私の読み通り30歳前後の人なのだろう。
いつもの私なら大人というだけで身構えてしまいそうだけど、彼の放つ穏やかな雰囲気のせいかそれほど緊張しない。
「えっと、心春(みはる)ちゃんはー……」
「え? どうして私の名前を?」
自己紹介はしていないはずだ。
男性はしまった! というような顔をして、口元を手で隠した。無言でじっと見つめてみると、観念したかのように墨汁で塗ったような黒髪をぽりぽり掻いた。