あの月が丸くなるまで

 ☆


 それからも、私は上坂のお弁当を作り続けた。

『胃袋つかむのは効果的……と』

 そう真面目な顔でつぶやいた冴子は、うちに来て私や莉奈さんと一緒に料理をするようになった。こころもち小早川先生が太ってきたのは、それと無関係ではないだろう。


 時々、上坂とは出かけたりした。上坂はいつでも優しかったけれど、私に触れることは一切しなかった。だから断じて、デートなんかではない。あくまでも受験勉強の息抜きとして、映画を見に行ったり遊園地に行ったり。予備校や模試の帰り、遅くなるときは必ず家まで送ってくれた。
 
 岡崎さんと上坂は本当に仲がいいみたいで、よく三人で話すこともあった。たまには、上坂と一緒に勉強したりもした。私のわからないことを上坂が教えてくれることもあって……この人、本当は、私より頭いいんじゃないかと思って少しばかり落ち込んだのは内緒だ。


 上坂は、受験をしなかった。

 高校を卒業したらそのままケンジさんの手掛けるプロダクションに就職して、メイクアップアーティストを目指すんだそうだ。まだお父様には承諾をもらってなかったけれど、上坂はもう家を飛び出すことなく、根気よく説得を続けている。お母様と、意外にも松井さんは、上坂の味方らしい。


 そんな上坂は、あいかわらず学校ではみんなの人気者だった。でも、女子と遊びに行くことはなくなった。遊びに行くのも登下校を一緒にするのも、相手は私だけ、になった。青石さんが暴露してくれた賭けの話を聞いていたはずのクラスメイトは、ただ、私たちを静観しているだけだった。青石さんも、私たちを遠巻きに見ているだけで、もう声をかけてくることはなかった。


 自信が欲しくて、上坂にメイクを教えてもらおうとしたこともある。けど、『美希はそのままでいい』といってメイク自体を禁止されてしまった。私だって少しは可愛くなりたいと食い下がったら、困ったように視線をそらして、だめ、と言われた。どうせ代わり映えしない、とその顔が言っているようで、ちょっと傷ついた。やっぱり、ケンジさんレベルは特別なんだ。結局私は、上坂と一緒にいても野暮ったい女子高生のままだった。


 そして。


「……私たちは、この三年間で積み重ねてきた数多くの自信と共に、今日、この学び舎を巣立ちます。そうしてこの歴史ある鷹ノ森高等学校の名に恥じぬよう、胸を張って未来へと邁進してまいります。最後になりましたが、今後ますますの鷹ノ森高等学校の発展と、ご来賓の方々を始め、校長先生、諸先生方、そして在校生の皆様のご健勝とご多幸を祈念し、卒業生の答辞といたします。卒業生代表、梶原美希」

 読み上げた答辞を校長先生に渡した後、体育館中に響く拍手の中で私はゆっくりと段を降りる。


 き、緊張した……

 噛んだらどうしようとか、階段踏み外したらカッコ悪いとか考えてて、答辞を読む間ずっと紙を持つ手が震えていた。

 無事に終わって、よかったあ。


「さすがだな、梶原」

 用意されていた席に戻ると、隣に座っていた高尾先生が拍手しながら迎えてくれた。

「伊達に学年トップを維持してたわけじゃないな。いや、堂々としたもんだ。お前を選んだ俺の目に狂いはなかった」

 高尾先生は学校の主任で、卒業式の担当者だ。こういうのって普通、生徒会の会長とかがやるんだろうけれど、肝心の会長が卒業式を目前に国外逃亡、いや、留学をしてしまったので、1年間学年トップの座を譲らなかった私にお鉢が回ってきたのだ。

「ありがとうございます」

 にっこりとそつのない笑顔を返して、私は椅子に座った。感情が顔に出ないことで、いいこともあるんだ。緊張してたこと、ばれなくてよかった……

 その後、校歌斉唱があって、卒業式は滞りなく終了した。


  ☆


 重い扉を開くと、暖かい風が強く吹き抜けた。

 何度、ランチバックを持ってこの扉を開けただろう。それも、これで最後かあ。そう思うと、古びた扉もどこか感慨深い。でも、今私の手にあるのは、筒に入れられた卒業証書だけ。

 それは、屋上の端っこで下を見ていた上坂も同じだ。


「よ」

 私に気が付いた上坂が、青い空を背にして振り向く。

 その光景に、私が初めて上坂と出逢った日を思い出した。

「卒業、おめでとう」

 私が、風にさらわれたスカートを手で押さえながら言ったら、上坂は笑った。
「そっちも、おめでとう。答辞、めちゃめちゃ緊張してただろ」

「……わかった?」

「わかるよ。階段踏み外さないかと、見ててひやひやした」

「まだ本命の受験が残っているのに、そんな縁起の悪いことできないわよ」

「階段落ちなかったから、きっと受験も大丈夫だよ」

 私は、ゆっくりと上坂に近づいた。


「何、見てたの?」

 上坂の立っていたのは、屋上のフェンスのそば。隣に立って、私も同じように下をながめる。眼下には、昇降口から溢れる卒業生と在校生、それに保護者が、校門に向かってうねる波のように流れていた。

「俺、この高校に来て、本当によかったなあって」

「そ?」

「うん。美希に、会えた」

 私は、隣の上坂を仰ぎ見る。上坂も、穏やかな表情で私を見下ろしていた。


「もとといえば、ここらじゃ名門だからって親に決められた学校だった。入学した時はなんの感慨もなくて、ただ大学に行くための通り道、くらいにしか思ってなかったんだ。けど、ここでお前に会えた」 

 細められた目を、じ、と見返す。


 以前は、こんな大人びた顔つきで笑うことなんてなかった。未来を自分で決めた上坂は、時々こんな顔をするようになった。

「美希に会えたから、俺は自分の本当にやりたいことをあきらめなくて済んだんだ。感謝してもしきれない。ありがとう」

「私と会えなくても、いつかは自分で選んだ道かもしれないわよ?」

「かもしれない。でも、今ここに立っている俺は、美希という存在がなかったらいなかった。……美希」

 上坂が、真っ直ぐに私を向いて、真面目な顔になった。


「次にお前に会う時には、俺は一人前のメイクアップアーティストだ」

「……うん」

「親父は、まだ俺がメイクアップアーティストになることを許してはくれていない。だから俺、卒業したら家からも……美希からも離れて、本気でやってみる」

 私は、ただ黙ってその言葉を聞いていた。おそらく最後になるだろうその言葉を、一言も聞き漏らさないように。


 学業もヘアメイクの勉強も、上坂は立派に両立させてきた。けれど、実績を持たない今の状態では、お父様は上坂のことを決して認めてくれない。

 もうすぐ、私は夢に向かって一歩を踏み出す。だから上坂にも、どうしても彼の夢をその手に入れて欲しい。


「誰にも文句のつけられないようなメイクアップアーティストになってみせるから……美希。それまで、待ってて。誰のものにもならないで」

 予想外の言葉に、私は目を見開いた。てっきり待っているのは、さよならだけだと思ってたから。

「……どうせ……」

「ん?」

「きれいな女の人に囲まれてちやほやされたら、きっと私のことなんか忘れちゃうわよ」

 違う。そんなことが言いたいんじゃないのに。うまい言葉が出てこない。相変わらず私の恋愛偏差値は低いままらしい。

 上坂は、困ったように笑った。


「絶対に忘れない。信じて……と俺が言っても、今さらだよな。けど俺はずっと、美希のこと、想っているよ」

 じ、と見上げていると、上坂はためらいながらその体をかがめて顔を近づけてきた。目を閉じないままの私の額に、上坂は誓うようにそっと口づける。

「約束。美希だけが好きだよ。いつか迎えに行く日まで、それだけ、憶えていて」


 この一年近く、上坂はずっと、野暮ったい私の傍にいてくれた。私に嫌な思いをさせるからって、他の女子と遊びに行くことをやめてくれた。そんな上坂の気持ちが、信じられないわけないじゃない。

 大事にしてくれているのはわかっている。

 でもさ、上坂。


 目の前にあった少し切なげに笑うその唇に、私は背伸びして、自分の唇を押し付けた。

「!!」

「約束ってのは、こういう風にするのよ」

 真ん丸な目をした上坂を、下からにらみつける。

「私がいつまでも待っているなんて思ったら、大間違いだからね。さっさと夢を叶えて会いにきなさいよ。でないと、先に私が自分の夢を叶えて、百年後にはあんたのことなんかきれいさっぱり忘れちゃうんだから」

「……美希」

「なによ」

「顔、真っ赤」

 満面の笑みで言った上坂にさらに文句を言おうとしたら、ぐい、と体ごと持っていかれた。抗議の声は、そのまま上坂の唇に飲み込まれる。


 遠くで最後のチャイムがなっていた。

 そうして私たちは、高校生活を卒業して、それぞれの道を歩き始めた。
 ぴろりん。


 バッグの中で、軽い音がした。誰だろ。

 カフェでコーヒーを飲んでいた私が携帯を取り出すと、ラインが入っていた。

『今夜、暇?』

 シンプルなメッセージに、私もシンプルに返信をする。

『同級会』

『高校の?』

『そう』

『なら、明日は暇?』 

 私は一つため息をついた。

『死ぬまで忙しい』

 すると、爆笑しているスタンプが返ってきた。

『わかった。誘うのは諦めるから後ろ向いて』

 後ろ?

 反射的に振り向くと、カフェの入り口で岡崎さんが手を振っていた。


「姿が見えたから。ご一緒していい?」

「ごゆっくり。私、もう帰るとこだから」

 私が立とうとすると、さ、と岡崎さんが一冊の雑誌をテーブルの上に出す。

「明日発売の最新号。チェックしていかない?」

「……」

 浮かしかけた腰をまた椅子に戻すと、岡崎さんはくく、と笑った。

「正直でよろしい」


 自分の分のパスタプレートをテーブルに置くと、岡崎さんは私の正面に座る。私は、ちらりとそのプレートに視線を流した。時間は、午後4時を過ぎている。

「おやつにしちゃ、重いわね。それとも夕飯?」

「とりあえず、昼飯、かな。先生の話が長引いちゃって食べ損ねた。夏休み中だっつーのに呼び出されたと思ったら、実習の後片付け手伝えってさ」

「それは、お疲れ様」

「大槻先生、話が長いんだよ……それはともかく、それ、付箋のついたとこ、見てみて」

 言われて、岡崎さんの持ってきたファッション誌を開いてみると、綺麗なお姉さんたちがいろんなポーズで格好をつけている。まだ夏真っ盛りなのに、もうファッションは秋物なのね。見ているだけで暑苦しい。


「どれだか、わかる?」

 私は無言で、一人のお姉さんを指さした。

「お見事」

 フォークを口にくわえて、岡崎さんはぱちぱちと拍手をする。

「お行儀悪いわよ」

「硬いこと言うなって。こっちはせっかく一人暮らし始めて、ようやく自由を手に入れたんだから」

 岡崎さんが大学近くのマンションで一人暮らしを始めたのは、夏休みに入ってからのことだ。


「ちゃんとご飯食べてるの?」

 つい私が口に出すと、岡崎さんは目を丸くしてからくしゃりと笑った。

「食べてない、って言ったら、美希、作りに来てくれる?」

「餓死してれば?」

「おいおい、それが医療従事者の言葉かよ」

「医者の不養生」

「まだ学生だからいいんだよ」

 そう言って岡崎さんは、パスタの続きを片付けにかかる。その間に私は、そのファッション誌をパラパラめくった。


 うん、だんだん、仕事増えてきているみたい。岡崎さんに教えてもらうまでもなく、私はいくつかそれを見つけることができた。

 パスタを食べ終わった岡崎さんが、コーヒーを飲みながら聞いた。

「誰かと待ち合わせしてた?」

「ここじゃないけどね。冴子と待ち合わせしてるんだけど、ちょっと早く出ちゃったから時間つぶしてた」

「蓮は一緒じゃないの?」

 一瞬だけ、ページをめくる手が止まる。ほんの一瞬だけ。

「上坂とは、クラス違ったもの」

「相変わらず、連絡なしかよ」

 その言葉には、私は答えなかった。


 私は、高校を卒業してから4度目の夏を過ごしていた。その間、私は一度も上坂とは連絡をとっていない。そんな私にそれとなく上坂の様子を知らせてくれるのは、私と同じ大学の医学部に通う岡崎さんだ。国立受けるとは知ってたけど、まさか、岡崎さんと同じ大学に通うことになるとは思わなかった。

 岡崎さんは、たまに上坂と会っているらしい。けれど私は、上坂に当ててメッセージを頼むことはしなかった。向こうから来たこともないから、きっと上坂も同じように考えているんだろう。

 ただ、話のついでに、という振りを装って相手の状況を耳にするだけ。岡崎さんもそのことについては何も言わなかった。


「ま、その方がいいけどね」

「なんで」

「その間に、俺が美希を口説くから」

「橋本研究室の助手」

 とたんに、ぎくりと岡崎さんが肩を揺らすのが分かった。

「な、なんで知ってんだよ?」

「うちの研究室の子が、お友達だったのよ。大変だったみたいね」

 岡崎さんは、うなりながら頭を抱えた。その姿に、少し同情する。
「なんであんなめんどくさいコに手を出したの?」

「しつこいコでさあ……。思い込みも激しいし、これは手出したらヤバいな、と思ったからずっと無視してたんだ。なのに何かとからんでくるからこっちも大概辟易してて。一回だけつきあったらあきらめるってんで、食事しただけ。断じて、手だって繋いでない。なのに、次の日からとたんに彼女面し始めて……大槻先生にまでつきあっているんだろ、って聞かれて、誤解を解くのにすげえ疲れた」

 もしや、今日話が長かったのは、大槻先生じゃなくて岡崎さんの方か。


「ちょいちょいつまみ食いなんかしてるから、そんなのにつけ込まれるのよ。これにこりたら、少しはおとなしくしてたら?」

「俺が一番愛している女が、つきあってくれなくてね。さみしくてつい、あちこち手を出す結果になるんだよ」

「そんな人、いたんだ」

「目の前に」

「じゃ、そろそろ時間だから」

 今度こそ本当に席を立つ。ちょうどいい時間だし。


「蓮から、なにも連絡ない?」

 背中から聞こえた声に、振り返る。岡崎さんは、テーブルに頬杖をついて私を見上げていた。

 どこか、つかみどころのない笑顔で。

「ないけど……なんで?」

「んにゃ。なんでもない」

 そのままひらひらと手を振る。私も軽く手を振り返して、カフェをあとにした。


  ☆


「では、再会を祝して。かんぱーい!!」

「「「かんぱーい!!!」」」

 それを合図に、めいめいが話し始めていっきににぎやかになった。

「結構、人数集まったわね」

 言った冴子は、ジョッキを傾けている。私は梅サワー。まだお酒って飲みなれなくて、ビールの美味しさがわからない。


 全員が二十歳を超えている同級会会場は、居酒屋だった。貸し切りの部屋の中は、エアコンは入っているはずなのに、大勢の熱気でむあんとした空気に包まれている。髪、アップにしてきて正解。うなじに髪の毛がはりついてると、それだけで不快感が30パーセントは増すわね。


「青石さん、いないわね」

 ふいに、冴子が言った。きょろきょろしてた私の視線に気が付いたらしい。

「別に……」

「成人式の時、社会人の彼氏と来てたでしょ? あれ、どうなったのかなあ」

「真奈美、今日はその彼とどっか海外行ってるらしいよ?」

 私たちの会話を聞いてたらしいえこちゃんが反対側から答えた。


「続いてたんだ」

「どうかな。どっちも、遊び、って感じだけど」

「えこちゃん、詳しいね」

「幹事の佐伯君に聞いたの。聞きもしないのに、詳細に語ってくれたらしいわよ?」

「そういうの、かえって信用できないよね」

「まあいいんじゃないの? 相変わらずで」

 くすくすと笑うえこちゃんは、半年前にあった時よりもなんとなく色っぽくなっているような気がする。えこちゃんにも、何かあったのかな。

 そういうのをみると、時は容赦なく流れているんだなって、実感する。

 私にも、きっと、あいつの周りにも。

「では、ビンゴ大会をはじめまーす」

 佐伯君が立ち上がると、みんながわっと盛り上がった。


  ☆


「梶原、飲んでる?」

 宴もたけなわでみんながあちこち散らばり始めたころ、えこちゃんがいなくなった席に仁田がジョッキを持ってやってきた。

「ほどほどにね」

 多分、私はそれほどお酒に弱いわけじゃないと思う。めいっぱい飲んだことないからわかんないけど、サワーを2、3杯飲んだくらいじゃ、人が言うような酔っぱらっている、って状態にはならない。と思う。


「お前、恵大だっけ? なんかサークルとか入ってる?」

 真っ赤な顔をした仁田は、すでに酔っているようだった。

「ううん、何もやってない」

「なんだよ、つまんない学生生活だな」

「研究室は面白いわよ? そういうあんたは、なにかやってんの?」

「俺?」

 そう言うと、にやりと仁田は笑った。

「ラグビー」

「ラグビー? 仁田って、確か高校んときはバレー部とかじゃなかったっけ?」

「大学行ったら勧誘されてさ。やってみたらこれがけっこ楽しいんだわ。みてみ、ほれ」

 そう言って、仁田はTシャツの腕をめくりあげる。すると、鍛えられた筋肉質な腕があらわれた。
「見事な上腕二頭筋ね」

「……薬学部らしい感心の仕方だな。こういうの、解剖とかしてみたい?」

「それは医学部。でも、これほど見事な筋肉だと、そそられるわね」

 話しながら、私はその腕の筋をなぞってみる。この筋がこー通ってここにつながって……

 薬学部では確かに解剖はしないけれど、人体には興味ある。ここまで発達した筋肉を間近で見るのは初めてだったから、ついまじまじと見てしまった。どこになにがあるか、すごくわかりやすい。

「梶原くらいなら簡単に持ち上げられるぞ」

 言いながら、仁田は私の首に腕を回してきた。


「ちょ……苦しいって」

 すると仁田は、そのままの姿勢で私の耳元でこそっと囁いた。

「お前、今、彼氏とかいるの?」

 彼氏。

「……いない」

 会えない。話もできない。そんなのはきっと、彼氏なんて言わない。

「すげえ、綺麗になったよな」

「誰が?」

「梶原が。だから、男でもできたのかと思った」

「できてないし、変わってもいない」

「自覚ないのかよ。……まあいいや。彼氏いないなら、俺と付き合わねえ?」

「は?」

 驚いて顔を上げれば、仁田が思いがけず真面目な顔をしていた。


 そういえばこれ、後ろから抱きしめられているみたいな恰好だわね。でも、全然どきどきしない。 

 私をどきどきさせることができるのは、多分、たった一人だけ。

「なにばかなこと言ってんのよ、酔っぱらい」

「酔ってねえって。俺……」

「美希、電話」

 ふいに向こうの山口と話していた冴子が、私の携帯を差し出した。冴子の後ろに私のバッグ置いてあったから、バイブに気が付いてくれたらしい。

 受け取って表示された名前を見た私の心臓が、どくん、と跳ね上がる。

 私は、あわてて仁田の腕をほどいて立ち上がった。

「ちょっと、ごめん」


 通話を押しながら、私は部屋を出る。

「もしもし!」

『美希?』

 耳に届いたのは、懐かしい声。それだけで、涙が出そうになる。

『にぎやかだな』

 部屋を出ても、ほぼ満席の店の中はざわめきが大きい。

「ん、今日同級会なの」

『何?』

「どーきゅーかい! で、今……」

『ごめん。うるさくて聞こえない。そこ出てよ』

「うん、ちょっと待ってて」


 私は店を出ると、ドアを閉めてから、もう一度携帯を耳に当てた。

「もしもし、聞こえる?」

「『ばっちり』」

「え……?」

 耳元と、そして背後からリアルな音声が聞こえて、私は振り向いた。

 そこには。

「よ」

「上……坂……」

 通話を終了させて、ドアの横に立っていた上坂が、ゆっくりと近づいてくる。

「久しぶり」

 上坂だ。

 私は、いきなり現れた上坂に、呆然と立ち尽くす。


 ジーンズにTシャツ、ジャケットを羽織った上坂が、高校生の時よりずっと落ち着いた雰囲気を伴って、そこにいた。


  ☆


 上坂と二人で、近くの川沿いをぶらぶらと歩く。裏通りになる細い道路には、かすかなざわめきが漏れ聞こえるだけで誰もいなかった。


「なんで、ここがわかったの?」

「ぐっさんに聞いた。今日、二組が同級会やるって」

「そうなんだ」

「ん。美希、酔ってるだろ」

「え? そんな、飲んでないよ」

「その割には、顔赤いぞ」

「……中、暑かったら」

 ちらり、と隣の上坂を盗み見る。


 少し、痩せたかな。見た目は、高校のときより、少し骨っぽくなった。背も伸びたかも。

 会うのも話すのも、卒業以来。普通に話せてるのが、ちょっと不思議。


「美希、日本レディースコレクションって知ってる?」

 唐突に、上坂が言った。

「名前だけは……」

 それは、少し嘘。


 高校の時からケンジさんの美容室に通いつめていた上坂は、卒業後すぐにケンジさんのアシスタントとして仕事を始めていた。その姿を追うように私は、以前は手にすることもなかったファッション誌なんかを読むようになった。だから、日本レディースコレクションについても、実はよく知っている。


 日本レディースコレクションは、東京で開かれる国際規模の大きなファッションショーだ。海外のブランドも集まって、パリコレとはいかないまでも、ファッション界では定評のある伝統的なショーのはず。
「今ちょうど、そのレディコレに出るための、ヘアメイクの選抜コンテストってのをあちこちのブランドでやってるんだ。俺も先週、本命のブランドを受けたとこ」

 私は、足を止めて上坂を見上げた。先週終わって今ここにいるってことは……結果、は?

 じ、と上坂を見つめると、上坂は照れたように笑った。


「今日、合格の連絡をもらった。俺、レディコレに参加することになった」

「すごいじゃない! おめでとう!」

「ありがと。……これが条件だったんだ」

「条件?」

「レディコレに、コネはきかない。本当に実力でしか、受かることのない厳しいショーなんだ。だから、レディコレに参加することが出来たらメイクアップアーティストになることを認めてくれる、って、親父と約束してた」

「じゃあ……」

「すげえ仏頂面だったけどな。好きにしろ、って。母さんは喜んでくれた。俺、これで名実ともに、メイクアップアーティストとしてやっていける」



 お父さんに反対され、希望の道を一時はあきらめていた上坂。けれど、最後には、反対されても、自分の夢を選ぶことを決めて、高校を卒業した。

そのあとのことは知らなかったけれど、ご両親に認めてもらうことをあきらめていなかったんだ。

 よかった……本当に、よかった……


「美希……?」

 は、としたように上坂が目を丸くした。

 頬を流れていた涙に気づいた私は、慌てて上坂に背を向けてそれをぬぐう。

「何よ、ずるいじゃない。私より先に夢を叶えるなんて……っ!」

 ふいに、上坂が後ろから私を抱きしめた。熱い体温をうなじに感じて、私の体温も一気に上がる。


「卒業式の日に言った俺の言葉……覚えている?」

「……うん」

「まだ、誰のものでもない?」

「うん」

 あの言葉を守ったわけじゃない。でも、上坂以上に、私の心に入り込んでくる男がいなかっただけ。ただ、それだけ。

 なんて……自分をごまかす必要も、今はもう、ないのかな。


「よかった……」

 私の肩口で、上坂は盛大にため息をついた。

「ようやく会いに行けると思えば、美希は合コンとかいってるし……」

「は?! 私、そんなもの行ってない」

 くるりと体を返して、上坂の正面に向かい合う。腕は緩めてくれたけど、上坂は私を離さなかった。眉間にしわを寄せた上坂が、口をとがらせている。

 あ、ちょっとかわいい。

「同級会なんて、ていのいい合コンなの! どっかの男にせまられなかった?」

「……見てたの?」

「やっぱり、そうなんだ」

「確かにつきあってとは言われたけど、でも、私は」

「美希」

 とくん。

 じ、と見下ろしてくる上坂の顔が、怖いくらいに真剣になった。


 どきどきと胸がなる。

 触れている体温も、見つめるまなざしも。その一つ一つに、鼓動が反応してしまう。

 やっぱり、私をそんな風にさせることが出来るのは上坂だけ。

 私は、息をのんで次の言葉を待っていた。

 その唇からこぼれるのは、きっと。


「俺と、結婚してください」

「………………………………は?」

「え? ダメ?」

「いや、ダメっていうか……いきなり?」

「いきなりはダメか。じゃあ、言いなおす。俺と、つきあってください」


 真面目な顔で言いなおした上坂に、私の目は点になったままだ。予想外の単語が出てきて、一瞬頭の中が混乱したけど……ええと、訂正されたから、とりあえず、交際を申し込まれたと思っていいのかな。

「ようやくお前に会いに来ることができたんだ。どれほどこの日を待ちわびたか……お前を他のやつになんか、触らせない。これからは、俺だけのものになって」

 ふわふわとした頭で、その言葉を聞いている。

 なんか……これって、現実だよね。……夢、みたいだ。


 私は、大きく息を吸って深呼吸をする。
「上坂」

「ん?」

「……私は、とっくに上坂のものだよ。高校の時から、今も、この瞬間も」

 上坂が目を見開いた。



 頬が熱い。でも、今言うべきことが、ある。

 ずっとずっと、上坂に言いたかったこと。


「上坂が、好き。上坂に似合う女性になれたかどうかはわからないけど……私なりに、頑張ってみたつもり。もとがもとだからモデルさんみたいにはなれないのは勘弁して? けど、あの頃より、少しはかわいく……なれたかな、って……」

 言いながら俯いてしまった私の頬を、上坂の両手が包む。大きな手は、高校の頃と変わらない。その手が、ゆっくりと私の顔を上げさせた。

「綺麗だよ」

 上坂は、はんなりと微笑んで、私と額を合わせる。


「高校の時よりもっと、綺麗になった。さっき、店を出て振り向いた美希を見た時、あんまり綺麗になっていたから心臓が止まるかと思ったよ。その髪も、このやわらかい頬も、抱き心地のいい身体も……全部、俺のもの?」

「頭のてっぺんから足の先まで、みんな上坂のものだよ。だから」

 すこしだけ、お化粧を覚えた。スカートもはくようになった。上坂が綺麗だと言ってくれた髪は、長くのばしたままちゃんと手入れをしてきた。いまだにめがねだけは変わらないけれど。

 私の全部で、上坂を待っていた。


「上坂も、私だけのものになって」

「美希……」

 ふ、と目を細めた上坂に、私が目を閉じようとした時だった。


♪~


 手に持っていた私の携帯が鳴った。反射的に目をやると、冴子からだった。そういえば、何も言わないで店出てきちゃった。

「ごめん、冴子だわ」

 見れば、上坂は不満そうにふくれっ面をしてた。その顔に心の中で謝りながら、通話ボタンを押す。


「もしもし?」

『あんた、いまどこよ』

「外だけど、店の近くにいる」

『上坂と一緒?』

「……うん」

『じゃ、あんたは二次会、不参加にしておく。今、みんなで移動を始めたとこよ』

「そうなんだ。あ、まだ仁田って、いる?」

『仁田? えーと……あ、いた』

「ちょっと、代わってくれる?」

 がざごそと音がして、携帯から太い声が聞こえた。


『梶原? お前、どこいってんだよ。おい、これからカラオケ行くぞ!』

「ごめんね、仁田」

『あ?』

「私、好きな人がいるの。だから、仁田とはつきあえない」

 ふわり、と上坂が背中から腰に手を回して私を抱きしめた。

『……そっか。気まずいこと言わせちまって、悪かったな。けどこれですっきりした。俺、高校の頃から、お前のこと好きだったから』

「え?! そうなの?!」

『今でも忘れられなかったから、あわよくば……って思ってたけど、ま、こればっかりはしゃーないわな』

 混乱する私に、じゃあな、とあっさり言って、仁田は冴子に代わった。


『荷物、どうする?』

 今のやりとりを聞いただろうに、冴子は全く変わらない調子で言った。

 そういえば、バッグ置きっぱなしだったな。

「これからそっち戻るから……」

「小野さん、悪いけど持ってて。そのうち取りにいかせる」

 私の携帯を奪った上坂が、勝手に話し始める。

「ちょっと、何を……」

『了解。……上坂』

「はい?」

『美希、いじらしいくらいに、あんたしか見てなかった。泣かしたらぶっ殺す』

「……わかった。ありがとう」

 なにやら話をつけると、上坂は、ぴ、と通話を終了する。


「何がわかったのよ」

「ん? 小野さんも、美希のこと大好きだってこと」

 私に携帯を返しながら、上坂は笑った。

「せっかく二人きりなのに、邪魔されたくないじゃん。というか、お前を狙っているような輩がいる場所に、わざわざ戻ることねーよ。帰りは俺が送ってく」

「え……もう、帰るの?」

 せっかく、会えたのに。

 私は、とっさに上坂を見上げる。

 まだ一緒にいたい、って言ったら、ずうずうしいって思われるかな。でも……もう少しだけ。
「前から思ってたけど」

「なに」

 上坂は、私から視線を逸らして言った。その顔が、微かに赤らんでいる。

「美希って、なにげに甘え上手だよね」

「へ? まさか」

「ホント。……そういう顔されるとさあ、も、何でも言うこと聞いてやろうって思っちゃうし……可愛すぎて思いきり抱きつぶしたくなる」

 か、可愛いとか……! 

 頬が熱くなったまま私が黙っていると、上坂は私の手を握って低い声で言った。


「……よかったら、うち、来る?」

「上坂んち?」

「俺、今家を出て一人で暮らしてるんだ」

「ああ……どこに住んでいるの?」

 そういえば、卒業の時、家を離れるようなこと言っていたっけ。

「見に来る?」

「行ってもいいの?」

「もちろん」

「うん。行く」

 よかった。会えなかった3年分、話したいことがいっぱいあるし……このまま帰っちゃったら、上坂に会えたこと自体を夢だったって勘違いしそう。

 夢じゃないって実感が欲しいから、もう少し一緒にいたい。


 頬が緩んだ私をちらりと見て、上坂は小さく言った。

「先に言っとくけど……うち来たら、朝まで帰さないよ?」

「あ、時間なら大丈夫。私も今、一人暮らしだから」


 大学に入って2年は、実家から通ってた。けれど、実習や実験が増えるにしたがって帰宅時間が遅くなるのを家のみんなが心配して、ついに3年になる時に追い出されるように一人暮らしを始めた。2時間以上の通学時間がなくなったのは、想像以上に体が楽になった。電車で寝ちゃうこともしょっちゅうだったから、やっぱりしんどかったんだろうなあ、私。


 笑んで答えたら、上坂が真面目な顔で私を見返した。

「そうじゃなくて……男の部屋で朝まで過ごす意味、分かってる?」

「意味、って……なにが…………」

 一瞬、まぬけな顔をしてしまった後、ふいに気づいた。

 ……あ、ああああああ! そういうこと! 

 さっきの比ではないほどに頬が熱くなる。


 そっか。こんな時間に部屋に行くってことは……ただ、おしゃべりする、とか、お茶するとかだけじゃないよね。

 今、上坂の部屋に行ったら。今日の私のまま、明日帰ることはできない……ってこと、だよね。


 動揺する私を、上坂は、じ、と見下ろしている。

「どうする? 帰るなら、このまま送る」

 落ち着いた低い声。穏やかに見守るような瞳は、いつか見た、ホテルに簡単に誘うような軽い視線じゃなかった。

 上坂は、私に選ばせてくれている。

 私は……


「……上坂と、一緒にいる」

 私は、そ、とその胸に顔をくっつけた。

 あ。上坂の鼓動が、早い。

 私と、同じだ。


「無理してない?」

「してない」

「帰っても、俺、気にしないよ? 美希が」

「上坂」

「ん?」

「会えなかった3年間……ずっと……さみしかった」

「……うん。俺も」

「あやふやな言葉しか信じるものがなくて、もう上坂は私のことなんか忘れてるんじゃないかって不安になって、そんな夢を何度も見てうなされて……でも、上坂しか好きになれなくて」

 黙ったまま、上坂はぎゅ、と私を抱きしめる。その胸に額をつけたまま、私は続けた。

「上坂は社会人だから、会えるようになっても、高校の時みたいには頻繁に会うことができないよね。思うように会えない日があれば、きっとまた私は不安になる。だから……だから、もう、離れてても不安にならないくらい……私の深くまで、上坂を、刻み付けて」

「……本当に、いいの?」

「いいよ。これが夢じゃないって、ちゃんと、私にわからせて」


 高校の頃、私に触れなくなった上坂。いつの間にか、私の方がそれをさみしいと思うようになっていた。

 この人に、触れたい、と思うようになってしまった。

「わかった」

 もう一度私を抱きしめた後、上坂は私と手を繋いで歩き始めた。と、ふいに上坂が声をあげた。


「あ」

「ん?」

「あれ」

 上坂が指さした方向を見上げる。暗い中空に浮かんでいたのは、大きな丸い月。

「満月だな」

「そうだね」

「あの月が細くなってまた丸くなるまで。俺の彼女でいて」

 いたずらっぽく笑いながら、上坂が昔のセリフをなぞる。

 あのセリフから、私たちの関係は始まった。今日までにあの月は、何度丸くなって細くなって、そしてまた丸くなったんだろう。

 私は、すまして答える。

「無理」

「えー?」

「だって」

 私は、つないだ上坂の腕に寄り添って続けた。

「あの月は、もう欠けないもの」

 そう言った私は上坂に、今まで生きてきた中で一番の、いい笑顔を見せることができた。





          fin

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