あの月が丸くなるまで

 ☆


 予備校の講習が終わると、私は携帯をカバンからとりだして電源を入れる。けれどそこには、期待したようなメッセージは入っていなかった。


 結局今週は一度も、上坂からは連絡がなかった。というより、学校にもきていないし、どうやら他の人も上坂とは連絡がつかないみたいで何人かに上坂のことを聞かれたりした。


 連絡……してみようかな。でも、用がなくて私に連絡してないんだとしたら、『何?』とか言われたら話が続かない……


 そんな風に悩んでいる自分がおかしくて、ついつい苦笑する。

 ホントに、何やってるんだろう。あんなやつ、放っておけばいいのよ。

 でも……

「憂い顔も綺麗だね」

 ふいに声をかけられて顔を上げると、岡崎さんだった。


 同じ国立医大系の岡崎さんとは講習がほぼ重なっていて、改めて見てみれば、いつも同じ教室にいた。どうりで、見たことがあるはずだ。

「お疲れ様、美希ちゃん。そんなに今日の講義って難しかった?」

「むしろ、文法は、今までの疑問が解決して安心しました」

「じゃあ、恋の悩み? だったら俺、よろこんで講師やるけど」

「謹んでお断りいたします」

 笑う岡崎さんに構わず、私は帰り支度を続ける。


「今日も蓮は迎えに来るの?」

「さあ。でもたぶん、来ないと思います」

「いつも約束しているわけじゃないんだね。それなら、俺が誘ってもいい?」

「一応あんなんでも彼氏なんで、他の方とのデートはお断りします」

「美希ちゃんって、真面目だなあ。じゃあ、駅まで一緒に帰ろう?」

 真面目……また言われた。ケンジさんと話してなかったら、真面目って悪いことなのかと思っちゃうところだわ。

 私が何も答えないのをいいことに、岡崎さんは私のあとについてきた。今日も、階段だ。



「岡崎さんは、彼女いないんですか?」

「いるよ。今は新宿のOLさん」

「年上……じゃあ、その彼女が他の男と遊んでいても平気です?」

「そうだね、あんまり気にしないかな。どうせそろそろ飽きてきたから別れようと思っているところだし、理由ができてちょうどいいかも」

 ああ、やっぱりこの人も上坂と同じ人種なのね。本人はともかく、そういうのって相手はどう思っているんだろう。フった方とフラれる方、どっちが傷つくのかな。

 そこで、ふと、気付いた。

「もしかして、怖いんですか?」

「……何が」

「Sな趣味はありませんので、それ以上は控えます。生意気言ってすみません」

「美希ちゃん、なにか怒っている?」

「八つ当たりです。気にしないでください」

 ついつい、連絡のない上坂に岡崎さんを重ねてしまった。


 しばらく黙っていた歩いていた岡崎さんは、ふいに、私の肩に手を回してきた。

「きっと蓮だって、今頃どこかで別のオンナと遊んでいるかもしれないよ? だからさ、こっちはこっちで……」

 仰ぎ見た私の顔に、岡崎さんの影が落ちた。端正な顔が近づいて……


 ぱしっ。


 気持ちいいほどきれいに、平手が入った。あたりを歩いていた人がみんな振り返ったけど、悪いのは岡崎さんだ。

 これって、はたから見たらただの痴話げんかだよね。

 もの珍しそうに視線を向けた人たちも同じように思ったのか、すぐに視線をそらしてそれぞれに歩いていく。


「どうして、よけなかったんですか?」

 私の平手がよけられないほど、運動神経が悪いとは思えない。ちなみに、平手は振りかぶるから簡単によけることができるけど、下からの拳や頭突きは避けにくい。以前、私が上坂にやったようなやつ。あごが上がるとフロントががら空きになるから、そこを狙うと不埒な輩から逃げられる可能性が高くなる。女子にはためになる話。

 閑話休題。


 自嘲するように、岡崎さんは笑った。

「なんでかな。ちょっと君に殴られてみたかった」

「そういう趣味なんですか?」

「どちらかというと、普段はいじめる方が好きだけど」

 ああ、そんな感じ。
「たまにはいじめられるのもいいいかな。君みたいな美人なら、それこそ徹底的に、ね」

 ……図星、ついちゃったのね。いくら私の機嫌が悪かったからって、悪いことしちゃった。

 謝ろうとする私を手先で制して、岡崎さんがにっこりと笑う。

「まあ、俺も大人げなかったと思うから、お詫びに、少し昔話をしてあげる。大丈夫、悪い話じゃないよ」

  ☆


 私たちは駅前のオープンカフェでお茶することにした。

 友達とお茶するくらいデートとは言わないよ、と岡崎さんにうまく丸め込まれて向かい合って座る。これ以上真面目と言われ続けるのもなんとなく癪に障る、なんてこっちも少し意地になっていたのは否めないけど。

 というか、私、いつこの人と友達になったんだろう。


「蓮のとことは家同士の付き合いがあって、子供のころからちょくちょく顔を合わせてた。俺ら性格が似てんのかな、割と気が合って、中学の頃からよく遊ぶようになったんだ」

 からからとアイスコーヒーをかき混ぜながら、岡崎さんは話し始めた。

「俺も結構遊んでいる自覚はあるけれど、蓮は俺以上に相手に対して執着のない奴だったよ」

「上坂が?」

「うん。ホント、長続きしない奴なんだ。連れてきた彼女が他の男と遊び始めると、そのまま置いて帰っちゃうなんてしょっちゅう」

「怒った、とかではなくて、ですか?」

「そんな風には感じなかったなあ。ホント、興味がない感じ。それで次から次へと彼女を変えていた。ああ、蓮のそんな話をしたかったんじゃなくて」

 急にばつが悪そうな顔になって、岡崎さんが視線をそらした。


「いえ、知ってましたから」

「……同じ学校なら知っててもおかしくないか。だからさ、こないだみたいに自分の彼女を俺たちから隠すのって、実は初めて見た」

「それは、私があなたたちと一緒に遊べるほど器用でも可愛くもないからじゃないですか?」

「美希ちゃんって、自己評価低い?」

「卑下してるわけではないですけど……岡崎さんみたいに自信満々というわけでもないです」

「俺の場合は、そうするように要求されて生きてきたからね」

 私は顔をあげて、つかみどころのない笑みを浮かべる岡崎さんを見つめた。


「総合病院の跡取りとして、優秀な成績、人柄を子供のころから常に求められてきた。でも、さすがに思春期にもなれば、親に言われた通りの人生に疑問も浮かぶようになる。だからと言っても、その頃はもう俺の周りは、それを口に出せる環境じゃなかったけどね。おかげで、親の前では素直ないい子、その分、裏では羽目をはずす、そんな生活が俺の当たり前だった」

「女子が食いつきそうな生い立ちですね。口説くときの常套手段ですか」

「厳しいなあ」

 アイスオレを飲みながら言った私に、岡崎さんは苦笑した。


「こんな話、めったにしないよ。女子が俺に求めてくるのは、経済力と包容力。ついでに友達に自慢できる容姿。楽しく遊べればいいだけだから、めんどくさい背景なんて必要ないんだ。ま、俺らだってそれを承知で遊んでいるんだから、おあいこだけど」

「さみしいですね」

「……そうだね」

「上坂も、そうなんでしょうか」

 自分の価値をそれだけと承知して、それほど興味もない彼女を次々と変えて。


「だろうね。議員の家に生まれて将来を周りに決められてってとこは、一緒。それが、高校に入ったころから、また変わってきて」

「どんな風にです?」

「うーん、今まで以上に軽薄になってきたっていうか……ホント、欲しいものは何もない、みたいな。一応、将来を考えて俺たち、表面上は真面目にやってるわけじゃん? こないだ渋谷で会った時の俺以外の二人、あれ、西第一の奴らだし」

「え?!」

 驚いて、思わずコーヒーを吹き出すとこだった。


 西第一高校は、うちと並ぶ名門校だ。特に運動関係に力を入れている学校だから学力面ではうちの方が上にくるけど、それでも進学率は九割を超える。

 別に誰がどんな格好したっていいんだけど……軽そうに見えるからって、勉強できないわけではないんだ。見かけで判断してはいけないといういい例なのね。一つ賢くなった。
「あいつらだって学校行ったら真面目な優等生だ。お互いそれは、わかってた。学校や家で吐き出せない分、集まった時にはバカばっかりやってる」

「はあ……」

「俺の周りにいるのは、そんな風に薄っぺらいヤツばかりだった。男も、女も。だから、美希ちゃんみたいな彼女がいる蓮が、少し羨ましい」

「私……ですか?」

 いきなり、なんで私がそこに出てくるの? つながりが、よくわからない。


「それほど君と話したことがあるわけじゃないけど……蓮が君を好きになった理由は、なんとなくわかる気がするよ」

「そんなんじゃ、ないんです」

 私は、半分ほどになったグラスに視線を落とす。

「上坂にとっては、私も必要な人間じゃないんです」

「でも……」

「もう一週間近く、上坂からはなんの連絡もありません」

「え? メールとか、ガン無視?」

「してないです。メールもラインも、電話も」

「なんで?」

「別に……用もないですし」

「喧嘩でもしたの? 学校で会っても無視、とか」

「そもそも、会っていないです。学校にも来ていないから」

「どういうこと?」

 岡崎さんが、椅子に座りなおして身を乗り出す。

 からからとストローを意味もなくかき回しながら、私は、先週病院から帰っていった上坂と、それ以降の音沙汰がないことを話した。


「うーん……本人に何かあったんなら俺の耳にも入るだろうから、無事ではいると思うけど、何やってんだろうな」

 岡崎さんは、首を傾げながら考えている。

「そうなんですか?」

「うん。俺んち、爺ちゃん世代からずっと、上坂家の主治医みたいことやってんだよね。だから、蓮が病気やけがをしたってんなら、まず俺が知らないってことはないと思う。多分、姿を見せないのは蓮の意思じゃないかな」

 無事、という言葉に、少しだけ安堵を覚える。


「それなら……やっぱり上坂は、もう別の女を見つけて、私のことなんか思い出しもしないんですよ」

「そう思い込んで、あんなに落ち込んでたんだ」

「落ち込んでなんて……」

 岡崎さんは、自分のスマホを取り出すと何やら打ち始めた。

「もともと蓮って、すぐに返信が返ってくるようなやつじゃないんだよ。ラインしても、既読になるのが次の日とか、しょっちゅう。それでも、さすがに一週間無視されるなんてことはなかったなあ」

 ふと思いついたように顔をあげると、岡崎さんは席を立って私のとなりに並んだ。 

 え?

「はい美希ちゃん、笑って」

 そして私の肩を抱くと、スマホをこちらに向ける。ちろりん、と軽い音がした。



「それ、まさか……」

「そう。蓮に送ってやるの」

 きししと笑いながら、岡崎さんはぽんとスマホの画面を押した。

「さて、蓮のヤツ、どう出るかな」

「私が誰と一緒にいようと、あいつは気にしませんよ」

 ずずーっと、残りのアイスオレを一気に吸い上げる。

「だったら、俺が美希ちゃんをもらっちゃってもいいよね」

「それで一週間たったらさよならですか」

「それはつきあってみなけりゃわからない。でも」

 岡崎さんは、目を細めて私を見た。

「君は、そんな簡単に放り出せるような人じゃない気がする」

「恨まれそうですか?」

「え、そういう人なの? 君」

「どうでしょう。そんなことに労力をかけるくらいなら、過去問の一つも解いていた方が有意義だとは思います」

「ドライだね。……じゃなくて、放り出せなくなるのは、きっと俺の方だよ」

 意味がつかめずに、じ、と岡崎さんを見る。彼は、くく、と笑った。



「美希ちゃん、スマホ持ってる?」

「りんごですけど」

「ちょっと貸して」

 私が携帯を渡すと、岡崎さんは何やら操作した。と、岡崎さんのスマホが鳴る。

「美希ちゃんの番号ゲット。俺の番号も登録しとくね」

「勝手に何やってんですか」

「蓮のことで何かわかったら連絡するからさ」

 屈託なく笑うその顔に、上坂の顔が重なった。岡崎さんの言う通り、仲いいんだろうな。すごく雰囲気が似てる。

 でも、この人は上坂じゃない。

 結局それから一時間しても、岡崎さんのメッセージは既読にはならなかった。
 ため息をついた私に気づいた冴子が、横から声をかけてきた。

「まだ、連絡つかないの?」

「うん……」


 帰り支度の済んだ私は、手元の携帯に、じ、と視線を落とす。なんのメッセージもない携帯も、すっかり見慣れてしまった。

 岡崎さんのメッセージも、相変わらず既読はつかないらしい。思い切って私も連絡してみたけれど、上坂の携帯は電源自体が入ってない。


「既読もつかないし……ホントに生きてんのかな」

「家には、行ってみた?」

「家って……上坂んち?」

「そう」

「どこにあるか知らないわよ」

 確か、榊台の方だって聞いたことがあるけど、詳しく聞いたこともないし、もちろん行ったこともない。

「聞いてこようか?」

「誰に?」

「先生」

「そんなの、簡単に教えてくれるわけ……」

 言いながら、思い出した。

 上坂のクラスの担任は、小早川先生だ。


 私は、声をひそめて冴子に近づく。

「そんなことして、いいの?」

「職権乱用には違いないけど、美希の周りにできてるうっとうしすぎるブラックホールがどうにかなるなら、許容範囲内でしょ」

「ブラックホール……?」

「ここんとこの美希って、特技ため息、になっている」

「え……嘘。自覚なかった」

「でしょうね。とにかく、気になっているなら確かめてみなよ」

「でも……連絡くれないってことは、私には用がないってことでしょ? そんなとこにわざわざ連絡したら、それこそうっとうしいって……」

「その考え方が、すでにうっとうしい。だいたい、あんた彼女なんだから、堂々と乗り込んでもいい立場じゃない」

「彼女っていっても……」

「ほら、行くよ。早くしないと、先生、クラブ行っちゃうから」

「小早川先生って、どこの顧問なの?」

「囲碁」

「……しぶいね」


 乗り気でない私の手を、冴子は引っ張って立ち上がらせる。教室から出る時に何気なく視線を感じて振り返ると、青石さんと目が合った。

 青石さんは、何かを言いかけたようだったけれど、冴子に引っ張られていた私はすぐに廊下にでてしまった。彼女の、いつもみたいにバカにした笑顔じゃない、もの問いたげなその表情が、少し、気になった。


  ☆


「上坂君か」

 英語研究室に行くと、小早川先生は机で何やら仕事をしていた。もう一人いる英語教師、青山先生はもう帰ったということでいなかった。

「連絡が取れないので、直接お家へ行ってみたいんです。住所、教えてください」

 さくさくと冴子が話を進めてくれる。

「住所教えるのはいいんだけど」

 もちろん内緒だよ、と一言添えてから、小早川先生は眉をひそめた。


「もしかしたら、お邪魔しても家にはいないかもしれない」

「「え?」」

「いや、ね。先週の火曜日に上坂君本人から、今日は休みます、って電話をもらったんだ。でも次の日は何の連絡もなく学校に来なかったから、家の方に連絡してみた。そしたらお母さんが出て、家の都合でしばらく休ませますと言われたんだ。なんとなくその話し方がしどろもどろで、様子がおかしくて。あれから二回ほど電話してみたけど、出るのはお手伝いさんで、上坂君はおろかご両親も電話口に出てくれない。お母さんは彼が休んでいることわかっているようだったから、何か理由があるみたいだね」

「そうですか……」

「梶原さん、上坂君とつきあってるんだって?」

 いきなり言われて、私は冴子を見る。やつは平然と笑っていた。慌てたように答えたのは、小早川先生の方だ。
「あ、決して責めているわけではないよ? 上坂君と梶原さんの組み合わせには驚いたけれど、こういうことって理屈ではないからね。大変かもしれないけど、僕は君たちの味方だよ」

 小早川先生は、なんだかわかったような顔をして一人でうなずいている。

 ……先生、なにか変な誤解をしているんではないだろうか。冴子、一体どういう風に私たちのこと話したんだろう。『理屈ではない』大変な恋をしているのは、どっちだ。

「つきあってる、ってほどのことでもないですけど……」

「上坂君の進路のこと、何か聞いている?」

 唐突に、小早川先生が聞いてきた。

 上坂の……進路?


「さあ……聞いたことないですけど。どうしてですか?」

「そっか。彼女ならもしかしたら知ってるかな、と思ったんだけど……一応、進路調査票には進学になってて、志望校には有名国立大がずらずらと並んでいたんだけどさ」

 先生は首をかしげる。

「僕と話した感じでは、どうも進学よりも他に何かやりたいことがありそうなんだよね」

「やりたいこと……」

『俺の話も、聞いてくれる?』

 そう言っていた上坂の夢。上坂は、何になりたいんだろう。


「うん。ほら、あそこおうちが国会議員さんでしょ? この春の進路相談の時に話したんだけど、家の人は、上坂君ももちろん政界入り、って言っているんだって。けど、そう話してくれた上坂君の顔が……なんていうか、笑っていてもすごくなげやりに見えて。それは上坂君の本心じゃないと、直感的に思ったんだ」

 確かに、上坂は議員になるつもりはないって言ってた。

 先生、ぼーっとしているようでいて、よく見ているな。侮れない人だ。

「上坂君て、学校ではふらふらしてていい加減に思われているみたいだけど、そんな人間があの成績はキープできないよ。きっと彼には、何か心に決めたことがあって、でも何か迷いがあって言い出せないんじゃないかと、僕は思っている」

 小さくため息つく小早川先生を、私は目を丸くして見ていた。

 意外。一人一人の生徒、そこまで見ていてくれるんだ、この人。

 そうか。これが、冴子の選んだ人か。


「親が、最善だと思う未来を子供に歩ませたいと願うのは当然のことだ。けれど、もしそれが、子供本人の希望を潰しているとしたら、両者の間にはきちんとした話し合いが必要になる。もし彼が本当は政界入りを目指していないのなら、僕はもう一度、彼の親御さんとそのことを話し合ってみなければならない」

 翻訳したような話し方は、英語教師のくせなのかな。

「へー、弘さん、まるで先生みたい」

「まるでじゃなくて、これでもちゃんと先生です」

 苦笑しながら冴子を仰いだ小早川先生の顔は、普段見ている英語教師、とはやっぱりどこか違った。その笑顔のまま、私の方に向き直る。


「今回のことがそのことと関係があるかどうかはわからないけれど……もし梶原さんが彼の心の声を聞くことのできる人なら、話をきいてあげて欲しい。彼には、そういう人が、きっと必要なんだ」

 そう言って先生は、机の上の書類をごそごそと探り始めた。

「もちろん僕もそのつもりではいるよ。でも、教師という立場じゃ心を開いてくれるまでまだ時間がかかりそうだし……あ、あったあった」

 抜き出してきた書類から、先生は何かをメモに書き写す。


「はい、上坂くんの住所。彼を、よろしく。それで、なにかわかったら、こっそり僕にも教えてくれるかな。絶対に、他言しないから」

「はい。ありがとうございます」

「これから行くの? 私も一緒に行こうか?」

「ううん、とりあえず、一人で行ってみる」

 私は、その小さな紙を握りしめた。

 上坂に会えたら……何を、言えばいいんだろう。

  ☆


「ここ……かな」

 途中で路線を乗り換えて、一時間ほど電車に揺られたところで私は目的の駅についた。

 高級住宅街と呼ばれる地域の一角に、その家はあった。立派な表札には流麗な文字で『上坂』と書いてあるから、ここなんだろうけど……

 見上げるその家は、周りの家と比べても一回りほど広々とした見事な豪邸だった。門からこっそりとのぞいてみるけど、中に人の気配はない。


 どうしよう。

 ここまで来てはみたけれど、さて、こんにちは、とお邪魔するのもなにか変な……あ、それに私、人んちにくるのに手ぶらだ。

 もう一度上坂に電話してみるも、相変わらず電源は入っていない。

 出直そうかな……

 弱気になった時だった。いきなり、門がひとりでに開き始める。


 ぎょ、として振り向くと、いつの間にか背後に一台の車が停車していた。どうやら、この家に入るらしい。

 あわてて脇にどく。と、案の定その車は門の中に入っていった。敷地内に入ると一旦止まって、運転席から男性が一人降りてくる。

「何か、ご用ですか?」

「あ、いえ、その……」

「おや?」

 うろたえる私に、その男性がいぶかしげな声を出した。

「あなたは……」

「……あ」

 じ、とまっすぐに見てくるその顔に見覚えがある。

 以前、上坂に声をかけてきたお父様の秘書という人だ。


「こんにちは」

 私は、ぺこりと頭を下げた。

「あの、用というほどのことでもないんですけど……上坂君と連絡がとれないので、どうしたのかな、と思いまして……」

 その男性(確か、松井さんって言ったっけ)は、しばらく私を見ていたあと、口の端をあげて笑みを作った。




「何も蓮様を誘わなくても、あなたのように綺麗な方なら遊ぶ相手には不自由しないんじゃないですか?」

「……は?」

「それとも、目当ては蓮様のお金といったとこでしょうか。蓮様は気前がいいですからね。他のお友達は、いつもの店ですか? どうせみんなで、大きな財布が来るのを待っているんでしょう」

 あまりの言われように、か、と頬が熱くなる。 

「お金なんて関係ありません! 上坂と先週から連絡がとれなくて……もしかして何かあったのかと心配してきてみただけです!」

 怒る私をその男性は、じ、と見ていた。

「上坂は、元気なんですか?! それだけ聞いたら、ここで失礼します! ご迷惑はおかけしません!」

 噛みつくように言った私に、その男性は表情を緩めた。さっきみたいなバカにした笑い方じゃない。

「申し訳ありません」

 その男性は、やわらかい笑顔で私に近づいて来る。


「あなたの本心を確かめるためとはいえ、失礼な真似をいたしました。お許しください」

「あの……?」

「あなたの心配は、蓮様のことなのですね。どうやら、いつもの浮ついたお友達とは違うようだ」

 言われて気付いた。

 この人……わざと、私を怒らせたんだ。


「私を、試したんですか?」

「その人の本性を知るには、怒らせてみるのが一番手っ取り早いですから」

 言いながらその男性は、一枚の名刺を渡してくれる。

「上坂議員の第一秘書で、松井と申します」

「鷹ノ森高校三年の、梶原美希です」

「どうぞ、お入りください」

 松井さんは、私を家に入るように促す。

「いえ! あの、あれが生きてるかどうかだけわかれば……」

「とりあえず、生きてはおります。ですが、私の方でも、あなたに少しお願いしたいことがございますので」

「はあ……」

 なんだかよくわからないまま、私は上坂の家にお邪魔することになってしまった。
  ☆


「こちらへどうぞ」

 車をしまってくる、という松井さんの代わりに、若いお手伝いさんが客間らしいところへと案内してくれた。ソファに座ってしばらく待っていると、そのお手伝いさんが紅茶を持ってきてくれる。

 カップは二つ。

 松井さんの分かな。


 一人になった部屋で、のんきにお茶を飲んでいると、ドアが開いた。入ってきた人を見て、私はあわてて立ち上がる。

 落ち着いた感じの、綺麗な年配の女性だった。以前、その顔をテレビで見たことがある。

 上坂の、お母様だ。


「お、おじゃましております。梶原と申します」

 あわてて頭を下げる私に、お母様ははんなりと笑った。

「蓮の母です。どうぞ、お座りになって?」

「はいっ」

 な、なんで、お母様が? 緊張する……

 お母様は、私の前のソファに座ると、紅茶を手に取った。うえええええ、お母様の分だったの?


「少し、お話をしてもよろしくて?」

「は、はいっ」

「蓮のことだけれど……あの子、学校ではどんな風にすごしているのかしら?」

 おっとりと、お母様は笑う。

「ええと……そうですね。いつも笑顔で、みんなの人気者、です」

 こういう時って、何て言ったらいいんだろう。

 チャラくて女にだらしないです、なんて、絶対に言えないよね。


「そうなの。お友達は多いみたいだけど……」

 少しだけ、お母様の表情が曇った。もしかして、いつも遊び歩いているメンバーのことなのかな。

「はい、とても多いと思います。私は、上坂君とはクラスが違うのですが……」 

 調理実習に乱入してきたときのことを思い出す。


「誰とでも、すぐに仲良くなれるのが、彼の特技じゃないでしょうか。男女関係なく、上坂君の周りにはいろんな人たちが集まってきます」

「いじめられていたりは、しない?」

「いじめ……ですか?」

 不安そうなお母様の顔を見返す。

 上坂に、いじめ? されることもすることも、上坂とは結び付かない。


「少なくとも私は聞いたことがないですし、上坂君に縁のある言葉とも思えません。過去に、そんなことがあったのですか?」

「中学の時ですけどね。やはり、政治家の息子ということで、心無いことを言う友達もおりましたの」

「もしかして、上坂君が休んでいるのって、それが原因なんですか?」

 ものすごく違和感あるけど、話の流れとしたら、そういうこと?

「いえ、それは、また別の……」

 言いかけたお母様は少し躊躇するように、私の顔を見た。それから、ほう、と小さくため息をつく。


「この家は、世間からくらべると少し特殊なのかもしれません。家長の言うことは絶対で、あの子も進学からその先の将来まですべて、夫が一人で決めてきましたの。蓮も、夫の言うことをよく聞く素直でおとなしい子でしたのに、高校に入る頃から、あの子はあの子なりに自分の意思を示すようになって……たびたび夫と衝突するようになりました」

「……」

 学校のみんなが知っている上坂は、いつでも明るくて奔放で、お母様が言うようなイメージとは結び付かない。


「蓮はね、美容師になりたいのですって」

「美容師……ですか?」

「ええ」

 いつか行った美容院での、上坂の真剣な目を思い出す。

 あれが、上坂のやりたかった未来なんだ。だからあんなに真剣だったのね。

「正確には、メイクアップアーティストだそうです」

 ちょうど部屋に入ってきた松井さんが、お母様の言葉を補足した。お母様は、おっとりと首をかしげる。
「美容師と、違うのかしら」

「まあ、似たようなものです。細かいことを言えば、いろいろとありますが」

「そうなの。私、あまりそういうことには、詳しくないから」

 恥じ入るように、お母様は頬を染めた。それから、もう一度、私に向かう。


「先週のことです。突然蓮が美容師……いえ、メイクアップアーティスト? ……になりたいと言い出しましたの。最初は夫も相手にしなかったんですけれど、今までになく蓮が食い下がったものですから夫はそれはもう怒って、蓮と大喧嘩になってしまって……次の日に家を出たまま、あの子、この家には戻ってはおりません」

「家出、してたんですか」

「連絡もないし、一体あの子、どこにいるのか……」

「蓮様は、懇意になさっている美容師さんのもとにいらっしゃいます」

 私とお母様は、二人で同時に松井さんを見た。


「蓮がどこにいるのか、あなた知っていたの?」

「居場所だけは掴んでおりませんと、何かあった時に困りますので」

「でしたら、教えて下さったらよかったのに」

 お母様は、少しだけ頬を膨らませるような顔になった。なんだか……かわいらしい方なんだな。政治家の奥さんて、もっときりっとしたイメージがあったんだけど。


「先生に知られると、連れ戻せとただやみくもにおっしゃるでしょう。ですがそれでは、また同じことの繰り返しです。今は、少し時間を置いた方が良いと判断しました。奥様に黙っておくのは心苦しかったのですが、もし知ってしまった場合、奥様に知らないふりができるとは思えません」

 しれっと言った松井さんに、お母様は素直に頷く。

「だから、蓮のことは大丈夫と言っていたのね。そうね、松井さんの言うとおりだわ。二人とも、頭を冷やす時間が必要なのよね」

 いえあの、お母様。この秘書さん、今さりげなく失礼なことを言っておりましたよ? 

 いつものことなのか、それとも本当に気づいていないのか。秘書ってこういうものなのかなあ。

 それはともかく、とりあえず、上坂が本当に無事らしいことは分かったので、ほ、とする。けれど、それと同時に疑問もわいてきた。


「でも、なぜ私にそんな話を?」

 今の話って、上坂家としては、かなり踏み込んだ話なんじゃないだろうか。そんな話を、部外者の私が聞いてもいいものなの?

 私が見上げると、松井さんは涼しい顔をして続けた。

「先日、蓮様とお二人でいらっしゃるところでお会いしましたね」

「はい」

「私の見た様子とあのレストランの支配人の話から、いつものご友人方とは毛色の違う方だと、記憶に残しておりました。高校に入ってから反抗的になっていた蓮様ですが、最近、少し様子が落ち着かれてきたようでしたので、何があったのかと疑問を抱いていたのです。おそらく、あなたが原因だったのですね」

「原因て……」

「ああ。そうだったのね」

 ふいに、お母様が得心したようにうなずいた。


「ねえ、梶原さん」

「はい」

「蓮がおにぎりを持っていった人って、あなたなのかしら?」

 息をのんだ私の顔を見て、お母様は、ふふ、と笑った。

「やっぱり、そうなのね」

「すみません……私が余計なことを言ったばかりに……」

「あら、責めているわけではないのよ」

 その時を思い出したのか、お母様はまた、ふふ、と楽しそうに笑った。


「朝早くから、キッチンで何やっているのかと思ったら、あの子、一生懸命おにぎり作っていて……今どきは、それほど珍しいことではないのよね。でも」

 そう言うと、お母様の表情が少しだけ陰った。

「この家で、男の方がキッチンに立つということは、それだけで衝撃的なことだったわ。自分でも、あんなに衝撃を受けるとは思っていなかった。この家の常識が一般的ではないことは分かっていたつもりだったのに……いつの間にか私も、この家に染まっていたのね」
「上坂君、お母様は特に文句も言わなかった、って言ってました」

「夫が見たらきっと怒ったでしょうけど、あの日は、たまたま留守だったの。あのおにぎりね、私にも、一つくれたのよ」

「そうなんですか?」

「ええ。失敗したから、なんて言いながら、私に一つ、花村さん……うちのお手伝いさんに一つ。とても、おいしかったわ」

「はい」

 ぎゅうぎゅうに握られたおにぎりを思い出す。私と同じように、お母様も、一言いいながら食べたのかな。それとも、何も言わずに、今みたいに穏やかに微笑んで食べたのかな。


「梶原さん」

 松井さんが、相変わらず淡々とした声で言った。

「これから蓮様のところへお連れ致します」

「えっ?!」

「どうか、蓮様の話を聞いてさしあげてください」

「でも……」

 連絡もなにもない。私はすでに上坂にとって必要のない人間なんじゃないだろうか。そんな不安を抱えた私がのこのこと上坂の前に出て行っても、上坂が喜んでくれるとは思えない。

「連絡がないことは、ご心配なさらず」

 私の顔色を読んだのか、松井さんは内ポケットからスマホを取り出した。


「これを、蓮様に渡してください」

「これは?」

「蓮様の携帯です」

 確かに上坂のものと同じだけど、新品らしくとてもきれいなものだった。

「先週、先生と喧嘩した折、蓮様の携帯は先生に壊されてしまいました。これは新しいものですが、変更手続きは済んでおります。あなたから蓮様にお渡しください」

「私が渡していいんですか?」

 私が顔を上げると、少しだけ松井さんは笑みを浮かべた。

「蓮様を、よろしくお願いいたします」

 私は、そのスマホを、じ、と眺める。

 連絡をくれなかったんじゃない。連絡することができなかったんだ。

 なら……少しだけ、期待してもいいかな。

 渡すことを口実に、会いに行ってもいいかな。

「お預かりします」

 私が言うと、お母様も、ゆっくりと頷いた。


  ☆


 上坂のところへは、松井さんが車で送ってくれることになった。制服のままだった私は、一度家に寄って私服に着替えることにする。


「却下です」

「はい?」

 家からでてきた私を見て、松井さんは腕組みをしたまま渋面で言った。

「なんですか、その服装は」

「え……おかしいですか?」

 ジーパンに薄手のパーカーは、この時期の私の普段着だ。


「これから男をたぶらかしに行こうという服装ではありません。最低でも、スカートははいていらっしゃい」

「た、たぶらかしに行くわけじゃ……」

「何でもいいから、着替えてきてください」

 おいやられて、私は自分の部屋へともう一度戻る。



「スカートなんていっても、私の持っているのなんて……」

 ぶつぶつ言いながら開けた私のクローゼットの一番端に。

 カーキ色のワンピース。

 結局、上坂に買ってもらっちゃったやつだ。

 私は、じーーーっとそれを睨む。

「わざわざ、あいつに会うためにおしゃれとか、そんなんじゃないからねっ! スカートなんて他にないし、ちゃんとした服装してかないと、松井さんが怖いからっ」

 誰に言うともなく言い訳をしながら、私は勢いよくパーカーを脱いだ。