「一度、そういう雰囲気になったときに、なんで何もしないのか聞いてみたんだけどね……したら、『まだだめ』って」
「冴子がまだ生徒だから、ってことだよね。ちゃんとけじめは守る人なんだ、先生」
「そうなのかなあ」
冴子が小さくため息をついた。
そっか。いきなりホテル誘われるのも驚くけど、誘われないのもそれはそれで悩みになるのか。
「美希に話そうと思って機会をうかがってたのよ。けど、改めて話すのも、きっかけがつかめなくて」
そう言った冴子の、表情はかわらないけど、これきっと、照れてる。なんだかその姿が可愛くなって、つい笑いが漏れた。ぐっちょんぐっちょんと気持ち悪い靴の感触も、今だけは忘れられる。
「詳しく聞かせてよ。どこいく? 『ライムレンジ』?」
「『珈琲村』のチーズケーキがいい。今日は、おごる。口止め料」
「やった♪」
冴子とは、お互い竹を割ったような性格が似ていて、高校に入ってすぐ仲良くなった。そんな冴子もいつの間にか、恋をしてたのね。しかも相手が教師とは。
好きな人と想いが通じるって、どんな気持ちなんだろう。
さっぱりした顔の冴子と並んで、私は駅へと向かった。
☆
「ふう……」
シャーペンを置いて、いすにのけぞるように背を預ける。天井を仰ぎ見ながら思いっきり伸びをすると、ぼきぼきと背筋が伸びる音が聞こえたような気がした。
うー、こった。
壁にかけてある時計に目を走らせると、ちょうど短針と長針の針が、一番上で重なり合うところだった。深夜、寝静まっている家の中は、しん、と静かだ。
眠気覚ましにコーヒーでも入れてこようと、立ち上がった時だった。急に机の上の携帯が鳴ってびくりと飛び上がる。
こんな時間に、誰?
携帯を取り上げてみると、電話してきたのは上坂。
「もしもし?」
『起きてた?』
「うん。どうしたの、こんな時間に」
『月が、綺麗だよ』
「月?」
いきなり何を言い出すの、こいつは。
『ちょうど東の空に昇ってくるところだからさ、綺麗な下弦の月が』
ぶ。
上坂の口からそんな言葉が出るのが意外で、思わず吹き出してしまった。
「あんたって、そんな人だったの?」
夜中にわざわざ月が綺麗だと電話をかけてくるような。
言いながら、私はカーテンをあけて空を見上げる。今夜は蒸し暑く、エアコンのない私の部屋の窓は開けっぱなしだった。網戸を開けて少し身を乗り出すと、半分の形になった月が東の空に浮いていた。
「ホント。綺麗な月」
なんとなく、今日は素直な気持ちでそんな言葉が出た。
昨日、さんざん冴子ののろけを聞いたからかな。普段色気とは関係なく生きている私も、夜中に彼氏(仮)から月が綺麗だなんて電話をもらったら、なんだか少しだけ、気分がピンク色になる。
『な? 見惚れて、窓から落ちるなよ』
「そんなドジじゃないわよ」
『まあ、万が一落ちたら受け止めてあげるから、安心して、かぐや姫。むしろ、俺の胸に落ちてきて』
「何言って……え?」
笑いながらなにげなく下ろした視界の中で、うちの前の道路に突っ立っている背の高い影に気づく。
「上……坂?」
『よ』
携帯を持っていない方の手を軽く上げて、上坂が笑った。
「なななな……!」
『し。夜中なんだから、静かに』
あわてて私は口元を押さえると、通話を切って部屋を飛び出した。早くなった鼓動を押さえながら、極力足音を忍ばせて階段をおりる。大兄だけが起きているみたいだったけど、どうやら気付かれることはなかった。
「こんばんは」
玄関をあけると、やっぱり上坂が立っていた。
「何やってんの、こんなとこで!?」
「今帰りなんだ」
「帰り? こんな時間までなにやってたのよ? というより、どこの帰りならこんなとこ通るの?」
高校から徒歩十五分の私の家のまわりは住宅街で、夜中に遊ぶような場所はない。確か上坂の家は榊台だって言ってたから、路線を考えたら渋谷で遊んでその帰りというわけでもないだろう。
「美希と見たかったんだ、あれ」
笑いながら、上坂は半分の月を指さす。思わず、ぽかんと口を開いてしまった。
「それだけで? ばかじゃないの」
「なんだよ、せっかく逢引きしようと思って会いに来た彼氏に、ばかはないだろ」
「だからってこんな夜中に……」
「だってさ」
上坂が、私の顔をのぞきこむ。いつもより近いその距離に、どきりと胸が鳴った。
「美希の顔が見たかったんだよ。昨日は一緒に帰れなかったし、今週はデートできないし」
「なら、もう見たんだからとっとと帰りなさいよ」
「つれないなー。ま、しょうがないか。美希を、いつまでもそんな可愛い恰好で外に置いとくわけにいかないしね」
は、と気づけば、私は部屋着のままだった。
今夜は暑かったから、お風呂上りに着たタンクトップとショートパンツ。適当にアップにしてゴムで止めただけの長い髪は、えりあしの辺りなんかほつれて髪が乱れている。そして、あわててつっかけてきたのは、家族みんなと共用のサンダル。
驚いてうっかりそのまま飛び出してきちゃったけど、とても外に出るような恰好じゃない。
瞬時に頬が熱くなって、とっさに自分の体を抱きしめた私を、くすくすと上坂が笑った。
「美希って、スタイルいいんだ。おいしそう」
言いながら、あらわになっていた私の襟首に腕を回す。直に素肌が触れて、さらに心臓が跳ね上がった。
え? ちょ……
どうしていいかわからず、私は固まったまま動けない。そんな私を抱くように上坂は顔を近づけて……
「おやすみ」
耳元で一言だけ囁いて、ゆっくりと離れていった。柔らかい笑みを浮かべたまま見下ろしてくるその顔を、私は、ただ見つめることしかできない。
「また来週ね」
ゆるりと手を振って、上坂は駅の方へと歩いていく。
ようやく私が動けるようになったのは、その後ろ姿が完全に見えなくなってさらにしばらくしてからだった。
「さて」
授業の道具をしまって私はため息をつくと、ランチバックとカバンを手に立ち上がった。
三日間の中間考査も今日で終りだ。
試験中は午前だけだから、いつもはこれで帰宅となる。なのに、お昼にお弁当が食べたいと上坂がだだをこねたために、今日の午後は用がないというのに私はお弁当持ちだった。教室の中には、午後から練習のあるクラブの人たちがめいめいお昼を広げ始めている。
上坂にお弁当を作ってくるのはもう仕方ないとあきらめるけど、毎日お昼に迎えに来られるのはホント勘弁してほしい。そのたびに、クラスの女子から突き刺さるような視線を受ける私の身にもなりやがれ。
なので、学習した私はなるべくさっさと屋上に行くようにしている。
「彼氏とうきうきランチなんだから、もっと楽しそうにしたら?」
「無表情でうきうきとか口にするあんたに言われたくないわ」
帰り支度をしている冴子に減らず口を返す。
冴子とて、私と同じで、別に無表情を貫いているわけじゃない。楽しければ笑うし、冗談も言う。感情が顔に出にくいだけだ。クールビューティーか。うまいことを言うなあ。
……彼氏といる時って、どんな顔してるんだろう。先週、小早川先生のことを報告された時には無表情でのろけるという荒業を目にしたけれど、デレた冴子はまだ見たことがない。卒業したら、小早川先生に詳しく聞いてみよう。
「早くいかないと、また彼氏がお迎えに来ちゃうわよ」
「そうだ、急がなきゃ。じゃ、私、行くわ」
「また、明日」
冴子に手を振りながら、急いで後ろのドアを通ろうとした時だった。
「うおっ!」
「きゃ!」
教室を出ようとした私の前に、何か大きなものがぶつかってきて、私はその場にしりもちをついてしまった。
「ごめんっ、梶原。大丈夫か?」
ぶつかってきたのは、柔道部の島田君だった。あわてて私が起きるのに手を貸してくれる。それから島田君は、廊下の端まで転がっていった私のランチバックを拾い上げてくれた。島田君の持っていた購買のパンとおにぎりも一緒に。
「ごめん、これ……」
「いいよ。ありがと」
すまなそうな顔をした島田君から、ランチバックを受け取る。
派手に転がっちゃったからなあ。これ、中身は……
「あらあ、大変ね」
弾んだ声に顔をあげれば、廊下の窓際に立っていたのは青石さんと玉木さんだった。楽しそうな態度を隠そうともしない。
「せっかくのお弁当、もう食べられないわね」
「ざあんねん。せっかく媚び媚びで作ってきた乙女弁当だったのにねえ」
島田君が、顔を真っ赤にして彼女たちを睨む。
「お前らかよ、今、足ひっかけたの!」
え?
「なんのこと? 島田君が前見てなかったから、いけないんじゃない?」
それに対して島田君は口をつぐんでしまったから、前方不注意だったのも本当だろう。二人から顔を背けて私にごめん、と繰り返すと、島田君はそそくさと教室へと入っていった。
「大丈夫よ。まだ食べられるから」
「まあ普通の神経持ってたら、そんなひどいものを人に食べさせようなんて思わないでしょうけどね」
くすくす笑っている二人に向き直る。
「私が食べるわよ」
「そういうお弁当が、梶原さんにはお似合いじゃない? 身の程を知れ、ってことよ」
「そうそう」
「そうね。私、料理作るのは得意だけど、顔盛ったり媚び売ったりは苦手だから」
「なっ……!」
淡々と言ったら、とたんに彼女たちは気色ばんだ。
「勉強しか取り柄のない鉄仮面のくせに、蓮に媚び売ってんのはあんたじゃない!」
「どうせそのお弁当だって、親にでも作らせてんでしょ? 家庭的アピール? ブスのくせに……あんたなんか、蓮に不釣り合いよ!」
ぐ、と唇をかみしめる。
不釣り合いだなんて……言われなくたって、自分が一番わかっているのに。
背後で扉の開く音がして、美希、と呼ぶ冴子の声が聞こえた。でも、振り向けない。少しでも動いたら……
「あんたなんかどうせ……!」
「みーきーちゃん!」
玉木さんが言いかけた言葉に、陽気な声が重なった。私は、とっさにお弁当の入ったバッグを背後に隠す。
「お昼行こー」
いつもと変わらない上坂が、笑いながら近づいてきた。青石さんたちも、は、としたように口を閉ざす。
私は、後ろ手にしたバッグを、ぎゅ、と握りしめた。
「ごめん、上坂。今日はお弁当作れなかったの」
震えそうになる声を押さえて、いつもと変わらない調子で言った。こんなの……上坂には食べさせられない。
「あら、蓮、かわいそ。お昼ないの?」
わざとらしく言った青石さんが、上坂の腕に自分の腕を絡める。
「きっと梶原さん、お弁当なんて作るの、もう嫌になっちゃったのよ。無理して女の子っぽいことするから、続かなかったのね。それより、私たちもう帰るとこだから、どっか食べに行こうよう」
さっきとはまるで違うトーンの、鼻にかかった甘い声。私には絶対にできない……女の甘え方。
「じゃ」
私は、そのまま足早に昇降口へ向かう。さっさと、その場を離れたかった。
と、後ろから腕をひかれる。振り向くと、上坂が私の腕を掴んでいた。青石さんが、驚いたように後ろで固まっているのが視界の端に映る。そのさらに後ろに、冴子が黙って様子をうかがっているのが見えた。
「でも、お昼一緒って約束したじゃん」
上坂から視線をそらしたまま、私はため息と一緒に言葉を続ける。
「ねえ、もうお昼は」
「行こう」
別にしよう、という私の言葉を遮ったその強さに、思わず上坂の顔を見上げた。笑ってはいたけど、その目はやけに真剣だった。
「上坂?」
私の返事を聞かないうちに、上坂は私を引きずっていく。
「え、ちょっと、待って」
「まあまあ」
「蓮」
後ろから、青石さんのきつい声がとんできた。
「ちゃんとわかってる?」
責めるようなその言葉に、上坂は足をとめた。一拍後に、にっこりと笑いながら青石さんを振り向く。
「わかってるよ」
「……ならいいけど」
納得していないような声で言った青石さんを置いて、上坂は廊下を歩き出す。
「何を、わかってるのよ」
「内緒ー。お昼、行こうか。俺、うまい店知ってるんだ」
「何言って……ちょっと!」
私の抗議なんかどこ吹く風で、上坂は昇降口へと向かった。
☆
「なによ、これ?!」
「美希、グリーン嫌い?」
「そういう問題じゃなくて!」
この格好じゃまずいな、とつぶやいた上坂が私をつれてきたのは、駅前のブティックだった。マネキンの着ている服はどれも素敵だったけど……私が見てもわかる、高そうなものばかり。
「じゃ、着て。早く早く。ランチ、終わっちゃう」
急かされて試着室に押し込まれた私は、わけのわからないまま上坂に渡されたワンピースに着替える。
明るいカーキ色のそれは、さらりとした肌触りが気持ちよかった。ウエストを絞ったデザインで、胸元のレースが甘すぎない程度に可愛い。
こんなかわいい服、着たことないや。制服より長めのスカート丈なのに、なんだか足元が心もとない。
「着たわよ」
試着室のカーテンを開けると、上坂が目を丸くした。その上坂も、制服ではないジャケットを着ている。こっちは、文句なしにかっこいい。スラックスは制服のままだけど、それがまたカジュアルなスーツっぽく見えて、いかにもセレブな感じ。
「……変?」
無言になってしまった上坂に声をかけると、我に返ったようにぶんぶんと首を振った。
「ううん、めっちゃ、似合う。すげー、可愛い」
言いながら、近づいてきた上坂が私の背中に手をまわす。
え?
抱きしめられるようなその姿勢に驚く暇もなく、くん、と髪を引っ張られる感覚。
「うん、こっちの方がいい」
離れた上坂の手には、私の髪を止めていたゴム。ああ、髪をほどいたのか。
……不用意に、近づかないで欲しい。
「じゃ、これ着てくんで」
上坂は、そこに控えていた店員さんに振り向くと言った。いつの間にか彼女は、試着室に脱いであった私の制服を抱えている。
「かしこまりました」
「は?」
店員さんは、驚く私の背後に回って、さっさと値札を切ってしまった。あたふたと混乱する私を、上坂が急かす。
「早く行こ。俺、腹減っちゃったよ」
「でも、服……!」
「ありがとうございました」
にこやかに店員さんに見送られて店を出る。上坂の手には、二人分のカバンと、私の制服が入っているらしい紙袋が握られていた。
「ちょっと、上坂っ! なんで……」
「店入るのに、制服じゃまずいから。これも邪魔だな。コインロッカーにでも放り込んどくか」
「だからって、あっ、支払い!」
「いーの、いーの。あ、いつもの弁当のお礼ってことで」
「そんなわけには……上坂っ!」
私の話を聞こうとしない上坂は、なぜかやけにご機嫌だった。
振り回されている……
そんな自分を自覚しながら、私は上坂のあとを追った。
☆
「いらっしゃいませ、上坂様」
品の良い年配の男性が、上坂に向かって丁寧にお辞儀する。
「ランチ、まだ食える?」
「もちろんでございます。どうぞ、こちらへ」
ランチ。
私の中のランチのイメージは、軽くてお得なお昼ご飯、って感じなんだけど。
上坂がひょいと気軽に入ったのは、そのイメージとは百八十度かけ離れたおちついた感じのレストランだった。
「か、上坂!」
「なに?」
「ここ……とてもじゃないけど、私のお財布で払えるような店じゃないでしょ?!」
「今日はおごり」
「だめだって!」
ひそやかなクラシックの流れる店では、文句を言おうにもあまり大きな声も出せない。
店の中にはぽつりぽつりとお客さんがいたけど、いずれもマダムや上品な紳士ばかり。どうみても、十代の私たちに似合うようなレストランじゃない。
それに、店の前にメニューとか置いてなかったけど、テーブルに出されている料理を眺めるに、おそらくここ、かなり高級なフレンチのお店!
その男性に通された席は、他の場所からは見えないように区切られた席だった。落ち着かないまま座ると、勝手に料理が運ばれてくる。ランチとは言っても、どうやらコースになっているらしかった。
「アスパラガスのポタージュです」
目の前に置かれた黄緑色のスープを、じ、と見下ろす。
ああもう、出されちゃったものはしょうがない。
腹くくって食べるとしよう。うん、こんな仏頂面してたら、ご飯に失礼。
私は、覚悟を決めて手を合わせると、いただきますをしてスプーンを手にした。
「……おいし!」
一口飲むと、ふわりと軽い舌触り。青臭さは全然感じられず、なのにちゃんとアスパラの風味が残っている。
「そう?」
上坂は、特に感動するでもなくスープを飲んでいる。テリーヌを添えたサラダは、レタスがぱりぱりでドレッシングが最高! 何が入ってるんだろう、このドレッシング。フレンチ、だけど、少しだけ隠し味にしょうゆも使ってる? ぴりりとしてるのは、もしかしてわさび? うーん。
メインは、牛肉。出してくれた人は、グリエって言ってたかな。直火で焼いた網の跡が食欲をそそる。周りにつけあわされた温野菜も、歯ごたえ良く肉の味を邪魔しない。しかもトリュフソースときた。……でも、どれがトリュフの味なのかよくわからない。食べたことないしなあ、トリュフ。
「……美希ってさあ」
「なに?」
お肉の柔らかい歯ごたえとソースをじっくり味わっていると、上坂が感心したようにいった。
「こないだカツサンド食ってる時にも思ったけど、ホント、うまそうに食うよな」
「だって美味しいんだもの。こんな風にコースになっているお料理って、初めて食べた。美味しいご飯って、人を幸せにするよね」
普段は食べられない豪華な食事に、私のテンションもあがっているらしい。
「大げさだなあ。そこそこうまいとは思うけど」
「あんた、この料理を食べて感動もしないなんて、人生絶対損してる!」
「……まあ、喜んでくれたならいいよ」
「うん、嬉しい。連れてきてくれて、ありがとう」
食べ物につられて機嫌よく笑った私に、上坂は目を丸くして口をつぐんだ。
けど、ふと気づく。
こんな美味しい料理を食べ慣れている上坂。そんな人に私のお弁当って、どうなんだろう。私の作るお弁当と言ったら本当に普通の庶民的なものだもんなあ。夕べのお夕飯の残りとかいれちゃうし。
ついつい手を止めて考え込んでいた私の耳に、独り言のようなつぶやきが聞こえた。
「もっとつまんない奴かと思ってたのになあ……」
顔をあげると、どことなく途方にくれたような上坂と目があう。
「私?」
は、としたように、上坂が慌てる。
「あ、ごめん。変な意味じゃなくて……」
「いいわよ。つまんない人間なのは本当だから」
青石さんなんかと比べたら私って、どう考えたって遊びが上手とは思えないし、かわいくもない。
……不釣り合いって言われるわけだ。あ、嫌なこと思い出しちゃった。
「いや、そう思ってたけど……意外に美希って、感情出るんだなあって。えーと、落ち着いた雰囲気で勉強のできる女子だな、くらいしか前は思ってなかったけどさ、予想外のことされると美希って意外に動揺するし、それに……」
「それに?」
一度開いた口を閉じて、上坂は、じ、と私を見つめた。
「何よ」
「……いや。それに、楽しいと、そんな風に笑ったりもするんだ」
「今の、ものすごく言葉を選んでくれたでしょ。暗いがり勉だってはっきり言ってくれてもいいわよ。前から鉄仮面とか呼ばれてんのも知ってるし。他人に何言われようと構やしないわ。仲のいい人たちは、ちゃんと私のことわかってくれてるもの」
「クールビューティーは知らなくても鉄仮面は知っていたのか」
「悪口程、耳に入りやすいのよ」
「ああ……そうだな」
ふ、と上坂が笑う。
……うん、上坂だって、そんな風に笑えるんじゃない。わずかに目を細めた優しい笑顔を、黙って見返す。そんな表情、学校では見たことがないわ。
しみじみした声で、上坂が呟く。
「美希って、他にどんな顔があるのかなあ」
「たいして面白い事もないわよ?」
「それでも」
何かを考え込みながら、上坂は言った。
「お前のこと知りたいし……俺のことも……」
「……上坂の、こと?」
聞き返すと、我に返ったように上坂が目を見張った。
「なんでもない。それよりさ、今度の週末だけど……」
それから上坂は、いつものように明るい態度で食事を続けた。
☆
「本日は、ありがとうございました」
食事が終わって立ち上がると、さっき席まで案内してくれた年配の男性が深々と頭をさげた。上坂は、そのまま支払いもせずに店を出ようとする。
「上坂、支払いは?」
「ここ、いつもツケだから」
「へ?」
すたすたと店を出てしまう上坂を追おうとして、私は立ち止まった。見送ってくれる男性に、私はにこりと笑う。
「ごちそうさまでした。とても、おいしかったです」
と、なぜかその男性は目を丸くした。でもそれも一瞬で、すぐにまた笑顔に戻る。
「お気をつけて。ぜひまたおいでください」
そのお誘いに気軽に、はい、とは言えず、あいまいに笑って私は上坂の後を追った。
店の外で私を待っていた上坂に追いつくと、上坂は妙な顔で私を待っていた。
「あの……ごちそうさま」
ぺこりと頭を下げる。
どうせ手持ちもないし、いいや、ここは素直におごられておこう。どれほど高いランチだったのかなんて、考えるのはちょっと怖いけど。
顔をあげると、上坂はめずらしく真面目な顔をしていた。
「上坂?」
「ああ……うん……」
「でも、こういうの、もうやめてよ。ワンピース代は、来月お小遣いもらったらちゃんと払うから」
ブティックでちらりと見た値札は三ヶ月分のお小遣いが飛んでく額だったけど、もらいっぱなしってわけにはいかない。
「いいっていいって。美希が喜んでくれたら、それだけで俺、嬉しいし」
ぎこちなく笑いながら、上坂が軽く言った。その様子に、さっきから抱いていたもやもやがさらに強くなる。
そうね。こんな高級レストランでツケで食事できちゃう上坂にとっては、ほんの軽い気持ちのつもりかもしれないけど。
「……喜ばない」
「は?」
「こんな高いものもらっても、私は、嬉しくない」
「美希……?」
いぶかしげな顔になった上坂に構わず、私は強い……きつい調子で続けた。
「普段の私が買えるようなものじゃないものをもらっても、全然嬉しくない。もらう理由だってないし」
「理由なんて……俺、美希の彼氏だよ? それで十分だろ」
「なら余計に。彼氏とか彼女だったら、こんな風に一方的な関係じゃなくて、ちゃんと対等の関係でいたいよ。私、こんなことされても、上坂に何も返せない」
「返すとか返さないとかじゃなくて、ただ喜んでくれたらいいんだよ」
最初わけのわからないといった顔だった上坂は、話しているうちに、だんだんと不機嫌な顔になっていく。それはわかるんだけど、こっちも、かみ合わない上坂の言葉が苛立たしい。
「俺がしたいからそうするだけだ。返すとか、必要ない」
「そんなの、私は嫌よ。与えるだけ与えて自分だけ満足されたって、私の気持ちはどうなるの?」
「飯食って幸せで……なんで、それじゃいけないんだよ」
「だったらやっぱりちゃんとお昼代も払うわ。そんな風に押し付けられた幸せなんて、全然嬉しくない!」
「なんで怒ってんだよ。なんで、喜んでくれないんだよ。だったら、美希はどうしたら笑ってくれるんだよ!」
「笑うなんて……上坂がいてくれたら、私それでだけで笑っているじゃない!」
「は?」
それまで明らかに怒っていた上坂が、きょとんとした顔になる。
「鉄仮面とか呼ばれてばかにされてる私が、あんたの前じゃ悔しいけれど笑っちゃっているでしょ? 一緒にお弁当食べて、私、ちゃんと笑っているじゃない」
「美希……」
「一緒にいて、同じものを見て、同じことで笑って……もし私が上坂の本当の彼女だったら、同じ時間とか経験を共有することが、一番嬉しい」
「……」
「きっと彼氏からだったら、何もらっても嬉しい。けれどそれは、等身大の私に似合わないほどのお金をかけてまでって意味じゃないの。何もらっても嬉しいけど、何ももらえなくてもいいの。ものじゃなくて……ものや身体じゃなくて、私は上坂と心でつながりたい。それが私の嬉しいってことなの!」
あ然としていた上坂が、しばらくして耳まで赤くなった。
え?
その姿に、無意識に出てしまった自分の言葉を改めて思い返す。
わ、私、何か今すごい大胆なことを……!
「違っ……あのっ、だからっ……!」
しどろもどろになった私に、赤くなったままの上坂が口を開きかけた時だった。
「蓮様?」
急に、背後から声をかけられて上坂の顔がこわばった。振り向くと、スーツを着た真面目そうな男性が立っている。
「こんなところで痴話げんかですか。少しは対面というものをお考えになったらいかがです?」
言葉は疑問形だけど、責めるようなその口調に私まで体がこわばる。
誰?
「……松井さんには関係ないだろ。なんでこんなとこにいるんだよ」
上坂の口から出たのは、初めて聞く冷たい口調だった。
「それこそ、あなたには関係のない話です」
「どうせまた、接待にでも明け暮れてんだろ」
「大切なことです。蓮様も、いい加減、お父様のお立場も考えてください。そうやって乱れた生活をしていると、いつかご自分にも……」
お父様?
とくとくと続けるその男性に、ち、と上坂が舌打ちをした。
「うるせえよ、いちいち」
吐き捨てるように言うと、上坂は私の手を握ってさっさと歩きはじめた。私は、その男性に軽く頭を下げると、上坂に引っ張られるようについていく。その男性は、追ってはこなかった。
歩きながら、私は何も言わない背中を見つめる。
上坂……怒っている? 私と言い合いしていた時とは、同じ怒っているでも全然違う。あんな冷たい態度の上坂、初めて見た。
気まずい雰囲気のまま、二人で黙って歩く。
強く握られた手が、ひんやりと冷たかった。
しばらくして、上坂は一つため息をついて立ち止まる。
「美希」
「ん?」
「行きたいとこがあるんだけど、つき合ってくれる?」
行きたいところ。
上坂の様子からして、それはきっと、以前に誘ったようなホテルなんかじゃない。
「うん」
私は、躊躇なく即答した。
上坂は電車に乗っている間、一言も口をきかなかった。ただ、私の手だけは離さずにずっと握っていた。
そうしてたどり着いた先は、高く見上げる赤い鉄骨……東京タワーだった。
☆
「あれ、親父の第一秘書なんだ」
一番高いところにある展望台まで登ると、窓際の手すりにもたれながら上坂がポツリと言った。
「さっきの人?」
「うん。うちって爺ちゃんが大臣だったし親父も国会議員だから、将来は俺も政界に、ってのが当たり前みたいな空気があってさ。なんかもめごとでもあったら親父も俺も困るって、普段の生活にもかなりうるさい。それに加えて古い家柄だから、男はこうあるべき、女はこうあるべき、みたいな考えに凝り固まっていて、やることなすことすべて決められていて」
ああ、だから、以前料理してみれば、って言った時に、あんなに驚いていたのか。そういうお家なら、男の人は料理なんてしないんだろうなあ。そう言ったら、上坂はわずかに苦笑した。
「自分で料理するなんて、考えたこともなかった。多分、親父もそうなんだろうな。そのくせ見栄っ張りだから、家事はすべて家政婦にやらせて、母さんは料理なんてしたこと……させてもらったことがない。優雅に後援会の相手をしてればいいんだってさ。俺も子供のころから、議員の息子として品行方正であれ、成績優秀であれ、って厳しくしつけられてきた。少しでも成績落とそうものなら、親父にすげえ怒られたな」
「上坂、高校入ったころはもっとまじめな雰囲気だったもんね」
「よく知ってんな」
「……あんた有名人だったし。じゃ、今そんなチャラチャラしてて、怒られない?」
「怒られるどころの話じゃない。この髪だってさ」
上坂は、少し長めの前髪を、手で伸ばして引っ張る。
「地毛だってんのに、黒く染めろって言われた。染髪は校則で禁止って言っても、親父にとっちゃ、世間体の方が大事なんだよ」
「だから、お母様は髪を染めているのね」
上坂が、ちらりと私を見る。
「去年、偶然見たテレビの上坂議員の何かの特集で、お母様を見たわ。黒髪がきれいな和服の美人だった。上坂議員も黒髪だし、だから私、上坂の髪って染めてるんだと思ってたの」
「そっか」
上坂は、また眼下の景色に視線を戻した。