──4/2 8時

 次の日の朝。
 イベントへ出掛けるということもあって、朝から俺は忙しかった。
 朝食を食べて、洗面所へ。


「んー、んんー」
「ほら、ちゃんと歯を磨いて」


 イー、とするメアリーの歯を磨いていく。
 腰をくねくねと落ち着きのないメアリー。元の世界には歯ブラシがなかったらしく、俺が磨くことになった。

 元の世界では、どうやって歯を磨いてたのか……。
 そんな疑問を持ったが、今はそんなことどうでもいい。


「よし終わった。ほら、口をゆすいで」
「んっ!」


 小さな体を持ち上げ、メアリーは水をすくってうがいをする。
 ペシッ、ペシッ、と尻尾が横揺れする度に顔が叩かれる。なぜ朝から叩かれなければいけない。というよりこれではまるで、本当の親子だ。
 子供ができたら、毎日こんな忙しい生活をするのか。

 そう思ってると、鏡越しにメアリーと目が合った。


「イーっ!」


 前歯を見せてくる。
 少し重たい体。なのになぜか、この反応に癒される。


「わかったわかった。ほら、早く着替えて行くぞ」
「あ、うん、お出掛け行くっ!」


 昨日の夜からメアリーは落ち着きがない。
 初めての外出だからだろう。見てすぐにわかる。
 ただ喜び半分、不安が半分といった感じで、嬉しそうにしたり、不安な表情をしたりする。

 だけど大丈夫だよ、と頭を撫でると、メアリーは目蓋を閉じてにっこりとした笑顔を浮かべる。

 きっと怖いのだろう。
 それでも外に出ればメアリーの中で何か変わるはずだ。そして俺も、俺の中で何かが変わると思った。


「よし、行くか」
「うん!」


 Yシャツのボタンを閉めていき、スカートを履かせて準備完了。
 尻尾も出てるが、今日は大丈夫だろう。
 そう思い、メアリーと外へ出る。


「うわー、眩しいよ!」


 階段を下りて。
 メアリーは太陽を見上げながら、口を大きく開く。


「ほら、早く行くぞ」
「あ、うん!」


 まだまだ外の世界を楽しむのはこれから。
 春の匂い。木や花の匂い。そして車が走る音や、風が吹き抜ける音。
 それら全てが初めてというのなら、これからもっと楽しいことがあるだろう。

 だからもっと味わってほしいと思い、手を差し伸べる。


「外は危ないから」


 そう言うと、メアリーは「うん!」と言って俺の手を握って隣を歩く。
 ちょこちょこと歩幅の違う彼女に合わせ、アパートを下りていく。
 温かい手のひらから伝わる体温。そしてそわそわと周囲を眺めるメアリー。

 初めての事に戸惑う彼女を俺は、車へと案内する。


「さっ、乗って」
「う、うん」


 歩いて行こうかとも思ったけど、ここから会場まで長い距離がある。
 それに電車に乗っていかないといけないため、あまり注目を浴びるのはよくない。
 助手席に座るメアリーのシートベルトを閉め、車のエンジンをかける。

 ブルルルッ!

 車が揺れると、メアリーは耳をビクッと反応させ、目を見開いたまま俺を見る。


「パ、パパ! 揺れてるよ!?」
「ああ、そうだね。ほら行くよ」


 全てを説明する前に車を走らせる。
 天気が良くてよかった。俺はそう思う。
 そして前へ動いている車に乗りながら、メアリーは外を見つめる。


「パパ、勝手に動いてるの!」
「これは車って言って、何もしなくても勝手に走ってくれるんだ」
「凄いの! これ魔法!?」
「魔法じゃないよ。機械だよ」


 そんなことわからないだろうけど。
 それに俺の話よりも、メアリーは車が走るごとに変わる景色に夢中だ。

 高々とそびえ立つビルを眺め「これ、お城なの!?」と言い。
 散歩するペットを見て「あれは何て種族なの!?」と言う。

 一つ一つ。気になることだらけだ。
 そんなメアリーに説明していると、一人で運転してる時よりも楽しく感じる。

 だけどここは都心部。
 辺りにはビルしかなくて、あまり良い景色とは言えない。それでもメアリーは、尻尾をゆらゆらと揺らしながら上機嫌だ。


「パパ、外って凄いね。人がたくさんいて、この車って乗り物に乗ってたら、いろんな景色が見えるの」
「ああ、そうだな。だけどビルばっかでつまらなくないか?」
「ん? ううん。すっごく楽しいの。だって、メアリーはこんなにたくさんの景色、見たことないもん」
「そうか」
「うん。人が笑ったり、動物が走ったり、大きな建物がたっくさん並んだり。メアリーには初めてのことばっかなの。だから、楽しい」


 外を眺めるメアリーはそう言って、ずっと外を眺めていた。
 車で走って三〇分ほど。その長い間、俺はメアリーと会話をして、彼女は外の景色を嬉しそうに見つめる。

 時折、窓を開けてやると、窓から顔を外に出して風を感じる。
 やっぱり外へ連れて来て良かった。

 そして目的地へと到着すると、メアリーは会場である東京ドームに驚いていた。


「うわー、ねえねえ、パパ。すっごい人がいるよ」


 会場には朝早くから人が押し寄せていた。
 そして列ができていて、その列に並んで会場へと入るみたいだ。

 俺は駐車場に車を止め、メアリーと共にその列へと向かう。


「やっぱり人の視線があるな」


 列に並んでいると、周囲から視線を感じる。
 その視線の全てが、メアリーへと向けられていて、メアリーは少し脅えるように、俺の手をギュッと握る。


「そんなに脅えなくても大丈夫だぞ?」
「ほ、ほんと? メアリー、食べられたりしない?」
「食べられる? ああ、大丈夫だ」


 メアリーに向けられてる視線。そして口々に「かわいい」という声が聞こえてくる。
 おそらくコスプレの一種だと思ってくれてるのだろう。
 確かに俺も、メアリーのことを何も知らなかったら狐のコスプレをしてると思って、同じことを言っていたはずだ。
 三角形の耳。大きな尻尾。それに外国人のような白い肌と水色に輝く瞳。
 そんな彼女をコスプレだと思えば、誰しも視線を奪われるのは仕方ない。


「ほら、もう少しで会場に入るから、手を離すなよ?」
「うん、パパの手、メアリー離さないよ」


 にっこりとした可愛らしい笑みを浮かべながら、繋いだ手をぶらんぶらんさせる。
 並んだ時間は長いけど、メアリーは退屈そうな表情を一切せずに俺との会話に楽しんでくれる。

 そしてやっと会場へ入ると、メアリーはまた大きく口を開く。


「わー、すっごい人だね」
「これはたしかに凄いな」


 広い東京ドームに何人いるのだろうか。
 人、人、人。かなりの人が歩き、お店らしき場所にはまた人の列が生まれていた。

 たしか今回のイベントはコミックマーケットとは違うらしいが、それと同様のイベントで、スマホで調べてみたらかなりの人が集まることは知っていた。
 だけどこの人数には驚きだ。それにお店だけではなく、ゲームの大会を行ってる会場らしき場所には多くの人集りができてる。

 それに美味しそうな匂いもするから、何か食事のできるスペースとかもあるのだろう。


「とりあえず何か見て回るか」
「うん!」


 下調べしてきたつもりなんだが、どこに何があって、何から見ればいいのかよくわからない。