第4話 エンドロール
「オレの服で大丈夫だった?」
「うん、制服かけるからハンガー借りてもいい?」
部屋は映画を観るために照明を落としてあった。それだけで緊張してしまう。DVDはとうにセットされていて、他の映画のCMを流している。
「あ!」
「ごめんごめん、入れたらCM始まっちゃって。観たいよね?」
「できれば」
さっきも座っていたソファにふわんと座る。DVDの操作をして智樹くんがわたしのすぐ隣に座った。
いつまで続くのかわからない、長い長いCMの間、智樹くんがそっとわたしの肩を抱いた。わたしの頭は彼の顎の下辺りにあって、そこから動けなくなってしまう。恥ずかしさで頭の中が沸騰しそうになる。
せっかく戻してくれたのに、CMなんてちっとも頭に入らなくて、智樹くんもコメディのCMでもちっとも笑わずにわたしの肩をぐっと抱いていた。どちらも動けなかった。
彼にそういう経験があったのかどうかはわからないけれど、暗闇の中でわたしたちはキスをした。それはキスと呼べるようなものなのかわからないような、まさに映画の見よう見まねのキスだった。
頭の中で、「キスシーンばかりを繋いだ映画があったな」と思い出す。
「部屋に行く?」
何かを踏んでしまわないように、手を繋いで、階段の吹き抜けの窓からの月明かりが眩しい中、彼の部屋に行った。
寝て起きたらシーツの中だった、というお決まりのシーンはなかった。
すごく緊張して同じベッドに入るのかと思ったら、智樹くんのベッドの下の床に適当に布団が敷かれていて、「オレ、こっちで寝るから。香月はベッド使って」と背を向けられた。何だか捨てられたような気持ちになって、素直にベッドに入れずにしゃがみこんでしまった。
「ごめん、オレのこと嫌いになった?」
「智樹くんこそ、わたしが嫌になった?」
「みんながいろいろ話してるの聞いてたら、オレたちも……って気になっちゃって」
「それは普通じゃないの?」
智樹くんはごろりとわたしに向き直って、わたしの目を覗き込んだ。じっと覗き込まれて、真意を確かめられている気がした。
「来る?」
言われてることの意味がわかっていたけれど、「うん」と小さな声で答えた。智樹くんが掛け布団を少しめくって、わたしはその隙間にごそごそと入った。今までは想像でしかなかったけれど、本当に心臓が早鐘のように打って、智樹くんの温もりがダイレクトに伝わってくる。制服とは違う、柔らかいTシャツ越しの温もりは彼の気持ちまで伝えてくれているようだった。
「すき……」
「え?」
「おかしいかなぁ? 今更だった?」
「ううん、あのさぁ、こんなときにそんなことを言われるとその気になっちゃうよ。……誘ったのはオレだけど。でも、香月、普段あんまりそういうこと言わないし」
何故かそのときは、言葉がぽろりとこぼれてきた。すきという気持ちが言葉になってこぼれ落ちて、わたしは彼の胸元に頬を押し当てて小さく丸まった。こんなに近くにいるなんて、嘘みたいだった。
「香月、オレも大好き」
腕枕をしてくれてた彼がぐるりとわたしと向き合う形になって、キスをした。今度は長い、長いキスだった。何がどこでどうなったのかわからないくらいのキスをして、息切れがした。
「ただ、静かな場所でふたりきりで過ごせたらいいなって思ったんだ。なのに下心の塊みたいになっちゃってごめん」
「自然なことじゃないの? 映画の中では……」
「映画の中にいるわけじゃないじゃん。あんなにさっぱり朝起きたら……でしたってならないんだよ。省略されてるところがあるでしょう?」
「……わかってるよ。省略なしでも、後悔しないから」
智樹くんはわたしに微笑みかけた。差し込む月の光が、彼の顔を白く照らす。彼がやさしくわたしの頬を撫ぜた。
それはもう、世界が目まぐるしく回転するような経験だった。起こったことの半分も覚えていないかもしれない。
「シーツの中で朝を迎える」までの過程は、とても濃密な時間なのだと初めて知った。
「おはよう」
先に起きていた智樹くんがわたしの目覚めの顔を見てにこりと笑った。わたしは恥ずかしくて布団に半分、顔を隠して「おはよう」と言った。
不思議なことにひと晩を共に過ごしても、まだ離れたくなかった。朝もまたキスをして、智樹くんのご両親が帰ってくるまでに、と早めに家を出た。
何も言わずに手を繋いで坂道を下っていた。駅までの道のりは遠いようで短く、あっという間に着いてしまう。駅のベンチにふたり、意味もなく座った。
「あのさぁ」
「うん」
「……また、会える?」
「うん、次の映画、決めたじゃない?」
「そうじゃなくて……」
もどかしそうな彼の言葉を引き出してあげたいと思ったけれど、思い当たることがなくて上手く汲み取れない。どうしたのか心配になってくる。
「映画は会うためのただのきっかけでしょう?」
「……しちゃったら、もう同じ趣味とか関係ないの?」
「香月」
手に持っていたカードをかざしてホームに入る。待たずにちょうどやってきた電車に乗った。上りとか下りとか関係なくて、ただただ、彼から逃げた。
わたしは自分の気持ちがわからなくなっていた。彼がわたしを好きでいてくれていることはよくわかっていた。わたしも彼がすきだから、彼にすべてを任せた。でも?
『ごめん、香月の気持ちを考えなかった』
彼とよく話し合わなかった自分に後悔して、電車を乗り換えて引き返す。当たり前のように彼の姿はもうない。いるはずがない、LINEの返事さえしなかったのに。
『わたしこそ、智樹くんの話をよく聞かなかった。感情的になってごめんなさい。今、駅のホームにいるけど、もう少し話し合いたいの。会ってくれる?』
ホームのイスに座ってしばらくLINEの返事を待つ。少しして既読がつく。不安と期待が入り混じって軽い吐き気を感じる。
『ベタな泣かせるための映画を観て必ず泣いちゃう香月がすきなんだ。はじめからそう思ってたから、映画がきっかけで下心があったんだろうと言えばそうだと思う。抱いちゃって失敗だった。香月がすきだって気持ちはもう戻れないから。坂を下りたら、駅に着くよ』
ホームから駅に出る。もう少し、もう少し待てば……。
どこかでサイレンの音が聞こえる。智樹くんの姿がない。救急車……。嫌な予感がして、駅を飛び出す。ちらりと見えた人影は……。
「すみません! 知り合いなんです!」
救急隊の人に声をかける。いくつか質問を受ける。彼は口の動きで、わたしの名前を呼ぶ。わたしは彼の手をにぎりしめて、頭の中はぐちゃぐちゃで彼の名前を呼び続けた。
智樹くん、智樹くん、智樹くん……
ああ、こんな風に日常がドラマティックじゃなくていいのに!
横の細道から飛び出してきた車が、彼にぶつかった。
書店をぶらりと一回りする。この間観た映画が思いのほか面白かったので、原作を探していた。あった。平積みされている、原作本コーナー。
ふと見るとその横に見慣れたカバーを見つけた。
「あ、懐かしい……」
探していた本はやめて、その本を手にレジへ向かう。ブックカバーをわざわざつけてもらい、簡単なラッピングもしてもらった。
ドアチャイムを鳴らすと「はーい」といつも通りしっかりとした足取りの彼の足音が聞こえて、ドアを開けてくれる。
「はい、引越し祝い」
「せっかく荷物減らして引っ越したのに、香月からのプレゼントじゃ捨てられないじゃん」
「開けてみて」
「あ……」
彼の目に涙が滲んだ。思い出すことがわたしにもいっぱいあった。わたしはふざけるように彼の背中に抱きついた。
「『最初からひとつだったんだね』でしょう?」
わたしたちがあのとき、初めて一緒に観た恋愛映画の台詞だった。
「ベタだな」
「あの時、泣いたくせに。映画なんてきっかけ、とかカッコつけるからバチが当たったんだよ」
「そうだな、本当に。『最初からひとつだったんだね』。気持ちは一緒だったってことだよ」
にこり、と笑ってわたしは彼に口づけをした。彼もわたしに口づけた。でも、エンドロールは回らなかったし、ライトも点かなかった。
(了)
「オレの服で大丈夫だった?」
「うん、制服かけるからハンガー借りてもいい?」
部屋は映画を観るために照明を落としてあった。それだけで緊張してしまう。DVDはとうにセットされていて、他の映画のCMを流している。
「あ!」
「ごめんごめん、入れたらCM始まっちゃって。観たいよね?」
「できれば」
さっきも座っていたソファにふわんと座る。DVDの操作をして智樹くんがわたしのすぐ隣に座った。
いつまで続くのかわからない、長い長いCMの間、智樹くんがそっとわたしの肩を抱いた。わたしの頭は彼の顎の下辺りにあって、そこから動けなくなってしまう。恥ずかしさで頭の中が沸騰しそうになる。
せっかく戻してくれたのに、CMなんてちっとも頭に入らなくて、智樹くんもコメディのCMでもちっとも笑わずにわたしの肩をぐっと抱いていた。どちらも動けなかった。
彼にそういう経験があったのかどうかはわからないけれど、暗闇の中でわたしたちはキスをした。それはキスと呼べるようなものなのかわからないような、まさに映画の見よう見まねのキスだった。
頭の中で、「キスシーンばかりを繋いだ映画があったな」と思い出す。
「部屋に行く?」
何かを踏んでしまわないように、手を繋いで、階段の吹き抜けの窓からの月明かりが眩しい中、彼の部屋に行った。
寝て起きたらシーツの中だった、というお決まりのシーンはなかった。
すごく緊張して同じベッドに入るのかと思ったら、智樹くんのベッドの下の床に適当に布団が敷かれていて、「オレ、こっちで寝るから。香月はベッド使って」と背を向けられた。何だか捨てられたような気持ちになって、素直にベッドに入れずにしゃがみこんでしまった。
「ごめん、オレのこと嫌いになった?」
「智樹くんこそ、わたしが嫌になった?」
「みんながいろいろ話してるの聞いてたら、オレたちも……って気になっちゃって」
「それは普通じゃないの?」
智樹くんはごろりとわたしに向き直って、わたしの目を覗き込んだ。じっと覗き込まれて、真意を確かめられている気がした。
「来る?」
言われてることの意味がわかっていたけれど、「うん」と小さな声で答えた。智樹くんが掛け布団を少しめくって、わたしはその隙間にごそごそと入った。今までは想像でしかなかったけれど、本当に心臓が早鐘のように打って、智樹くんの温もりがダイレクトに伝わってくる。制服とは違う、柔らかいTシャツ越しの温もりは彼の気持ちまで伝えてくれているようだった。
「すき……」
「え?」
「おかしいかなぁ? 今更だった?」
「ううん、あのさぁ、こんなときにそんなことを言われるとその気になっちゃうよ。……誘ったのはオレだけど。でも、香月、普段あんまりそういうこと言わないし」
何故かそのときは、言葉がぽろりとこぼれてきた。すきという気持ちが言葉になってこぼれ落ちて、わたしは彼の胸元に頬を押し当てて小さく丸まった。こんなに近くにいるなんて、嘘みたいだった。
「香月、オレも大好き」
腕枕をしてくれてた彼がぐるりとわたしと向き合う形になって、キスをした。今度は長い、長いキスだった。何がどこでどうなったのかわからないくらいのキスをして、息切れがした。
「ただ、静かな場所でふたりきりで過ごせたらいいなって思ったんだ。なのに下心の塊みたいになっちゃってごめん」
「自然なことじゃないの? 映画の中では……」
「映画の中にいるわけじゃないじゃん。あんなにさっぱり朝起きたら……でしたってならないんだよ。省略されてるところがあるでしょう?」
「……わかってるよ。省略なしでも、後悔しないから」
智樹くんはわたしに微笑みかけた。差し込む月の光が、彼の顔を白く照らす。彼がやさしくわたしの頬を撫ぜた。
それはもう、世界が目まぐるしく回転するような経験だった。起こったことの半分も覚えていないかもしれない。
「シーツの中で朝を迎える」までの過程は、とても濃密な時間なのだと初めて知った。
「おはよう」
先に起きていた智樹くんがわたしの目覚めの顔を見てにこりと笑った。わたしは恥ずかしくて布団に半分、顔を隠して「おはよう」と言った。
不思議なことにひと晩を共に過ごしても、まだ離れたくなかった。朝もまたキスをして、智樹くんのご両親が帰ってくるまでに、と早めに家を出た。
何も言わずに手を繋いで坂道を下っていた。駅までの道のりは遠いようで短く、あっという間に着いてしまう。駅のベンチにふたり、意味もなく座った。
「あのさぁ」
「うん」
「……また、会える?」
「うん、次の映画、決めたじゃない?」
「そうじゃなくて……」
もどかしそうな彼の言葉を引き出してあげたいと思ったけれど、思い当たることがなくて上手く汲み取れない。どうしたのか心配になってくる。
「映画は会うためのただのきっかけでしょう?」
「……しちゃったら、もう同じ趣味とか関係ないの?」
「香月」
手に持っていたカードをかざしてホームに入る。待たずにちょうどやってきた電車に乗った。上りとか下りとか関係なくて、ただただ、彼から逃げた。
わたしは自分の気持ちがわからなくなっていた。彼がわたしを好きでいてくれていることはよくわかっていた。わたしも彼がすきだから、彼にすべてを任せた。でも?
『ごめん、香月の気持ちを考えなかった』
彼とよく話し合わなかった自分に後悔して、電車を乗り換えて引き返す。当たり前のように彼の姿はもうない。いるはずがない、LINEの返事さえしなかったのに。
『わたしこそ、智樹くんの話をよく聞かなかった。感情的になってごめんなさい。今、駅のホームにいるけど、もう少し話し合いたいの。会ってくれる?』
ホームのイスに座ってしばらくLINEの返事を待つ。少しして既読がつく。不安と期待が入り混じって軽い吐き気を感じる。
『ベタな泣かせるための映画を観て必ず泣いちゃう香月がすきなんだ。はじめからそう思ってたから、映画がきっかけで下心があったんだろうと言えばそうだと思う。抱いちゃって失敗だった。香月がすきだって気持ちはもう戻れないから。坂を下りたら、駅に着くよ』
ホームから駅に出る。もう少し、もう少し待てば……。
どこかでサイレンの音が聞こえる。智樹くんの姿がない。救急車……。嫌な予感がして、駅を飛び出す。ちらりと見えた人影は……。
「すみません! 知り合いなんです!」
救急隊の人に声をかける。いくつか質問を受ける。彼は口の動きで、わたしの名前を呼ぶ。わたしは彼の手をにぎりしめて、頭の中はぐちゃぐちゃで彼の名前を呼び続けた。
智樹くん、智樹くん、智樹くん……
ああ、こんな風に日常がドラマティックじゃなくていいのに!
横の細道から飛び出してきた車が、彼にぶつかった。
書店をぶらりと一回りする。この間観た映画が思いのほか面白かったので、原作を探していた。あった。平積みされている、原作本コーナー。
ふと見るとその横に見慣れたカバーを見つけた。
「あ、懐かしい……」
探していた本はやめて、その本を手にレジへ向かう。ブックカバーをわざわざつけてもらい、簡単なラッピングもしてもらった。
ドアチャイムを鳴らすと「はーい」といつも通りしっかりとした足取りの彼の足音が聞こえて、ドアを開けてくれる。
「はい、引越し祝い」
「せっかく荷物減らして引っ越したのに、香月からのプレゼントじゃ捨てられないじゃん」
「開けてみて」
「あ……」
彼の目に涙が滲んだ。思い出すことがわたしにもいっぱいあった。わたしはふざけるように彼の背中に抱きついた。
「『最初からひとつだったんだね』でしょう?」
わたしたちがあのとき、初めて一緒に観た恋愛映画の台詞だった。
「ベタだな」
「あの時、泣いたくせに。映画なんてきっかけ、とかカッコつけるからバチが当たったんだよ」
「そうだな、本当に。『最初からひとつだったんだね』。気持ちは一緒だったってことだよ」
にこり、と笑ってわたしは彼に口づけをした。彼もわたしに口づけた。でも、エンドロールは回らなかったし、ライトも点かなかった。
(了)