第2話 パンフレット

 その日は強い雨だった。梅雨前線はしっかり活動する方針らしい。わたしの傘を入れたビニール袋の先に、たっぷりと水が入った。

「濡れなかった? すげー降ってるよな、今日に限って」

 振り向くと、中野くんはわたしの頭をぽんと叩いた。

「三枝、何飲む? せめて決めておかないと。あいつらこの前も早くしろとかいいながら、カウンターでポップコーンの味で揉めたらしいからな」

「オレンジ、かな」

「オレはコーラかな」

 ふたりで何もない壁にもたれて、胡桃ちゃんたちを待つ。そろそろと思う時間になってもなかなか来ない。ふたりきりで待っていても特に話題も弾まない。



「あのさぁ」

「うん」

中野くんは何かを言い淀んでいるようだった。口を開けても、言葉が出てこない。

「つきあってるんだろう? って、須藤が言うんだけど。……そういうことでいいかなぁ? それでいいなら、名前で呼んでもいい?」

「……うん」

 恥ずかしくて顔を上げられずに俯くと、彼が屈んで顔を覗き込んだ。



「ごめん。映画にふたりきりで来ようと思って何度も誘おうと思ったんだけど、なかなか切り出せなかった」

「うん」

「三枝……香月が、もう同じ学校の誰かとつき合うことになってたらと思うと早く誘わなくちゃって思ったんだけど」

「うん」

「……お前、映画観る前から涙が滲んでる。バカだなぁ、これから今日もまたいっぱい泣くのに」

 中野くんは……智樹くんは、しゃがみこんで下からわたしの顔を見ていた。そこに胡桃ちゃんたちが現れた。



「ああっ、リア充がいる!」

「中野ぉ、カノジョ泣かせるなよ」

 智樹くんもわたしも大いに照れて、その日の映画もふたりして目を真っ赤にして映画館を出た。

「じゃあ今日は入口で解散」

「香月ちゃん、またねー」

「胡桃、また月曜日ね」

 わたしたちは本当にふたりっきりになって、他のふたりを見送りながら一歩も動けず手を振っていた。気がつくと、映画館前の人もまばらだった。目を合わせる。





「飯食う? お茶でもする?」

「智樹くんがお腹すいてたらご飯で、そうでもないならお茶」

「とりあえずお茶はあり?」

「あり」

 初めて手を繋いだ。彼の手は大きくてしっかりしていて、見た目から想像出来ないくらい厚みのある手のひらだった。



「映画の後、パンフ見ながら、そのー、好きな子と感想を語り合うってベタだけど憧れなかった?」

 つくづく見た目ではわからないロマンティストだと思いながら、微笑んで、

「わたしもあるよ」

と答えた。

「え? 経験あるってこと?」

「え? 経験ないよ。……男の子とふたりで映画なんて行ったことないし」

 ふたりして、なんとなく黙り込む。ふたりの間に切なく沈黙という名の風が流れ込む。



「今度はふたりきりで来よう。それで、もっともっと、こんな風に話せばいいじゃん?LINEじゃなくても」

「あの、わたしもそうしたかったの。LINEじゃなくても感想言い合ったりとか」

「感想だけ?」

「……その日あったこととか、いろんなこと」

「これからいっぱい話せばいいじゃん」

 テーブルの上にフルカラーのパンフを広げて、あのシーンやこのシーン、と言ってあれこれ話をした。それは、言われるまでもなくわたしも憧れていたことだった。





 つき合い始めてみると、同じ学校でないことが何となく寂しくて、何となく知らないところにいる彼が気になった。
 今、彼はどんなことをしているんだろう?彼は他の女の子ともよく話すのかな?そう言えば、前に胡桃が「合コン」とか話してたし、つき合いでもそういうとこに行くのかなぁ……?

 その考えは我ながらバカげていて、そんなことを悩むくらいなら、LINEのひとつでも送った方がましに思えた。机の上のスマホに、ため息をつく。





「香月ー。もうわたし死ぬしかない……」

「胡桃? 何した?」

「……他に気になる子ができたって……」

「それ本気の話?」

「わかんない」

 胡桃はひっく、ひっくとしゃくり上げて顔中、涙でべちょべちょだった。うちの学校はメイク禁止だったけど、須藤くんにいつ会ってもいいようにって胡桃は薄くメイクしていた。そのメイクが涙で剥げて、マスカラが滲む……。

「よく聞いてみようね?」

 胡桃はこくりと頷いた。



『あのね、須藤くんの話は聞いたかな?』



 返事はすぐには来なかった。

 わたしは胡桃が泣いてからずっと1日憂鬱で、まるで自分の事のように胸が痛んだ。小さくため息が出た。もしもわたしが同じような境遇にあったら……彼を恨むだろうか? いつまでも引きずるだろうか?



『その話は一応ざっと聞いたけど、オレたちにできることはないよ』



 何だか少し冷たい気がした。ちょっとしたことでも映画のことなら泣くくらい感動するくせに、現実では「危うきに近寄らず」みたいなのはどうかな、と思った。



『智樹くん、冷たいね』



 わたしはすっかりカッとなってしまい、彼の言う通り、他人事に首を突っ込もうとして自分を追い込んでしまったことに気がつかなかった。

 朝降っていた雨がすっかり上がって、不要になった傘をぶら下げて歩く。

 あんなことを不用意に書くなんて、わたしが冷たい。嫌われてしまったかもしれない。





 ため息をついて学校そばのコンビニを通り過ぎようとすると、

「香月」

と声がかかった。智樹くんだ、と胸が高鳴って、それと同時に「オレたちも別れよう」って言われたらどうしよう、と思うと安易に目を合わせることもできずにいた。

「香月、ごめん。言い方が悪かったと思って謝りに来たんだ」

「ううん、こっちこそ……。あんな酷いこと書いたから嫌われたかもしれないってずっと後悔して……。別れようって言われたらどうしようって……」

「今度観る映画、まだ決めてないじゃん……」

 しっかりと手を握られて、わたしたちは仲直りした。