突如自分に宿ったこの能力は、夢か妄想だろう。初めは何回もそう自分に言い聞かせた。

翌日から学校には行ったが、一週間ほどは、それこそ周りから見れば魂が離れた後の抜け殻のようだったかもしれない。めちゃくちゃ落ち込んで、時々なぜかテンションが上がって、次の瞬間泣いていて、人と会うのが怖くて、ちょっと引きこもりになって、今度は学校を三日休んで、もうかすみちゃんからは電話もなくて、暇だからレンタルショップで借りてきた映画を観て、その映画が、階段で転んだのをきっかけに男女が入れ替わってしまう話で、なんだかとても他人事に思えなくて、共感して、励まされて、そして立ち直った。

それ以降は、物事をようやく冷静に捉えられるようになり、僕は決意した。
同じことを、もう一度姉でやってみた。
するとどうだろう、またしても姉の体に飛ぶことができた。夢でも妄想でもなかった。今度は怒りの絶頂というわけではなく、意識を集中したら成功した。その後は、まずは家族で練習しようと、父や母で試し、飛ぶ対象をいろいろ変えてみては実験したのだ。

僕は目の前に開いたノートをめくった。
これまでに起こったこと、自分のしてきたことは、すべて記録している。

あれからすでに十八回『飛んだ』。(ちなみに『飛ぶ』というのは、乗り移る行為を指している。僕が勝手に使っている、一番しっくりくる言葉だ。飛んで、乗り移っている最中のことは、『コントロールしている』と呼んでいる。やっぱりその言葉も、感覚的に一番あう)

十八回のうち、姉に七回、母に二回、父に二回。
そのほかは、家族以外でも可能なのかと、近所のおじさん、おばさん、町内会長さん、担任の教師、男の同級生三人で調べた。そして結果は、その都度ノートに記した。

ここまでで僕が僕の能力について認識していることをまとめてある。
それがこれだ。

【能力について】
①飛びたい相手に意識を集中させることで飛ぶことができる。
 (戻るときも同様)
②面識のない人、話したことのない人、動物、赤ん坊には飛べない。
 (少し話したことがある人には飛べることもあるが、コントロールできるの は数秒程度)
③他人の体に入ってコントロールする時間が長いほど疲労する。
 (ちょうど縄跳びを続けるくらいの疲れ)
④飛べる距離やコントロールできる時間は訓練次第で延ばせる。
 (今は五十メートル、七分ほど)
⑤他人の体に飛んでいる間、自分の体は魂が抜けたように意識を失っている。

以上が今までの実験でわかったことだ。
あらためて読み返してみたが、相変わらず気が重くなる。

いったいなぜ? なぜ僕にこんな力が宿ったんだ。わからない。まったくもってわからない。神が何か、僕に使命を与えようとしているのか。それともただ単に、宝くじに高額当選するのと同じように、奇跡とも呼べる偶然なのか。
いままで何十回何百回と考えてきた。そのたびに首を振る。偶然だなんて思いたくはない。何かあるはずだ。

この能力で、僕は何をすればいい? 何ができる?

警察官に飛び、無法者を逮捕する? うん、それはアリかな。でも、いきなりは怖い。もっと身近なことではどうか。
テスト中、秀才に飛んで、そいつが書き終わった解答を堂々とカンニングする? いや、それなら採点中の先生に飛べばいいじゃないか。ていうか、とてつもなくセコイことを考えてしまった……。
ああ、僕はなんなんだ! 

落ち着け、冷静になれ。
深呼吸して、もう一度じっくり考える。

……駄目だ。

まじめに考えれば考えるほど、なぜか正義とは対極のことしか出てこない。
世界的マジシャンのスタッフに飛び、トリックを盗む?
競馬で万馬券を当てた人に飛び、その券を奪う?  
ミッキーマウスに入っている人になり、自由に踊る?
芸能人に飛んで、竹下通りで握手責めとサイン責めを受ける?(いつの時代だ)
金持ちに飛び、おいしいものをたらふく食べる?
アラブの石油王になり、お付きの美女たちに大きな羽で扇いでもらう?
姉の体で女湯に入る?

あ、最後のは……
考えただけで鼻血が止まらず、すぐに断念……。
ほかにも次から次へと思春期特有のあんなことやこんなことばかりが頭の中から湧いて出てきた。

…………。

僕は最低だ。ヨコシマなアクマ、邪悪だ。不埒なことしか思いつかない。
このド変態が! 本当にやりたいことはこんなことじゃないだろう。
僕に何ができる。僕の使命は……。

――先月、合唱コンクールの打ち上げに、クラスのみんなで行ったボウリング場での出来事が、記憶のはるか底からよみがえった。
くじでチームを決めた。僕は彼女のグループとは別の、隣のレーンの組に入った。

吹奏楽部のかすみちゃんのボーリングの腕前は、お世辞にもうまいとはいえなかった。いや、正直にいえばヘタっぴだった。ガターを連発し、申し訳なさそうに、みんなに謝る彼女を、クラスを盛り上げるタイプのイケメンが優しく手ほどきする。いや、レクチャーを装って、いまかすみちゃんの腕に触れた!
僕は自分のスコアそっちのけで、彼女たちの様子を横目にチラチラと窺っていた。

そして、見たくない光景なのに気になってしまう屈折した感情。嫉妬で気が狂いそうになるのを、奥歯を強く噛みしめて必死で堪えて……。陰湿な傍から見たらどんな表情だっただろう。

九号でも重すぎるほど、彼女は華奢で、その腕は白く細かった。
ジェラシーで押しつぶされそうになりながら、それでもなお見惚れるなんて……僕はどれだけ拗らせてるんだ――。

かすみちゃん。
そんなフレンドリーな呼び名は、あくまで僕の心の内でだけのもの。
姉に乗り移ったとき、受話器越しに姉の声で話しかけたのが初めてで、それ以前もそれ以降も会話したことはない……。
それでもやっぱり、僕の中で彼女の存在がどんどん膨らんでいく。

そんないま、決意した。

僕の能力は、彼女のために使う。
そうだ、それがいい、これこそ使命だ。
この薄汚れた世界の困難や苦労から、彼女を守りたい。

いや、もう、そんな能書きはやめよう。僕はただ、自分の嫉妬心を少しでも薄めるために、できるかぎり彼女のことを近くで見守りたいだけ。合唱コンクールの打ち上げで行ったボーリングで見たような光景には耐えられそうにないから、かすみちゃんに悪い虫がつかないように、せめて傍で彼女を見守りたい。

でも、どうやって? 彼女に飛ぶか? いや、そんなの無理だ。僕がかすみちゃんになってどうするんだよ。神聖なものに触れるみたいで、恐れ多すぎる。それに、直接話したことがない相手には飛べない。そもそも僕はかすみちゃんの何を知っている?
……何も知らないじゃないか。どうするどうする……。

そうだ、沙希だ。

かすみちゃんと一番仲がよくていつもいっしょにいる本庄沙希の体に飛べば、かすみちゃんの近くで彼女を守れる。幸い沙希とは中二の時に飼育委員会で何度もしゃべったことがある(ウサギの話ばかりだったけど)から飛べるはずだ。

ただし、かすみちゃんとかなりの至近距離になること、彼女たちのふだんの話題をつかむ必要があることを考えたら、すぐに沙希に飛ぶのは危険だ。飛べたとしても話がかみ合わず、うまくコントロールできないかもしれない。まずは沙希の性格、言動、行動、思考回路を知る必要がある。

そのために僕がしたこと。
それは、佐藤ヒロシに飛んで、沙希を毎日尾行することだった。

かすみちゃんを守るため、沙希に飛びたい。
その沙希のことを知るために、まずは佐藤ヒロシで尾行する。
これが「かすみちゃんを守ろう計画」の段取りだ。

なんで佐藤ヒロシなのか? いやその前に、佐藤ヒロシって誰だよって話だけど、彼は昨年夏休み前にいきなりやってきた転校生だ。クラスだ。
たいして親しかったわけでもない。言うならば、友人と赤の他人の中間くらいの関係だ。実は彼も中二のとき、僕や沙希とともに飼育委員だった。その頃、何度か沙希に『明日の飼育小屋掃除、ヒロシだよね』と確認することがあったが、沙希はいつも『え、それ、誰だっけ?』と返してきた。

彼が別の誰かと話しているところは、正直一度も見たことがない。彼と会話経験のある人間は僕くらいじゃないか? まあ、会話と言ってもウサギの世話の連絡くらいだけど。彼がどこから転校してきたのか、なんで夏休み前のタイミングだったのか、家族構成は? 興味を示す人間はいなかったし、僕もたいして気にしなかった。なんて言うのかな。気にしなかった、というより気にならない、不思議な存在だった。

いっとき、佐藤ヒロシは僕にだけ見える霊じゃないかと悩んだこともあったけど、もちろんそんなことはない。彼はたしかに実在する。ただ、みんなにとってその存在感が、チョモランマの山頂の空気ほどに薄いだけだ。

飛ぶ前に、いろいろ観察してみた。
佐藤ヒロシは、調べれば調べるほど地味だった。成績は中の中、中肉中背、身長165.3センチ、体重55.1キロ。私服は地味で、色は三色、黒か白か灰色。絵がうまく、意外と手先が器用。プラモデルが趣味。ペットに小鳥を飼っていて、川を眺めるのが好きな、早生まれのうお座。

早速翌日から、休み時間に彼の体に何度か飛んで、体を慣らした。
他人に飛んでいる間、僕の体は意識を失った状態になる。教室で飛んだらそれこそ危険だが、幸いこの頃には飛べる距離がずいぶん伸びていた。まずは体育館裏の倉庫へ忍びこみ、分別ゴミ用の大きな容器が立ち並ぶ奥のスペースの、新聞紙や古雑誌が高く積まれた奥へと体を押し込んだ。廃品回収は月末と決まっていたので、めったに人も入らない。ここが僕のお気に入りの場所となった。

それにしても、佐藤ヒロシに飛んで彼をコントロールしている間は、クラスの誰からも声をかけられなかった。先生からも、クラスメイトからも。
数学の授業中、先生に投げかけられた難問にみんなが沈黙したとき、だれも手を挙げない中、佐藤ヒロシの体のまま、一度だけ恐る恐る手を挙げてみた。答えがわかったわけではない。ただ、あまりにだれからも認識されないせいで、さすがに不安になってきたからだ。

僕はここにいるよ。そんな思いだった。なのに、クラスのみんなはおろか、教壇に立つ先生にさえ目を留めてもらえず、数秒間挙手したまま固まったあと、そのまま手を下ろした。下ろしたことも知られなかったようで、そのあとも誰からも何も言われなかった。

悲しいかな、佐藤ヒロシ。いや、ある意味すばらしい。この体は沙希の尾行に最適だ。

休み時間、昼休み、放課後、帰り道、日によって時間を変えて、少し離れた所から、時々忍び足で距離をつめて、背後から、あるいはすぐ隣から、彼女の行動、くせ、表情、話し方をチェックした。沙希に近づくということは、同時にかすみちゃんにも近づくことになるが、かすみちゃんにもまったく気付かれていない。
あらためて、佐藤ヒロシ、すばらしいぞ君は。

家では姉の体に飛んで自主練に励んでいたが、最近僕があまりに飛びすぎたせいか、その姉はとうとう母に病院へ連れて行かれた。姉ちゃん、すまん。
ただ、この二週間で成果も生まれた。

コントロールできる時間も飛べる距離も飛躍的に延びた。がんばれば一キロ先からでも飛べるし、十五分はコントロールできるようになった。ウォーミングアップは完了。

ザッツオール! 時は来た。
いよいよ「かすみちゃんを守ろう計画」の始動だ。