永遠に続く夏の恋の泡沫

虫の音と風の音だけが行き交う、その日の夜。

家を抜けだし湖畔に来た私は、かつてボート小屋があった場所に佇む皐月の影を見つけた。

皐月は、夏の初めに再会した時と同じ、ダークグレーのTシャツに黒のハーフパンツという出で立ちだった。じっと水面に顔を向けていた皐月は、私の気配に気づくとこちらを振り返る。

近づく私を、皐月はものも言わずにただ見つめている。
私は足を止めると、今にも泣きそうになりながら皐月を見上げた。

「慌てるなって、言っただろ?」

皐月が、困ったように笑っている。

「皐月は、死んじゃったの……? あの時、溺れた私を助ける代わりに……」

やっとの思いで問いかければ、「違うよ」と皐月は優しく答えた。

「死んでなんかいない。龍神と約束したんだ」

「約束……?」

うん、と皐月は一声置いた。

「龍神の代わりに、僕が湖の守り主になることを」

当然のことのように答えた皐月は、星ひとつない夜空に手を伸ばした。
白い指先は、呑み込まれそうなほど黒い夜空によく映える。

「小さい頃から病がちだった僕は、一生日の光の下では過ごせないと医者に言われてた。それからおそらく、二十歳までは生きれないだろうって」

愁いを帯びた長いまつげが、ゆっくりと瞬く。

「僕は、間近に迫る死が怖かった。それから、毎日太陽の下ではしゃぎ合ってる、響と日方と彼方がうらやましかった」

皐月が口を開くたびに、湖には波紋が広がる。
まるで、湖そのものが私に話しかけているかのようだ。

「龍神……伝説で云われている昔この湖に沈んだ子供は、人間になりたがっていた。だから僕らは約束を交わしたんだ。お互いの立場を入れ替える、って。僕は永遠の命を手に入れる代わりに、この世からその存在を消した。そして、僕の存在は人々の記憶からも、写真や記録からも消滅してしまった」

微笑みながら語る皐月は、話の内容とは裏腹に、とても幸せそうだ。

「でもね、湖の守り主は夏の限られた期間だけ、人の前に姿を現すことが出来るんだ。その間は皆の頭に僕の記憶が蘇り、僕は当然のように、皆の生活に溶け込める」

そこで皐月は、私の方を振り返った。

知らず知らずのうちに頬を伝っていた涙を、皐月は指先でしなやかに拭ってくれる。

「どうして……。この町から皐月の存在は消えてしまったのに……、どうして、私だけまだ皐月のことを覚えているの……?」

首を傾げ、ほんの少しだけ哀しげな目をした皐月は、私の身体を引き寄せ抱きしめた。

そして私の髪の毛に顔を埋めながら、「それはね」と囁く。

「優芽が、僕にとって特別な存在だからだ。だけど、それも一日だけ。今日が終われば、優芽もお母さんや響のように、僕のことを忘れてしまう」

「そんなの、嫌……」

震える声は、皐月がよりきつく抱きしめたせいでほとんど聞こえなかった。
「大丈夫だよ。また夏が来れば、優芽は僕を思い出す。そして僕らはもう一度恋に堕ちる。繰り返し、何度も……」

「でも……。私はいつか年をとっておばあさんになって死んじゃうわ。そうなれば、きっと皐月は私を好きにならない」

どうして、と皐月は首を傾げた。

そして僅かに体を離すと、猫に似た瞳を愛しげに細めてくれる。

「おばあさんになっても、湖の上を漂う蜃気楼になっても、僕はずっとずっと、君に恋をするよ」

「皐月は、それでいいの? 幸せなの?」

とめどなく、涙が頬を伝った。

「幸せだよ」

皐月は穏やかに答える。

「覚えていないだろうけど、毎年優芽は僕のためにこうやって泣いてくれる。だから幸せだよ」

「今夜は、ずっとこのままでいい……?」

「もちろん。毎年そう言う優芽が、かわいくて仕方ないんだ」

耳もとの髪の毛を、皐月は指先で優しく梳いてくれる。

皐月の胸の温もりが、愛しくて、尊くて、離したくなくて。

誰もいない田舎の湖畔。

風もないのに水面がさざめく夏の宵。

私たちは互いの温もりを閉じ込めるように、強く抱き合った。

たとえ明日になり、皐月のことを思い出せなくなっても、記憶の奥底に少しでもこの想いをとどめたかった。
「夜が、明けなければいいのに」

「そうだね」

「夏が、終わらなければいいのに」

「そうだね」

「時が、止まってしまえばいいのに」

「うん」

「皐月」

「うん?」

「好き」

「うん、僕も」

――僕も、優芽が大好きだよ。
「優芽、早くしなさい! そろそろ行くわよ!」

「はーい! ちょっと待って!」

今年も一夏を過ごした部屋の荷物をどうにか鞄にしまい込み、慌ててドアに向かう。

振り返れば、窓から入り込んだ湖畔の風がレースのカーテンをふわりと膨らませた。

「また、来るね」

一年後に再び来るであろうこの部屋に、お別れの挨拶をする。
まるで私の声に答えるかのように、もう一度カーテンが柔らかく揺れた。

一階に降りれば響が来てた。
高一の時から付き合ってる、私の彼氏だ。

東京の大学を受験するって言ってたから、来年でやっと田舎と東京の遠距離恋愛も終わりを迎える。

「優芽、途中まで俺が送るよ」

響が、私の手から鞄を奪った。

「送るって、どういうこと?」

お母さんの車で来たのに。

「俺が自分の車を運転するんだ。おばさんとは駅で待ち合わせてるから、そこで優芽はおばさんの車に移ればいい」

「えっ? 響って、車の免許持ってるの?」

「俺、四月でもう十八になったから、春休みに取りに行ったんだよ。自分の運転する車に優芽を乗せたいって言ったら、おばさんが駅まで乗せればいいって提案してくれたんだ」

そんな私たちの会話を、響の後ろでお母さんがニヤニヤしながら聞いている。

「それじゃ、最後の時間を、たっぷり楽しんでね~」

おばさんらしいおせっかいな発言をしたあとで、スーツケースを手に私たちに背を向けたお母さんは、何かを思い出したかのように再びこちらを振り返った。

「そうだ、優芽。あの金魚、どうするのよ」

「金魚?」

「縁日で、いっぱいとって来たじゃない」

お母さんが指さした先、ダイニングテーブルの上には、小さな金魚鉢があった。

そこでは、四匹の赤い金魚と一匹の黒い金魚が、窮屈そうに泳いでいる。

「響くんにとってもらったんでしょ? ずっと抱えるのはしんどいかもしれないけど、大事に持って帰りなさいよ」

そう言い残すと、お母さんはスーツケースを転がして、先に家の外に出て行った。

私はゆっくりとダイニングテーブルに近づくと、身をかがめて金魚鉢を覗き込んだ。

「この金魚、響がとったの? 響、金魚すくい苦手じゃなかったっけ?」

「そうなんだよ。そうなんだけど……」

首を傾げながら、響も金魚鉢の中の金魚を見つめている。

「今年は奇跡的に、とれたみたいだな」

「ふうん。やるじゃない」

ちょんちょん、と金魚鉢をつつけば、数匹の金魚がぱくぱくと口を動かした。

かわいい。

東京に戻ったら、大きな水槽やポンプを買って、大事に育ててあげよう。

そんなことを思いながら微笑んでいると、黒の出目金が私の方をじっと見た。
そして優雅に水の中を泳ぐと、他の金魚と戯れる。

「この金魚たち、仲いいわね」

「うん。たくさんいると、普通は喧嘩するのにな」

「ねえねえ、なんか私たちみたいじゃない? 私と響と、あのしっぽだけ白いよく似た二匹が日方と彼方」

「はは。じゃあ、あの黒いのは誰だよ」

「黒いのは……」

じっと、尾ひれをしならせて優雅に泳ぐ黒い金魚を見つめる。

「黒いのは、見えない私たちの仲間、とか?」

冗談めかして、笑ってみせた。

免許を取って間もないというのに、バイトで日々社用車を転がしているせいか、響はお父さんから借りたらしい大きめの車を難なく運転した。

舗装のされていないがたがたの道を下れば、神社の石段のふもとに出る。

小さな祠の前では、今日も腰の曲がったおばあさんが両手を合わせて何かをしきりに祈っていた。

その姿を見つめながら、隣にいる響に訊いてみる。

「前に日方に訊いたんだけど、知ってる? 湖を守ってる龍神の言い伝え」

「知ってるよ。大昔、池に落ちていなくなった女の子が、神様になったってやつだろ?」

「女の子? 男の子かと思ってた」

「どっちかは、はっきりは伝わってないみたいだけど」

ハンドルを切りながら、ちらりとだけ響が窓の外に目を向ける。

「あの祠にお供えしてるものが、お手玉とか女の子のものばかりでさ。そう思っただけだよ」

「ふうん」

ガタン。

大きな石に引っかかったのか、車が激しく揺れた。
響がもう一度大きくハンドルを切れば、目の前は広大な湖だった。
エメラルドグリーンの水面が、太陽の光を受けて淡く輝いている。

夏の初めの、漲るような輝き方とは違う。

まるで夏が過ぎ去るのを名残惜しむかのような、儚い輝き方だった。

「綺麗だね、ここはいつまでも変わらないね」

湖のきらめきに吸い込まれるように、目が離せなくなる。

風に吹かれて、水面には円状の波紋が出来ていた。
じわじわと広がり、やがて風化するように溶けてなくなってしまう。

それを人知れず、音もなく繰り返している。

「変わらないよ。変わってたまるか。前に湖畔にリゾート施設建設の話が持ち上がってたんだけどさ、全力で阻止してやった。町の人の署名を集めてさ」

「響が率先してやったの?」

「そうだよ」

言いながら、響は一瞬だけ窓の向こうの湖に目を向ける。

「どうしてかは分からないけど。あの湖だけは、命に代えても守らなくちゃいけないって思ってるんだ」
水辺の景色が終わり、林道に入った。

その時、誰かに呼ばれた気がして、私は後ろを振り返る。
リアウインドウの向こうには、林道の先で輝くエメラルドグリーンの水面が僅かに見えるだけだった。

それでも私は、そのまましばらく後ろを見つめていた。

「どうかしたか?」

後ろを振り返ったままの私に、響が聞いてくる。

「うん、なんか……」

ゆっくりと前に向き直りながら、私は呟いた。

「誰かの声が聞こえた気がして……」

すると、ポン、と頭に優しい感触がした。運転席から手を伸ばし、響がよしよしと私の頭を撫でている。

「来年も、必ず来いよ」

「うん。でも、来年は響、東京にいるんでしょ?」

「そうだよ。だから、今度は一緒に帰ろう」

「うん」

「年をとっても、どこに住んでても、毎年絶対帰ろうな。俺たちの故郷に」

「うん、約束だよ」

夏の終わりの空を見上げながら、私は微笑んだ。

高校を出て、大学に行って、社会人になって。

この先楽しいことも辛いこともあるだろうけど、それでもこの町がここにあるなら。

それだけできっと、私はいろいろなことを乗り越えられると思った。

湖の美しい、この町が私を待っていてくれるなら――。
あの夏の宵に、僕は生まれて初めての恋をした。

日の光に当たれない虚弱体質の僕は、いつも夜な夜な泳ぎの練習をしていた。

ある時出会ったのが、おかっぱ頭のかわいい君だった。

もう何年もこの湖に住んでいるという彼女は、夏の間だけ人に姿を見せることが出来るのだという。

大きな目をした、綺麗な女の子。

彼女が笑えば、湖がさざめき夏の風が彼女を取り巻いた。

僕だけの大切な彼女を、ある時親友の響に紹介した。

湖で優雅に泳ぐ彼女を見るうちに、響の頬は夜でもはっきりわかるほど赤くなっていった。

響も、すぐに恋に堕ちたのが分かった。

夏の終わり、何年も湖に住んでいる彼女は、自由が欲しいと言って泣いた。

彼女が自由を得るには、人間に戻らなければならない。そのためには、代わりの人間がいるのだと言う。

でもそんな酷なことは誰にも頼めなくて、彼女は気が遠くなるほど長い時間、その湖にいるのだった。

自分の寿命の短さを知っていた僕は、喜んで彼女に手を差し出した。

驚いと戸惑いの入り混じった、彼女の瞳。

何かをいいかけた、響の口もと。

迷いなんてなかった。

たとえ一夏でも彼女に会えるなら、彼女の特別になれるなら。

これ以上の幸せなどないだろう。

戸惑う彼女の小さな手を、僕の貧弱な白い手が、しっかりと握り締めた。

そしてその瞬間に、僕の存在は永遠になった。

永遠に、なれたんだ。
何十年何百年が過ぎようと、僕はあの湖畔で、永遠に君を想い続けるだろう。

そして夏がくるたびに、僕らは終わらない恋のはじまりを繰り返す――。