「私も、皐月が好き……」
すると皐月は、子供みたいな無邪気な笑みを浮かべた。
「それじゃあ、今夜から僕達恋人どうしだね」
いつの間にか、境内から響く笛と太鼓の音が耳に戻っている。
まるで湖の底から地上に戻った時のように、止まっていた世界が動き出す。
熱風が屋台の香りと楽しげな人々の声を運び、仄かに湖の匂いも漂わせる。
境内からの光に顔の半分だけを照らされた皐月は、「お祭り、行こっか」と私の手をきつく握りしめた。
「うん」
どうにか答えたけど、自分の顔にありえないほど熱が集まっているのがわかる。
もしもこの世で一番幸せな人は誰かと問われたら、迷いなく今の自分だと答えただろう。
皐月の手のぬくもりがあれば、もう他には何もいらないと思った。
そんな生まれて初めての満ち足りた気持ちを噛みしめながら、私は皐月とお祭りを楽しんだ。
お面屋でお面を買って、金魚すくいにリベンジする。
「皐月、すごい! 四匹もとれるなんて」
皐月のとってくれた金魚は四匹の赤い金魚だった。
「かわいい彼女に特別サービスだ」
そう言って、屋台のおじさんが黒い出目金を一匹加えてくれた。
透明のビニール袋の中で、四匹の赤い金魚と一匹の黒い金魚が、楽しげにゆらゆらと泳いでいた。
祭りの宵が、暮れていく。
盆踊りが終わり境内にいる人の数もまばらになった頃、拝殿の手前の石灯籠の辺りで数人の友達と話している響を見つける。
私に気づくと、響は怒ったような顔でこちらへと近づいて来た。
「優芽、お前どこ行ってたんだよ。急にいなくなるから心配しただろ」
そう言ったあとで、響ははたと視線を止める。
響の目線の先には、繋がれたままの私と響の掌があった。
「そっか」
呟いたあとで、ゆっくりと響は微笑んだ。
「お前ら、付き合うことになったんだ。雰囲気でわかるよ。良かったな」
「うん……」
申し訳ない気持ちで頷けば、「そんな顔するなよ」と響は私の不安を和らげるように笑ってくれた。
「おめでとう、皐月。やっぱお前はかっこいいよ」
皐月に顔を向け、響が言う。
「優芽。お前にさ、ひとつ言ってなかったことがあるんだ」
「言ってなかったこと?」
「小五の夏に、湖で溺れていた優芽を助けたのは、本当は俺じゃなくて皐月なんだ」
バツが悪そうに、響が頭をかく。
「えっ、そうなの?」
皐月を見上げれば、皐月は黙って響を見つめているだけだった。
「あの時、俺と皐月は同時に優芽を見つけたんだ。それでどっちが助けるって話になって、俺は怖気づいてしまった。でも皐月は、迷いなく優芽を助けるって奥深く潜って……。すごく、かっこよかったよ」
それなのに、と響は困惑したように言葉を繋ぐ。
「どうしてだろ。俺は自分が優芽を助けたなんて嘘を周りに言いふらしててさ。あー、はずかしい。ごめんな、皐月」
皐月に、頭を下げる響。
「でも、良かったよ。お前らふたり、すごくお似合いだ。優芽をよろしくな、皐月」
「うん、わかった」
「じゃあ、俺は先に帰るわ」
くるりと私たちに背を向けた響を、皐月が「待って」と呼び止めた。
提灯の明かりがひとつ、またひとつと消えゆく境内で、響がこちらを振り返る。
「ありがとう、響」
「おう」
響は小さく手を上げて皐月の声に答えると、再び私たちに背を向け、やがて人ごみに紛れ見えなくなった。
まるで名残を惜しむように、見えなくなった響に皐月はいつまでも手を振っていた。
その瞬間、境内上空の夜空に、ぱっと花火が上がった。
金色の火の粉が漆黒の空に散り、吸い込まれるように消えていく。
色とりどりの花火が次々と夜空を彩り、ドンッ、ドンッ、と花火の打ちあがる音が地上を揺るがした。
境内に残っていた人たちは、皆はっとしたように足を止め、空に顔を向け出した。
「綺麗……。どこかで花火大会かな。去年までは、花火なんて上がらなかったよね」
花火の美しさに魅入られながら、隣にいる皐月に問う。
「うん」
花火を見つめながら、皐月は静かに答える。
「きっと、今年からはじまった花火大会なんじゃないかな」
言い終えたあとで、皐月がこちらを向く気配がした。
つられるように私も皐月を見れば、いつになく真面目な顔を浮かべた彼と目が合った。
ゆっくりと皐月の顔が近づき、目の前が陰る。
反射的に目を閉じた瞬間に、ひんやりとした柔らかいものが触れた。
どうしてだろう。
皐月とのキスは、初めてじゃない気がした。
ドンッ、ドンッと立て続けに花火が打ちあがる中、私たちは唇を離し、呆然としたまま見つめ合う。
そしてお互いはにかんだように笑ったあと、まるで磁石がひかれるように、私たちは身を寄せ合った。
「もうすぐ、お盆が終わるね」
皐月のぬくもりを感じながら呟く。
幸せだ、って思った。
もう二度と離れたくないって思った。
「優芽」
これ以上ないほど幸せを噛みしめていると、皐月が改まったように私を呼んだ。
「明日、もしも何か辛いことがあっても、慌てないで」
ぎゅっと私を抱く腕に力を込めて、皐月がそんな意味不明なことを言い出す。
「慌てないで、僕のところに来て欲しい」
皐月が何を言っているのかさっぱりわからなくて、私はきょとんと皐月の顔を見上げた。
そこには、思いもしなかったほど哀しそうな皐月の眼差しがあって、得体のしれない不安が胸に押し寄せた。
出しかけた言葉が、皐月の寂しげな眼差しに呑み込まれるように、喉の奥に消えて行く。
「僕はいつだって、あの湖で君を待ってるから」
皐月が、何を言いたいのかは分からない。
だけど、すごく私のことを大事に思ってくれているのが、痛いほどに伝わってきた。
「……うん、わかった」
何ひとつ理解は出来ていないけど、皐月がそう言うのなら信じようと思った。
ゆっくりと頭を振り下ろせば、皐月は目を細めて愛しげに私を見つめる。
ああ、この世界に、私にこんな眼差しを向けてくれる人が他にいるだろうか。
皐月への強い思いが胸に込み上げてきて、泣きそうになる。
誤魔化すように再び皐月の胸に顔をうずめたら、「好きだよ」って皐月が耳もとで囁いた。
龍神祭の夜が明けた。
私が東京に戻るまで、あと数日だ。
気乗りしないまま部屋で荷造りをしていると、「優芽~」と階下からお母さんに呼ばれた。
「三上さんのところに、お世話になりましたってご挨拶に行ってくれない? それから大西さんのところにも」
無理やり渡されたのは、小さな菓子折りふたつだった。
大西さんとは、日方と彼方のお母さんのことだ。
「え、なんで私が? お母さんが行けばいいじゃない」
「何言ってるのよ、響くんや日方くんや彼方くんにお世話になってるのはあなたの方でしょ? 三上さんにはお掃除を頼んでるから、また改めてご挨拶にお伺いするけど、とりあえずあなただけでもお礼は済ませときなさい」
お母さんは、こういうことはやり過ぎなくらいにきっちりとする人だ。
どうして皐月の名前は出て来ないのだろう?
そんな疑問を胸の奥に抱えつつも、しぶしぶ菓子折りを受け取り玄関に向かおうとする。
すると背後でお母さんが「そう言えば……」と何かを思い出したように言った。
「響くん、東京の大学を受験するんだって」
「ふうん、そうなんだ」
「良かったじゃない。これで寂しくならなくて」
なぜかにやついた表情で、お母さんはそんな言葉を足してくる。
「……どうして?」
たしかに響が東京に来てくれるのは嬉しいけど、皐月が来てくれる方がもっと嬉しいな、なんて薄情なことを心の中で考えてしまった。
するとお母さんは、「またまた、すっとぼけちゃって」となぜか大笑いをしながら奥へと消えて行った。
竹林の道を抜け、龍天神の石段の前を通り過ぎる。
近所とはいえ田舎町のことなので、響の家も双子の家も、歩いて行けば三十分はかかる。
お盆を過ぎたばかりだというのに、空はどこか霞がかっていて、秋の訪れを感じさせた。
淡い日の光に、湖の水面が鈍く輝いている。
風もないのに、じわじわと円弧状の波紋が広がっていた。
その情景を眺めながら湖のほとりを歩いていた私は、ふと違和感を覚える。
「……え?」
昨日までの景色と、何もかもが違った。幾隻かのボートも、ボートの繋がれた船着き場もないのだ。
「嘘でしょ……」
よく見ればボート小屋もなくて、ボート小屋のあった場所には雑草がただひたすらに生い茂っている。
「なんで? どうして……?」
焦りとともに、得体のしれない恐怖心がじわじわと足もとから這い上がって来た。
ボート小屋がないなら、そこの息子である皐月はどこに行ったのだろう?
草をかき分けようと、辺りを見渡そうと、どこまでものどかな湖畔の景色が広がっているだけだ。
「皐月……っ!」
「優芽?」
そこに、自転車に乗った響が現れる。
キキッとブレーキ音を鳴らして自転車を停止させた響は、「ちょうど良かった。優芽に会いに行くところだったんだ」と白い歯を見せて笑った。
そして自転車を降りると、首を傾げながら近づいて来る。
「優芽、どうかしたか? 顔色が悪いぞ」
「響っ。大変なの! ボート小屋がないの!」
しがみつけば、響は「ボート小屋?」と頓狂な声を上げた。
それから、眉根を寄せて私を見る。
「何言ってるんだよ、優芽。ボート小屋なんて、もう何年も前に潰されたじゃないか」
「……え?」
大きく目を見開く。
響が何を言ってるのか、理解できなかった。
だけど同時に昨日の皐月の言葉を思い出して、どうしようもないほどに取り乱したいのを、ぎりぎりのところで食い止める。
――明日、もしも何か辛いことがあっても、慌てないで。
「……じゃあ、皐月はどこなの……?」
響の身体をつかむ手が、どうしようもなく震えた。
「さつき?」
言いながら、響は心配そうに私の顔を覗き込む。
「さつきって、誰?」
頭からつま先にかけて、力がすうっと抜けていくような感覚がした。
頭の中はこんがらがっているのに、胸の奥ではなぜか納得している。
「優芽、大丈夫か?」
そんな放心状態の私の頬に、響が優しく手を添えてくれる。
「ごめん、今の忘れて」
震える声をどうにか出し、響に背を向ける。
「どこ行くんだよ?」
「ちょっと、確かめたいことがあって……。ごめん、響。今日はもう会えない」
家に戻った私は、大急ぎで階段を駆け上がった。
「優芽、もう行ってきたの?」
もちろん、奥から飛んできたお母さんの声にも答える余裕なんかない。
バクバクと震える心臓は、今にも壊れてしまいそうだった。
自分が息をしているのかいないのか。地に足をつけているのかいないのか。
そんなことすら曖昧の、まるで抜け殻のような状態で、どうにか部屋に入るとドアを閉じる。そして、壁に飾られたコルクボードに近づいた。
コルクボードには、子供の頃に湖畔で撮った写真が相変わらず貼られていた。
いたずらっ子さながらの笑みを浮かべる、日方と彼方。
そして彼らに挟まれるようにして、しぶしぶ笑っている響。
日の当たる湖から距離を置いて、木陰に小さな影が映っている。
そこではにかんだ笑みを浮かべていたのは――皐月ではなく、おかっぱ頭の私だった。
虫の音と風の音だけが行き交う、その日の夜。
家を抜けだし湖畔に来た私は、かつてボート小屋があった場所に佇む皐月の影を見つけた。
皐月は、夏の初めに再会した時と同じ、ダークグレーのTシャツに黒のハーフパンツという出で立ちだった。じっと水面に顔を向けていた皐月は、私の気配に気づくとこちらを振り返る。
近づく私を、皐月はものも言わずにただ見つめている。
私は足を止めると、今にも泣きそうになりながら皐月を見上げた。
「慌てるなって、言っただろ?」
皐月が、困ったように笑っている。
「皐月は、死んじゃったの……? あの時、溺れた私を助ける代わりに……」
やっとの思いで問いかければ、「違うよ」と皐月は優しく答えた。
「死んでなんかいない。龍神と約束したんだ」
「約束……?」
うん、と皐月は一声置いた。
「龍神の代わりに、僕が湖の守り主になることを」
当然のことのように答えた皐月は、星ひとつない夜空に手を伸ばした。
白い指先は、呑み込まれそうなほど黒い夜空によく映える。
「小さい頃から病がちだった僕は、一生日の光の下では過ごせないと医者に言われてた。それからおそらく、二十歳までは生きれないだろうって」
愁いを帯びた長いまつげが、ゆっくりと瞬く。
「僕は、間近に迫る死が怖かった。それから、毎日太陽の下ではしゃぎ合ってる、響と日方と彼方がうらやましかった」
皐月が口を開くたびに、湖には波紋が広がる。
まるで、湖そのものが私に話しかけているかのようだ。
「龍神……伝説で云われている昔この湖に沈んだ子供は、人間になりたがっていた。だから僕らは約束を交わしたんだ。お互いの立場を入れ替える、って。僕は永遠の命を手に入れる代わりに、この世からその存在を消した。そして、僕の存在は人々の記憶からも、写真や記録からも消滅してしまった」
微笑みながら語る皐月は、話の内容とは裏腹に、とても幸せそうだ。
「でもね、湖の守り主は夏の限られた期間だけ、人の前に姿を現すことが出来るんだ。その間は皆の頭に僕の記憶が蘇り、僕は当然のように、皆の生活に溶け込める」
そこで皐月は、私の方を振り返った。
知らず知らずのうちに頬を伝っていた涙を、皐月は指先でしなやかに拭ってくれる。
「どうして……。この町から皐月の存在は消えてしまったのに……、どうして、私だけまだ皐月のことを覚えているの……?」
首を傾げ、ほんの少しだけ哀しげな目をした皐月は、私の身体を引き寄せ抱きしめた。
そして私の髪の毛に顔を埋めながら、「それはね」と囁く。
「優芽が、僕にとって特別な存在だからだ。だけど、それも一日だけ。今日が終われば、優芽もお母さんや響のように、僕のことを忘れてしまう」
「そんなの、嫌……」
震える声は、皐月がよりきつく抱きしめたせいでほとんど聞こえなかった。
「大丈夫だよ。また夏が来れば、優芽は僕を思い出す。そして僕らはもう一度恋に堕ちる。繰り返し、何度も……」
「でも……。私はいつか年をとっておばあさんになって死んじゃうわ。そうなれば、きっと皐月は私を好きにならない」
どうして、と皐月は首を傾げた。
そして僅かに体を離すと、猫に似た瞳を愛しげに細めてくれる。
「おばあさんになっても、湖の上を漂う蜃気楼になっても、僕はずっとずっと、君に恋をするよ」
「皐月は、それでいいの? 幸せなの?」
とめどなく、涙が頬を伝った。
「幸せだよ」
皐月は穏やかに答える。
「覚えていないだろうけど、毎年優芽は僕のためにこうやって泣いてくれる。だから幸せだよ」
「今夜は、ずっとこのままでいい……?」
「もちろん。毎年そう言う優芽が、かわいくて仕方ないんだ」
耳もとの髪の毛を、皐月は指先で優しく梳いてくれる。
皐月の胸の温もりが、愛しくて、尊くて、離したくなくて。
誰もいない田舎の湖畔。
風もないのに水面がさざめく夏の宵。
私たちは互いの温もりを閉じ込めるように、強く抱き合った。
たとえ明日になり、皐月のことを思い出せなくなっても、記憶の奥底に少しでもこの想いをとどめたかった。
「夜が、明けなければいいのに」
「そうだね」
「夏が、終わらなければいいのに」
「そうだね」
「時が、止まってしまえばいいのに」
「うん」
「皐月」
「うん?」
「好き」
「うん、僕も」
――僕も、優芽が大好きだよ。