「優芽」

誰にも気づいてもらえない哀れな私を救ったのは、そんな優しい声だった。

「優芽、大丈夫?」

私は、この声を知っている。

子供の頃からそうだった。
あの夏も、この声を聞くと毎夜気持ちが安らいだ。

見上げれば、穴の淵から皐月の綺麗な顔が私を見下ろしていた。

「皐月……」

「上がって来れる?」

差し出された手をつかめば、さっきまでのことが嘘みたいに、穴から這い上がることができた。

サワサワと揺れる竹林の中で、皐月が優しく私に微笑みかける。

皐月がいれば、暗闇ですら尊いものに感じる。
皐月の綺麗な笑顔を、引き立ててくれるから。

だからもう、怖いなんて思わなかった。
それなのに、どういうわけか涙がとめどなく頬を伝う。

「優芽、どうして泣くの?」

こてん、と皐月が首を傾げる。

「そんなに、怖かった?」

「うん、そう。怖かった、でもあれ? もう怖くないはずなのに……。でも、なんか……」

皐月は、黒い浴衣を着ていた。まるで夜の湖のように、永遠に果ての見えない黒だ。

ぎゅっと、皐月の浴衣の袖を握り締める。

「皐月が、どこか遠くに行ってしまいそうで……」

可憐に微笑んだ後で、皐月は顔を近づけると、額をぴったりとくっつけてきた。

「大丈夫、ここにいるよ」

「……うん」

「どこにもいかないよ」

「……うん」

「ずっと、優芽のそばにいるよ」

「うん」

それから私の耳もとに唇を近づけた皐月は。

囁くように、好きだよ、って言った。