辿り着いた先は、湖だった。

夜の湖は、やはり怖いほどに静まり返っていた。
まるで世俗の雑音を、その大きな口ですべて飲み込んでしまったかのようだ。

漆黒の水面には、夜空に浮かぶ満月が揺らいでいる。
生ぬるい宵の風が、夏の香りを運んでいた。

昼間はなかったはずの、美しい蓮の花が水面に咲いている。
暗黒の世界に灯る光のように、白く輝くその花は神聖なものに思えた。

「……優芽?」

よく見ればそれは蓮の花ではなく、日の光を浴びずに育った皐月の身体だった。

戸惑った声を上げた皐月は、ゆっくりと湖から地上へと姿を現す。
海パン姿の皐月が、体と髪から滴をしたたらせながらこちらへと歩んでくる。

「こんな夜中に、こんなところで何してるの?」

「皐月こそ、何してるの?」

「泳いでたんだ。覚えてるだろ? 子供の頃、僕が夜になってからしか泳げなかったこと。今でもその癖が抜けなくて、ときどきこうやって泳ぎたくなるんだよ」

皮膚が日光に当たると炎症が起こる特殊な病気にかかっていた皐月は、昼間はいつも、湖ではしゃぐ響たちを木陰から哀しげに見つめていた。

その姿を見るたびに、胸がぎゅっと苦しくなったのを覚えている。

「狐の子、見なかった?」

「狐の子?」

「狐のお面を被った、小さな男の子」

こんな時間に湖畔に来た経緯を話せば、皐月は面白そうに笑ってみせる。

「何だよ、その話。夢でも見てたんじゃないの?」

今となっては、確かにそう思う。
その証拠に、辺りを見回しても狐の子はもうどこにもいない。

いわゆる、夢遊病ってやつだろうか?

「なんか、恥ずかしい……」

顔を赤らめれば、皐月はいつもの人懐っこい笑みを浮かべた。

「でも、ちょうどよかった。優芽も、一緒に泳ごうよ」

「え? でも、水着ないよ?」

「そのままでいいよ。どうせ、誰も見てないだろ?」

皐月は、まるで王女を迎えに来た王子のように、私に向けてしなやかに手を差し出す。

「少しだけなら……」

魔力にかかったみたいに、差し出された手に自ずと手を重ねていた。
泳いでいたせいだろう、皐月の掌はすごく冷たかった。

私たちは手をつなぎ合ったまま、ゆっくりと湖に身を浸した。

「あれ、意外とあったかい」

「でしょ?」

「大丈夫? 怖くない?」

私がここで溺れた経験があるから、皐月は気を遣ってくれているのだろう。

「うん、大丈夫」

自分でも信じられないほどに、湖の中は心地よかった。

誰もいない夜の湖で、私たちは手を繋いだまま仰向けに浮かんだ。

夜空に星はなく、黄金色に輝く月だけが、水面を揺蕩う私たちを見下ろしている。

感じるのは、皐月の手の感触だけ。

まるで闇に覆われた世界に、二人だけが取り残されたみたい。

それでも、皐月が一緒なら怖いなんて思わなかった。

目を瞑り、水流に身を任せる。

心地よさから眠気に襲われた時、ふと掌から皐月の感触が消えているのに気づく。