お箏教室、お陰さま人生
今日は、ある会議室で開催されるお箏教室に稽古にいきました。
お稽古のいまの課題曲は、松竹梅という曲。
大変めでたい曲で、歌詞には皇室が歌われたりしています。幕末に作られた古典箏曲です。
私たちの流派は山田流なんですが、この日記にも書いていますが、すでに楽譜の出版社が廃業しています。
それでもう、楽譜が手にはいりません。
しかし、それが山田流にとっては唯一の正当な楽譜です。
今回も、手に入らなかったので、仕方なく生田流の楽譜で代用しましたが、師匠は本当に嫌そうで、ブツブツ文句をいうしまつ。お弟子さんたちは、稽古終了後にもんくたらたら。これでは、うちの教室はどうなるんだろう、と、不安にもなります。
うちの社中のうりは、古典を大切にするところと、よく師匠が言っていましたが、何とかして変革をしていかなければならないな、と感じました。
お弟子さんたちにも申し訳ないです。
でも、皆さん、古典が好きな人たちなので、嫌だ嫌だといいながらも、習いにきてくれます。
いくら師匠が楽譜がないないとしかっても、皆さん懲りずにきてくれます。
ありがとう!とこころから言いたくなります。
お弟子さんたちがいてくれるから成り立つ、お箏教室。
本当にお陰さまだなと感じます。
私たちの人生は、お陰さまの積み重ねでできているなと、最近思います。何でもそうです。誰かのお陰でできている。きれいな人は汚い人がいるからきれいな人になりますし、強い人は弱い人がいるから強い人になれます。本当に何でもそうですけど、必ずあることがあって、その犠牲で成り立つわけで、自分だけが何でもかんでもつかめるのかということはまずない。これを忘れずに生きることが、できる人は、ほんと、謙虚で立派な方だと本当に思いますね。わたしも身に付けられたらと思います。それを考えると、悪人は、存在しなくなると言われたことがありました。ただ、私はそこまではまだできないみたいです。なんともはずかしい、凡夫のままですね。今日も、だめかあとため息をついて笑うことしかまだできない。本当に視野を開くとか、こころを大きくとかはまだまだです。それは同時にしっかりするということでもあるから。まだまだしっかりしていない、根なし草のような、私です。
今日は、ある会議室で開催されるお箏教室に稽古にいきました。
お稽古のいまの課題曲は、松竹梅という曲。
大変めでたい曲で、歌詞には皇室が歌われたりしています。幕末に作られた古典箏曲です。
私たちの流派は山田流なんですが、この日記にも書いていますが、すでに楽譜の出版社が廃業しています。
それでもう、楽譜が手にはいりません。
しかし、それが山田流にとっては唯一の正当な楽譜です。
今回も、手に入らなかったので、仕方なく生田流の楽譜で代用しましたが、師匠は本当に嫌そうで、ブツブツ文句をいうしまつ。お弟子さんたちは、稽古終了後にもんくたらたら。これでは、うちの教室はどうなるんだろう、と、不安にもなります。
うちの社中のうりは、古典を大切にするところと、よく師匠が言っていましたが、何とかして変革をしていかなければならないな、と感じました。
お弟子さんたちにも申し訳ないです。
でも、皆さん、古典が好きな人たちなので、嫌だ嫌だといいながらも、習いにきてくれます。
いくら師匠が楽譜がないないとしかっても、皆さん懲りずにきてくれます。
ありがとう!とこころから言いたくなります。
お弟子さんたちがいてくれるから成り立つ、お箏教室。
本当にお陰さまだなと感じます。
私たちの人生は、お陰さまの積み重ねでできているなと、最近思います。何でもそうです。誰かのお陰でできている。きれいな人は汚い人がいるからきれいな人になりますし、強い人は弱い人がいるから強い人になれます。本当に何でもそうですけど、必ずあることがあって、その犠牲で成り立つわけで、自分だけが何でもかんでもつかめるのかということはまずない。これを忘れずに生きることが、できる人は、ほんと、謙虚で立派な方だと本当に思いますね。わたしも身に付けられたらと思います。それを考えると、悪人は、存在しなくなると言われたことがありました。ただ、私はそこまではまだできないみたいです。なんともはずかしい、凡夫のままですね。今日も、だめかあとため息をついて笑うことしかまだできない。本当に視野を開くとか、こころを大きくとかはまだまだです。それは同時にしっかりするということでもあるから。まだまだしっかりしていない、根なし草のような、私です。