寂しさを忘れよう
今日は、ちょっとばかり、知人とトラブルがありました。まあ、結論から言うと、過去を忘れられないということは、明らかに不利なのです。でも、それができないというのは本当に悲しいことであり、苦しいことです。
トラブルこそありましたが、知人とは、何とか話が付き、和解することができました。
心からほっとしています。
文字のやり取りは時にはこうして、難しいなあと思うこともあります。便利な物ではあるけれど、相手の表情やしぐさなどを見て話せないので、そこらへんが難しいですね。そうなると、やっぱり、電話はなくならないでほしいなと思わずにはいられませんでした。
メールはとても便利だけど、そういう弱点はありますから、誤解されて、変なほうへ行ってしまうことはあるので、あまり好きな道具ではありませんね。
さて、本題に戻りますと、過去を忘れられないというのは、本当に困ります。それだけ傷ついているのだろうなと思うけど、それのせいで様々な「症状」に結びついてしまうのは困る。ひどくなれば、妄想や幻聴などもおこります。幻聴が聞こえてきて、それに快楽を覚えてしまう人というのは、それしか会話する相手がないから、次第にそっちの方が気持ちよくなってしまうのです。そして、だんだんに、正常な行動が苦痛になっていき、できなくなってしまうのでしょう。たどり着いた先は、精神科に入ったり、刑務所に入ったり。
それから先、もとへ戻るのは非常に困難です。
なぜ、そうなるのかと言いますと、正常な行動というのは、必ずあることをしなければ成立しません。それはなにかと言いますと、人間が面と向かって話すということです。例えば、掃除をするのだって、自分一人で使う物であれば、あまり掃除を念入りにしたりはしませんよね。しかし、誰かほかにも使う人がいれば、入念に掃除をしたりする。ご飯だって、一人で食べるには、インスタントで済ませますが、誰かがいれば、栄養分を考えて、手作りの食事を作りたくなります。どういう事かと言いますと、人が意欲的に行動していくためには、必ず「相手」が必要で、一人だけではできないのです。過去を忘れろと人は言いますが、現在の事に重点を置けば嫌でも忘れられます。相手がいれば、その人のことを思って嫌でも行動しなければならなくなりますから。つまり、過去を忘れろではなく、まず寂しさを忘れることを始めるべきです