仕事が終わった後は伊勢に連絡することになっている。しかしいつもなら一秒で出る電話に彼はでなかった。私は首を傾げながらRホテルに向かった。伊勢との逢瀬は大概がRホテルだが、今日という日は何かが違った。まず第一に煌びやかな電灯が点いていない。自動ドアが開き、幽霊屋敷を彷彿とされるフロントに足を踏み入れる。未開の地に足を踏み入れたコロンブスも同じような心境だったのではないか。ん?少し違うか。彼は興奮と希望に満ちていたが、生憎私はそのどちらの感情も持ち寄せていない。あるのは、不安と恐怖だ。
 通い慣れた三〇三号室をノックする。応答はない。なにより不思議なのは(いつもそうなのだが)ホテルの従業員がいないことだ。いつもだったらいるはずの人物がいない。ドアノブを捻り、中へ入る。なんとなく伊勢の雰囲気というのはわかる。風情から滲み出ているオーラというのが人は必ず纏っている。ボスはそのオーラを人より強く放っている。
 が、その存在を私は感じ取ることができなかった。電灯のスイッチを点ける。明かりが点いた。電気は通っているようだ。チカチカと電灯が明滅し、突然の光に思わず顔を附せ、目を徐々に慣らす。
 私は顔を上げ室内を見渡す。存在なし。そこには誰もいなかった。あるのは見慣れた光景。紺と白のストライプカーテン。皺ひとつないベッドシーツにくるまれたダブルベッド。小型冷蔵庫に。桃色のスリッパと青色のスリッパ。ただそれだけ。これはなにかしらの暗示なのであろうか。
〝変えが利く〟
 伊勢は蜘蛛の巣の罠にみたて私にそう言った。となるとこれはもう決められたことなのだろうか。誰かが張り巡らした糸という罠に、私は絡めとられていたのだろうか。伊勢も、私も、もちろん加賀美瀬利菜、も。そしてRホテルすらも。
 胸騒ぎのようなものを全身に感じ、私は律儀にも電灯スイッチをオフにし、部屋を出て、闇に包まれたRホテルを後にした。

 何度も、何度も、伊勢にコールをしているが、繋がらない。
 孤独。
 加賀美瀬利菜は言った。「私とあなたが似ているなら、あなたも孤独なのね」、と。私の周囲から人々が消えていく。
 私は家族が待っている、と思い込んでいる自宅に向かった。なぜだか無性に家族の温もりを感じたいと思った。刺激を求め報酬を得た。その反動は温もりと安心を反故にし、忘れ去っていた。
 腕時計を確認する。
 午前五時。
 私は塗装したばかりの自宅の玄関の前に立ち、息を整えた。ドアノブを掴もうと思い、止めた。背後で気配がしたからだ。さっと、後ろを振り向いた。が、誰もいない。枯れ葉が手入れの行き届いた庭に風で踊っていた。庭の手入れに関していえば業者任せだが。まあ、それはいい。
 ドアノブを捻り、玄関にヒールを脱ぎ捨て、上がり込む。Rホテルと同じような雰囲気ということに気づく。
 存在なし。
 それだ。明らかな不在を感じた。
 一通り部屋を確認し、もう一度確認し、見えないボスに報告。
〝誰もいません〟
 これは罰ゲームか何かだろうか。私が人を殺し、その罰ということだろうか。そうだ、一眠りして、起きたら夢だった。というお決まりの定石があるはずだ。そうだ、そうだ、と私は二回頷き、リビングに向かった。アルテックのソファに座り、腕を組み、唇が渇いた。疑問が湧く。
〝私の家族はどこ?〟
 疑問に呼応するように時間帯にそぐわないインターホンが鳴った。思わず身体がびくっとする。身体が勝手に動き私は玄関に向かう。張り巡らされた糸に絡めとられ、操り人形のように足が動き、自分の意志とは反した行動に怪訝さを感じた。覗き穴で外の様子を確認する。男が二名立っていた。どちらも知らない顔だ。ドアを開く。
「どちらさまでしょうか」
 私の問いかけを無視し、男は漆黒の手帳を私の眼前に掲げた。目の前の光景が揺れる。眼球の動きが激しい。「大丈夫ですか」ともう一人の男の声が言った。思考が右往左往する。遂にこの時がきたのだ。終わりの時が。
「ご主人も逮捕しました」
 その声に私は理性を取り戻す。豊が?男二人の背後に豊はいた。それも端正な顔を維持したまま笑みを讃えている。なにやら口パクで私に伝えようとしている。読心術は得意ではない。得意な人も知らない。それでも私は読解を試みる。
〝ボクモ、クモノイチブ〟
 そう読み取れた。
 知っていた?私が殺し屋をやっていることを彼は知っていた?ボクモ、ということは豊もそうだったということなのか。わからない。なにがなんだかわからない。突然の出来事は人を混乱させる。
 では、伊勢は?
〝変えは利く〟
 私は切り取られ、彼は別の手足を探しに消えたのだ。また違う罠を仕掛けるために。
 孤独。
 加賀美瀬利菜、私もあなたと同じ道を辿ることになりそう。目の前の男が、A四判の薄っぺらい紙を私の目の前に見せつけ、シルバーの鎖が見た目通りのひやりとした感触そのままに手に馴染んだ。
 朝日が空を赤茶色に染め上げ、いつもの目覚めの早い鳥がいつもの孤独の音階で鳴いていた。その音階は、私の心に棲みつき、出ていくことはなかった。