沙織が私の部屋に突然顔を出したのは、ほんの数日前だ。夕方トイレから戻ると、腕を組んで仁王立ちした沙織が、部屋の壁にかかったカレンダーをじっと睨みつけていた。咄嗟に、うわ、と声に出してしまった。
「嘘・・・」
「なに、うそって」
むっとした顔で沙織が答えた。
「いや、まさか私のところに沙織が来るなんて思わなかったから」
久しぶりに目にする彼女の顔は、最後に見たときとほとんど変わらず、元気そうにも見えた。
あれから彼女は私の部屋に入り浸り、何をするでもなく、私の近くにいるようだった。しかし私がごろごろしたりインターネットの動画サイトにかぶりついたりしているのを数日眺めたのち、しびれを切らしたように言った。
「ねえ、ちょっと。いつまでそうしてる気なわけ?」
「え・・・いつまで、とは・・・?」
「仕事探すとか、しないわけ?」
「うーん・・・そのうち、頑張るから」
「・・・そのうちって何・・・」
沙織はあきれ返って深くため息をついた。いつだって正しい、自慢の妹。可愛くて妬ましい私の妹。
今思えば、あの会社での私の振る舞いは妹を模していた。明るく、愛想よく、無邪気さと厚かましさの絶妙なバランスを保ちながら、うまく立ち回ろうとしていた私。私は沙織になりたかったのだ。そして沙織を模した私を、岸谷は愛していると言った。結局偽物がつかめるものは、偽物でしかない。
沙織は妹ながら、いつでも私の上を行った。何をやっても平均点の姉と、何をやっても平均を大きく上回る妹。おまけに沙織はなぜか人に可愛がられるタイプで、小、中、高と、登下校の間も彼女の周りにはいつも人がいた。幸いにも両親は私たち姉妹を分け隔てなく育ててくれた。家のなかを綺麗に保つことに心血を注ぐ母と私は気が合った。よくふたりで、代わる代わる花を買って帰っては食卓に飾っていた。沙織も花が好きだったはずだけれど、私と母の間に割って入ることはなかった。
思い返すと、母を含めてですら、私と沙織はしっかり話をしたことがない気がする。沙織が何を考えているか、私にはいまひとつ想像できない。
沙織のことを理解できないと最も感じたのは、一年前、岸谷との一件が起きたときだ。私が岸谷の妻と会社の上司も巻き込み、会社を辞めることで合意に向かっていたころ、高校時代の同級生、大倉健太郎からメールが届いた。
大倉と私は三年間同じクラスで高校生活を過ごし、沙織のバスケ部の先輩でもあると聞いていた。私自身は大倉とたいして親しくはなかったものの、卒業式の日に連絡先を交換していたのだ。大学生となってからも、同窓会という名の飲み会で、一年に一度会っていたが、個人的な連絡を交わしたことはほぼなかった。大倉はいわゆるスクールカーストの上位層に生きる人間で、私とはかかわりのないひとだ。そう思っていた。
『沙織に聞いた。なんかいろいろ大変そうだな。何かできることあったら言って。今度飲みにでも行こう』
大倉からの文面を読んで、第一感、ほう、と驚いた。なんかいろいろ、とは、岸谷のことだろう。なぜ沙織は私の話を岸谷に披露したのだろうか。沙織は一見派手なくらい華やかな子だが、この家で一番現実的な子でもあった。切り花を活けるよりも、野菜の種をまくことを好んだ。現実と常識を重んじている、それが私の持つ、数少ない沙織へのイメージだ。そんな彼女が、身内の不倫を嬉々として他人に話すとは思えなかった。
大倉にこの話を漏らされたという戸惑いより、沙織が何を思って大倉にこの話をしたのだろう、という疑問のほうが大きかった。沙織本人に問いただそうかとも思ったが、そのときの私には、これ以上岸谷にまつわる出来事で誰かと諍いをするエネルギーはもう残っていなかった。私が考えているよりふたりは親しかったのだろう、そう結論付けて終わった。社交辞令でも何か返事をするべきかと思ったが、思いつかずにそのまま閉じた。あのときの大倉のメールには、返事をしないまま一年が経っている。

そんな大倉に連絡するようにと言ったのは、沙織だった。私の部屋に現れ、あきれたように「いつまでそうしているんだ」と言った彼女は、その日も惰眠をむさぼろうとベッドに入った私に、大倉に相談してみるようにとほぼ命令形で指示をした。
「健太郎先輩、人の相談乗るの、得意だから。きっと力になってくれるよ」
そうだった?と私が首をかしげると、そうなの!と怒ったように答え、沙織は部屋を出ていった。
電気を消し、だれもいなくなった部屋でひとり天井を見つめた。そうか、沙織は私にしっかりしてほしいんだな、と当たり前のことに思い当たった。いつまでも社会復帰できない姉を心配したのか、恥じたのか。
本格的に眠りにはいる前に、忘れないように、と、私は枕元のスマートフォンをたぐりよせ、大倉の連絡先を呼び出した。