都内某所で行われる井上ユミのシークレッットライブはMTVアンプラクドのような会場だった。
こじんまりとしていて壁には有名なアーティストのサインや著名人の顔写真と会場のオーナーらしき人物の写真が飾られていた。会場にはテレビでよく見かける顔が見受けられた。
アオイはクラフトビールをバーカウンターで頼み、一気に飲み干した。さらにもう一杯。にいちゃんいける口だね、と髭を生やしたバーテンに言われ、「ぼちぼちですね」と言い放つ。中村と鈴木はまだ来ていなかった。アオイは周囲を見渡した。愛想笑いを振りかざす経済人や化粧を塗りだくった落ち目の女優。
ここにいるアオイの存在は誰にも見咎めらず、間違いな気がしてきた。限られた者の限られた空間は否めない。ここは三十階建てのビルの十五階に位置していた。アオイは最近見る夢がある。同じエレベーター、または違うエレベーターに何度も、何度も乗り、十三階まで行く。そして、誰か、に招かれる。今日も見た。昨日も見た。そもそもいつから夢を見たのだろう。
〝夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である〝
フロイトもなかなかに粋な名言を放つものだ。会場まで辿り着くエレベーターに乗った際には、十三階の階数ボタンを押すところだった。意識的にというよりは半ば無意識的に。押し心地の良いボタンだった。人体力学に基づいた、人の気分を害すことなく自然な形で上階に誘う入り口を見事に実現していた。だからといって夢の解釈ができるわけではない。そう、そこがアオイの研究テーマであり実践段階なのだ。
「お待たせアオイ君」
思考の中断というのは女性の声で寸断された。男が論理的な生き物なら女は感覚的。まあ、もちろん例外もあるが。目の前には、キャンパス内にいたジャケットを羽織った鈴木はいなかった。アオイの知らない鈴木がいた。ドレスコーデが様になり、肩口は肌が露出していた。髪の毛はアップにし、今からお得意様と○○○なのと言われても誰も否定はしない妖艶さがあった。女という生き物の容姿は時系列順に並べることは容易なのだが、いかんせん変化が著しく、株価の変動より予測が難しい。当然、嬉しい誤算もあれば、悲しい誤算もある。おそらく中村にとっては前者だろう、ことは彼の鼻の膨らみを見れば判断は難しくない。
「中村、暴走するなよ。機関車も、適切な石炭量であれば暴走しない」
「し、失礼な事をいうなよアオイ。鈴木さんの目の前で。とても綺麗です」
「ありがとう、中村」
「にしてもすごいメンツだ」
アオイはシャンペンを飲んでいる一団に目を向けた。
「あの人達は、海外のお偉いさんね」
「お偉いさんがこちらを見て、会釈してるぞ」
中村は興奮しながらいった。石炭が追加されたらしい。
「こっちを見てるというより鈴木を見てるんだろうな」
そう言いながらもアオイはグラスを掲げ挨拶をした。
「さすが鈴木さん。有名人」
「パパのお陰ね」 鈴木は細い腕に似合うブランド物の小さな腕時計を眺め、
「もうそろそろ時間よ」とあそこに座りましょう。
全てが関係者席とあり、自由席だった。映画館のような座席割にあっていて、延べ五十人収容の中、三十人の限定。井上ユミというニューヨークを主戦場とするジャパンのドル箱にはあらゆる利権が絡んでくることはこの会場にいればそれとなくアオイには予想がついた。
舞台袖が慌ただしくなった。だが、それは一瞬のことだった。すぐに静寂が戻り、会場の照明が徐々にダークグリーンに切り替わった。グランドピアノに淡いブルーの照明があてられ、照明の光の道には埃が通っていた。空気に淀みはないが、二酸化炭素の量が増加傾向にあるのは気のせいではないだろう。
拍手が湧き起こった。全体が黒で赤いストライプの混じったドレスを身につけた井上ユミが登場した。ショートカット。黒髪が印象的だったが、茶髪に変わっていた。小ぶりな卵顔、大きい目。右側の頬にあるホクロが印象的だ。童顔だが三十は超えている。正確な年齢は公表されていない。生い立ちも未だに不明である。秘密主義の世界を股にかける天才ジャズピアニスト井上ユミ。
アオイは目を見開き、そして、カラフルなオーラを感じた。圧倒された。拍手をするのすら忘れた。唾を飲み込んだ。そして、また唾が出た。また、飲み込んだ。なので、数秒遅れて拍手した。拍手が鳴り止み、井上ユミが洗練されたルーティーンでピアノに向かい、椅子に座った。鍵盤を見つめ、右手人差し指を軽く折り、さらに左手薬指を折り、一度目を閉じ、口角を上げ、目を開き、鍵盤を叩き弾いた。ジャズのストリートナンバーを自由に弾きこなす。激しく華麗に流麗に。上流から下流に向かう水のように、音の最終地点を探り当てるように鍵盤を弾いていた。聴衆は耳に音を集中させ、目は井上ユミに注がれていた。人ではなく音に恋をすることがあるのだろうか。
人は思考と感情でできている。
音が感情を。思考を司る媒体は井上ユミ。だが、井上ユミに恋をしているのではない。音に恋をしているのだ。今まで付き合った女性、これから出会うだろう魅力的な女性よりも、この破壊的であり破滅的な音は、アオイの何かを変えようとしていた。音楽は芸術だ。芸術に魂が宿り、その人となりの人生観が宿る。なんだろう、この切迫した緊張感は。なんだろう、いい知れぬ虚無感は。なんだろう、抗えぬ恍惚感は。アオイは唾を飲み込んだ。唇が乾いた。季節は春だ。空気は乾燥していない。彼自身の水分が体外に気化しているのだろう。ビールが飲みたい。アオイは水分を欲していた。彼の感情を無視するかのように一曲目は終わり、二曲目に突入した。左から右へと階段を駆け上がるように音が波打つ。かと思うと鍵盤を叩く。リズムは三連符、六連符、九連符と楽譜にはないであろう即興演奏が続いた。聴衆の額には汗が流れ、威圧でもあり静謐の演奏に体感の寒暖差は否めない。
音が変わった。井上ユミと音の融合が空間を席巻しアオイの耳を刺激した。高度で的確な音色は心地よく、喉の渇きを忘れるぐらいに没頭した。三曲目に入ったにも関わらず井上ユミの額には汗ひとつ浮かんでいなかった。涼しい顔で弾き、表情は溢れんばかりの輝きを放ち、鍵盤は音を鳴らすのを止めた。
静寂。
休符を挟んでの大歓声は三十名のスタンディングオベーションで井上ユミのシークレットライブは幕を閉じた。鳴り止まぬ歓声は井上ユミが舞台袖に下がっても当分の間空間を纏っていた。
「凄い!」
鈴木は目を輝かせクールな声とは程遠い大声を放った。
「ブラボー」
中村の悪ノリが炸裂した。
アオイは圧倒的な虚脱感が全身を襲い、水をもらいに、バーカウンターに向かった。表面張力いっぱいに注がれた水を一気に彼は飲み干した。渇きは癒えず、もう一杯、もらい、すぐに喉に流し込んだ。「にいちゃん、いくねえ」とバーテンダーに言われ、「ぼちぼちですね」とアオイは返した。
「鈴木さん。あれ、誰でしたっけ?」
中村の声が聞こえた。
「あれは私達が通う大学の佐々木学長。中村、失礼」
鈴木は佐々木学長の元に向かい丁重な会釈をし白い歯をこぼしていた。営業スマイルといえばそれまでだが、みる者を魅了する輝きがそこにはあった。中村もそう思っていることだろう。事実、中村の目にはハートマークが印字されていた。
が、佐々木学長がなぜここにいるのだろう。各界の有力者の集いといえど、大学の学長風情がこの場に来るだろうか。佐々木学長の周囲には国籍不明の人間が数人いた。アオイの目には彼らの表情ひとつひとつが偽善的に見えた。この場で心からの笑みが漏れるとはあまり思えない。なにかしらの利権がはびこっているのだろう。ビジネスはときに人の心を弄び、そして廃れさせるのかもしれない。アルコールの苦味と酸味が心を中和させてくれるのかもしれない。一時的に。
「鈴木さんって顔広いな」
中村は上機嫌にアオイに声を掛けた。中村の頬は赤く、アオイが知っている限り、ビール三杯、ワイン三杯、コーラ三杯を飲んでいる。奇数を好むのか、三という数字にブレはない。
「それは当然だろ。重役の娘だぞ。にしても、佐々木学長とこの場が似ても似つかない」
アオイはグラスの水を飲み干した。
「ハゲてるしな」
中村の言葉に周囲を見た。
うん。たしかにハゲてるのは佐々木学長のみだ。それに学者然としていて違和感もある。
「大人の事情ってやつか」
「いずれ俺たちもあちら側に行くと思うと学生はやめられないよな。今がいい、てさ、それは先のことがわからないから言えることだよな。だってよ、アオイ。学生の特権って、楽しむことだろ」
中村は一杯目の水を頼んだ。
「お前は楽しんでのかよ?」
「鈴木さんといるだけで幸せだよ」
「付き合えばいいじゃねか」
「物事ってのは、段階を踏まなきゃいけないんだ」
中村はグラスの水を飲み干し、さらに水を頼んだ。二杯目。
「お前に教えてやるよ」
「何をだよ」
中村は相当酔っているのだろう。溶けたチョコのように目が垂れ下がっていた。ベッドに寝かしつければ音速で眠りの世界に入ることだろう。
「ときに女は強引に弱い。男らしさを見せてやれ。鈴木もアルコールが入ってるからな。今日はお前の強引さに面食らうかもしれないぞ」
「鈴木さんが?」
中村は満更でもなさそうにグラスの水を飲み干し。また水を頼んだ。三杯目。
「チャンスは活かすも殺すもお前次第だ」
アオイは胸を小突いた。
「実は恋愛の指南本を何冊か読んでみたんだ」
中村はいった。
「中村、忠告していてやるよ」
「なにを忠告されるんだよ、俺は」
「恋愛の指南本なんか白紙と一緒だ。男と女にマニュアルなんかないんだよ。あるのは予想して得た結果のみ」
「言うねえ」
中村は指笛を吹いた。が、空笛に終わった。
「お前がここからはマニュアルを作れ」
「どういうことだよ」
「俺は帰る。いい演奏が聴けたしな。それと酔いをさましたい」
アオイは席を立った。鈴木がこちらを見ていた。ハイエナのような目つきをした佐々木教授もこちらを見ていた。佐々木教授はアオイから視線を外さず、不敵に笑ったように見えた。アオイは軽く会釈し、鈴木の、「か・え・る・の」という読唇術を読み取った。
「僕はまだ帰らないから」
中村は鈴木に叫んだ。それに対して鈴木は何も応えなかった。場にそぐわない大声を中村が出したからだろう、ちっと舌打ちめいた動作をアオイは見た。それに対し、アオイは口角をきゅっと上げ、ジャケットを羽織り、扉を出た。
夜風は冷たかった。
体温が火照っているからかもしれない。
いや、あの情熱的な演奏を聴いたからだろう。
アオイは電車に乗り、臭客に紛れ、己の臭気を紛れさせた。不快な顔はどこにも見当たらず、自分自身のにおいもわからなくなっていた。電車が各駅で止まり、雨に濡れた乗客がなだれこみ終電間際の車内は混んだ。電車の両開きの扉が開くたび、清涼な空気が入り、革靴のぴちゃりとした音が車内に響いた。雨は強く、車内の窓を打ちつけた。が、アオイの停車駅が近づく頃には、雨は弱くなり、そして、止んだ。
アオイの家まで数百メートル。一人暮らしの一Kマンション。料理は勉強中とうそぶいてはいるが、包丁を握ったことがない。おそらくこの先もすることはないだろう。
マンションまでの道すがらは街路灯が闇を照らしていた。見上げた空には星もなければ月もなかった。アオイは前を見た。誰かが歩いてくる。
女?
闇に照らされても、アオイには目の前を歩いてくる女性が目立つ容姿をしていることが視認できた。いや、容姿というよりは、身に纏う、なにかか。
自然とアオイは歩みが遅くなる。なんだろう、そうしなければいけないような気がしたからだ。
しかし、アオイの予測に反し女は一定の速度を保った歩みを止め、立ち止まった。なにやら探している。目的のものを確認し終えたのか、また歩みを進めた。その際に、一枚の紙切れが地面に落ちた。アオイは咄嗟に声を出し、地面に指をさした。
「落ちましたよ」
女は立ち止まった。街路灯の光が女のシルエットを反映させ、際立たせた。深緑のニットにパープルのタイトスカート。なにより意志の強い眼差しと印象的な右頬のホクロ。そう、井上ユミがアオイの目の前に立っていた。
「あれえ」と井上ユミは髪の毛を指でいじくり出し、「落ちた、んじゃなくて、
落としたんだよね」と口角をきゅっと上げた。
アオイの思考は半ば停止した。井上ユミの放った言葉の意味を汲み取ろうとした。積み上げた言葉のレンガを構築し、分解していった。得られた結論は、よくわらかない、だ。
「落とした?」
アオイの言葉が目の前で落ちた。
「そう。そのまま。深い意味はないの。落ちた、ではなく、落とした。楽譜を落とした。ピックを落とした。明日を落とした、とかね」
井上ユミはゲラゲラと笑いだし、アオイに向かい手招きし、落とした紙に向かい指をさした。
拾え、というサインなのだろう。
アオイは命令されるのは好きではない。だが、自然と体が動いた。緩めた歩行は停止したが、加速した。井上ユミの魅惑的な視線をすり抜け、紙が落ちた場所に辿り着き、彼は屈んだ。アオイは紙に触れた。そこには文字がはっきりと記してあった。その文字の意味を吟味するうちに、彼の背中に重力が加わった。
アオイは振り向いた。
そこには、井上ユミの顔があった。右頬のホクロがクローズアップされ、半ば立体的に見えた。彼女の息遣いを彼は頬で受け止め、全身が硬直して動けなかった。それはそうだろう。さっきまで井上ユミのコンサートを間近に体感し、高揚感に浸っていたというのに、今度は目の前に夜道で出くわし、これが最終段階かはわからないが、背中に井上ユミがいる。状況がイレギュラーすぎて理解が追いつかなかった。たとえば、重要な何かがあるときに、腹痛を感じ、本来の身体的能力が発揮できないのと似ている。思考と肉体は鈍化し、次の一手が見えない。だけど、こういう場合の対処法は一つしかない。
流れに身を任せろ。
「拾ったんだ」
井上ユミは酒臭かった。わずか短時間で相当の量を飲んだらしい。というか、もしかしたら、コンサート前から飲んでいたのではないか、という疑念がアオイの中で生じた。もちろん、疑念は自分の中にしまいこんだ。
「この状況は難しいな」
「難しくはないわ。どんな曲より簡単。でも、少し疲れるけど」
「間違っていたら申し訳ないんだけど、井上ユミさんだよね?」
アオイは訊いた。
が、なんの返答もなかった。
あるのはスースーというリズミカルな寝息と甘い香水の匂いだった。ショートの髪はサラサラで仄かに煙草の臭いがしたが、彼女の目元にアオイの意識が集中したことで薄れた。
涙?
井上ユミの目元にはうっすらと涙を流した後のような軌跡があった。それとも欠伸だろうか。まあ、現時点欠伸説が濃厚だろう。アオイの背で寝ているのだから。
アオイは拾った一枚の紙に目を落とした。
『会えた』
紙には三文字そう書かれていた。お世辞にも綺麗な字とはいえない、雑な字で。
こじんまりとしていて壁には有名なアーティストのサインや著名人の顔写真と会場のオーナーらしき人物の写真が飾られていた。会場にはテレビでよく見かける顔が見受けられた。
アオイはクラフトビールをバーカウンターで頼み、一気に飲み干した。さらにもう一杯。にいちゃんいける口だね、と髭を生やしたバーテンに言われ、「ぼちぼちですね」と言い放つ。中村と鈴木はまだ来ていなかった。アオイは周囲を見渡した。愛想笑いを振りかざす経済人や化粧を塗りだくった落ち目の女優。
ここにいるアオイの存在は誰にも見咎めらず、間違いな気がしてきた。限られた者の限られた空間は否めない。ここは三十階建てのビルの十五階に位置していた。アオイは最近見る夢がある。同じエレベーター、または違うエレベーターに何度も、何度も乗り、十三階まで行く。そして、誰か、に招かれる。今日も見た。昨日も見た。そもそもいつから夢を見たのだろう。
〝夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である〝
フロイトもなかなかに粋な名言を放つものだ。会場まで辿り着くエレベーターに乗った際には、十三階の階数ボタンを押すところだった。意識的にというよりは半ば無意識的に。押し心地の良いボタンだった。人体力学に基づいた、人の気分を害すことなく自然な形で上階に誘う入り口を見事に実現していた。だからといって夢の解釈ができるわけではない。そう、そこがアオイの研究テーマであり実践段階なのだ。
「お待たせアオイ君」
思考の中断というのは女性の声で寸断された。男が論理的な生き物なら女は感覚的。まあ、もちろん例外もあるが。目の前には、キャンパス内にいたジャケットを羽織った鈴木はいなかった。アオイの知らない鈴木がいた。ドレスコーデが様になり、肩口は肌が露出していた。髪の毛はアップにし、今からお得意様と○○○なのと言われても誰も否定はしない妖艶さがあった。女という生き物の容姿は時系列順に並べることは容易なのだが、いかんせん変化が著しく、株価の変動より予測が難しい。当然、嬉しい誤算もあれば、悲しい誤算もある。おそらく中村にとっては前者だろう、ことは彼の鼻の膨らみを見れば判断は難しくない。
「中村、暴走するなよ。機関車も、適切な石炭量であれば暴走しない」
「し、失礼な事をいうなよアオイ。鈴木さんの目の前で。とても綺麗です」
「ありがとう、中村」
「にしてもすごいメンツだ」
アオイはシャンペンを飲んでいる一団に目を向けた。
「あの人達は、海外のお偉いさんね」
「お偉いさんがこちらを見て、会釈してるぞ」
中村は興奮しながらいった。石炭が追加されたらしい。
「こっちを見てるというより鈴木を見てるんだろうな」
そう言いながらもアオイはグラスを掲げ挨拶をした。
「さすが鈴木さん。有名人」
「パパのお陰ね」 鈴木は細い腕に似合うブランド物の小さな腕時計を眺め、
「もうそろそろ時間よ」とあそこに座りましょう。
全てが関係者席とあり、自由席だった。映画館のような座席割にあっていて、延べ五十人収容の中、三十人の限定。井上ユミというニューヨークを主戦場とするジャパンのドル箱にはあらゆる利権が絡んでくることはこの会場にいればそれとなくアオイには予想がついた。
舞台袖が慌ただしくなった。だが、それは一瞬のことだった。すぐに静寂が戻り、会場の照明が徐々にダークグリーンに切り替わった。グランドピアノに淡いブルーの照明があてられ、照明の光の道には埃が通っていた。空気に淀みはないが、二酸化炭素の量が増加傾向にあるのは気のせいではないだろう。
拍手が湧き起こった。全体が黒で赤いストライプの混じったドレスを身につけた井上ユミが登場した。ショートカット。黒髪が印象的だったが、茶髪に変わっていた。小ぶりな卵顔、大きい目。右側の頬にあるホクロが印象的だ。童顔だが三十は超えている。正確な年齢は公表されていない。生い立ちも未だに不明である。秘密主義の世界を股にかける天才ジャズピアニスト井上ユミ。
アオイは目を見開き、そして、カラフルなオーラを感じた。圧倒された。拍手をするのすら忘れた。唾を飲み込んだ。そして、また唾が出た。また、飲み込んだ。なので、数秒遅れて拍手した。拍手が鳴り止み、井上ユミが洗練されたルーティーンでピアノに向かい、椅子に座った。鍵盤を見つめ、右手人差し指を軽く折り、さらに左手薬指を折り、一度目を閉じ、口角を上げ、目を開き、鍵盤を叩き弾いた。ジャズのストリートナンバーを自由に弾きこなす。激しく華麗に流麗に。上流から下流に向かう水のように、音の最終地点を探り当てるように鍵盤を弾いていた。聴衆は耳に音を集中させ、目は井上ユミに注がれていた。人ではなく音に恋をすることがあるのだろうか。
人は思考と感情でできている。
音が感情を。思考を司る媒体は井上ユミ。だが、井上ユミに恋をしているのではない。音に恋をしているのだ。今まで付き合った女性、これから出会うだろう魅力的な女性よりも、この破壊的であり破滅的な音は、アオイの何かを変えようとしていた。音楽は芸術だ。芸術に魂が宿り、その人となりの人生観が宿る。なんだろう、この切迫した緊張感は。なんだろう、いい知れぬ虚無感は。なんだろう、抗えぬ恍惚感は。アオイは唾を飲み込んだ。唇が乾いた。季節は春だ。空気は乾燥していない。彼自身の水分が体外に気化しているのだろう。ビールが飲みたい。アオイは水分を欲していた。彼の感情を無視するかのように一曲目は終わり、二曲目に突入した。左から右へと階段を駆け上がるように音が波打つ。かと思うと鍵盤を叩く。リズムは三連符、六連符、九連符と楽譜にはないであろう即興演奏が続いた。聴衆の額には汗が流れ、威圧でもあり静謐の演奏に体感の寒暖差は否めない。
音が変わった。井上ユミと音の融合が空間を席巻しアオイの耳を刺激した。高度で的確な音色は心地よく、喉の渇きを忘れるぐらいに没頭した。三曲目に入ったにも関わらず井上ユミの額には汗ひとつ浮かんでいなかった。涼しい顔で弾き、表情は溢れんばかりの輝きを放ち、鍵盤は音を鳴らすのを止めた。
静寂。
休符を挟んでの大歓声は三十名のスタンディングオベーションで井上ユミのシークレットライブは幕を閉じた。鳴り止まぬ歓声は井上ユミが舞台袖に下がっても当分の間空間を纏っていた。
「凄い!」
鈴木は目を輝かせクールな声とは程遠い大声を放った。
「ブラボー」
中村の悪ノリが炸裂した。
アオイは圧倒的な虚脱感が全身を襲い、水をもらいに、バーカウンターに向かった。表面張力いっぱいに注がれた水を一気に彼は飲み干した。渇きは癒えず、もう一杯、もらい、すぐに喉に流し込んだ。「にいちゃん、いくねえ」とバーテンダーに言われ、「ぼちぼちですね」とアオイは返した。
「鈴木さん。あれ、誰でしたっけ?」
中村の声が聞こえた。
「あれは私達が通う大学の佐々木学長。中村、失礼」
鈴木は佐々木学長の元に向かい丁重な会釈をし白い歯をこぼしていた。営業スマイルといえばそれまでだが、みる者を魅了する輝きがそこにはあった。中村もそう思っていることだろう。事実、中村の目にはハートマークが印字されていた。
が、佐々木学長がなぜここにいるのだろう。各界の有力者の集いといえど、大学の学長風情がこの場に来るだろうか。佐々木学長の周囲には国籍不明の人間が数人いた。アオイの目には彼らの表情ひとつひとつが偽善的に見えた。この場で心からの笑みが漏れるとはあまり思えない。なにかしらの利権がはびこっているのだろう。ビジネスはときに人の心を弄び、そして廃れさせるのかもしれない。アルコールの苦味と酸味が心を中和させてくれるのかもしれない。一時的に。
「鈴木さんって顔広いな」
中村は上機嫌にアオイに声を掛けた。中村の頬は赤く、アオイが知っている限り、ビール三杯、ワイン三杯、コーラ三杯を飲んでいる。奇数を好むのか、三という数字にブレはない。
「それは当然だろ。重役の娘だぞ。にしても、佐々木学長とこの場が似ても似つかない」
アオイはグラスの水を飲み干した。
「ハゲてるしな」
中村の言葉に周囲を見た。
うん。たしかにハゲてるのは佐々木学長のみだ。それに学者然としていて違和感もある。
「大人の事情ってやつか」
「いずれ俺たちもあちら側に行くと思うと学生はやめられないよな。今がいい、てさ、それは先のことがわからないから言えることだよな。だってよ、アオイ。学生の特権って、楽しむことだろ」
中村は一杯目の水を頼んだ。
「お前は楽しんでのかよ?」
「鈴木さんといるだけで幸せだよ」
「付き合えばいいじゃねか」
「物事ってのは、段階を踏まなきゃいけないんだ」
中村はグラスの水を飲み干し、さらに水を頼んだ。二杯目。
「お前に教えてやるよ」
「何をだよ」
中村は相当酔っているのだろう。溶けたチョコのように目が垂れ下がっていた。ベッドに寝かしつければ音速で眠りの世界に入ることだろう。
「ときに女は強引に弱い。男らしさを見せてやれ。鈴木もアルコールが入ってるからな。今日はお前の強引さに面食らうかもしれないぞ」
「鈴木さんが?」
中村は満更でもなさそうにグラスの水を飲み干し。また水を頼んだ。三杯目。
「チャンスは活かすも殺すもお前次第だ」
アオイは胸を小突いた。
「実は恋愛の指南本を何冊か読んでみたんだ」
中村はいった。
「中村、忠告していてやるよ」
「なにを忠告されるんだよ、俺は」
「恋愛の指南本なんか白紙と一緒だ。男と女にマニュアルなんかないんだよ。あるのは予想して得た結果のみ」
「言うねえ」
中村は指笛を吹いた。が、空笛に終わった。
「お前がここからはマニュアルを作れ」
「どういうことだよ」
「俺は帰る。いい演奏が聴けたしな。それと酔いをさましたい」
アオイは席を立った。鈴木がこちらを見ていた。ハイエナのような目つきをした佐々木教授もこちらを見ていた。佐々木教授はアオイから視線を外さず、不敵に笑ったように見えた。アオイは軽く会釈し、鈴木の、「か・え・る・の」という読唇術を読み取った。
「僕はまだ帰らないから」
中村は鈴木に叫んだ。それに対して鈴木は何も応えなかった。場にそぐわない大声を中村が出したからだろう、ちっと舌打ちめいた動作をアオイは見た。それに対し、アオイは口角をきゅっと上げ、ジャケットを羽織り、扉を出た。
夜風は冷たかった。
体温が火照っているからかもしれない。
いや、あの情熱的な演奏を聴いたからだろう。
アオイは電車に乗り、臭客に紛れ、己の臭気を紛れさせた。不快な顔はどこにも見当たらず、自分自身のにおいもわからなくなっていた。電車が各駅で止まり、雨に濡れた乗客がなだれこみ終電間際の車内は混んだ。電車の両開きの扉が開くたび、清涼な空気が入り、革靴のぴちゃりとした音が車内に響いた。雨は強く、車内の窓を打ちつけた。が、アオイの停車駅が近づく頃には、雨は弱くなり、そして、止んだ。
アオイの家まで数百メートル。一人暮らしの一Kマンション。料理は勉強中とうそぶいてはいるが、包丁を握ったことがない。おそらくこの先もすることはないだろう。
マンションまでの道すがらは街路灯が闇を照らしていた。見上げた空には星もなければ月もなかった。アオイは前を見た。誰かが歩いてくる。
女?
闇に照らされても、アオイには目の前を歩いてくる女性が目立つ容姿をしていることが視認できた。いや、容姿というよりは、身に纏う、なにかか。
自然とアオイは歩みが遅くなる。なんだろう、そうしなければいけないような気がしたからだ。
しかし、アオイの予測に反し女は一定の速度を保った歩みを止め、立ち止まった。なにやら探している。目的のものを確認し終えたのか、また歩みを進めた。その際に、一枚の紙切れが地面に落ちた。アオイは咄嗟に声を出し、地面に指をさした。
「落ちましたよ」
女は立ち止まった。街路灯の光が女のシルエットを反映させ、際立たせた。深緑のニットにパープルのタイトスカート。なにより意志の強い眼差しと印象的な右頬のホクロ。そう、井上ユミがアオイの目の前に立っていた。
「あれえ」と井上ユミは髪の毛を指でいじくり出し、「落ちた、んじゃなくて、
落としたんだよね」と口角をきゅっと上げた。
アオイの思考は半ば停止した。井上ユミの放った言葉の意味を汲み取ろうとした。積み上げた言葉のレンガを構築し、分解していった。得られた結論は、よくわらかない、だ。
「落とした?」
アオイの言葉が目の前で落ちた。
「そう。そのまま。深い意味はないの。落ちた、ではなく、落とした。楽譜を落とした。ピックを落とした。明日を落とした、とかね」
井上ユミはゲラゲラと笑いだし、アオイに向かい手招きし、落とした紙に向かい指をさした。
拾え、というサインなのだろう。
アオイは命令されるのは好きではない。だが、自然と体が動いた。緩めた歩行は停止したが、加速した。井上ユミの魅惑的な視線をすり抜け、紙が落ちた場所に辿り着き、彼は屈んだ。アオイは紙に触れた。そこには文字がはっきりと記してあった。その文字の意味を吟味するうちに、彼の背中に重力が加わった。
アオイは振り向いた。
そこには、井上ユミの顔があった。右頬のホクロがクローズアップされ、半ば立体的に見えた。彼女の息遣いを彼は頬で受け止め、全身が硬直して動けなかった。それはそうだろう。さっきまで井上ユミのコンサートを間近に体感し、高揚感に浸っていたというのに、今度は目の前に夜道で出くわし、これが最終段階かはわからないが、背中に井上ユミがいる。状況がイレギュラーすぎて理解が追いつかなかった。たとえば、重要な何かがあるときに、腹痛を感じ、本来の身体的能力が発揮できないのと似ている。思考と肉体は鈍化し、次の一手が見えない。だけど、こういう場合の対処法は一つしかない。
流れに身を任せろ。
「拾ったんだ」
井上ユミは酒臭かった。わずか短時間で相当の量を飲んだらしい。というか、もしかしたら、コンサート前から飲んでいたのではないか、という疑念がアオイの中で生じた。もちろん、疑念は自分の中にしまいこんだ。
「この状況は難しいな」
「難しくはないわ。どんな曲より簡単。でも、少し疲れるけど」
「間違っていたら申し訳ないんだけど、井上ユミさんだよね?」
アオイは訊いた。
が、なんの返答もなかった。
あるのはスースーというリズミカルな寝息と甘い香水の匂いだった。ショートの髪はサラサラで仄かに煙草の臭いがしたが、彼女の目元にアオイの意識が集中したことで薄れた。
涙?
井上ユミの目元にはうっすらと涙を流した後のような軌跡があった。それとも欠伸だろうか。まあ、現時点欠伸説が濃厚だろう。アオイの背で寝ているのだから。
アオイは拾った一枚の紙に目を落とした。
『会えた』
紙には三文字そう書かれていた。お世辞にも綺麗な字とはいえない、雑な字で。