「『夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である』精神科医であるフロイトの言葉だ。まさに、君の現在の状況に当てはまるぞ、小沢アオイ君」
突然睡魔が襲ってくることが多々あり、だからこそ目を閉じていたのだが、先ほどふと瞬間に目覚めたアオイにとって見開いた眼前にすぐさま飛び込んできたのが、白いチョークだ、と思った時には額にクリーンヒットした。
「教授、僕は寝ていません。起きていました」
周囲から失笑が漏れた。
アオイは額をさすり、額に当たり折れたチョークの残骸を拾った。チョークの構成物質は炭酸カルシウム。炭酸カルシウムは貝殻や卵の殻の主成分。理解、分解、再構築の果てがチョークか、とアオイは佐藤教授がいる教壇に向かった。
「いやあ。小沢アオイ君。私の講義がそんなにつまらないのかね?大丈夫。何も言うな。君ら学生にとって聞くという行為は退屈で仕方ないだろ」
佐藤教授は目を吊り上げながら言った。名のある論文を多数発表している者にありがちなこめかみ部分の白髪、顔は五十を過ぎても精気がみなぎりカロリーの高い食事を摂取しているだろう、肉感的体系。スーツは一般的な黒だが、講義の合間に、『オーダーメードの重要性』という単語を九十分の講義で三回出す時点で己のスーツがオーダーメードスーツということを遠まわしにいう、面倒くさい老獪教授ということを、アオイは見抜いていた。もちろん、アオイだけでなく、生徒は皆熟知していることだろう。
「そんなことはありませんよ教授。フロイトもこう云っています。『自分に完全に正直でいることは、よい修練になる』、と。夢の中で教授の声は届いていました」
「夢の中?うんうん。面白い解釈をするな小沢アオイ君。自分に対してとことん正直になるのは心身の充実にも繋がる。ここで一つ質問だ」
「なんでしょう、教授」
「君は、コーヒーに角砂糖を何個いれるのだい?」
「申し訳ありません。教授。僕はブラックコーヒーを好みます」
アオイは快活に応えた。
すぐさま、ハハハ、とこの世の終わりのような笑い声が響き渡り、「小沢アオイ君。君はブラックユーモアのセンスがあるな。まさか角砂糖を入れないとは。糖分の過剰摂取は体に毒だが、適度な摂取は脳にいい」
おいおい、あなたに言われたくない、と風船のように膨らんだ佐藤教授の体つきを見ながらアオイは思った。爪楊枝を腹部に刺してみたい衝動に駆られるが、返報性の法則が仮にあるとすれば、返ってくるのは破裂音ではなく、怒りの爆撃音だろう、ことは想像に難くない。
「ご教授感謝します」
アオイは腹部を眺めながら丁重にお辞儀をした。
「だが、君は不思議だ」
佐藤教授は目を細め、自分の肉付きを再確認するかのように頬の肉をつまん
だ。または、それが合図かのように。
「不思議?」
当然ながらの疑問をアオイは呈す。
「君が非常に優秀な生徒だということは知っている。しかし、優秀性を感じさせる要素が私からは見えない。いや、見えないのではなく、見えていないのか。私には見る目がないのか、それとも私が歳をとったのか。まあ、年齢のせいにするのは良くない。言い訳の一種に聞こえなくもないからね。成績優秀な君がどんな研究をするのか楽しみだね。研究は進んでいるか」
「ぼちぼちですね」
あっ、いけない、素が出てしまった、とアオイが思ったときには佐藤教授の血流が顔に集中するのを感じた。周囲からはお馴染みの失笑とパチパチと拍手めいたものが湧いた。この場にいてはいけない、と思ったアオイは、「体調が悪くなりました」といい無礼極まりない態度を表出させ講義室を出た。ちょっと待ちなさい、という佐藤教授の声が彼の背後から聞こえたが、逃亡は負けではなく勝利に向けた思考。彼の理論ではあるが、歴史の偉人たちは案外、逃亡や失敗の数のが多いのだ。だからこそ、失敗は大失敗に隠せばそれでいい。
小沢アオイ、二十一歳、大学生、理学部。彼女なし。好きな音楽はUKロック。トイレに逃げた春。
彼自身の歴史年表を作るなら、この春の最重要記載事項となるだろう。アオイは腕時計を見た。講義終了まで後、五分。トイレのドアをノックした。
突然睡魔が襲ってくることが多々あり、だからこそ目を閉じていたのだが、先ほどふと瞬間に目覚めたアオイにとって見開いた眼前にすぐさま飛び込んできたのが、白いチョークだ、と思った時には額にクリーンヒットした。
「教授、僕は寝ていません。起きていました」
周囲から失笑が漏れた。
アオイは額をさすり、額に当たり折れたチョークの残骸を拾った。チョークの構成物質は炭酸カルシウム。炭酸カルシウムは貝殻や卵の殻の主成分。理解、分解、再構築の果てがチョークか、とアオイは佐藤教授がいる教壇に向かった。
「いやあ。小沢アオイ君。私の講義がそんなにつまらないのかね?大丈夫。何も言うな。君ら学生にとって聞くという行為は退屈で仕方ないだろ」
佐藤教授は目を吊り上げながら言った。名のある論文を多数発表している者にありがちなこめかみ部分の白髪、顔は五十を過ぎても精気がみなぎりカロリーの高い食事を摂取しているだろう、肉感的体系。スーツは一般的な黒だが、講義の合間に、『オーダーメードの重要性』という単語を九十分の講義で三回出す時点で己のスーツがオーダーメードスーツということを遠まわしにいう、面倒くさい老獪教授ということを、アオイは見抜いていた。もちろん、アオイだけでなく、生徒は皆熟知していることだろう。
「そんなことはありませんよ教授。フロイトもこう云っています。『自分に完全に正直でいることは、よい修練になる』、と。夢の中で教授の声は届いていました」
「夢の中?うんうん。面白い解釈をするな小沢アオイ君。自分に対してとことん正直になるのは心身の充実にも繋がる。ここで一つ質問だ」
「なんでしょう、教授」
「君は、コーヒーに角砂糖を何個いれるのだい?」
「申し訳ありません。教授。僕はブラックコーヒーを好みます」
アオイは快活に応えた。
すぐさま、ハハハ、とこの世の終わりのような笑い声が響き渡り、「小沢アオイ君。君はブラックユーモアのセンスがあるな。まさか角砂糖を入れないとは。糖分の過剰摂取は体に毒だが、適度な摂取は脳にいい」
おいおい、あなたに言われたくない、と風船のように膨らんだ佐藤教授の体つきを見ながらアオイは思った。爪楊枝を腹部に刺してみたい衝動に駆られるが、返報性の法則が仮にあるとすれば、返ってくるのは破裂音ではなく、怒りの爆撃音だろう、ことは想像に難くない。
「ご教授感謝します」
アオイは腹部を眺めながら丁重にお辞儀をした。
「だが、君は不思議だ」
佐藤教授は目を細め、自分の肉付きを再確認するかのように頬の肉をつまん
だ。または、それが合図かのように。
「不思議?」
当然ながらの疑問をアオイは呈す。
「君が非常に優秀な生徒だということは知っている。しかし、優秀性を感じさせる要素が私からは見えない。いや、見えないのではなく、見えていないのか。私には見る目がないのか、それとも私が歳をとったのか。まあ、年齢のせいにするのは良くない。言い訳の一種に聞こえなくもないからね。成績優秀な君がどんな研究をするのか楽しみだね。研究は進んでいるか」
「ぼちぼちですね」
あっ、いけない、素が出てしまった、とアオイが思ったときには佐藤教授の血流が顔に集中するのを感じた。周囲からはお馴染みの失笑とパチパチと拍手めいたものが湧いた。この場にいてはいけない、と思ったアオイは、「体調が悪くなりました」といい無礼極まりない態度を表出させ講義室を出た。ちょっと待ちなさい、という佐藤教授の声が彼の背後から聞こえたが、逃亡は負けではなく勝利に向けた思考。彼の理論ではあるが、歴史の偉人たちは案外、逃亡や失敗の数のが多いのだ。だからこそ、失敗は大失敗に隠せばそれでいい。
小沢アオイ、二十一歳、大学生、理学部。彼女なし。好きな音楽はUKロック。トイレに逃げた春。
彼自身の歴史年表を作るなら、この春の最重要記載事項となるだろう。アオイは腕時計を見た。講義終了まで後、五分。トイレのドアをノックした。