浅く揺れる湖に、白い月がひとつ浮かんでいるのが見えた。
 何も変わらぬ音と匂い。なのに景色だけは、青いスポットライトがあたっているように明るく見える。
 俺を追いかけてくる音はしない。
 そして、俺の求める人も、そこにはいなかった。
 ガクンと膝が地につく。必死に息を整えた。
「やっぱ……いない、か」
 自分の行動が馬鹿みたいに思えて笑い、空を見上げた。風にのった雲は、とても速い。時の流れと同じだ。その雲は、夜を照らす月を綺麗に覆い隠す。湖も、砂浜も、真っ暗になった。
 静かだった。雲が月から離れるのに、それほど時間はいらなかったらしい。再び光が降り注ぐ。
 一瞬何かが見えた。月光に反射して、きらりと光る何かが、離れたところにある大きな岩のそばに落ちている。
 ゴミかコインか、その辺だろうと思ったが、引き寄せられるように、もう一度立ち上がった。
 走ることはできなかった。重い足を引きずり、一歩一歩前へ進む。たった百メートルほどの距離なのに、とてつもなく遠く感じた。
 やがて、月光を浴びるそれは、姿を現した。
 半透明で、薄くて硬い。ギターのピックのような形をしていた。
「……なんだこれ」
 拾い上げて見ていると、岩陰で『バシャッ』という水の音が聞こえた。波が押し寄せる音ではない。なにかに水がぶつかる音。
「なっ……!」
 半透明のものは、俺にこれを知らせるためにあったのかもしれない。
 高く結ばれた髪。色素の薄いくせ毛。豆粒ほどの小さな花たちがついた髪飾り。片側だけ赤く腫らした頬。細くて白い、綺麗な腕。
 腰から下が黒い湖に浸かった、俺の大切な人がそこに倒れていた。
「エリ! なあおい、しっかりしろよ!」
 俺は、最後の力を振り絞って、エリを湖から持ち上げる。岩陰から、明るいところに引きずり出した。
 もう力が入らなくて、エリと共に砂浜に倒れる。呼吸が上手くできなかった。それでもエリを起こそうと、俺は振り返ったんだ。
「え……?」
 そこには、見たことも無いものがあった。いや、確かにそれはエリだけれども、半分エリじゃない。
 月光に反射する半透明のものが、数え切れないほどたくさん、彼女の腰から下についていた。
「うっ……」
 声とともに紫色の花が揺れた。
 生きている。この際、それがエリかどうかは置いておこうと思った。何かはわからないが、生きものが倒れているのだ。助けなければ。
 俺は妙に冷静だった。
「だ、大丈夫……ですか?」
 彼女は薄く目を開けた。大きな瞳は、やはりエリと同じものだ。俺の存在に気付いた彼女は、驚いて目を見開く。
「せ、聖夜くん?」
 エリだ。エリだった。彼女は勢いよく抱きしめてくる。以前と同じ、柔軟剤と湖の香りがした。
「目が覚めたんだね。本当に……本当によかった」
 俺を抱きしめる腕に、さらに力がこもった。エリの心臓の鼓動が、服を挟んで伝わってくる。
「うん……。でもエリ、それ、どういうこと?」
 そう言うと、エリは一瞬間を置いて、素早く俺から離れた。愕然と自分の足元を眺める。キラキラと輝いて、美しかった。
「ごめん……びっくりしたよね」
 不思議と怖くなかった。
 そうだ。よくよく考えてみれば、初めからおかしなことばかりだった。
 どうして真夜中に湖にいたのか。
 どうして、水を含んでいつも以上に重くなった男の体を、簡単に湖から引き上げることができたのか。
 どうして真冬にもかかわらず、白い腕が見えたのか。
 どうして練習もしていないのに、美しく速い泳ぎができるのか。
「人魚……だから?」
 彼女はゆっくり首を縦に動かした。
 なぜ気付かなかったのだろう。おかしな点なんて、いくらでもあったのに。俺は自分のことに精一杯で、何一つ気付かなかったんだ。
「人魚はね、水の中で泳ぐから人より力が強いの。冷たい水に耐えられるから、寒さにも強い。だから聖夜くんに出会った日も、コートの下は半袖だったんだよ。それにね、もう一つ。人魚にしかないものがあるんだ」
 この際全部打ち明けよう、というエリの気持ちが伝わってきた。
「聖夜くんは、叶えたくても叶えられない願いはある? 努力じゃどうしようもない、変えられない運命とか」
 多分、わかっていて聞いてるのだろう。俺は自分の手を見つめた。
「……大人になること」
 すぐに出てきた。俺の命は、もうあと少ししかない。これが、生きる時間の最期なんだ。
「そっか。そうだよね。じゃあ、聖夜くんが手に持ってるもの、何かわかる?」
 エリは半透明のものを指さした。これは、エリの体を覆っているものと同じ。
「ウロコ……とか?」
「そう。人魚には、どんな願いも叶えられる力があるの。ウロコを剥がした時、自分の願いを言うんだ。“聖夜くんを目覚めさせて”とかね」
「それじゃあ俺が目覚めたのって……」
 そうか、だから目覚めることができたんだ。エリが、俺に時間をくれたんだ。もしかすると、あのまま死んでいたかもしれない。エリの腫れた頬を見て、夢かと思ったあの世界は、現実だったのだとわかった。
「私が願った。でもね……人魚は魔法使いとは違う。ウロコはまた生えてくるよ。だけど、願ったことと同じ値の寿命が削られるんだ」
 エリは、結んでいた髪を解き、藤の花の髪飾りを手に取った。
「人間になりたいと願ったら、その分ごっそり寿命が縮む。だから私は、深夜零時まで人間の姿になるように、毎日願った。人気のない夜の時間は、元の姿に戻って湖で夜を明かすようにした。でも、修学旅行の日なんかは、三日間人間にして、とか願って……」
 風が俺の言葉を奪った。何も言えなかった。ただ聞いていることしかできない自分が、情けなかった。
「毎日毎日、寿命を犠牲にしてまで人間だと偽って生きてきた。ここは……生きづらい世界だから。人間だけが、何不自由なく暮らして、人間のためだけに森林を奪ったり、海や川にゴミを捨てたり。ずっとずっと、許せなかった。人間も、人魚に生まれてしまった自分も」
 彼女が握りしめている藤の飾りに力がこもるのがわかった。
 人間に生まれていれば、自ら寿命を削ることなく生きられただろう。もし、人魚の存在が人間に受け入れられ、共存できる社会ならば、人間の姿にならなくてもよかっただろう。
 彼女は、生き辛いこの世界で上手く生きるために人間になりすまし、寿命を削って、大切な家族までも亡くしたんだ。
 この世界が他の生き物のことをもっとよく考えていれば、こんな思いをする者はいなかったかもしれない。
 彼女は、湖の方に顔を向けた。
「でもね、お母さんとお父さんが死んじゃって、唯一人魚の血を繋ぐユカちゃんに預けられて……。病院に行くようになってからわかったの。私だけじゃないって。人間にだって、不自由な暮らしをしている人だって、短命の人だっている。私よりももっと小さい子が亡くなっていくところ、何度も見てきた」
 冷たい風をなんとも思わぬ表情で、どこまでも遠い何かを見つめているエリは、この世界の誰よりも綺麗だった。自分が辛い思いをしているのに、他人を想える彼女を尊敬した。
 ここでエリのことを眺めながら死ぬ方が、幸せかもしれないと思ったほどだ。
「この湖が、自殺湖って言われてるの知ってる?」
 俺は上下に首を動かした。やっと何かしら反応ができた。
「その名の通り、病院に入院した人が、自殺しに来ることもあったの。でも、聖夜くんを助ける日まで、私は一度もそんな人たちを救うことができなかった。体も、心も……」
 なかなかエリの言いたいことがわからない。遠回りをして、俺に気付かれないように、今度は一体何を──。
「ねえ、聖夜くん」
「……ん?」
「……生きたい?」
 月明かりに照らされた彼女は、暖かく微笑んでいた。下ろした髪が、風になびく。
「生きたいよ」
 だってもう、ほら。明るい空が、俺を迎えに落ちてくる。早く伝えないといけない。自分の使命を口に出そうとすると、エリがそれを遮った。
「人魚はね、誰か一人でもその存在がバレてしまったら、死ぬ時に全ての人間から、その人魚についての記憶が消えるようになってるの。御先祖さまが、私たちを守るために呪いをかけたんだって聞いた」
 何か嫌な予感がした。いつもそうだ。エリの考えや行動は読めない。まるで謎解きをしているように。
「お母さんとお父さんの最期の願いは、『人間の姿で死ぬ』だった。でも……私がそう願わずに、死んでしまったら、人の記憶から消えるために私の体はどうなるんだろうね」
 寂しそうな表情の彼女が、自分のウロコに触れた。金属が擦れるようなパキンという音が聞こえる。
 力のない俺は、その行動を止めるために手を伸ばすことしかできなかった。
「聖夜くんが大人になって、幸せな人生を送れますように」
 吹き荒れていた風よりも、さらに強い風が、エリから生まれた。
 シューッと炭酸が抜けるように、剥がれたウロコの部分から小さな泡が──いくつものシャボン玉が、空に向かって飛んでいく。
「人魚姫って、海の泡になるって本で読んだことがあるけど、ただの人魚はシャボン玉になるんだね……」
 死期を悟った俺と同じ顔つきだった。呑気に自分が死ぬことを受け入れて、残された人の気持ちなんてわからないんだ。
「嫌だ! 俺はエリがいるから生きたいと思ったんだよ! お前がいない世界で、どうやって生きていけばいいって言うんだよ! なんで俺のためなんかに自分の尊い命を犠牲にするんだよ!」
 どうしても受け入れられなかった。目の前で、俺にとって大切な人が、シャボン玉となって空に昇っていくことが。
 俺は、シャボン玉を彼女のもとに戻そうと、無我夢中で手を動かす。でも、なぜかそれは、俺の事を弾くようにするりと避け、一切触れることができなかった。
「聖夜くんが、大切だから」
 微笑む彼女は、幸せそうだった。足先にあたる部分は、もう消えてきている。
「これを、持っていて欲しい。記憶がなくなっても、きっとこの花を見て、その意味を思い出して……」
 彼女は俺の手を持って、その中に髪飾りを握らせた。小さな紫色の花がたくさんついている、藤の髪飾り。
「出会った時に私、言ったよね? “人は誰かに生かされてる”って。たとえそれが、どんなに辛い人生だろうと、生きていればどんな風にでも変えることができる。だって、聖夜くんの人生なんだから。生きていることに、大きな価値があるんだから。だからもう、二度と命を絶とうとしないで。生きることを諦めないで。あなたは私に生かされてるの。皆も誰かに生かされてるの。そのことだけは、覚えていて……。与えられた命が、最期の瞬間を迎えるまで」
 俺は……エリに生かされている。
 人は誰かに生かされている。
 誰かが生かしてくれているから、自分という存在が今ここにあるんだ。
「馬鹿。本当馬鹿だよエリは……」
 そんなことされて、俺が本当に喜んで生きると思ってるのか。生きることを諦めるなと言うのなら、そっくりそのまま返してやろうと思った。
 だけど、エリには本当に適わない。
「私は、生きることを諦めたわけじゃないよ。やっと……誰かを救うことができて、幸せだよ。だから、笑って? これからも生きると誓って? それから……だいすきって……」
 もう声が出せないようだった。シャボン玉はどんどん数を増して、天に昇る。
 上げたくもない口角を、エリのために死ぬ気で上げた。
「……生きるよ。生きるに決まってるじゃないか。エリが生きてたこと、エリがくれたもの、絶対に忘れない。俺の中で生かして、いつかエリに触れる日まで……ずっとずっと生きてやるから! 大好きだから!!」
 エリはゆっくりと微笑むと、最後に落ちた一筋の涙が、月の光に照らされながら、どこまでも高い空へ飛んでいく。
 遠く、小さくなる彼女を見て、我慢していた涙が溢れた。
 二人で一緒に生きたかった。
 二人で一緒に過ごしたかった。
 二人で一緒に、大人になりたかった。
 背後から、眩しい朝の光が昇ってくる。手元に残されたのは、明るく照らされた髪飾り。
 それを自分の中に植え付けるように、強く抱き締めた。