「ジキルとハイドらしきサブリミナルが蔓延しとるようや、クローズドサークルみたいなこんの世界には。」

「ちょっと、どーなってんの!蜜穿様は一体どこにいらっしゃるんやー!どうにかしぃ、けんしろー!」


「俺ぇえぇ~!ちゅーか、目回るわ!」



柿蒲のありったけの怒りをぶつけられ、思いっきり揺さぶられた涓畤壟。


理不尽極まりなく、同じく思いっきり柿蒲を引き剥がす。



蜜穿が病院から叡執と消えてから数週間。


妃翠に来ず、何故か携帯や部屋まで解約されていて、文字通りえてしまったかのように行方が掴めずにいた。


ただ、ハニービーとしては活動しているようだが、柿蒲の技術では辿り着けないのが現状である。



「あんたの他に誰がおるんや!ことりっちのケー番調べたん、うちやねんけど!」


「それはそーやけど!蜜穿んこと俺に聞くな!」



殊犂へ知らせる為に鰍掩が調べさせたようだが、柿蒲に連絡したのが涓畤壟だった為に怒りの矛先がそっちへ向かってしまった。


完全なるとばっちりなのだが、当の鰍掩は知らん顔を決め込んでいる。



「入院せなあかんのに、病院出て行ってしもーたんよね?」


「蜜穿ちゃん、大丈夫とええけど。」



見舞いに行く前に退院してしまった為、碑鉈と剣は蜜穿の体調が気になってしまう。

「かしゅー、やっぱり黄縁叡執が絡んどるで。」


「こーぞーさん!蜜穿様は?!」



「蜜穿の行方はまだや。ただ、解約の件は緑青碑鉈が仕組んどったわ。」



部下に調べさせた結果、叡執が携帯も部屋も解約したとのことだ。



「目的は?」


「分からん。施設周辺やシマ周辺を当たらせとるけど、今んとこ収穫は無しや。ついでに、ことりにも連絡いれといたで。」



窺いながらではなかなか成果が上がらないので、彷徨いても多少は目立たない生安課の特性を殊犂に活かしてもらうことにした。



「こーぞーさん、お疲れみたいやね。ココア入れましたからどーぞ。」


「おー、ありがとな、ひな。」



甘い香りと味わいが、体の隅々まで染み渡る。



「それにしても、かしゅーさん。蜜穿ちゃんのことは、手は出さんとか、面倒とかゆうてたんに、思いっきり首突っ込んでますね。」


「仕方ないやろ。あないな状態の蜜穿放っとかれへんわ。」



「意外に優しいんも兄貴の魅力やで!」


「意外に、は余計や。」



抗争よりも音沙汰が無い現状の方が不気味で、叡執の薄気味悪い顔を思い出し、鰍掩は後手に回っている気がしてならなかった。

「みつばち、お前、あいつらとどーゆう関係や?」


「げほげほ……別にどないな関係も」


「どーゆう関係や聞いとんねん!!」



「ぐっがっ、げほげほ……」



「ずいぶん仲ええみたいやなぁ?赤根楮筬が部下使おてお前探しとるし、刑事もうろちょろし出してきとるし。どんな手使おたんや?あ゛ぁ?」



まただ、と思った。



叡執からの嫉妬いう名の暴力と、愛情という名の男女の関係の強要。


この男にはこれしかレパートリーが無いのかと思うほど、繰り返される行為だった。



「ガサ入れん為に戻したけど間違いやったか?地元が同じやと親近感わくさかいにな。」



大阪と東京の行き来は、廓念会の都合でしかない。


そこに売られた蜜穿の意思など存在しない。



「まぁ、ええわ。お前が仕事やらんかったら、寄付金無くて施設のガキ共が餓死するだけやさかい。」



この男ならしかねない。



これからはネットの時代だと施設の子供達に教育する中、頭角を現した蜜穿にクラッキングを教えたのは叡執だ。


今では蜜穿の右に出る者はいないが、力関係は変わることはない。


脅され、悪事に手を染めなければならないぐらいに。

権利を誇示出来、なおかつ魅園へ寄付金を効率よく集められると気付き、栲袴の件が片付いた後も仕事を続けさせてるぐらいだ。


蜜穿が止めると言った事実など無かったように。



「出かける。施設にこれ持っていけ。」



自己完結して叡執は出ていった。



「げほげほ…ごほごほごほ…」



救急車と病院である程度の治療を受けたので熱は下がったものの一向に咳は止まらない。


バイトが出来なかった為に治療代が精一杯で、叡執が払うはずもなく退院するしかなかった。



それでも施設へと向かおうとするのは、必要とされるなら構わないと荒廃した心へのすりこみか。



叡執の意思によって、償うべき許されぬ過去の悪意的な罪に、


現在に下される作為的な罰は、全ては他が為の人為的な未来の為。



消えない罪と受けられない罰の原因は、きっと。



叡執の愛の重さに耐えきれなかっただけ。


蜜穿の愛が軽かっただけ。



鼻持ちならないのは、全て殊犂の真っ直ぐな愛と思い込んで。



ハニービーの証拠も魅園の課題も一時保留する。


逃げ出した徘徊者の蜜穿を捕まえ、叡執が密かに狙うはブラックホールの相乗効果なのだから。

「ごほごほ…ごほごほごほ……」



魅園へ行った帰り道、早く帰らなければ叡執の逆鱗に触れると思いつつも足が向いたのは妃翠だった。


見つかっては面倒なので遠目からだが、変わらぬ雰囲気にホッとする。



「飴魏蜜穿……!!」


「お巡り、さん…」



物凄く驚いた顔の殊犂がいた。



「貴様、今までどこで何をしていた?体調は?この痣はどうした?携帯も部屋も解約したらしいが、どこに住んでるんだ?黄縁叡執といったな。あの男と一緒なのか?」


「そない、いっぺんに言われても……げほげほ…、答え、られんわ…」



蜜穿を見付けた興奮のあまり、矢継ぎ早に質問をしてしまった殊犂。


しかし、今の状態の蜜穿の思考回路にそんな処理能力はなかった。



「咳が出ているじゃないか。病院に早く」


「あんた、うちを探してたようやけど、もうやめ。…ごほごほ、ごほ………。今会えたんやさかい、これで終わりにしとき。」



裏の人間である楮筬や朽霊会はともかく、これ以上表の人間である殊犂が動くと叡執が消しにかかるかもしれない。


踏み込んではいけないと蜜穿自身が線引きする、表の世界をも叡執なら巻き込みかねないのだ。

「ああ、終わりにするさ。もう探さなくていいからな。早く病院に行くぞ。」


「……やから、病院は」



「何やってるんや、みつばち!」



2人が揉めていると、用が終わったのだろうか叡執が通りかかる。



「黄縁叡執…!」


「ことり、ちゃんか。お前に用はないんや。」



「貴様に呼ばれる筋合いは」


「みつばち。」



「おい、人の話を聞け!貴様、ちゃんと病院に行かせてないだろ。」


「あ?なんで俺が病院に行かせる必要があるんや?行きたかったら自分で行くやろ。」



叡執の言うことは最もだが、救急車で運ばれなければならないほど放置し途中退院する蜜穿が、自ら行くとは到底思えない。



「そういう問題ではない!貴様本当に…!」


「やるんなら、殺ってもええけど?」



無関心で挑発的な叡執の言い種に我慢ならないのか、怒りに任せ殊犂は胸ぐらを掴む。



しかし。



「っ!!」



叡執を守るように殊犂の手を振りほどいたのは、蜜穿だった。



「みつばちは俺のモンや。」



所有物と言わんばかりの言葉を吐いて、叡執は蜜穿を車に押し込んで去って行った。


立ち尽くす殊犂を残して。

「みつばち、お前よう俺をコケにしてくれたな?」


「し、してな…がはっ」



部屋に着いた途端、床に投げつけられ一発蹴られた。



「がほ、げほげほ…げほげほ……」


「お前の主は誰や?!この俺やろ!!お前は俺のモンや!」



殊犂と会ったことで、叡執の嫉妬心がフラッシュオーバー現象のように爆発する。


咳き込む蜜穿など構わず、力の限り殴って蹴って。



「は……か、は……はぁ…」



何十分………いや、何時間経っただろうか。


とりあえず治まったのか、叡執の動きが止まる。



「みつばち、脱げ。」


「……脱げ、って…」



自分のアパートの部屋より何十倍もある叡執のマンションの部屋。


部屋に違わず大きなソファーに座り、叡執は唐突に言った。



「お前が誰のモンなんか、分かっとらんようやからな。身体に覚えさすんが一番や。たっぷり刻み込んだるわ。」



見晴らしがいいベランダのガラス窓は大きく、まだ陽も高い。


しかし。



「みつばち。」


「……分か、りまし、た…。」



言葉も切れ切れに服に手をかける蜜穿には、この男に対しての拒否権など、いつだって存在しなかった。

「人と会ってくる。今日は帰らんさかい、部屋片付けとけ。」



強盗に遇ったかのように、部屋中物が散乱している。


数十時間もの間身体を酷使して動けない蜜穿には目もくれず、叡執は命令だけして出ていった。



「漂…白剤、買い、に行か、な…」



赤に染まってしまった衣類や寝具を洗濯しなければならないが、叡執の家に漂白剤なんてものは無い。



「げほ、げほげほ、ごほ…」



騒ぎにならないよう店員を誤魔化し、僅かな所持金の中から漂白剤を買った帰り。


後半分といったところで歩みが止まってしまい、休憩とは程遠い感じで路地の隙間に倒れ込む。



日陰のコンクリートは冷たく、今の身体にはちょうど良かった。



蜜穿は人の体温は温かすぎて火傷して弱ってしまう、そんな魚と自分を重ね合わせる。


だから釣りあげた後などは、手を冷やしてから触るようにしなければならない。



温かい優しさより冷たい厳しさの方が、生きていると実感することが出来るのだから、自分にはお似合いなのだろうと。



「はぁ、は……はぁ…」



壁に凭れて見上げる青空は揺れている。


まるで微睡みが、底無し沼へと誘っているようで。

手に感じる僅かな小銭の感覚。


今ここで野垂れ死んでも、これじゃ火葬代にすらならないと皮肉な笑みを作る。



見えもしないのに、何処からか聞こえてくるのは耳障り極まりないモスキート音。



音色に紛れて歪みだすのは、



悪夢だと思い込んだ叡執といる現実で。


消滅させたハズの殊犂から感じる愛情で。


砕き壊した栲袴に気付かされた生きる理由で。



そのどれもが存在を主張するように、破片が包み込んで纏わりついて離れようとしない。



目を閉じても、

耳を塞いでも、

息を止めても、


気配は消えてくれない。



「あ、れ……?」



まだ咳は出ているはずだ。


なのに、胸が痛くなくなってきた……?



身体を酷使したはずだ。


なのに、身体が軋む音は聞こえなくなってきた……?



きっと完治していないはずだ。


なのに、息苦しいのがなくなってきた……?





大丈夫と、

平気なんだと、

心配いらないと、



嘯き強がった本音は。




無敵の言葉なのか?


それとも嘘の魔法なのか?



「…は…ぁ………」



どうやって息をするのか……?


方法を忘れた。

「飴魏、蜜穿…?飴魏蜜穿!!」



「っ………!」



心地好い声に名を呼ばれたから、蜜穿はとりあえず目を開けてみた。



「お、ま、わり、さ…」


「貴様こんなところで何を……。とにかく、来い!」



息も絶え絶えな蜜穿の腕を掴み、殊犂は無理矢理立たせる。


とにかく、蜜穿をこの場から連れ去りたくて。



「な、んや……、あんた、…うちん、こと…探、す…、は……や、め、ゆ…た、や、ろ…」


「今、そんなことはどうでもいいだろう……!とにかく来い!」



蜜穿に何があったかは知らない。


裏の闇は、知ることすら出来なくて。



言えないことも、言いたくないことも、言わなくていいから。


分かりやすく嘘を付いても構わないから。



だから。



「そんな状態で、我慢だけはするな。」


「…………………。」



薄くしか開かない目で、今までで最も近くに殊犂を見る。




ジャストロー錯視のように同じなのに、


殊犂と叡執の対応はダイラタンシーのようで。



この温かさにいつの間にやら、


自分の置かなければならない状況が、


ゲシュタルト崩壊を起こしているかのようだった。

「ほら、着いたぞ。」



フワフワとした意識のまま、寝かされたのはこれまたフワフワなベッド。



「少しでも何か……、探してくるから待ってろ。」



ここは、マンションの一室。


きっと殊犂の部屋らしいと蜜穿は思った。



何故なら。



「(おまわりさんの匂いや………)」



ベッドからも部屋からも、殊犂の匂いしかしなかったからだ。



「………―――――」



息をする度に、今まで感じたことがない安心感に包まれて。


蜜穿の意識は次第に………――――



「とりあえず、水でも……っ!」



食べ物より飲み物の方がいいかと思い水を汲んでくるが、蜜穿はスヤスヤと眠っていた。





誰かを失うことに怖がって逃げ出したとしても、


誰かの幸せに怯えて手を振り振り払われても、


探して掴まえに行けばいい。



何度、自分の未来に臆病になって闇に迷っても


俺の為にそうするなら、俺がそうすればいいそれだけだ。



原因も解決法も『蜜穿』にとって『殊犂』ならば。




穏やかな寝息をたて無防備な寝顔に、殊犂はそう思った。



「おやすみ…」



いや、誓ったのかもしれない……

「……っ…ん………」



蜜穿が目を開けると見慣れない景色。



「ああ、お巡りさんの家か…」



置き時計を見ると、叡執の家から換算して数時間経っていた。



久しぶり……、いや、初めてこんなに安心してゆっくり寝た気がする。


前にテレビで知った充実時程錯覚とは、こんな感じなのだろうか。



しかし、ベッド下に置かれた漂白剤が蜜穿を現実に戻す。



「帰らな…」



帰って部屋を片付けなければ叡執がまた……



幾分か調子が戻った気がする身体を引きずり、寝室を出てすぐのリビングダイニングを見回すが殊犂が見当たらない。



「無駄に広い……」



独身で彼女もいないのを涓畤壟がからかっていたから一人暮らしのはずだが、叡執の家と同じぐらいの広さ。



「警察官、そない儲からんに……」



独身寮が府警の体質と同じく殊犂の肌に合わなかった為、早々に引っ越した。


そんな事情を知らない蜜穿は要らぬ心配をする。



「……あ。」



『俺は仕事に戻る。家の物は自由に使って構わない。大人しく待っていろ。』



ダイニングテーブルで発見した置き手紙には、性格に違わず綺麗な字が並んでいた。

「待ってろって、犬やないんやから…ちゅーか、鍵無かったら閉められへんやんか……」



出て行こうにも殊犂が帰って来なければ、開けっ放しになってしまう。


合鍵の在処などもちろん知らない。



管理人が居たとしても事情説明がややこしい上に、殊犂へ変な勘ぐりを入れて欲しくもない。



「しゃーない、お巡りさん待つか…」



通常ならもうすぐ帰ってくる時間。


もし事件なら帰ってこない可能性もあるが……



「……ん?なんで今、それでもええて思おたんや………?」



明日までは叡執は帰らないが、事件で殊犂がそれ以上の時間帰ってこれないなら、片付けられなくて確実に叡執の怒りを買ってしまうだろう。


だが自問自答しても、叡執よりも殊犂を優先している自分がいた。




母親のように、立ちはだかって通せんぼをする前でも、


父親のように、のし掛かって押し潰す上でもなく、



廓念会のように、絡み取るように引き戻す後ろでも、


叡執のように、奈落の底へ引きずり込む下でもない。




気が付けば隣にいた、殊犂が心にいる。



優しく見てくれる殊犂と同じ方向を見たいと、いつから思うようになったのか。

ガチャ……―――



「おかえり、お巡りさん。」


「飴魏、蜜穿……」



帰宅した殊犂は、リビングにいた蜜穿を見て驚く。



「なん?そないな顔して。」


「あ、いや……いると思わなくてな。また居なくなってるんじゃないかと。」



「…………。そう…したかったんやけどな、鍵どこになおしとるか知らんかったし。」



自分で連れてきておいて、と思ったが鍵があればそうしていたので、否定はしなかった。



「お巡りさん帰ってきたし、もうええな。」


「ちょ…おい!またあの男のところに戻る気か?」



漂白剤を持って出て行こうとする蜜穿を、殊犂は肩に手を置き止める。



「どこに戻ろうが行こうが、あんたに関係ないやろ。」



殊犂の手を振り払い、玄関に向かう。



「か、関係ならある!俺は貴様のことが好きだ!」


「!!」



お節介をやくのは警察官としての情だと思っていたのだが、まさか好きとは思わず蜜穿は驚き振りかえる。



「あ………いや、えっとだな、だから、つまり………」



言うつもりは殊犂に無かったのだろう。


行くな、と続きすら言えずに、これ以上ないぐらい狼狽えている。

「………………。夕飯は鍋か?」


「え?あぁ……、好みが分からなかったし、食べやすいかと思って。」



居なくなってると思っていたくせに、買ってきた食材は2人分で献立も蜜穿の為のようだ。



「ほんま、単純やわ。」


「え?」



小さく呟かれた言葉を聞き取れぬままの殊犂からスーパーの袋を奪うと、蜜穿はキッチンへと向かう。



「なにしとん?はよ、作るで。」


「あ、あぁ………」



蜜穿の態度の変わりようについていけていないのか、呆然とする殊犂を呼んで、鍋を作り始めた。



「少し顔色が良くなったな。咳も止まってきたし。」



食事を終え一息つき嬉しそうに言う殊犂に、そういえばと蜜穿は思う。



食欲不振だったのに、ちゃんと一人分食べれた。


咳も息苦しさも無い。


胸の痛みも倦怠感も感じない。



「だが、完治してないはずだ。病院嫌いだろうが、明日連れて行くからな。」


「お巡りさん、仕事やろ。」



「非番だ。そんな心配しなくていい。」



「心配はしとらん。」


「……早く寝るぞ。」



殊犂の中では決定事項のようで、無駄な会話だと言わんばかりに寝る支度を始めた。

「……………。」



リビングの脇にあるソファーで寝る殊犂を見つめる。


昼間寝たからソファーでいいと言ったのだが、押し問答になった為蜜穿がベッドを使うと折れたのだ。





曇りの無い純粋な目で裏の世界を見透かして、真実に近付く殊犂を遠ざけることでしか、引きずり込まれないよう守る術を蜜穿は知らない。



好きだと言った殊犂の真剣な目に、叡執は明日まで帰って来ないのだから今日だけはと、言うことを聞いた。



好意を理解出来ても、正解の無い選択肢しか残されていないのならば。




殊犂の優しさを痛みに変えて、


殊犂の叫びを切り捨てて、


一瞬だけ思い描いた夢を壊してでも、



狂った予定調和に無慈悲に従って別れを誘おう。




蜜穿は、なおされていた鍵を持ち、悲しく告げる。



「お巡りさん、ありがとうな。……けど、さよならや。」



殊犂を起こさないように静かに出て、鍵を新聞受けに入れて。



自分の居なければならない場所へと、蜜穿は戻っていく。





歪んで歪んで、


歪みに耐えきれなくなって堕ちた世界は、



蜜穿の目に残酷過ぎるほど、


とても美しく映るものだった。

「ミラーニューロンちゅーのは、ほんま不思議なもんやわ。」

「隗赫鰍掩っ!!」


「ことりちゃん!なんや、久しぶりやなぁ。」



妃翠に顔を見せ鰍掩の名を叫ぶ殊犂に、涓畤壟は懐かしさを覚える。



「なんや、ことり」


「貴様、飴魏蜜穿をどこへやった?」



「…………は?」



鰍掩の言葉を遮って殊犂が尋ねたのは、蜜穿の所在だった。



「蜜穿のことやったら、こーぞーさんから連絡いっとるやろ。黄縁叡執のとこにいるらしいて、こーぞーさんが調べとるわ。」


「そうではない。寝るまでは、俺の家にいたんだ。だが、起きたらいなかった。携帯番号もそうだが、今回も貴様が……」



「ちょい待ち!蜜穿、ことりちゃんの家にいたんか?」



聞き捨てならない単語に、涓畤壟が待ったをかけた。



「ああ。昨日の警ら中、路上に倒れていて、家が近かったから運んだ。今日は非番だったから、病院に行こうと思っていたんだ。」



蜜穿が自らの意思で出て行ったのをもちろん知らない殊犂は、自分を嫌っている鰍掩がそそのかし出て行かせたと思っているらしい。


昨日の素直な蜜穿を見てしまっては、そう思っても仕方がないと言えば仕方がない。



ただ、的外れな推理極まりないのは確かだ。

「連絡ぐらいしてもええんとちゃうの~?俺らも探しとんに。」



「そうですよ!うちらも心配しとったんですよ!こーぞーさんに危ないからゆわれて、探すんも我慢しとったんやから!」



「けんしろー、ひなー、落ち着こなー」



涓畤壟は不満を口にし、碑鉈は怒りを爆発させる。


殊犂が連絡を怠ったことに2人とも怒っているのだが、止める剣の笑顔の方が恐ろしい。



「…それは…………それより、番号を無断で調べておいて好き勝手なことを言うな。」


「えぇ~めっちゃ今更~」



一瞬言葉に詰まるも殊犂は至極最もな答えを返し、涓畤壟は脱力する。



「入院のこと知らせたんや、そんくらい目つぶらんかい。」


「……もういい。貴様達に聞いたのが間違いだった。」



「ちょー、ことりちゃん!!」



失望したように言い、涓畤壟が止める間も無く殊犂は出て行った。



「けんしろー、かっきーに連絡や。」


「え?何を?」



「………………。この状況で分からんか。」



柿蒲に連絡する意味を判断出来なかった涓畤壟を、叡執は呆れた目で見る。


しかし、涓畤壟には経験値が足りないような気がすると剣は思った。

「ええとこやろ。」



殊犂が蜜穿の行方を探している頃、蜜穿は叡執に連れ出されとある廃工場に来ていた。


抵当に入った工場を叡執が買い取ったようだ。


ここのところ出掛けていたのはその手続きだったらしい。



叡執が帰宅する前に蜜穿が全てを済ませていたので殊犂とのこともバレず、工場が手に入ったのも相まって叡執はご機嫌だ。



「お前を行かせたおかげで、関東の傾向もデータ取れたさかいな。こっから世界中を牛耳ろうやないか。」


「どういう……」



「分からんか?施設におるガキ共を何人かピックアップして、第二のハニービーを量産や。お前が指導するんやから、ええのが出来上がるで。」



叡執曰く、ここにクラッカー育成所を設立し、蜜穿の技術を継承させ裏の世界へとプロパカンダを発信するのが目的のようだ。



魅園も裏社会に魅力ある園にするという願いを込めたと前に聞いたことがある。


ただ、コラージュのように作り上げられたハニービーがそう易々と出来るものなのか。



「ちょー待ってください。子供らにはさせられへん……。うちで十分やないですか?今で足りひんねんやったら」


「俺に歯向かう気かっ!!!」

ある意味否定の言葉を口にした蜜穿に、叡執は逆上し蜜穿の首を締める。



「ぐ、…はっ……あ゛…ぁ……」



ダウンバーストのように意識が急降下する。


片付けを必死に終わらせた後すぐに無理矢理連れ出された蜜穿には、抵抗しようと締める叡執の手を掴むも添える程度で力が入らず為す術が無い。



「お前は俺のモンや!口答えなんか許さへん!!」


「…ぁ………………」



「飴魏蜜穿っ!!!」



意識が遠退く寸前、現れた殊犂によって引き離され、蜜穿は叡執から解放された。



「げほ、げほげほげほ………」


「おいっ!意識はあるか!?」



思い切り引き離した為、力加減が出来ずに蜜穿も叡執も倒れ込んだ。


一気に呼吸が出来るようになったので、蜜穿は咳き込むがなんとか意識はあるようで、とにかく呼吸が少しでも落ち着くように殊犂は背中をさする。



「お、まえ…ら、揃いも揃って、俺の邪魔しくさってからに……もおええ、もおええわ……お前らが俺と同じステージにおるんがあかんねん。俺の上には何もおらん、おったらあかんねん。蹴り落としたるさかい…」



叡執の右手には暴力団の伝家の宝刀、拳銃が握られていた。

「お巡りさん!!」



バンッ………―――――



「ぃ゛…っ、……」



殊犂はゆっくりと崩れ落ち、片膝をつく。



蜜穿は肩越しに見えた危険物から前に出て庇おうとしたのだが、それに反応した殊犂に押し退けられ逆に庇われてしまった。



「(お巡りさん…)」



右手で撃たれた左脇腹を押さえるが、左手は咄嗟にそばにしゃがみ込んだ蜜穿の右腕を掴む。


行くな、という意味を込めて。



「俺がおったから、魅園も廓念会でかい顔でおれんねん。みつばちを見っけたんも俺や。俺のおかげで救われた命もあるんや。みつばち、お前がそうやろがっ!」



裏の世界の為に叡執の成し遂げた偉業は数知れない。



「いくら大義名分を並べ立てても、悪事に手を染め罪を犯してはならない。貴様のような人間の恩恵など、誰一人として必要とはしていない!!」



殊犂は至極当たり前のことを言っているのだが、蜜穿には身に染みた。



失う物なんてないと、孤独にも慣れたフリして。


信じられる物など、己だけだなんて。



そうやって自分を粗末にして何を守れた?



独り立った大地に広がるのは、屍でも惨劇でもなく、無でしかない。

「1度しかない飴魏蜜穿の人生は、飴魏蜜穿のものだ。貴様のものではない。」



「みつばちは俺のモンや。俺が育てたんや。」


「育てた?奪ったの間違いじゃないのか。」



叡執の為に生きる人生を造りあげた。


だが、もっと我が儘で利己的になっていいんだと殊犂は思っている。



誰かの……叡執の為なんかじゃない、自分の為に生きて欲しい。



そうすれば時折見た悲しみを含んだものではなくて、あの時みたいに心から笑えるから。


これからの大切な人達と、今までよりもっと笑い合えるから。



「前に似たようなことを言ったかもしれないが、自分の身を守る為に現状から逃げることと、自分の未来を諦めて命を投げ出すことは、行動は同じようでも意味が全く異なってくる。」



他人の為には、まず自分を変えた方が手っ取り早いことは確か。


ハニービーの件は、決着だってついている。



「貴様、自分の気持ちに気付かないフリして感情を封じ込めなくてもいいと言っただろ。あれだけ頭の回る貴様が、他人の感情ぐらい理解出来てるはずだろ。俺のことばかり気にしているようだがな、俺はもう当事者なんだ、傍観者などでいられるわけがない。」

「黄縁叡執のように対峙する敵にも、隗赫鰍掩のように支援する味方にも俺はなれない。」



生が地獄で、死が天国のような裏の世界は理解出来ない。



「貴様が、罪に許されないなら、自分が許せないなら、一緒に地獄にだって堕ちてやる。だから、俺の前から、二度と消えてくれるな。」



ただ、蜜穿と居たいだけだから。



「お前にみつばちの何が分かるんや?表でノウノウと正義感振りかざしとるサツに、裏と関わりおう覚悟があるんかいな?」


「覚悟?飴魏蜜穿の過去は知っている。だが、どんな過去を抱えていたとしても、俺が飴魏蜜穿のそばに居られない理由にはならない。日本は法治国家だ、罪を犯したら償えばいい。反省してやり直したい気持ちさえあればいいだけだ。」



拳銃を向けているものの一発撃って落ち着いたのか、叡執は殊犂と会話が出来ていた。



殊犂は相変わらず左手は蜜穿の腕を掴んだままで、口調もハッキリしている。


しかし、額には冷や汗が見え、スーツのジャケットで見えづらいが脇腹を押さえている手は先程よりも血に染まっていた。



掴まれている手を、前みたいに振りほどけないのは何故か。


蜜穿はもう分かっていた。

「藹革さん!」



掎蹟と共に、ライオットシールドを携えた機動隊が周りを囲む。



殊犂と同じく蜜穿を探していたのだが、銃声を聞いた為、近くで発生した立てこもり事案に駆り出されていた機動隊数人を許可を貰って出動させた。



「黄縁叡執やな!銃から手を離さんかい!」


「離せゆわれて離すアホがどこにおんねん。みつばち、お前に最後のチャンスをやるわ。」



叡執は鼻で笑い、蜜穿に問う。



銃口が殊犂に向けられている以上、掎蹟や機動隊は身動きが取れない。



「お前が恥ずかしないよう、困らんよう俺はお前の為にしてきたんや。お前、自分の立場ちゅーもん分かっとるな?」



差し出し、差し伸べ、掴まえた手に、


叡執が握っていたのは、いつだって蜜穿の思考をオールクリアにするもの。



叡執の言葉で創った、蜜穿をがんじがらめに縛る専用のマインドセットという名の鎖。


その先に繋がる首を締める輪っかで、ホールドアップされた。



蜜穿が呼吸困難を認識したって、止まらない。



「お前は賢いさかい、出来るな?俺が今何望んどるか分かるな?」



言い聞かせるように言うが、叡執の態度は自信たっぷりだ。

掴まれた手を振りほどき、

伸ばされた手を拒んだ。


けれど。


行き場を無くした手でも私を引き戻そうと、


もがく姿から

その必死さから、


目を離すことは出来なくて。



「みつばち、来い。」



叡執が呼ぶ。



「飴魏蜜穿……行くな。」



殊犂が止める。



真逆の感情が、バックドラフトのように入り交じる。



「分かった………あんたの言う通りにするわ。」



答えなど最初から分かっていたのかもしれない。


行き着いた解答を殊犂ごと抱き締めようか。



「「っ……!!!!」」



掴まれている手を逆に引き、殊犂にキスをした。



カッカンッ、カラカララ…カラン……―――



「ケースクローズド、やな。」



驚いて緩んだ殊犂の手から離れ、動揺で気が逸れた叡執の手から拳銃を蹴り落とした。



教わったバイト仲間のように、上手くは出来ないが。


ジークンドーというより、回し蹴りだが。



過去に縛られて、失うことを恐れては前に進まず駄目だから。


背負っていた重い荷物は土産として軌跡に置いて行こう。



伏せ目から見据える目への布石としては十分ではないのか?

「か、確保っ!」



蜜穿のおかげで叡執の手から拳銃が離れた為、掎蹟はすぐさま機動隊に取り押さえるように命じる。



「おいこら、みつばちっ!!どういうつもりや、おんどれ!」


「観念せーや!」


「大人しくせんかい!」



叫び暴れながら機動隊と揉み合う叡執を見ることも無く、蜜穿は無言で殊犂に近付く。



「お前みたいなガキごときが、俺を裏切ってんやないぞ!!この恩知らずが!おら、何とか言わんかいっ!みつばち!」


「………裏切る?うちには敵も味方もおらん。誰もおらんわ……」



連行されて行く叡執に対して、蜜穿は小さく吐き捨てるように言い、上着を脱いで下着姿になる。



「…!おい、何を………」



「お巡りさんやったら、あんな盾とはゆわんけどな。せめて防弾チョッキぐらい着ぃや。ほんま無茶苦茶やわ。」



探すのに必死で、身を守るという考えが頭から抜けていた。


そもそも非番だから、着ていないのは普通なのだが。



「あん時もそうやったけど、あんたはいっつも突然現れていっつも無謀なことする。」



殊犂からジャケットを剥ぎ取り、脱いだ服を押し当てて止血する蜜穿の手は震えていた。

「あんた、お巡りさんの仲間やろ?救急車呼んどるんか?」


「ああ、後数分でくる。」



殊犂の変わりに指揮に奔走する掎蹟は早口で言った。



「ならええけど。」



救急車は大袈裟……と思ったが、ジャケットを脱がされたことで自分の状態が結構危険ということが見てとれる。



血の気が引いて、更に体が冷えてきているのも自覚はあったが、パトカーでも大丈夫だと思っていた。



蜜穿が押し当てている服も既に赤に染まって、止血の機能を果たしているか分からなくなっている。



ただ、蜜穿が触れている部分だけは何故か温かさを感じていた。



「飴、魏…蜜穿……、も…、いい……疲れ、るだろ……」


「………………。」


圧迫の為にかなりの力で押さえているので、蜜穿の体の状態が心配な殊犂は止めるように言うが蜜穿は黙ったままだ。



手当てとは、手を当てる事と書くが実際にはどういう事を指すのか。



ぼんやりする意識の中で、殊犂はそんなことを思う。



処置をすることか?


消毒か?包帯か?治療か?



だが、方法はそれだけじゃないはずだ。


何故なら、広がった温かさに、痛みは和らいだ気がしたから。

「誰か同乗されますか?」



掎蹟の言う通り、数分後に到着した救急隊によって殊犂に応急措置が取られた。



「いや俺は………」



指揮を取らなければならないので同乗が出来ない掎蹟は、言いかけながら蜜穿を見た。



救急隊が到着した時、入れ替わるように離れたと思ったら、いつの間にか殊犂のジャケットを羽織っている。


そして、内ポケットに入っていたであろう携帯を操作していた。



「うちもええわ。説明しに行ったらなあかんし。」


「説明?」



「この携帯の中にある、ヤクの情報とか裏金とか、廓念会の証拠がわんさかの載ったサイトに関しての説明や。やから同乗者はおらんさかい、はよ病院行ったって。」



にわかには信じられなかったが、これ以上待たせるのは危険と判断し掎蹟は救急隊に任せた。



「ほんでサイトってなんや?」


「これ。」



見せられた画面には、可愛らしい蜜蜂のピクトグラムに彩られたクラウドが表示されている。



「見たことあれへんな。」


「そりゃそうや。うちのオリジナルやさかい。」



パスワードの入力が必要らしい。





符丁:単純なお巡りさん、あんたのお名前は?