何故かその男はやめておいた方がいいと本能的に察知したのだ。
しかしその会食で、僕はもう後には引き返せないことを知る。
家に帰ったら母さんを全力で説得し、この婚約を破棄させようと心に決めていたのに、母さんは嬉しそうに言った。
「あなたはもうすぐお兄ちゃんになるのよ」
愛おしそうに自分の腹を見つめ撫でながらそう告げる母さんが、一瞬何を言っているのか分からなかった。
ようやく脳が事態を理解した時、僕は激しく動揺していた。
それからと言うもの僕の意思に反して、母さんと男はトントン拍子に話が進み、そしてついに籍を入れた。
母さんの希望で挙式は挙げず、家も元々僕と母さんが住んで居た築四十年の一戸建てに住み続ける事になった。
それは母さんが、僕が自立するまでは出来るだけ今まで通りの生活を送れるようにと、その点にかなりこだわったからだ。
父が生前残した財産で、唯一未だに残っているのはこの我が家だけだ。
自分の給与だけではどうしても回らないという生活苦に悩まされた母さんは、身の回りのありとあらゆる物を売ることで生計を立てた。
昔、父と付き合って居た頃に父からもらったアクセサリーや洋服はもちろん、父に嫁いだ時に祖父母から持たされた嫁入り道具など全て母さんは僕との生活費に当てる為、手放した。