「大丈夫か?」
「うん。こんばんは、那由多」
「お、う」
今日もまた、穏やかな夜の日だ。
風は凪いでいて、なんだか時間がゆっくり流れているような。窓を開けておいても、今日は動物の活動音もあまりしないのがその感覚を増長させる。月には雲が半分かかり、少し暗いけれどそのほうが那由多はよく話してくれるから、好き。自分の表情の乏しさが隠れるほうが安心をするらしい。
静かな夜に、静かな声同士で言葉を交わす。それはまるで秘密の儀式みたいで、私は密かに胸が高鳴る。
今日の那由多の手にはナイフが握られていた。
それで、私をそちら側に連れていくつもりなのだろうか。那由多が居てくれるなら最悪悪くないなと頭を過ってしまった。こんな穏やかな中でのことならと。
「林檎でも、剥いてやる」
「えっ? ありがとう」
部屋備え付けの椅子に座り、那由多はポケットから取り出した林檎を果物ナイフで剥いていく。作業の途中、想像以上に千切れない皮がくねくねと床に近づいていったのは、それがとても幅広で、分厚かったから。久しぶりにここまでの仏頂面を見たなと思うくらいに那由多の顔は険しくて、林檎の皮剥きへの真剣さが見てとれる。
私はその様子を、ベッドの上で仰向けになりながら、首だけ那由多のほうを向いて眺めていた。
「食べるか?」
剥いてから訊くことではないと思う。
「うん。ひとくち欲しい」
私が雛鳥みたいに口を開けて待ってみると、ひとくち分よりももっと小さく切られた林檎は放り込まれる。林檎の感触が最初にきて、最後の一瞬、那由多の指先が唇を掠めていった。
「……」
「どうした? 不味かったか?」
相変わらず……冷たい指先。
「美味しゅうごさいます」
「なんだそれ」
那由多に照れという概念はないのだろうか。ひとりで動揺している私を封印して、しゃくしゃくと林檎を噛んだ。甘酸っぱい味は好みのもので、もうひとくち欲しいと思ったけれど、またアレをされるのはちょっと、いやかなり恥ずかしいので口にしなかった。
自分で林檎に手を伸ばそうにも、今日はどうにも怠くて仕方がない。
とりあえず一番動く口を動かした。
「不思議ね。那由多は警備の人とか看護師さんに絶対見つからない。こんなにここに来るのに」
「それは死神の特殊能力だ」
「なにそれ」
「けど、今日はもう帰るから、寝ろ」
「えっ」
「辛いんだろ?」
「……っ」
私を見抜いた那由多が手を伸ばしてきて、指先と同様冷たい手のひらを私のおでこに乗せてきた。
恥ずかしくて、私は咄嗟に目を瞑る。那由多の手のひらは離れることなく、そのまま位置を瞼のところまで移動させてきて。
「ゆっくり休め。また来るから」
「手を繋いでくれるなら」
望みはそうして叶えられる。
私はそれが心地よくて、その体温に安心もして、次第に眠たくなってきて。
優しい死神に、私はこの日おやすみを言えなかった。