「ちょ、日野代わりに打って。そんでさも私が打ったことにしよ」

「いやむり一部始終聞かれてる」


 くい、と親指を向けた先でバッティングセンターのおばちゃん管理人がフェンスの向こうで微笑ましそうに多香を応援しようものなら、彼女はさもまだまだこれからだと言わんばかりにバットを握り直す。

 制服のスカートから覗くカモシカのような足が寒さに震えて、使い古した毛玉だらけの手袋はそろそろ暇に出した方が良さそうだ。


「なんかご褒美ねーとやる気も起こんねーよー」

「例えば?」

「ゆめやのホームランバー10本」

「そんな食ったら腹壊すわ」

「うまい棒納豆味10本」

「くせーよ」

 っていうかお前って。

「引き合いに彼氏の“か”の字も出ないんか」

「およ?日野くんが裸でグラウンド10周でもしてくれんの」

「誰得だよするわけねーだろそんなもん」


 けど。

 座ったベンチ、そこで膝に両腕を置いていた自分はそのまま唇に手を添える。突如言葉を止めた俺に気付いたのか、多香もバットを肩に置いたまま振り向いた。


「キスくらいならしてもいい」

「罰ゲームだろそれ」


 人が意を決して放った言葉にお前はそんなこといいますか。

 それどころか舌をんベーっと出して顔を歪めた彼女の顔が、この世ならざる物に思えるんだから仕方ない。いや、こうだからいいのか。

 多香もおれも必要以上に踏み入らない。


 男女とかいう生まれ持っての区画に分類されつつも、気が付いたら星が惹かれ合うみたいにそばにいた。当たり前で必然で。離れていちゃつまらないし多分、一人では歩けない。

 それがきっと人間で。



 奇しくもおれもお前もその部類にうまいこと当て嵌っちゃってんだよ。

 絶望みたいな淵から抜け出したかった。死んでるみたいに生きていた中で唯一見えた希望に少しでも賭けてみたかった、なんて。

 そんなこと言ったら多分厨二かよとかって笑われるんだろうけど。


「多香」

「おん」


 夜風が吹いた。

 頰を刺す冷たい冬の風に耳を赤くして、首を窄めたおれは振り向かない背中めがけて提案する。

 それは愉快な逃避行。





「このまま二人で逃げようか」