口と口を合わせるその行為は、犬や猫が自分の縄張り意識を持つのと同じだ。唾液を交わらせることで男は異性との接触の第一歩とし、女は子孫繁栄を担うより高度な遺伝子をこの行為で選別しているのだとか、聞いたことがある。色気が無いようだけれど。

 フレンチだろうがディープだろうが性交だろうが知ったこっちゃない。目を合わしてただそばにいるだけ。それっぽっちだって自分の中じゃ愛情表現の最上に値する。どこかの国でお互いの腕や足を蹴ることを愛情と呼ぶのもそうだ。誰かが、自分がそうだと思っていれば他の何かに口出しされる筋合いはない。

 …と、思う。


(多香がどう思ってるかはさておき)


 家に向かう道すがら。ぼんやり考える俺の隣でへきち、と耳慣れないくしゃみを聞いて学ランのポケットからティッシュを出す。
 お金を入れた自販機が自分の欲した商品を吐き出し、それを当然のように受け取るのと同じで、多香は俺が差し出したティッシュを受け取るとちーんと鼻をかんだ。


「鼻水とうめい」

「言わなくていい」

「黄色かったら風邪って言うじゃん、セーフだな」

「鼻水見せながら言ってくる多香は既にアウトだけどな」


 人がどうこう考えてる隣でこの女は自分の鼻水のことしか考えてなさそうだ。

 初めこそ駅前のティッシュを消化するためにしてきたティッシュアシストも、こいつを彼女って呼んだその日からわざわざ水に流せるやわらかいティッシュにしてることも。こいつは知らないんだろうけど。


「ここ?」

「そそ」

「ボロアパート」

「オブラートと言う言葉を辞書で引け」


 父の仕送りを熨斗をつけて返した手前、ローンを組んでいた一軒家の売却後幽霊が出るとか出ないとか水漏れがするとかしないとか。

 一介の男子高校生のアルバイトでは何せ曰く付きの築古木造アパートに母を匿うことでいっぱいいっぱいだった。見かけはこうでも、父に精一杯の抵抗の末行き着いた楽園がここなのだから、俺には天竺に見えるのだが。


 錆びれた階段を上り、扉を開ける。人がどうぞという前におじゃまー、と入り込んだ多香は、犬か猫のように人のテリトリーを侵略し、物の見事におれが家で過ごす区画を突き止め、おれが普段お気に入りにしているクッションを抱き締めて腰掛けた。

 パンツ見えそう、と顔を傾げるが現れたのは体操服ジャージ。そういやこいつスカートの下にジャージ履いてるんだった。


「ドラマ以外であんのな、こゆ家」

「あるある。お茶でいい」

「お構いなく」


 真冬のアパート、暖房設備のまともじゃないそこは隙間風も凄く、結果電気ストーブ一つでなんとかするには燃費が悪い気もしないでもない。

 やかんに水道水を入れ、火にかける。クッションを抱き締めたまま部屋を物色していた多香を見下ろすと、アホ面ポニーテールが健気にもおれを見上げた。