彼氏がいなくなった

 


──────て、何だ今のは。


 隣で背もたれに頭を預けた日野は、どこか寂しそうに微笑んでいる。


「………ひの、ごめん」

「なぜ謝る」

「わかんない、でもごめん」

「意味わからん」

「ごめん」

「もういいよ」

「ごめ…っ」

 
 身を乗り出した日野が、私の横顔を振り向かせた。




 それから、唇が触れた。


 キスってもっとこう、甘くて切なくて優しくて、した瞬間涙が溢れたり爪先まで痺れたり、下腹部が疼いたり胸が苦しくなったりするんだと思ってた。

 日野が私にしたそれは至極素っ気なくて、前髪が触れたとわかっただけで、何の香りもしなくて、無色透明だった。



 吐息が白んだ。

 飴色の瞳がそっと私の睫毛を撫でて、何事もなかったようにまた、隣のベンチにもたれかかる。


「いい天気だね」

「そだね」

「…………日野は」

「ん」

「日野は私のこと好きだったのか」

「なんで過去形?」

「なんとなく」

「多香はどうなんですか」

「女性から言わせますか」

「レディーファーストですね」

「ここで使うなや」



 


「好きだよ」



 好き。凄く。



「好きだった」



 息がつまった。
 喉がしまった。

 涙がこぼれた。






 意味がわからない。見上げた空が綺麗すぎてそれで、溢れた涙なんだろうと思う。後から後から溢れる涙を手で拭って、それを遮った、

 隣から伸びた手が私の頬を撫でる。






「おれも好きだったよ」


 笑った日野は、くしゃりと笑って泣いていたその顔は、陽だまりの中。







 瞬きの間に光に溶けて消えてしまった。



 
 
 




 
見上げた一面に広がる、青い空。











「遅えよ多香。探したぞ」




 火葬場の門からおぼつかない足取りで現れた私に、てっさんはムッとした表情で告げた。


 常日頃タンクトップやTシャツの軽装備も、今年最強の大寒波を前にして、珍しく黒のダウンを着ていた。その下は白いシャツを着ていて、いつも伸びきった服をまとっているくせに、心底似合わないと思った。

 伸びっぱなしのロン毛を括っていた彼はヘアゴムを取り、煙草に火をつけるとそれを口に咥える。


「辛いんなら泣き言の一つ吐いて良いんだぞ」

「…」

「俺も理解するのに相当時間かかったし。何より献身的に支えてたあいつが一番、なんでって思ってはいただろう」

「…」

「いやしかし」










「鬱病の母親に腹刺されてぽっくり、とはね。
 生みの親に殺されるってのはさぁ、どんな気分なんだろうな」







 そのとき、ようやく私は自分の犯した罪の大きさに気付いた。



─────────俺の母親、鬱病でさ


 あのときから日野はずっと私にSOSのサインを送っていたのだ。



─────────何それウケる


 それを背負う覚悟がなくて私は見て見ぬふりをしてしまった。
 こうなってしまう前に防げたのかもしれなかったのに。




 気付いていた。知っていた。日頃交わされる会話の中に日野がそこはかとない虚無を背負っていたこと。わかっていたのに気付かないふりをした。怖かった。今の二人が壊れるんじゃないかって怯えて一歩後ずさった。


 私が突き放したあと寂しそうに笑った、日野の顔が浮かんでは消えていく。




「多香、いくぞ」




 
 
 死んだらひとは天国に行くとかいう

 そんな有り触れた変哲の無い言葉は求めていない
 日野は火葬場の煙突から立罩める煙になって空に帰って行った
 だとしたらあの空は日野の一部だとでも言えようか
 



 なんにせよ彼はもうここにはいない
 私は大切なものを失ってしまった








「多香、?」








 目から溢れる涙をそのままに、私は呆然と呟いた。












「彼氏がいなくなった」












 母さんが鬱病だと診断されたのは、おれが高校に上がってすぐの頃だった。


「……“統合失調感情障害”?」

「はい。お母さんは統合失調症と鬱病の症状の両方が顕著に現れる病気です。

 不眠、活力や食欲の減退、自責感、絶望感や自殺観念などの抑うつ症状と、今回の日野さんの“誰かが支配しようとしている”といった妄想や、“誰かが自分を殺そうと話したり、相談したりする声が聞こえる”と言った幻聴等の主訴から典型的な統合失調感情障害であると、そう判断しました」

「…………っそんな…、だって、だってちょっと前まで普通に元気だったのに」

「統合失調症や鬱病自体は遺伝、又は内気で控えめな性格の方になりやすいとの文献がありますが、その多くは極端な環境変化や心因性ストレスによって発症することが少なくありません。また、必ずステージというものが存在していて、ある日突然前兆なくこうなることは基本的にないでしょう。

 ここ数年で、お母さんの周りで急激な環境変化やストレスの元になるライフイベントはありませんでしたか」

「…」

「ご家庭内の事情を掘り下げて言及するつもりはありません。

 ですがこの病気は周囲の環境因子が大きく患者さんに影響を及ぼします。今日のことを真摯に受け止めて、きみはこのことをきちんとご家族の方と話し合って、相談し、お母さんを支えてあげてください」






(…家族っておれしかいねーよ)

 和室の窓辺で呆然としていたのは一頻り泣いたあと。
 涙も枯れて視線を落とした腕時計が定刻を過ぎているとわかると、腕で顔を拭って襖を開ける。途端、食卓にいた母親がはっとした様子でおれを見た。


「颯太、颯太、どこ行くの」

「バイトだよ。薬置いとくから12時、昼飯食べたあとちゃんと飲んで。何も食わずに飲むなよ胃が荒れる」

「二錠ね、うん、うんわかったわ」

「13時になったら診察で医院のスタッフさんが迎えに来てくれるから。先生にちゃんと挨拶するんだよ」

「颯太は?颯太はいつ帰ってくるの」

「学校終わってまっすぐ帰って15時半」

「…気をつけてね」



 パーカーの上にダッフルコートを羽織ってから、前を閉じずにふわ、と笑って軽く手を振ると扉が閉まるまで母さんはこっちを見ていた。

 かしゃ、と門扉を閉めて二人で住むには広すぎる一軒家を見上げると、冷えた指先をダッフルコートにねじ込んでは歩き出す。


 母さんが鬱病になった理由。そこには思い当たる節しかなかった。そう、医者が言う「急激な環境変化」は重々に存在していた。



 

 中学の頃、父親が女を作って出て行った。

 元からちゃらんぽらんな男で、家にも金だけ入れに月一で帰ってくるような適当なやつだった。おれが小学生の頃はまだ日曜は家にいた。でも平日は仕事を理由にほとんど家に帰ってくることはなかったし、約束していた遊園地、水族館、運動会、参観日は立て続く残業でまともに一緒に行った試しはなく、母親に「私たちのために働いてくれてるから」と言われる度それが全てなのだと言い聞かせて我慢した。

 だがそれもとどのつまり社内で出来た女と時間作りたかったそれってだけで。その全てを知った時に学んだ。正直者はバカを見る。信じて待った人間に成功なんざ降ってこない。結局周り蹴落としてでも掴み取らなきゃそれは砂のように手から滑り落ちてしまうのだ。


 その末路がこれだ。


「11時から、高木と面会の約束をしていた日野です」

 バイトと称して、父親の仕事先に来た。受付でそう告げるおれに受付員の女性二人は顔を見合わせている。無理もない。多分取引先とのアポかなんかと勘違いしてたんだろう。

「…あの、失礼ですがどう言ったご用件で」

「……、颯太?」


 片時も忘れたことはなかった。脳が指令を送るより先にその声に振り向いて、因縁の人物のご登場に自然と瞳孔が開き、口を結ぶ。

 僕の知り合いです、と受付に伝えた言葉すら引っかかった。


「………大きくなったな」

「人間だからな。子はほっといたって育つよ」


 何に感極まって泣きそうになっているのか、気がしれないし知りたくもなかった。ありがちな台詞で感動の再会を果たそうとしているなら他でやればいい。おれはお前の人生のキャストじゃない。捨てたのはそっちだ。主導権くらい握らせろ。

 よもや曲がりなりにも子どもがするべきじゃない態度で「男」をロビーのソファに座らせて、向かいに座れば元気か、なんて言う言葉すら無視した。事態は急を要している。



「…鬱病」

「思い当たる節しかないだろ。元凶が“自分”とあっては」

 大手企業に勤め、お高そうなスーツに吊り下げ名札を身に付けた「男」はおれの来訪に終始嬉しそうな笑顔を見せていた。それが癪に障ったから手短に済まそうと巻きで核心に触れたのに、それを聞いて男はえっと、なんて言葉を濁らせる。

 プライドなんてかなぐり捨てるしかなかった。だから頭を下げたのだ。


「戻ってきて欲しい。母さんのために。一回した間違いは消えない、でもそうでもしないともう」

「…それは無理だ」

「なん」

「妻子がいる」


 最後の希望なんかに縋るんじゃなかった。

 見離された何かをどうしてもう一度信用しようだなんて思ったのか。多分余裕がなくて頭もおかしかったに違いない。


「…妻や、子は私の過去を知った上でそれでもいいと受け止めてくれている。お前の、颯太のことも話したんだ。あの女は危険だ。結婚してすぐに異変に気がついた、だからお前を置いて家を出たんだ。悪いことをしたとは思ってる、でもお前を片時でも捨てようだなんて思ったことはない。迎えに来るために準備が必要だっただけだ。今まで散々寂しい思いをさせて悪かった。こう言ってはなんだが、いい機会だ。颯太、私たちと一緒に来てくれ。もう一度やり直そう。そうしたら全部」

「…父親のあんたが、母親の悪口を子どものおれに言うんだな」

「颯」

「………死んでくれよ頼むから」


 




 きっと嘘ではなかった。

 父さんが仕送りを送ってくる住所をいつも封の裏側に記載していたのも、中に何かしらのメッセージを残していたことも、だって目を通せばすぐに気づけたことだ。愛されていないわけではなかったことも知ってしまった。

 でも、それでおれが母さんを見捨てる理由にはならない。

 そんなことがあっても、父さんからはいっぱしの父親気取りで生活費が送られてきた。見るのも反吐が出るほどで、文字通り熨斗をつけて返してやったらそれ以降封は来なくなった。

 悲劇のヒーローなんか気取ってない。一心不乱に走ってれば光は見出せるのかと思ってた。でも今走ってるここがもはやどこだかわからない。