彼氏がいなくなった

 


 無人のリビングに、テレビからの話し声が響く。

 釣りの番組、健康サプリの宣伝とめまぐるしくチャンネルを切り替えて朝のニュースに辿り着く。でも空気の澄んだ朝とは裏腹に物騒な事件・事故の数々が煌々と私の瞳を照らすから、古びたおんぼろアパートが映し出されてすぐにぱちりとテレビの電源を落とした。




【早番のひとと交代したのでもう出ます
 朝ごはんは冷蔵庫のものあっためて食べてね

                     母】




 電子レンジから温めたホットミルクのマグに口付けて、母の書き置きをテーブルの端にやる。

 テーブルに置かれた物の数々を腕でぐいーっと押し退けると、何とかスペースを確保して腰掛ける。向こうでハガキか手紙が落ちた気がするが気にしない。



 早朝。マンションの一室から見える外の景色一面を、はじまりを告げる太陽が薄明るく照らし始めた。

 リビングは雑然としていて、ところどころでは脱ぎっぱなしの衣服や年の離れた弟のランドセルが廊下の側で寂しげに転がっている。

 私は食卓でひとり、制服から覗く冷えた足先をふくらはぎになすりつけながら冷めたパンに齧り付く。












彼氏がいなくなった
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄










 真冬の、空の高いある晴れた日のこと。

 真っ昼間から制服姿でそう宣言した私の言葉は、駐在所の警官には「ライオン食べたい」とでも変換されたのだろうか。

 だとしたら馬の耳に念仏。犬に論語。兎に祭文。



 この世界には不確かな例文ばかりごろごろ転がっているわりに、確信付いた単語の一つもありはしない。

 そうでもなければ警官だって、もっとまともな相槌打つでしょう。


「ちょっとさっきから何を言ってるかわからないんだけど」

「おまわりさん耳、悪りーんじゃないですか」

「公務執行妨害で逮捕するよ君」

「幼気なJKの話取り合ってくれないのどっちだよ」


 ふんす、と鼻息を出すと警官帽子ってやつのつばの部分を掴んで下から上まで舐めるように顔を近づけられた。真似をして薄目で対抗するのに、思うようにいかず指でもっと目を細める。

 
「見たところ高校生だよね、学校はどうしたの」


 その日今年1番の寒波を観測した東京は、空町(そらまち)。


 頭の高い位置でくくったポニーテールにマフラーをぐるぐる巻きにして。駐在所前で仁王立ちする私はクルーソックスを履いているだけで俗に言う生脚なので、冷たい冬の風が吹くたびだからぁ、と地団駄を踏んだ。

 こんな長期戦になるんなら120デニールのタイツでも装備するんだった。いきり立ちながらも、もう過ぎたクリスマスのトナカイみたく赤くなった鼻からは非情にも鼻水が垂れてきて、子どものようにぐすっと啜ってみせる始末。

 だって、言えばすぐに掛け合ってくれると思ってたんだもん。


 誰かがいなくなったら、心優しい駐在員が血相を変えて署の中に導き、暖かいお茶を出して話を熱心に聞きながらすぐに捜索願の手続きをする。

 ドラマや映画じゃよくあれど。
 現実はそんなに甘くないらしい。


 

「おまわりさんは自分の子どもが突然姿を消しても、のん気に出勤するんですか」

「それとこれとは話が別でしょう」

「同じだよ、立場が自分か他人かそんだけだ。いいからさっさと探してよ」

「探すにも君の素性が知れないことには何一つ始まらない」

「足立多香、南中高校二年三組17歳」

「いやめちゃくちゃ高校生じゃんか」


 学校はどうしたの、と職質をかけられかけておっとと慌てて後ずさる。その際通りかかった杖をついたおばあちゃんに危うくぶつかりそうになったから、すみません、と手を貸して謝るといいのよ、と笑われた。

 
「今、学校の時間でしょ。昼間っから授業サボって何言ってんだか、学校に連絡してあげるからちょっと来なさい」

「話になんないもういいわ」

「あ、こら君、待ちなさい!」


 学校に行きなさい、と叫ぶこのおじさんにそれ以外のボキャブラリーはないらしい。

 困ったとき、頼りになるのはいつ何時も警察だと思っていた。そのデータを即座に塗り替えて落ち着くところは「税金泥棒」、偏見かもしれないけれど結局これみたいだから、声が近付く前に足早に駐在所を走り去る。


(探さなきゃ)


 冬、よく晴れたど平日。

 学生鞄の持ち手を握りしめた私は、ひとまず彼氏とよく共に歩いた道筋を辿ってみる事にする。


 ❄︎


 私と彼は、つうといえばかあみたいな、
 星が惹かれ合うような、
 出逢うべくして出逢ったみたいな、そういう間柄だった。

 すべての始まりにおいて、きっと深い意味なんてないのだ。
 というか単純に意味のあるものの方が少ない。何事も。


 意味や価値はまずもって後から付いてくる。

 というのは私の彼氏こと日野颯太の迷言だ。

 

『磁石にプラスとマイナス極があんだろ』

『うん』

『男と女が惹かれ合うのなんかそんくらいの必定なわけ』

『端折り過ぎてわかりませんが』

『始めから決まってたってこと』


 人が呼吸をするように、
 魚が水の中で泳ぐように、
 ペンギンが空を飛べないように。

 それは当然であって、そこに理由などいらないのだと。確かに日野はそう言った。

 そういえばここ「空町」の語源は澄み渡る空が酷く美しく、町がお飾りに見えるからだと聞いたことがあるけれど。

 これも日野談なので事の真偽は最早確かめようがない。


 ❄︎


「おやまぁ、多香ちゃん、よく来たねぇ」

「いと婆、ホームランバー一丁」

「はいよぉ」


 商店街を抜け、家路に着くまでの途中にある昔ながらのちっぽけな駄菓子屋「ゆめ屋」は、御年84にもなる背中の丸まった可愛らしい婆ちゃん、通称いと婆が一人で切り盛りしている。

 学校帰り、必ずここに寄ってはホームランバー(定価60円)を注文し、店前のベンチで日野と並んで食べるのが日課だった。

 注文するたび、隣からは「一丁ってラーメン屋かよ」と言うツッコミが飛んでくるのをいなすのもお決まりでいと婆をよく笑わせた。

 私のホームランバーと対峙する宿敵・チョコバッド派の主は本日、現在、不在だが。



「いいお天気ねえ」

「うん」

「お空が綺麗ねえ」

「悲しいことがあるとこの町の空は人一倍綺麗に映るんだって」

「あらそう」

「って日野が言ってた」

「ふふ」

「でも日野の言うことはアテにならない」


 チョコバットを食べ尽くし包み紙をくしゃりと握りつぶす。足をパタつかせて、平日の真っ昼間にこんなことをする人は他にはちっとも見当たらない。

 通勤通学時間すら越えているからか人影もまばらで、じゃあそこを行き交う人はどこに向かうんだろうとぼんやりと考えた。

 いと婆はしわしわの手を腰に当てて、丸めた背中でもう一度いいお天気ねえと呟くから、私も黙って頷いた。

 雲ひとつない冬の青空にはまぬけな太陽だけがひとり、さみしそうにぽっかりと浮かんでいる。



 

 日野は新聞配達のアルバイトをしていた。

 毎朝毎朝、学校に来る前に原付で自分の担当のエリアに新聞を届けるそれは聞くところによるとハードだったらしい。

 夏の朝は太陽が早くに仕事をするけど、冬は怠慢で夜が長いから困るんだと、誰より早く学校に着いて貴重な学生の朝休みを睡眠にあてていた日野は、しかし私の末端冷え性攻撃で朝を迎えることとなる。



『おはよう旦那』

『ゔっ!』

 末端冷え性攻撃とは、文字通り手足の冷たい私が容赦なく日野の首に手を当てて現実に引き戻すそれである。

 冬場になると学ランの下にパーカーを着ている日野の、その背中に一気に手を突っ込んでやると前に女の子みたいな悲鳴をあげたので、こっぴどく叱られてそれ以降は首に当てるようになった。


『多香』

『お眠なのかえ』

『激ねむ。三途の河渡りかけた』

『そりゃ良かった』


 あたたかい日野の手は、私の冷たい手をぎゅっと握るとそれきり適当に追い払う。私もそれ以降は触れず、代わりに日野の隣の席のクラスメイトAの机に座って足でげしげししていると、やめてそれといなされる。

 そんな毎日だった。他のバイトを掛け持ちしていたのかどうかはよく知らない。ただ週に二回は必ず昼登校という、重役出勤を果たす日野は昼休みあくびまじりにやってきて、私の席の後ろに座って


 それから必ず私のポニーテールを弄ぶ。


『馬のしっぽ』

『それがポニーテール』

『ふふ』

『ふふじゃなくてやめれ。くすぐったい』

『多香の毛はあれだな』

『うん』

『馬っつーか蜘蛛の糸』