・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・

ピアノバー

・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・


12月14日(金)

パートの勤務時間は、5時間。

毎日9時30分に出勤し、午前10分、昼40分、午後10分の計60分の休憩を挟んで、15時30分に退勤する。

今日も15時半過ぎに退勤した私は、徒歩でまっすぐ自宅に向かう。

16時頃、帰宅し、18時までピアノを練習する。

ピアノバーでの演奏曲には、特に指示はない。

毎回、私の好きなように演奏させて貰っている。


今日は、何を弾こう?


12月だし、定番のピアノ曲にクリスマスソングを何曲か織り交ぜながら…でいいかなぁ。

ピアノバーでの演奏は、1時間×2ステージの契約。

20時からと22時からの2回のステージ。


緊張しないと言ったら、嘘になる。

それでも、子供の頃に出ていたコンクールとは違い、心地いい緊張感だ。



18時。
軽く食事を取り、メイクを直し、腰まである長い髪を緩く巻いて、出掛ける準備をする。


19時。
ドレスを手にホテルに向かう。


19時半。
ホテルの控え室で着替えを終えて、本番に向けて心を落ち着かせていく。

19時50分。
本番前にスタッフルームからフロアを覗いた。

この時間帯は、ディナーを楽しみながら…というお客様も多い。

まだまだ満席ではないが、半分以上のテーブルが埋まっていた。

その時ふと、ピアノの右側のテーブルに白い《 Reserve 》のプレートが置かれているのが目に付いた。

演奏中、嫌でも目に入るその席には、どんな人が座るのだろう?

アルコールの提供があるため、ごく稀に演奏の妨害をするような酔っ払いが混ざる事がある。

今日も無事、演奏を終えられますように…。



20時。

祈るような気持ちで、ピアノの脇に立つ。

今日はネイビーのマーメイドラインのシンプルなドレス。

サテン地に刺繍されたシルバーのラメがライトを浴びて、キラキラと輝く。


「皆さま、ようこそおこしくださいました。
本日、ピアノを演奏致します橘奏(たちばな
かなで)と申します。
どうか幸せな夜のひと時をお過ごしください
ませ。」

挨拶をして、椅子に座る。

深呼吸をして、1曲目。

この瞬間が1番緊張する。

始まってしまえば、後は自分の世界。



3曲目が終わろうという頃、右側の《 Reserve 》席に1人の男性客が案内されて来るのが視界に入った。

なんで!?

ハッ!!
しまった!!

《 Reserve 》席でにこやかに微笑むゆうくんに動揺して、派手なミスタッチをしてしまった。


平常心、平常心…。

必死で心を落ち着かせて、3曲目を終える。


もう一度、大きく深呼吸をしてから、4曲目に入る。


ゆうくんが、私を見てる…

心が落ち着かない。


ゆうくんが、見守ってくれてる…

なんだか心地いい。



よく分からない感情が溢れ出して、ピアノの音を紡いでいく。

初めての感覚。


1時間、演奏を終えると、私は控え室でドレスを脱ぎ捨て、来た時のワンピースに着替えた。

急いで、フロアに向かう。



ゆうくんは、ワインを飲んでいた。

私が隣に座ると、少し微笑んで、

「ごめん。驚かせたな。」

と謝った。

「やっぱり分かった?」

痛恨のミスタッチ…。

「ああ…
でも、その後は上手く立て直したじゃん。
最後の『愛の夢』感動した。」


嬉しい。

どうしよう。

6年も前に諦めたはずなのに…

もう平気だったはずなのに…

心が抑えられない。

ゆうくんが…

好き。



でも、もう傷つきたくない。

どうしよう。



22時。

今度は、最初からゆうくんが聴いてくれてる。

ピアノが心地いい。

音に気持ちを乗せていく。


ゆうくんが好き。

ゆうくんが大好き。

でも言えない。

でも、ゆうくんが好き。



いつもより、音が優しく響いてくる気がする。

ゆうくんは、最後まで聴いてくれていた。



23時。

演奏を終えると、急いで着替えてゆうくんのところへ向かった。

私が隣に座ると、

「何か飲む?」

とゆうくんが聞いた。

「ううん。」

私が首を横に振ると、

「じゃあ、帰ろう。送るよ。」

と席を立った。


私は、控え室から荷物を取って来て、ゆうくんの隣に並んだ。

ゆうくんの右手がスッと伸びて、私の荷物を持ってくれる。

「ありがと。」

ゆうくんは、右手に荷物を持つと、今度は左手をスッと出し、私の右手を握った。




帰りは、ほとんど何も話さなかった。

だけど、心が繋がってる気がした。

思えば、私たちは、ずっとこうだったんじゃない?

何もがんばらなくても、隣にいるのが当たり前で、何も言わなくても、互いの思いはそこにあった。


ホテルからマンションまではほんの10分程の距離。

あっという間に着いてしまう。


私の部屋の前で、荷物を受け取って、ゆうくんを見上げた。

「ありがと。
荷物も。聴きに来てくれたことも。」

「こちらこそ、ありがとう。
素敵な演奏だった。

おやすみ……」


「おやすみなさい。」



私は、部屋に入っても、なかなか寝付けなかった。