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再会

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「…ここまでで、何かご質問はありませんか?
…なければ、ここで一旦休憩とさせて
いただきます。
次は、10分後の10時40分から、実務について
説明いたします。」


…… ふぅぅっ…

緊張を解かれたことによるため息が、そこかしこからもれた。


12月3日(月)

私、橘 奏(たちばな かなで)は、OKコンピュータサービス(株)に半年間の短期のパート社員として入社した。

採用人数は10名。

見た感じ、私以外は、ほとんどが主婦のように見える。


パートだもんなぁ…

話、合うかなぁ?

人見知りの私は、周りを見渡して心配と不安でいっぱいだった。


すると、そんな私の心配をモノともせず話し掛けてくれる人がいた。

「橘さんだっけ? 若いよね!? いくつ?」

「高木…さん? そんなに若くありませんよ?
もう26になります。」

主婦のパワーは私の想像より凄いものがある。

誰にでも話し掛けていて、みんな人見知りとは無縁のようだった。

たかが10分で、家が近所だの、子供が同い年だの、それぞれの共通点を見つけてどんどん会話を広げていく。

パートだけど、一応同期入社。
ある種の結束が生まれているようだった。

世の中は世話好きな主婦によって円滑に回っているのかもしれない…。

私の緊張も少しほぐれた気がした。




実務の説明を受けた後、練習が始まった。

私たちの仕事は、データ入力。

いわゆるキーパンチャーだ。

前職がSE(システムエンジニア)だった私にとって、自分の頭を使わず、データをそのまま入力するというのは、とても気楽で楽しい作業だ。

実際の作業は1〜2月が佳境らしく、今は実務データではなく、練習データを入力して1月に備えるとのこと。

パートに時給を発生させながら、研修期間を設けるなんて、今どき信じられない優良企業だわ。

私たちが真剣に練習入力を続けていると、いつの間にか12時になった。

昼食は、5人ずつ交代で行くらしい。


この会社は、OK銀行という地方銀行の系列会社で、OK銀行本社ビルの別館にある。


銀行系列だからなのか、ここには、色々とめんどくさい細かい決まりがある。

その中にオフィスでの食事禁止というものもあった。

昼食は、なぜか本社の9階にある社員食堂で食べなくては、いけないらしい。

例え、お弁当持参であっても。



後半組で昼休憩に行くように指示を受けた私は、12時40分まで練習を続けた後、お弁当を持って社員食堂に行った。



「わぁ!!!」

正社員の西田さんが案内してくれた社員食堂は、眺望がとても素晴らしく、私は思わず感嘆の声を上げていた。

地方都市にあるこの建物は、この市で1番高く、遠くまで見通す事ができる。

「毎日、ここでお昼を食べられるなんて、
幸せだね〜。」

私は思わず、呟いた。

「でも、満席じゃない?」

心配そうにキョロキョロしながら、高木さんが言った。

休憩時間は40分しかない。


この限られた空間に、本社及び系列会社に勤める全社員・行員が集まり、昼食をとる。

常に満席なのは、当たり前の事だった。

しかし、西田さんはにっこり笑う。

「大丈夫よ。
回転が早いし、みんな相席が当たり前だから、
気にしなければ、すぐ座れるわよ。」

そういうと、さっと見渡して歩き出した。

「ここ! おいで!」

西田さんは、1つの空きテーブルと隣で1人の男性が食べている席を指差して、私たちを呼んだ。

「ここ、いいですか?」

「どうぞ。」

西田さんは、食事中の男性に声を掛け、了承をもらうと、

「4人はそこで、私とあと1人はここね」

と言って、自分のお弁当を男性の前に置いた。

「………」
「………」

「じゃあ。私が…。」

みんな、見知らぬ人との相席に戸惑い、誰がそこへ座るか顔を見合わせていたので、私はあえて西田さんの隣にお弁当を置いた。


40分しかない昼休み、席を迷うなんてくだらない事で減らすのはもったいない。

私がそこに座って丸く収まるなら全然構わなかった。

SEだった頃は、初対面のお客様とランチに行く事も多々あったので、慣れていたから。


そして、西田さんに給茶機の使い方や布巾の場所などを教わると、ようやく席に座り、お弁当を広げた。

「いただきます!」

私が手を合わせると、目の前の男性が顔を上げた。

「かな…で?」

私は、不意に名前を呼ばれて固まった。

黒髪の短髪で軽く前髪を立ち上げたヘアスタイル、くっきり二重で目が大きく、鼻筋が通って整った、中性的な顔立ちの男性。

「ゆう…くん?」

「えっ? 何? 知り合い?」

西田さんが驚いて尋ねた。

驚きすぎた私は、不躾にも、ゆうくんをじっと見つめたまま、しばらく固まってしまった。

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田崎 優音(たさき ゆうと)くんと出会ったのは、5歳の頃。

私は母に連れられて、音楽教室でピアノを習っていた。

その時、同じ時間帯に隣の教室でバイオリンを習っていたのが、彼…ゆうくん…だった。

私たちのレッスンの間、ロビーで待つ母たちは、同い年の子を持つ母としていつの間にかママ友になり、他愛ない会話に花を咲かせていた。

その会話は、私たちのレッスンが終わっても尽きる事がなく、母たちがおしゃべりを続けるのをいい事に、私たちは毎週、レッスン後に1時間ほど仲良く遊ぶようになっていた。

「ゆうくん、鬼ごっこしよ。」

「奏(かなで)ちゃん、いいよ。」

私たちは、音楽教室のロビーで、通路で、空き教室で遊んだ。

ゆうくんは、かけっこがとても早かったけど、絶対に私を置いてきぼりにする事はなく、いつも離れすぎると走って戻って来てくれるから、すぐに捕まえる事ができた。


そして、6歳の春、私たちは同じ小学校に入学した。

初めての教室で、緊張して座っていると、隣の席に来た男の子に元気よく声を掛けられた。

「おはよう! 奏ちゃん!」

「ゆうくん! おはよう! ゆうくんの席、
ここ?」

「うん。」

「お隣だね。やったぁ!」

私たちは、隣の席にお互いを見つけ、喜んだ。

私たちは、ずっと仲良しだったし、私はなぜだろう、ゆうくんとは永遠に一緒にいるものだと思いこんでいた。


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私たちの関係が変わったのは、中学へ上がってしばらくした頃だった。

私は、隣の小学校から来た同じクラスの河合 恭子(かわい きょうこ)と仲良くなった。

恭子は、中1の5月、突然私にこんな事を言った。

「ねぇねぇ、田崎優音(たさき ゆうと)くん
って、かっこいいよね!?
私、好きになっちゃった。」

私は、何と言っていいか分からず、

「そう?」

とだけ答えた。


私は、ずっと一緒にいるのが当たり前だったゆうくんのルックスをそれまで全く気にした事がなかった。

言われてみれば、中学入学時、すでに170センチ近い身長があり、黒目がちな大きな目は長い睫毛に縁取られて男の子にしておくにはもったいない程綺麗だったし、すっと通った鼻筋も笑うとにっこり上がる口角も好印象を周りに与えていた。


私は、この時の恭子の言葉を聞いて、初めて、

私も ゆうくんが好きなんだ…

と自覚した。

これが私の初恋だった。


ゆうくんは、小学校の頃から、運動会では、毎年リレーの選手に選ばれていたが、彼は陸上部の執拗な勧誘を断り、私と同じ吹奏楽部に入部した。

私はフルート、彼はトロンボーンを選び、毎日部活動に励んだ。





恭子は、とても積極的な子だった。

初めの頃は電話やメールで直接ゆうくんにアプローチしていたようだったが、全く ゆうくんに取り合ってもらえず、そのうちに私とゆうくんが仲が良いと知るや、私に仲立ちを頼むようになった。

「かなで〜、お願いがあるの〜。
田崎くんに手紙書いたけど、自分では
渡せなくて…。
お願い! 奏から渡して♡」

優柔不断で断ることが苦手な私は、恭子にもゆうくんにも自分の気持ちを隠したまま、手紙をゆうくんに渡した。

「ゆうくん、これ。」

「何?」

「恭子に頼まれたから…」

ゆうくんは、私の手にある封筒を一瞥すると、

「いらない。返しといて。」

と言って、去って行った。

今までに聞いた事がない、とても冷たい声だった。


ゆうくん、怒った?

いつもの優しい ゆうくん じゃない事に驚いて、私は悲しくなった。

こんな事、引き受けなきゃ良かった…。


しばらくして、全くデートにも応じてもらえない恭子は、複数人で出かける計画を立てるようになった。

私を含め、6〜7人位で、買い物、祭り、花火、勉強会…と色々な所に誘った。

恭子と2人だとOKしない ゆうくん も、大人数だと出掛けるようだった。

私も誘われるままに出掛けていたが、ゆうくんとは、なんだか少しギクシャクしていて、小学生の頃のようには話せなくなっていた。

それでも、ゆうくんと同じ空間にいる事は、とても心地よく、後ろからそっと眺めるだけで心満たされるのだった。



そして、そんな関係が3年続き、私たちは高校生になった。

ゆうくんは、とても頭が良く、県内で1番偏差値が高い高校に進学した。

私は、地元ではそこそこの公立高校に進学した。

恭子は……
ゆうくんの高校と最寄駅が同じ高校に進学した。

恭子は思いのほか一途で、ゆうくんと出掛けるため、高校に入っても年に数回、中学のメンバー数人を集めて遊ぶ計画を立て、誘ってきた。

私は、高校生になってもピアノを続けていたけれど、ゆうくんは中1でバイオリンをやめてしまったから、音楽教室で偶然会う事も無くなっていた。

だから、恭子のおかげで、年に数回会う事が出来るのは、とても嬉しく、毎回ドキドキしながら参加していた。

自分から行動を起こさなければ、何の進展もないのに、見ているだけで、心が充電されていくように、ほっこりした。



そんな私たちの関係は、大学生になっても続いた。

ゆうくんは、東京の1番頭が良い国立大学に進学し、私は地元の国立大学に進学した。

恭子は東京の私立の女子大に進学した。

東京に行っても、恭子とゆうくんの関係はあまり変わる事はなかったようだ。

そのため、長期休暇になり帰省するたびに、恭子は相も変わらず、私たちを誘って出掛ける計画を立てていた。



大学3年の冬休み、私たちは、初詣でに行った。

大勢で歩きながらも、私はいつもゆうくんを気にしていた。

「優音(ゆうと)、お前、卒業したらどう
するの?」

ゆうくんの親友の将也(まさや)が聞いた。

「こっちに帰ってきて、就職するよ。」

「おっ! 俺もそうするつもり!
そしたら、頻繁に呑みに行けるな?」

将也は北海道の大学に通っていた。

私は、ゆうくんが1年後には帰って来るつもりだと知って、嬉しくなった。



ところが、その一ヶ月後、そんな私の所に、恭子から電話がかかってきた。

「かなで! 聞いて!!!」

「何?」

「私の初恋、ようやく実ったの!」

私は意味が分からず、返事もできなかったが、興奮した恭子は、構わずまくし立てた。

「だからぁ!
今日、バレンタインだから、田崎くんに
チョコあげに行ったの!
そしたら、田崎くんが私と付き合っても
いいって言ってくれたの!!!」


その後の事は、よく覚えていない。

呆然としてしまい、

「良かったね。おめでとう。」

とだけは、言ったような気はするが、何を話して、どう電話を切ったのかも定かではない。




2月14日……バレンタインデーは、私の誕生日。

21歳にして、私は最悪の誕生日を迎えた。



1年後、大学を卒業したら、ゆうくんは恭子と帰ってくる。

私は、内心、恭子がいくら頑張っても、ゆうくんが恭子を選ぶ事はないと思っていた。

それは、ある意味、確信だった。

だけど、違った。

ずっと東京で一緒だった2人は、私の知らないところで、距離を縮めていたのかもしれない。

2人が帰ってきたら、どうしよう。

また、みんなで遊びに行ったり、呑みに行ったり、平気な顔して出来るかな?


誕生日に1人ベッドで泣き腫らした私は、東京で就職することを決意した。

そして、大学を卒業すると、東京で大手のコンピュータ販売会社にSEとして就職したのだった。

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─── OK銀行 社員食堂 ───

「久しぶり。」

ゆうくんが微笑んでくれた。

「…うん。久しぶり。」

私も微笑み返した…つもりだが、上手く笑えていたか自信がない。

「西田さん、
こちら田崎優音(たさき ゆうと)くん。
同級生なんです。」

「へぇ〜!! そうなんだぁ!
そういう偶然って、あるんだね〜。」

西田さんは目を丸くして驚いていた。

「そっか。
ゆうくん、OK銀行に就職したって
聞いてたけど、本社だったんだね。」

私が言うと、

「うん。
今、5階の市場金融部ってとこにいる。
奏は? 東京にいるんじゃなかった?」

ゆうくんは、まるで小学生の頃に戻ったように、ずっと仲良しだったかのように、普通に話してくれた。

「今年の春、帰って来たの。
で、今日からここの別館3階でパート勤務。」

「パート? 結婚したの?」

ゆうくんは、驚いて目を見開いた。

「ふふっ
違うよ。
無職じゃ、家賃も払えないから、とりあえず、
つなぎで半年間パートなの。」

ふふっ
やっぱりパートは主婦がするイメージなんだ。

そう思うと、なんだかちょっと笑えた。

「そうなんだ。
もっと話したいけど、俺、もう時間だから
行かなきゃ。
奏は、いつも昼休み、この時間?」

「今週は12時40分から40分なんだって。
一週間交代で、来週は12時からって言ってた。」

「そっか。
じゃあ、また会えるといいな。
お先に。」

「うん。またね」

私がそう言うと、ゆうくんは私の隣の西田さんに軽く会釈をして、空になったお盆を持って返却口へと去って行った。


中学でさらに背が伸びた ゆうくんは、大学生の頃から変わってなければ、身長180センチ位。

混み合う社員食堂の行列を頭ひとつ飛び出してすり抜けて行った。


ゆうくんは、私の事、どう思っただろう?

ゆうくん、また会えるかな?




「彼、かっこいいね〜。噂の田崎課長でしょ?」

ゆうくんが席を立つと、西田さんがしみじみと言った。

「課長なんですか?」

私が驚いて目を丸くすると、

「そっか。知らないんだ。
ここでは、有名人だよ。
お父さんが現頭取で、彼は若手で1番の
出世頭。
学歴もいいから、単純に親の七光だけじゃ、
ないのかもしれないけど。
加えて、あのルックスだもん。」

「そうなんですね。知りませんでした。」

「彼、きっと、学生の頃からもてたでしょ?」

「…そう…ですね。」

私は、出来るだけ早くこの話題を終わらせたがったが、興味津々の西田さんには気づいてもらえる事はなかった。

「一時期、悪い噂も流れたけど、優良物件で
ある事に変わりないわ。」

「悪い噂?」

「女遊びっていうの?
元々は誰にもなびかないって言われてたのに、
ある日を境に人が変わったみたいに来る者
拒まず…みたいに言われ始めたのよ。
嘘かほんとか知らないけどね。
でも、今はまた、元の堅物に戻っちゃった
みたい。
ただの噂だったのかもね。」

信じられない。

じゃあ、恭子は?

もしかして、恭子と別れて自暴自棄になったのかな?

そんなに恭子が好きだったの?

今はどうしたんだろう?

恭子とヨリが戻って落ち着いた?

それとも、諦めがついた?


初恋の人の悪い噂は、あまり気持ちのいいものじゃなかった。




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14時。

この会社では、10分間の休憩がある。

前の会社では、労基の関係で就業規則に休憩時間を明記してあるものの、実際には全く存在してなかった。

しかし、ここでは、きっちりと休憩を取らされる。

この休憩は10人全員で、オフィス横の会議室で取る。

今日は、正社員の方から、大袋のお菓子をいただき、みんなでお茶をしながら、和気あいあいと過ごした。

明日からは、お弁当の他にお茶菓子を持って来よう!



この会社のオフィス内は、機密データ漏洩防止のため、携帯電話は持ち込み禁止になっている。

しかし、会議室はその限りではないと聞き、この10分は、同期一同、連絡先の交換会と化した。

みんなで携帯をフリフリしまくって、連絡先を登録していく。

「あぁぁ! みんなSNSやってる?
なんか、いっぱい『お友達かも…』の案内が
来てる〜。」

高木さんは、各種SNSでアカウントを持っているらしい。

「みんなフォローするから、私のもしてね〜。」

とても楽しそうだ。

私は、各サイトの認証のために、SNSアカウントを作っただけで、実際には何もアップしてないが、高木さんが嬉しそうだから、一応フォローしておいた。



これでも、1年前までは、時々アップしてたんだけどな。



東京からこっちに戻って来たのを機に、携帯を番号ごと新しくしてからは、全くやっていない。

電話帳を引き継がなかったので、家族以外、ほとんど誰とも繋がっていないのだから、誰もフォローしてないし、誰からもフォローされていない。

半年以上に及ぶ引きこもり生活を脱した事だし、これからは、少しずつ外にチャンネルを開いてみるのもいいかもしれない。



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2日後、12月5日(水)


12時40分になり、私たちは、お弁当を持って社員食堂へ向かった。

私たちの職場は、別館3階にあるが、セキュリティの関係で、本館のエレベーターを使わないと入れない。

本館1階からエレベーターで5階に上がり、セキュリティカードで連絡通路のロックを解除して別館に入り、階段で3階まで下りる。

オフィスから社員食堂へ行く時は、階段で5階に上がり、連絡通路を抜けて、エレベーターで9階に上がる。



この日、私たちが、別館から連絡通路を抜けると、5階エレベーター前に ゆうくんがいた。

ゆうくんは、私を見つけると、

「今からお昼?」

と柔らかく微笑んだ。

「そう。」

私が答えると、横から私の袖を引っ張って、高木さんが、

「橘さん、紹介してよ。」

と人のいい笑顔で私とゆうくんを交互に見ている。

「田崎 優音くん。
同級生というか、幼馴染みです。」

「はじめまして。田崎優音です。」

ゆうくんは、私と一緒にいたパートさん達に挨拶してから、私に視線を移すと、

「俺も今からお昼なんだけど、一緒に
食べない?」

と聞いてきた。

どうしよう。
他のパートさん達と一緒に食べた方がいいような気もするし…。

返事に迷っていると、すかさず高木さんが口を挟んだ。

「あら、行って来なさいよ。
どうせ、テーブルは4人掛けだから1人
あふれるんだし、私たちの事は気にしなくて
いいわよ。」

「そうよ、そうよ。
行ってらっしゃい。」

他のパートさんも声を揃えて言ってくれる。

「じゃあ、そうさせていただきます。」

私は、高木さん達にそう言うと、ゆうくんに向き直って微笑んだ。


「ゆうくんも別館にいるの?」

私はエレベーターを待ちながら、ゆうくんが連絡通路横のエレベーターにいた事を不思議に思って尋ねた。

「違うよ。俺は、ここ。」

ゆうくんは、エレベーターの正面にある扉を指差して笑った。

厳重な電子ロックの付いたその扉には、『市場金融部』と書かれたプレートが付いていた。

「へぇ、そうなんだ。私たち、毎日ここ
通るから、また会うかもしれないね。」

私は、こんな偶然にちょっと嬉しくなった。


─── チン!

混雑したエレベーターが到着すると、私たちは、無言でエレベーターに乗り込み、9階へと上がった。





社員食堂に着くと、

「俺、お昼買ってくるから、先に座ってて。」

ゆうくんはそう言って、行列に並んだ。

私は、窓際の席の人が片付け始めているのを見て、声を掛けた。

「すみません。ここ、もう空きますか?」

「はい。まだテーブル拭いてませんけど、
それでもよければ、どうぞ。」

「ありがとうございます。」

私は空いたテーブルにお弁当の袋を置き、布巾を取りに行った。

私がテーブルを拭き、給茶機からお茶を2杯持って来ると、ちょうどお昼ご飯を持ったゆうくんが歩いて来た。

私は小さく手を振り、ゆうくんに場所を教えた。

「おまたせ。」

そう言ってゆうくんは、にっこり笑って私の前に座った。

トクン………

何だろう?

久しぶりに子供の頃のような素直な笑顔を見た気がして、嬉しくなると同時に、心臓が大きく拍動した気がした。

「いただきます。」

2人で手を合わせて、食べ始める。

「奏のお弁当、おいしそう。」

「ふふっ
ありがとう。
でも、晩ご飯の残り物だよ。
ゆうくんのこそ、おいしそう。
唐揚げ定食?」

「惜しい! 日替わりB定食、竜田揚げ。」

「竜田揚げと唐揚げ、どう違うの?」

「さぁ?」

「ふふっ。」

どうでもいい事で笑い合えるのが嬉しかった。

中学に入学して以降のどことなく歯車がずれた感じはもうない。


「そう言えば、奏、この間、家賃がどうとか
言ってたけど、実家に戻ったんじゃないの?」

「うん。
戻ったんだけどね、弟が結婚するから、
追い出されたの。まだ先週、引っ越しした
ばっかり。」

「弟って、律(りつ)?
あいつ、結婚するの?」

「うん。子供ができたらしくてね。
夏前に産まれるから、安定期に入る春に式を
挙げるんだって。
あの子自身がまだまだ子供だと思うん
だけどね。」

と私は笑った。

「じゃあ、奏は、今、どこに住んでるの?」

「駅から西に行った線路沿いのマンション。
家賃、安くないから、ほんとは正社員で
働けるとこ探さないといけないんだけど、
東京と違ってSEの需要もないし、なかなか
苦戦してて…。」

「あぁっ!!
もしかして、先週、2階にグランド入れてたの、
奏んち!?」

「??? 何で知ってるの?」

「だって、俺んち、その5階だもん。」

「うそ!?」

「うそじゃないよ。休みの日に洗濯物干そうと
思って、外見たら、グランドピアノを搬入
してたから、気になってたんだ。」

「…ゆうくん、バイオリン続けてるの?」

私が引っ越したマンションは、線路沿いと
いう事もあり、防音設備が整っている。

普通のマンションでは、楽器は迷惑になるからできないので、楽器可のマンションを紹介してもらって決めたのだった。

ゆうくんが、楽器可のマンションに住んでるという事は…。

「続けてるって程の事じゃないよ。
気分転換にたまに弾くだけ。
奏こそ、ピアノ持って来るなんてすごいな。
実家に弾きに帰るとかいう選択肢は
無かったの?」

「私は経済的な事を考えるとそうしたかったん
だけど、律んとこに子供が生まれるじゃない?
そしたら、ピアノは邪魔なんだって。
アップライトじゃないし…。
ピアノよりベビーベッドらしいよ。
ふふっ」


休憩時間40分は、とても短くあっと言う間に終わってしまう。


「ごめん。
もう行かないと。
ゆうくん、またね。」

私が席を立つと、ゆうくんが慌てて声を掛けてきた。

「奏!
金曜、空いてる?
俺、その日は残業ないから、メシ行こうよ。」

嬉しかった。

もっと話したかったから。

でも…

「ごめん。
金曜は別のバイトなんだ。
また今度、誘って。」


そう言って、私は社員食堂を後にした。