「はぁっ!?」
松岡くんの目が、そんなに開いたら目玉が落ちちゃわないか心配になるほど見開かれた。
「ちょっと待て。
お前、TL小説家なんだよな?」
「……年上でお客をお前呼ばわり……」
執事モードオフどころか、松岡くんは完璧に素になっていた。
「エロシーンのあるTLを、処女が書いてんの?」
「……うっ」
そこは若干、コンプレックスだから触れてほしくない。
「どうやって書いてんの?
シたことないのに」
だから。
興味本位に聞いてくるなって。
「……資料と想像」
そろそろと壁伝いに立ち上がる。
松岡くんは面白がっていて全くもって面白くない。
「へー。
ちなみにキスもまだだってことは、男と付き合ったこともないの?」
「残念ながら、男とも女とも付き合ったことはない」
「ふーん」
ん?
思いっきり莫迦にされるかと思ったけど、そうでもない?
前にこれがバレた男は処女なのにあたまの中はエロいことでいっぱいなんだろ、オレが発散させてやるよって押し倒してきた。
おかげで男嫌いになったといっても過言じゃない。
「ちなみにさっき泣いたのって、俺とキスするのが嫌だから?」
「……キスするのが怖かったから」
さんざんいつも書いている癖に、いざ自分が体験となると怖くなった。
ここを超えたらもう、いままでの私には戻れなくなる気がして。
「可愛い!」
「はいっ!?」
なんだか知らないがハイテンションで、私の肩を掴んで松岡くんはぐわんぐわんと揺さぶってくる。
「こんな可愛い女、見たことねー!」
大興奮でなにを言っているのか理解できないんだけど、おかしくないよね?
「……なら」
両手で髪を撫でつけて整え、指を揃えて眼鏡をくぃっと上げる。
途端に。
――纏っている空気が変わった。
「俺……私を、本当の彼氏にしてみませんか」
松岡くんは私の前に跪き、恭しく右手を取った。
眼鏡の奥からさっきの小説のように、艶を帯びたオニキスの瞳が私を見ている。
どくん、どくんと心臓が自己主張するかのように大きく鼓動した。
からからに渇いた喉にごくりとつばを飲み込み、口を開く。
「じゃあ――」
マスカラを持つ手が震える。
「ヤバい、目に突っ込みそう……」
何度もビューラーでまぶたを挟みながらカールさせた睫へ、ぶるぶるとマスカラを塗った。
「大丈夫、かな……?」
うまく塗れているかなんて自信はない。
ただ、ダマにはなっていなさそう。
まあそのために、ダマになりにくい! ムラにならない! という謳い文句の、自分でも手軽に扱えそうなのを買ったんだけど。
「これでいいんだよね……?」
チークを塗りながらもやっぱり自信がない。
一度、お店の化粧品売り場に行ってみたけれど、美容部員に話しかけられて……逃げた。
そもそも、店員に話しかけられるのは苦手なのだ。
なのに、お化粧の相談に乗ってもらって、やり方まで教えてもらうとかハードルが高すぎる。
仕方ないので一度家に帰り、ネットでお化粧のやり方からお勧めの化粧品まで調べた。
いままで小説を書くのにいろいろ調べごとをしてきたが、こんなに疲れたのははじめてだ。
買って帰った日、予行演習はやったけど、これで正しいかなんてわからない。
誰にも聞けないし。
そしてそのまま……本番を迎えたわけだ。
「張り切りすぎ?
いやいや、でも松岡くんは彼氏なわけで……」
眼鏡はやめてコンタクトにした。
化粧も頑張った。
髪も可愛くアレンジヘアでまとめてみた。
――ネットで【簡単 ヘアアレンジ】で調べたら、【まずは軽く髪を巻いておきましょう】などと書いてあって殺意を覚えたが。
服だって桃谷さんの格好を参考に、用意した。
「おかしくないとは……思う」
「にゃー」
大丈夫だよとでもいうかのようにセバスチャンが鳴いて、ちょっとだけ安心した。
「こんにちはー」
落ち着かなくてそわそわと待っているうちに、松岡くんがいつものようにやってくる。
「本日もよろしくお願いします」
「よろしくお願い……します」
僅かに熱を帯びる顔で、ちらっと松岡くんをうかがう。
けれど彼はいつも通りでがっかりした。
「すぐにお茶の準備をいたしますね」
「……はい」
なんだか泣きたくなってきて俯いた。
せっかくいろいろ頑張ったのに、気づいてもらえないなんて。
――くすり。
耳に、小さな笑い声が届いて顔を上げる。
すぐに松岡くんの顔が近づいてきた。
「……それは俺のためにやってくれたのか?
だとしたら嬉しいんだけど」
バリトンボイスで囁かれ、ボン!と顔から火を噴く。
わかっていてこんな意地悪するなんて。
でも、そういうところにどきどきしている自分がいる。
黙ってしまった私の額へ、松岡くんがちゅっと口付けを落としてきて容量いっぱいになり、その場へへなへなと崩れ落ちた……。
松岡くんとはあのあと……付き合うようになった。
といっても――仮、だけど。
「じゃあ、……彼氏にする」
このときの私は、あたまがどうかしていたとしか思えない。
好きでもない男と付き合うなんて。
けれどどうしてか、松岡くんがそう言ってくれたのが嬉しかったから。
「は?」
私の言葉で松岡くんは、間抜けに目と口をぽかんと開いていた。
「なに言ってるのかわかってんのかよ」
立ち上がり少し怒って聞いてくるが……自分で言っておいて、いまさらだ。
「わかってる。
でもいままで彼氏とかいたことなかったし、実地で経験するのもいいと思う……から」
うんうん、きっとそれだけの理由だ。
想像の王子様に恋するよりも、実際に恋愛してみた方が経験値は上がるに決まっている。
最近、このままTLノベルを書き続けていていいのかなんていう不安もあるし、そのためだったら。
「要するに取材って奴か」
「そう、だね」
「じゃあ相手は、俺じゃなくていいんだ?」
意地悪く、松岡くんが右頬だけを歪めて笑う。
「よくない。
知らない人なんて無理。
けっこう打ち解けた松岡くんがいい」
「打ち解けた……ね」
はぁっ、松岡くんが小さくため息を落とす。
「わかった。
じゃあ仮彼氏とかどうだ?」
「仮……彼氏?」
「紅夏は疑似恋愛がしてみたいんだろ?
なら本当に付き合う必要はない。
だから仮の彼氏で仮彼氏」
ちょっとまて。
さっきから紅夏、紅夏ってなれなれしくないかい?
でもそれなら、好きでもない男と付き合う抵抗が薄い気がする。
「それでいい」
「了解。
細かい決まりはまたあとで決めるとして」
また跪いた途端に松岡くんのまとう空気が変わる。
「それでは。
契約の口付けでございます」
右手を取ってその甲に恭しく口付けを落とし、松岡くんは右の口端をちょこっとだけ上げて笑った。