「先生、ありがとうございます」

 やっぱり味方になってくれた、それが嬉しかった。

「いえいえ、でも、何で俺の所に? 生徒から信用されるのは嬉しいけど、結構危ない橋を渡ったんじゃないかな」

 先生は苦笑しながら問いかける。
 そのまま、立ち話も何だからと、あのときと同じように丸い椅子を勧めてくれた。

「それ、私も訊きたかった」

 腰を掛けながら、美濃部さんも私を見る。

 前に相談に乗るって言ってくれたじゃないですか、とは口が裂けても言えない。あれはこちらではまだ起こっていない、未来の出来事。
 だから私は、用意しておいた無難な答えを口にした。

「だって先生、お悩み相談室やってますよね? だから……」

 だけど私の声は尻つぼみになり、やがて行き先を失ってしまう。影森先生が、少しだけ驚いたように目をきょとんと見開いていたからだ。

 何かしくじった? そう思い美濃部さんを見つめると、彼女は不思議そうな顔をしていた。

「お悩み、相談室?」
「え?」

 まさか――

 もう一度先生に視線を戻すと、もう驚いてはいなかった。

「お悩み相談室の話、どこで聞いたの?」

 代わりに悪戯っぽい笑みを浮かべている。
 そこで確信した。てっきり赴任したと同時に始めたのだと思い込んでいた。でも戻る前は冬。今はまだ初夏だ。この時点ではお悩み相談室はまだ開業していない、そういうことだ。

 その笑みの真意は何だろう? 目を凝らすけど、向こう側を覗き見ることは、経験値が低い私には無理だった。

 迂闊だった……。急いでいたから、プレートの下に紙が貼られているかどうかをしっかり確認していなかった。
 嫌な汗が背中を伝う。
 どう誤魔化せばいいのだろう、必死に頭を回転させた。
 どこで聞いたの? そう質問してくるということは、丸っきり誰にも話さないでいたわけではなさそうだ。やろうと思うんだけど……そんなレベルかもしれないけど、口に上らせたことはあるはず。ならば――

「えっと、すみません。忘れちゃいました。けど、先生がそういうの始めようとしてるって聞いたような気がしたので、頼らせてもらいました」

 苦しい言い訳かもしれない。でも、黙っている方がよっぽど不自然だと思った。

「まぁ別に秘密にしてたわけじゃないから良いんだけどさ。でも言いふらしてるわけでもないから、ちょっと驚いた」

 意外とあっさり退き下がられて、少々拍子抜けする。

「すみません」

 何に対して謝ったのか自分でもよく分からなかったけど、困ったらとりあえず謝罪っていう日本人の悪い癖なのか、口を突いて出たのはそんな言葉だった。

「でも月島さんなら、そういう話題すぐに耳に入ってきそうだね」

 すると美濃部さんが、自分の言ったことに納得しているようにうんうん頷きながら、私を見つめてくる。

 今の私は、周りの目にそう映っているのか……
 大して前でもないのに、真逆だった自分が何だか不思議だった。

「月島? あれ? もしかして、月島美麗さん?」
「……え?」

 美濃部さんの言葉を受けて、先生が「おや?」というように片眉を器用に上げる。
 突然フルネームを呼ばれ、ドキリとした。過去のことを考えていた私の心には、見透かされるわけもないのに勝手に疚しい気持ちが湧いてくる。

「そうか、だから知ってたのか」

 だけど先生は、合点がいった、そんな顔をして、一人納得している様子を見せた。それに今度はきょとんとしてしまった私を尻目に、途端に笑顔になる。でもその笑顔がさっきまでとは違い、別な色を帯びていて、思わず眉を顰めてしまった。

「先生、私のことご存じなんですか?」
「うん、ご存じご存じ」

 楽しそうに、眼鏡の奥の目を細める。でも、これ以上は訊かれても答えない、いたずら猫みたいな目がそう言っていた。

 先生が何故私のことを知っていたのかは気になったけど、ただどうやらそれによって、何かこちらの都合の良いように勘違いをしてくれたことだけは確かだった。だったら渡りに船だ。そのまま訂正しないでおこう。藪をつついて蛇は出したくない。

 その後私たちは、口裏合わせ、とまではいかないまでも、話に矛盾が生じないよう軽く打ち合わせをした。
 クリップボードには、入室時間以外の全ての項目を記入する。

「俺がテンパるほどの具合の悪さだからね……教師としてはサボることを促すようで気が引けるけど、帰ったほうが良いかな? そうすれば沼田先生と対面するのは明日になるわけだし、家で頭が整理できるでしょ? 色々訊かれることは間違いないから、質問に対するシミュレーションでもしとくといいよ。
 まあ上手くいけば、君たちが家にいる間に事件は全て解決しているかもしれない」