鰹節を手に取って削る。いい音が響いた。

 湯を沸騰させて火を止め、削ったばかりの鰹節をたっぷり入れる。そのまましばらく出汁の旨みが出るのを待つ。香りが立ち上がる。

 布を敷いたざるを使って削り節を濾す。申し分ない琥珀色だ。これを一分おけば、鰹の一番出汁のでき上がり。

 一番出汁は豊かな味と香り、濁りのない色が特徴で、吸い物や茶碗蒸しなどによく合う。ちなみに、一番出汁を取ったあとの材料でもう一度出汁を取れば、これが二番出汁。二番出汁になると、香りは落ちるが濃い旨味が出るので、煮物などに使う。

 椀に出汁を張って差し出した。

「鰹の一番出汁です。お願いします」

 拓哉さんが椀を手に取り、香りを嗅ぎ、静かに一口含んだ。噛みしめるようにしながらゆっくりと喉を通している。

「弥彦も飲んでみろ」

「はーい。いい匂いだなーって気になってたんだよね」

「どうぞ」と、弥彦さんにも椀を差し出した。

 弥彦さんは息を吹きかけておすましを飲むように少し音を立てて飲んだ。

「おいしいね」と弥彦さんが言ってくれて、私は思わず頬が緩んだ。

「ありがとうございます」

「でも、それだけだね」

「え――?」

 拓哉さんが黙って鰹節を削り始め、ほどなくして一番出汁を取った。

 無言のままに差し出された椀の出汁を一口いただく。

「全然違う……」

 同じ材料の同じ一番出汁のはずなのに、旨味が違う。

「違って当然だ。それは俺がおまえのために取った出汁だからな」

「え?」

 拓哉さんが塩をほんのひとつまみ、椀に入れた。上品なおすましができていた。

「一番出汁は吸い物からうどんまで幅広く使える。しかし、それぞれ料理は違う。本当に同じ出汁でいいのか。咲衣は何用の出汁として作った?」

「それは……」

「何用の出汁かによって出汁の取り方はもちろん、鰹の削り方も変わってくるはずだ。俺の削り節とおまえの削り節では大きさも厚みも微妙に違うだろう」

「あ――」

「そして最後に最も大事なこと。どんな状況の誰のための出汁なのか。おまえはそれを考えたか?」

「――考えていませんでした」

「おまえの技量はよく分かった。その年にしてはしっかり腕を磨いてきたことは褒めてやろう。しかし、まだそこまででしかない」

「『そこまで』……」

「要するに、咲衣の作った出汁は相手ではなく自分の方を向いていたということだ」

 恥ずかしさで身体が震えた。

 昨夜、おじいちゃんの笑顔を思い出したはずなのに……。

「ここで料理修行してもいいが、咲衣はどうなりたいんだ」

「どうなりたいか、ですか」

「おまえは東京出身で東京で和食を勉強した。どうしたって東京の味を無意識に好むだろう。京都の店で実技試験を受けたというが、それはアメリカ英語とイギリス英語ほども違っていただろうな。京都の味を学びたいならそういう指導をする。たとえば茶碗蒸しなんかは、京都では玉子はごく少なめにしか使わない。そういう違いがある。さらに、俺の作るおばんざいはそのどれでもない」

「私は――」と、答えようとしたのを弥彦さんが止めた。

「いま答えない方がいいよ。その問いはとっても大切だから」

「そうなの?」

「拓哉も意地悪だよねー。せっかく修行したいって言っているのに、いきなりいじめちゃかわいそうだよ。ねえ、咲衣さん」

「私は別に――」

 思わず言いよどんで拓哉さんを見返す。拓哉さんが憮然としていた。この人はいつもどこか物憂げだけど、本気でぶすっとしたときは分かるようになってきた気がする。

「いじめてなどいない。覚悟を問うているんだ。それより弥彦、そろそろ時間だろ」

「おっとそうだったそうだった。僕も着替えてこないと」

 弥彦さんが二階に上がっていく。

 片付けをしながら、拓哉さんが尋ねてきた。

「さっきは言い過ぎたか?」

「いえ、そんなことは決して! 東京にいたときの板長なんか、見習いの頃はおたまで頭を殴られてたって言ってましたし」

「……人間界ではそれが普通なのか?」

「いまやったら新聞沙汰になっちゃいますよ!?」

 二階から降りてきた弥彦さんは紺色の着物姿になっていた。