「ふーん。まあ、俺は男だから佐原が誰と仲良くしようとなんにも思わないけど、気を付けろよ。お前のことを狙ってる女子って、けっこうヒステリックなヤツが多いから」
たしかテレビで彼氏が浮気した場合、女は裏切っていた男を恨むんじゃなくて、浮気相手を恨むそうだ。
別に俺は誰とも付き合ってないし、なにかを言われる筋合いもないけど、矛先が海月に向くのは非常にまずい。
「ほら、噂をすれば」
そう言って沢木が窓の外に目を向ける。そこにいたのは、中庭を歩く海月の姿。……珍しい。普段はあんな人目につく場所には来ないのに。
……あ。
俺は〝あるもの〟が目に入り、急いで中庭に向かう。海月は草むらに手を伸ばしてなにかを取ろうとしていた。
「俺が取るから」
横から身を乗り出して掴んだのは、片方の上履きだった。
慌ててここに来たのは、海月が右足は上履き、左足は靴下と奇妙な格好で歩いていたことと、草むらに白い上履きが投げ捨てられているのが見えたから。
おそらく海月も教室の窓から自分の上履きを発見したに違いない。
「ケガしてない?つか、靴下汚れてんじゃん」
「平気。気にしないから」
海月は靴下の裏の土埃を払い、拾った上履きを無言で履いた。
「誰にやられた?」
「知らない、朝来たら片方だけなかった」
さっそくかよ、と俺は頭を抱える。
「ごめん。これ俺が原因かも」
断定はできないけど、タイミング的に可能性は高い。
「そうなんだ。大丈夫。見つかったから」
「え、おいっ……」
海月はいつもにも増して機械的な返事だった。
上履きを隠されたことを怒ってるのかもしれないし、俺との噂が耳に入って距離を置こうとしてるのかもしれない。
……はあ、なんなんだよ。
一緒に飯食って、途中までだけど送って、これから徐々にって思ってた矢先だったのに。
「佐原くん」
と、その時。背後から誰かに声をかけられた。振り向くと、そこには岸美波が立っていた。
「ここ、各教室から丸見えだから目立ったことすると、また変な噂が立っちゃうよ?」
海月はすでに校舎に入ったので姿はない。ということは、海月と一緒にいた時からどこかで見ていたってことになる。
「もしかして、噂流したのってお前?」
「えー違うよ。塾の帰りに目撃したっていう三組の子でしょ」
岸のように鼻にかけて作ってる声の女子は信用しないって決めてるけど、まだそうだと断言することもできない。
「なんで佐原くんって最近、岸さんにちょっかい出すの?」
「は?」
「だって岸さんと佐原くんって全然合わないじゃん。私、岸さんと同じクラスだからどんな子か知ってるけど、物静かでひとりが好きっていうタイプだよ」
これでも一応、海月を目立たせないように気をつけていたつもりだったけど、俺の注意が足りなかったと今は反省してる。
でも聞き逃すことができない、最後のセリフ。
「それ本人が言ったの?」
「……え?」
「ひとりが好きなんて、あいつが言ってないなら勝手にそうだって決めつけるなよ」
海月がどんな性格なのか俺も知ってるわけじゃない。でも、あいつのことはあいつに聞くし、人から憶測で語ってほしくない。
とくに、海月のことだけは。
「バカみたい、ムキになっちゃって」
岸は不機嫌そうに声を低くして、俺の横を通りすぎた。
……あれ?
ふわりと風に乗って香ったのは、柔軟剤とシャンプーが混ざり合ったような柑橘系の匂い。
それは、俺が勝手に海月の匂いだと思ってるものと同じだった。
偶然?それとも……。
〝佐原がすごく暖かい場所で育ったんだって、家の中の雰囲気を見て思った〟
何故かふと、その言葉を言った海月の切ない瞳を思い出していた。
*
:
暖かい場所にいれば、人は暖かくなる。
優しい人に囲まれれば、人に優しくなれる。
愛情をたくさん注がれたら、人に愛情を分けてあげられる。
それは佐原を見て、学んだこと。
学んで、知って、気づいた。
だから、私はこんなに冷たいんだって。
暖かさから、優しさから、愛情から遠い場所にいることを、きみの隣にいると私はひどく再確認してしまう。
学校が終わり、家に帰ってきた私は汚れたジャージを洗面所で手洗いしていた。
実は上履きだけではなく、ジャージも教室のゴミ箱に捨てられていて、運悪く飲み残しの牛乳がべったりと付着してしまっていた。
今までもこうして嫌がらせされることはあった。
影が薄いということはなにをしてもいいと思われているのと同じ。病気になる前も淡々と、感情を高ぶらせることなく過ごしてきたけど、病気になった今のほうが私は理性的で落ち着いてる。
それは、きっと自分の終わりが見えているから。
先の見えない未来を追いかけるより、よっぽど私は現実思考に変わった気がする。
「ねえ」
背後から声がして顔を上げると、鏡に美波が映っていた。美波は私の手元を確認するように洗っているジャージを見つめる。
「それ、やった犯人知ってるよ。教えてほしい?」
「……べつに」
私は再び栓がしてある洗面所の中の水をじゃぶじゃぶと動かした。
「あんた目つけられてるよ。佐原くんを狙ってる女子から」
上履きとジャージを捨てた人が同一人物かは分からないけど、おそらく佐原と親交のある誰かということは分かっていた。
でも正直、被害者なのにさほど犯人に興味はない。知ったところでどうするわけでもないし、上履きだって拾いにいけばいいし、ジャージだって洗えばそれで済むことだ。
……でも、意外だ。
私のことに関して、絶対に首を突っ込んでこない美波が自らこんなことを言ってくるなんて。
「……心配してくれてるの?」
「まさか。忠告してんの。あんたが妬まれて家でも付けられたら私とのことがバレるでしょ?」
そうだろうと大方予想はしていたけど。
「平気。別に佐原とはなんにもないから」
そう、別に私たちは妬まれるような関係ではない。
……あの日だけ。あの瞬間だけ、繋がったものはあったけれど、本当にそれだけ。
それ以上のことはないし、これからもそうだ。
「ふーん」
美波は勘繰るような声だったけど、深く尋ねてこなかった。
「あんたさ、前に自分は春までにはいなくなるって言ってたじゃん。あれなに?面倒見てくれる男でも捕まえたの?」
美波の言葉に動じる素振りは見せずに、私はジャージを絞って栓を抜いた。ゴポ、ゴポゴポ……と排水溝に吸い込まれていく水を、私は一点に見る。
死ぬから、なんて言えないし、言うつもりもない。
鎮痛剤の効果しかない病院の薬代は、バイトを辞めたあとでもなんとかあるし、自分の数少ない荷物は時期が来たら捨てるなり売るなりして整理するつもり。
それからは学校に退学届けを出して、電車に乗ってどこか遠くの町に行って誰にも知られずにこの世界からいなくなる予定。
誰かに話せば、なんて無謀で計画性がないんだと笑われるぐらい幼稚だということは分かってる。
曖昧でうまくいく保証もない予定を私は毎日爆弾を抱えた頭で繰り返し考えては、いつの間にか明るくなっていく外をぼんやりと眺める。
それが私の夜の過ごし方であり、私の朝の迎え方。
「シカト?聞いてるんだから答えなさいよ」
腕組みをしてる美波が苛立ったように急かしてきた。
答えたくないことは押し黙る。都合の悪い質問には目を合わせない。一度も開いたことのない心の扉は相変わらずなのに、私はこういう時の対処法をいくつか知っている。
「なんでそんな派手な化粧するの?」
「は?」
相手の気持ちを逆撫ですることで簡単に話題は逸れる。
なにに対しても無関心なくせに、ズル賢さだけはしっかりと学んでるなんて、笑いたくても笑えない。
「家でいる素顔のほうがいいよ」
美波は周りの友達に合わせてる。濃い化粧も髪色もアクセサリーも、ぜんぶ。
「あんたのそういうところがムカつくのよ」
美波は怒って自分の部屋に上がっていった。
これでいい。好かれるより、嫌われていたほうがずっと楽。
なのにあいつは……。
〝寂しいとか苦しいとか具合悪いとか腹減ったとかなんでもいいから、なにかあったらすぐに連絡して!〟
約束なんてしない。
守れもしない約束なんて、絶対にしない。
それから数日が経過して、学校行事の一環として今日は球技大会が行われる日。女子の更衣室になっている教室にはすでに男子の姿はなく、みんなジャージに着替えていた。
「ねえ、誰かゴム持ってない?髪の毛結びたいのに忘れちゃってさ」
「あるよー。貸してあげる」
面倒くさい、だるいと口を揃えて言っていた派手なグループの人たちもなんだかんだやる気のようだ。
「美波、一緒にいこう。途中で男子のサッカー見にいく?うちのクラスの応援じゃなくてイケメンを拝みに」
「はは、いいよ。昨日三年の先輩と電話してて、打ち上げは俺らのところにおいでよって言われたよ」
「え、もしかして二組の先輩?いいなあ。私も行く!っていうか美波に付いていくから」
きゃっきゃと騒がしい中心には美波がいて、美波の化粧は今日も派手。もちろん私と目を合わせることなく、大人数を引き連れて廊下に出ていった。
……はあ。私も着替えなくちゃ。
女子はバレーだし、ボールが頭に当たったらヤバいどころか、そのまま死ぬ可能性もある。
一応、担任には休みたいと言ったけど、もうチームを振り分けているし、正当な理由がない限りは認められないと流されてしまった。
私は来る途中で買ったミネラルウォーターのフタを開けて、カバンから小さなポーチを取り出す。
中には小分けにした複数の薬。飲んでも飲まなくても寿命は変わらないけど、体育館で倒れて大騒ぎは起こしたくないと、私は五つの薬を喉の奥へと一気に流しこんだ。
「皆さんおはようございます。今日は待ちに待った球技大会の日です!」
一旦グラウンドに全校生徒は集められて、体育委員による開会式がはじまった。
大嵐にでもなって中止になったらよかったのに、残念ながら空は快晴。秋の終わりと冬の始まりが混ざりあったような風の匂いが鼻をかすめる。
球技大会への憂鬱な気分が拭えないまま開会式は10分程度で終了した。女子は体育館へと移動をはじめ、男子はサッカーなのでそのままグラウンドに残る。
「なあ、優勝したら担任が飯奢ってくれるって!」
「まじ?なんでもいいの?」
男子たちもやる気がある人とそうじゃない人との温度差がすごかったけれど、美波と同じように騒がしいグループの中に必ず佐原はいる。
男子が焼き肉か寿司かで盛り上がってる中、佐原は眠たそうにあくびをしていた。
別に見つめていたわけじゃない。
でも、目が合って「お、海月」と声をかけられる前に立ち去ろうと思っていたのに、私から目を逸らしたのは佐原のほう。
声をかけられるどころか私に気づいていなかったように「あっちに行こうぜ」と、仲間を連れてどこかにいってしまった。
……なに、あれ。
いつもこっちが迷惑がったって関係なしに寄ってくるくせに。