100日間、あふれるほどの「好き」を教えてくれたきみへ





別にきみじゃなくてもよかった。


このむしゃくしゃする気持ちを一瞬でも忘れることができれば。

私のことなんて心に留めずに、ただただ、あの夜を一緒に過ごしてくれる人なら、誰でもよかった。




――ブーブーブー。

枕元でスマホが鳴っていた。
 

二年以上使っているスマホはことあるごとに不具合を起こして、画面に表示されてる電池は私の心のバロメーターみたいに減るのが早い。

なのに、こうして設定したアラームだけはしっかりと起動して、私を憂鬱な朝へと導く。



ゆっくりと起こした身体は、まるで鉛が付いているかのように重かった。
 

私の部屋はこの家では一番日が当たらない場所。夏は蒸し暑く、冬は湿気だらけのこの部屋を使うようになってから、もうすぐ六年になる。
 


部屋着から制服に着替えた私は一階のリビングへと向かった。

すでに朝ごはんのいい香りが漂っていたけれど、朝食を食べない私のぶんは用意されていない。



……ガチャッ。


立て付けの悪いドアは勢いよく開けなくても音がする。ダイニングテーブルに座っていた三人と目が合い、私は小さく「おはようございます」と呟いた。





「おお、海月(みづき)おはよう」


新聞片手に愛想笑いを浮かべている人は、この家の大黒柱でもある忠彦(ただひこ)さん。

人当たりもよくこの家では一番私に優しくしてくれるけど、婿養子なので妻である晴江(はるえ)さんには頭が上がらない。



「あなた、また学校からのプリント私に見せなかったでしょう」


湯気が立つお味噌汁を口に付けながら、晴江さんは私を見ない。同じ空間にいて会話もするのに、放たれる空気感で私のことを攻撃してくる感じがすごく〝あの人〟に似てる。


「いいじゃん。お母さん。どうせ同じクラスなんだし、私が見せたプリントと内容は同じなんだからさ」

甲高い声で喋るこの子は、美波(みなみ)という名前。


この家の一人娘であり、父親よりも母親に媚を売っておけば好きな物が買って貰えるから、晴江さんの前では常にいい子でいる。


尻に敷かれている父と、世間体ばかりを気にする母に、要領のいい娘。


そんなごく普通の家族の中で、唯一変わってることと言えば、家族じゃない私が一緒に住んでいることぐらいだ。





「いってきます」

洗面所で身支度を整えたあと、私は誰よりも先に家を出た。


……はあ。空に吐いた息は冷たい風の中に消えていく。

カレンダーが10月になってからずいぶんと気温が下がり、寒がりな私はもうポケットにカイロを入れている。


高校に入学して変わったことといえば、髪の毛を伸ばすようになったことと、体重が二キロ減ったことと、異常なまでに静電気が発生するようになったことと、まだまだある。

変わったと、自分で認めればいくらだって。


「116円になります」

立ち寄ったコンビニで300mlのホットレモンを買うのが最近の日課。

手軽にレモン2個分のビタミンCが補給できるとラベルに書いてあるけど、身体が暖まればなんだっていい。


私はお財布から小銭を出してトレーに乗せる。最初は袋の有無を尋ねられたけど、対応してくれる店員はいつも同じだから最近は聞かれなくなった。


「あ、あの、いつも買いに来ますよね!旨いですよね!ホットレモン」 

「………」 

「えっと、その」


名前、年齢、学校。聞かれることはいつも同じ。

私は興味がないというのに、興味を持たれる。こんなにも無愛想で、もらったレシートをぐちゃぐちゃに丸めて捨てるぐらい気遣いがない女なのに。



面倒くさい。

顔を覚えられるのも、声をかけられるのも、いつも買いにきますよねって観察されるのも、なにもかもが面倒くさい。

私は店員の言葉を待たずに、そのままコンビニを出た。すぐに冷えていく指先を暖めるようにしてホットレモンを握りしめる。


そういえば、〝あの日〟もこの道だった。


雨が降るなんて予報は出ていなかったのに、私の気持ちを反映するように急に降ってきて。

濡れていく制服が冷たかったけれど、そんなのどうでもいいくらい思考がぐちゃぐちゃで。


たぶん、きっと、あんなにも神様を恨んだことはなかった。

なんで私なの?なんで私ばっかりって何度も心で叫んでた。


でも、もっと不幸なのは、そんな時に、偶然私に出会ってしまったあいつかもしれない。

甘えることも頼ることもしてこなかった人生だったのに、あの日だけはダメだった。



『ねえ、朝まで一緒にいてよ』


すがるようにして吐き出した言葉を、私は今も後悔している。




――キーンコーンカーンコーン。

教室にチャイムが鳴り響くと、騒がしかった生徒たちの声が止み、みんな一斉に自分の席へと移動する。



「じゃあ、出席とるぞ。安西、伊東、上野」

次々と名前が呼ばれていく中で、私は頬杖をつきながら外の景色をぼんやりと見つめていた。


くるくると、北風に乗って枯れ葉が舞っている。

……たしか今日は体育があるんだっけ。しかもマラソン大会に向けての練習。
 

どうやってサボろうかな。保健室の先生は嘘に目ざといし、屋上は柵が壊れたからと、二学期からは出入り禁止になってしまった。と、なると……。



「岸」


名前を呼ばれて返事をしかけると、先生は慌てて「すまん、美波のほう」と訂正し、「あはは、もう。このパターン何回目ですか?」と、美波が笑う。



静かだった教室が一気に明るいものになり、次に名前を呼ばれる私にとって返事がしにくい空気になってる。

 

「はい。じゃあ、岸。次は海月のほうな」


なんだか勘に障る言い方。


「……はい」と、小さな声で答えると、「聞こえねーし。お化けみたい」とどこからか野次が聞こえ、美波を含む女子たちがクスクスと笑った。





岸美波と岸海月。同じ家に住み、一応血縁関係はあるけれど、クラスメイトたちはその事実を知らない。


『私たちは他人だから。同じ家に住んでるなんて誰かに喋ったら絶対に許さないからね』


そう美波に忠告されたのは、高校に入学する春のこと。

その言い付けどおり、私たちはあくまで同じ名字というだけの関係を学校では演じている。


私が彼女と形だけの家族になったのは、今から六年前のこと。



当時10歳だった私は自分の着替えの入ったリュックとお気に入りだったウサギのぬいぐるみを握りしめて、母の妹である晴江さんの家の前に立っていた。あれは、ざあざあと降りしきる雨の日。


インターホンを押して対応してくれた晴江さんに私は挨拶もしないで、ただ母から預かった手紙を渡した。



〝この子をよろしくお願いします〟

母からの手紙は、たったの一行だった。



母は未婚で私を産んだ。

父親は誰だか知らないし、もしかしたら母も分かっていないかもしれない。そのぐらい、だらしがない人だった。


つねに母の横には男の人がいて、それは顔を覚える時間もないぐらいコロコロと変わった。

母は私のことがきっと邪魔だった。


子供がいなければと私を足かせのように思っていたことは幼いながらに気づいていて、戸籍上では親子だけど私は一度も母から愛情を感じたことはなかった。