亮くんの家に来てから、初めての朝を迎えた。
同時に、私が幽霊同然の体になってから迎えた初めての朝でもある。
幽霊になった影響なのか、昨夜は一睡もすることができなかった。眠気さえ訪れない中、退屈を潰す術もなくずっと床で体育座りをしていた。
本棚には沢山の漫画があるというのにそれを手に取ることすらできないもどかしさ。物に触れないというのはこれほどまでに不便なのかと実感した夜だった。
時折こっそりベッドに近づいては眠っている亮くんの顔を眺めていたりもしたけれど、美少年の寝顔ですら私の退屈は誤魔化せなかった。
眠くなることもなければ空腹感に襲われることもない。
それだけ聞くと便利なように感じられるけれど、実際は苦痛でしかなかった。
亮くんを起こさないようにじっとしていたせいで体も凝るし、何か対策を練らなくては。
朝から元気な蝉の声を聴きながら、私は凝り固まった体をほぐすべく大きく伸びをした。
まだ部屋の電気は消えているけれど、黒いカーテン越しに差し込む朝日のおかげで十分に明るいと言える。いい朝だ。
欲を言えばカーテンを全開にして朝日を一身に浴びたいのだけど、残念ながら今の私ではこの薄いカーテン一枚さえ開けることはできない。
唯一開けることのできる亮くんは未だ夢の中。これではどうしようもない。
仕方がないから、カーテンの僅かな隙間から朝日を浴びることにした。
隙間から見える空は雲ひとつない。晴天だ。海のような青空がひたすら続いている。
ふと単純な疑問がわいた。
ここ、どこだろう?
猫ちゃんに瞬間移動させられちゃったせいで、ここがどこなのかわからない。
昨日のうちに亮くんに訊いておくべきだったかな。
真っ青な空を眺めるだけでは答えは得られそうにない。
私は答えを求め、視線を空から地へ落とす。
亮くんの部屋は大きな一軒家の二階にあるらしく、下を眺めればそれなりに街を見渡すことができた。
大きな建物や広い道路があるわけでもなく、どこにでもある住宅地といった感じ。
遠くの方には大きな建物がいくつも見える。
目を凝らしてみれば、私が住んでいる地域に建っている工場の看板が見える。どうやらあまり遠くはないみたい。一駅か二駅くらいの距離だろう。
別に近くても遠くてもいいんだけどね。ただ地元が近いと何となく安心感があるというだけの話で。
さて、現在地の確認が意外にもあっさり済んでしまったことでまた暇を持て余すことになった。
物には触れないから漫画も小説も読めないし、テレビだってつけられない。
だからと言って亮くんを起こすのも申し訳ない。
私にできることといえば、このカーテンの隙間から外を眺めるだけ。
でも、それじゃあ退屈はつぶせない。
私に小学生や中学が登校する様子を延々と眺め続けるような変態的な趣味でもあればまた違ったのだけど、残念ながらそんな趣味はない。
外では制服姿の小中学生たちが鞄を持って行進している一方、亮くんはというと、今でもぐっすりと寝息をたてている。
目覚ましすらかけていないのを見るに、登校する気は欠片もないらしい。
改めて実感する。本当に、この子は不登校なんだと。
あらかじめ猫ちゃんから聞いてはいたけれど、いざ学校を休む様子を見ると微妙な気持ちになる。行かなくてもいいのかなと思う反面、無理して行ってほしくないといったような、そんな複雑な気持ち。
それから、亮くんが目覚めるまで私はずっと窓の外を眺めていた。
とくに何かを考えるわけでもなく、道行く中高生を目で追うだけ。
時計の短針が完全に左を向いた頃には、中学生だけでなく、高校生の姿も見当たらなくなる。
亮くんが目を覚ましたのはその頃だった。
「あ、起きた?」
「ん……」
返事と呼べるか微妙な声を漏らし、亮くんはベッドから身を起こす。
まだ少し眠そうだ。
目をこすり、あちこちに跳ねた髪を手櫛で整える姿は毛繕いをする猫の姿を思わせてとても可愛らしい。
ずっと暇だったせいで、ただ亮くんが目を覚ましただけでもテンションが上がる。
それにしてもよく寝る子だ。
昨日は夜の十時頃にはもう寝ていた気がするから、十一時間くらいは眠っていた計算になる。
「まだ九時か」
「もう、じゃないの?」
「まだ、だよ。いつもは昼まで寝てるから」
凄まじい……。
成長期にそれだけ眠っていたら将来すごく高身長になりそう。
私もそれなりに寝る方だけど、それでも身長は百六十センチぴったり。
現段階で既に亮くんは私と同じくらいの身長だから、これからもっとたくましくなるに違いない。
「また寝るの?」
「寝ないよ。というか、つっこまないんだ」
「何を?」
「学校行ってないこと」
そりゃあ不登校なの知ってるからね。
ただ、この子には偶然迷い込んだって説明しちゃったから猫ちゃんから聞かされているってことは黙っておかないと。
しかし、そうなると何と答えればいいのか判断に迷う。
「私も今学校行けてないからねー」
あんまり答えになっていないけど、そう答えた。私が学校に行けていないことと、この子が学校に行っていないことは無関係だもの。
「……まぁいいや」
亮くんは一瞬だけ何かを言いたげな表情になっていたけれど、諦めてくれた。
私が微妙にずれた返事をしたことに気付いていたんだと思う。
追及を避けたのは寝起きで面倒だったのと、単にどうでもよかったからだろう。何はともあれ助かった。
学校行ってませんよ、不登校ですよ、って部分を前面に出されると反応に困ってしまうからね。
逆に、そこでこちらから質問をすればどうして亮くんが不登校なのかを知ることができるかもしれないけど、そんな度胸はない。
彩月との一件以来、どうしても人間関係では慎重になってしまう。
とはいえ、今はそれでいいとさえ思う。
きっとこれはデリケートな問題。下手に踏み込めば取り返しのつかないことになるのは目に見えている。
だから今は、亮くんとの日常を全力で楽しもう。
「今日は何するの?」
「そろそろトーンがきれそうだし、買い物にでも行こうかと思ってる」
学校には行かなくても外出はするんだ。いやまあ、いいことではあるんだけどね。少なくとも、引きこもっているよりかはずっといい。
「私も付いていっていい?」
「……いいけど、外ではあんまり話しかけないで。独り言喋ってる奴だと思われたくないから」
「わかった!」
「じゃあ準備してくるからここで待ってて」
そう言って、亮くんは部屋を出た。
亮くんはあまり私を部屋から出したがらない。
昨日も、亮くんが晩御飯を食べる時や、お風呂に入る時には「ここで待ってて」と言われた。
私の姿は亮くん以外には見えないし、声も聞こえない。だから私がこの部屋を出たところで問題はないはずなのに。
それでも、私が何気なく部屋のドアに近寄ると警戒したようなそぶりをみせる。
あからさまに、私がこの部屋を離れるのを嫌がっているのだ。
意図はわからないけれど、亮くんが嫌がる以上は無理に出ることはしたくない。そもそも自分では扉さえ開けられないのだけど。
亮くんが部屋に戻ってきたのは準備を始めてからちょうど五分後だった。
先ほどまでは手櫛で雑に寝かしつけられていた髪の毛はしっかりと整えられていた。逆に言えばそれだけなのだけど、それでもモデル並の美しさだ。
服装だって黒のズボンに白のシャツという非常にシンプルな組み合わせなのに、放たれる雰囲気はとてもお洒落だ。
元がいいから何を着ても似合うのだろう。心底羨ましい。
「早くして」
見惚れる私を急かし、亮くんはそそくさと階段を降りていく。
この部屋を出るのは初めてだ。
もしかしたら私を部屋から出したがらない理由が見つかるかもしれない。
申し訳なく思いながらも、私はあたりを見回した。
しかし、特に変わった物は見つけられなかった。
何かあるのではないかと疑っていたためか、あまりにも普通の光景に若干戸惑ってしまう。
二階は亮くんの部屋を含めて三つの部屋がある。亮くんの部屋が一番端にあり、廊下を歩いて二つの部屋の前を通り過ぎれば一階へ続く階段だ。
階段を下ると、すぐ左手側に玄関が見えた。右側に顔を向けると、長い廊下とこれまた幾つもの部屋がある。相当大きい家だ。
お父さんかお母さんの姿でも見えないものかと一階を見回す。けれど、人の気配はなかった。
代わりに、お父さんの趣味と思わしき野球のポスターが廊下の壁に大きく飾られていた。
結局、二階にも一階にもこれといったものはなかった。
同時に、私が幽霊同然の体になってから迎えた初めての朝でもある。
幽霊になった影響なのか、昨夜は一睡もすることができなかった。眠気さえ訪れない中、退屈を潰す術もなくずっと床で体育座りをしていた。
本棚には沢山の漫画があるというのにそれを手に取ることすらできないもどかしさ。物に触れないというのはこれほどまでに不便なのかと実感した夜だった。
時折こっそりベッドに近づいては眠っている亮くんの顔を眺めていたりもしたけれど、美少年の寝顔ですら私の退屈は誤魔化せなかった。
眠くなることもなければ空腹感に襲われることもない。
それだけ聞くと便利なように感じられるけれど、実際は苦痛でしかなかった。
亮くんを起こさないようにじっとしていたせいで体も凝るし、何か対策を練らなくては。
朝から元気な蝉の声を聴きながら、私は凝り固まった体をほぐすべく大きく伸びをした。
まだ部屋の電気は消えているけれど、黒いカーテン越しに差し込む朝日のおかげで十分に明るいと言える。いい朝だ。
欲を言えばカーテンを全開にして朝日を一身に浴びたいのだけど、残念ながら今の私ではこの薄いカーテン一枚さえ開けることはできない。
唯一開けることのできる亮くんは未だ夢の中。これではどうしようもない。
仕方がないから、カーテンの僅かな隙間から朝日を浴びることにした。
隙間から見える空は雲ひとつない。晴天だ。海のような青空がひたすら続いている。
ふと単純な疑問がわいた。
ここ、どこだろう?
猫ちゃんに瞬間移動させられちゃったせいで、ここがどこなのかわからない。
昨日のうちに亮くんに訊いておくべきだったかな。
真っ青な空を眺めるだけでは答えは得られそうにない。
私は答えを求め、視線を空から地へ落とす。
亮くんの部屋は大きな一軒家の二階にあるらしく、下を眺めればそれなりに街を見渡すことができた。
大きな建物や広い道路があるわけでもなく、どこにでもある住宅地といった感じ。
遠くの方には大きな建物がいくつも見える。
目を凝らしてみれば、私が住んでいる地域に建っている工場の看板が見える。どうやらあまり遠くはないみたい。一駅か二駅くらいの距離だろう。
別に近くても遠くてもいいんだけどね。ただ地元が近いと何となく安心感があるというだけの話で。
さて、現在地の確認が意外にもあっさり済んでしまったことでまた暇を持て余すことになった。
物には触れないから漫画も小説も読めないし、テレビだってつけられない。
だからと言って亮くんを起こすのも申し訳ない。
私にできることといえば、このカーテンの隙間から外を眺めるだけ。
でも、それじゃあ退屈はつぶせない。
私に小学生や中学が登校する様子を延々と眺め続けるような変態的な趣味でもあればまた違ったのだけど、残念ながらそんな趣味はない。
外では制服姿の小中学生たちが鞄を持って行進している一方、亮くんはというと、今でもぐっすりと寝息をたてている。
目覚ましすらかけていないのを見るに、登校する気は欠片もないらしい。
改めて実感する。本当に、この子は不登校なんだと。
あらかじめ猫ちゃんから聞いてはいたけれど、いざ学校を休む様子を見ると微妙な気持ちになる。行かなくてもいいのかなと思う反面、無理して行ってほしくないといったような、そんな複雑な気持ち。
それから、亮くんが目覚めるまで私はずっと窓の外を眺めていた。
とくに何かを考えるわけでもなく、道行く中高生を目で追うだけ。
時計の短針が完全に左を向いた頃には、中学生だけでなく、高校生の姿も見当たらなくなる。
亮くんが目を覚ましたのはその頃だった。
「あ、起きた?」
「ん……」
返事と呼べるか微妙な声を漏らし、亮くんはベッドから身を起こす。
まだ少し眠そうだ。
目をこすり、あちこちに跳ねた髪を手櫛で整える姿は毛繕いをする猫の姿を思わせてとても可愛らしい。
ずっと暇だったせいで、ただ亮くんが目を覚ましただけでもテンションが上がる。
それにしてもよく寝る子だ。
昨日は夜の十時頃にはもう寝ていた気がするから、十一時間くらいは眠っていた計算になる。
「まだ九時か」
「もう、じゃないの?」
「まだ、だよ。いつもは昼まで寝てるから」
凄まじい……。
成長期にそれだけ眠っていたら将来すごく高身長になりそう。
私もそれなりに寝る方だけど、それでも身長は百六十センチぴったり。
現段階で既に亮くんは私と同じくらいの身長だから、これからもっとたくましくなるに違いない。
「また寝るの?」
「寝ないよ。というか、つっこまないんだ」
「何を?」
「学校行ってないこと」
そりゃあ不登校なの知ってるからね。
ただ、この子には偶然迷い込んだって説明しちゃったから猫ちゃんから聞かされているってことは黙っておかないと。
しかし、そうなると何と答えればいいのか判断に迷う。
「私も今学校行けてないからねー」
あんまり答えになっていないけど、そう答えた。私が学校に行けていないことと、この子が学校に行っていないことは無関係だもの。
「……まぁいいや」
亮くんは一瞬だけ何かを言いたげな表情になっていたけれど、諦めてくれた。
私が微妙にずれた返事をしたことに気付いていたんだと思う。
追及を避けたのは寝起きで面倒だったのと、単にどうでもよかったからだろう。何はともあれ助かった。
学校行ってませんよ、不登校ですよ、って部分を前面に出されると反応に困ってしまうからね。
逆に、そこでこちらから質問をすればどうして亮くんが不登校なのかを知ることができるかもしれないけど、そんな度胸はない。
彩月との一件以来、どうしても人間関係では慎重になってしまう。
とはいえ、今はそれでいいとさえ思う。
きっとこれはデリケートな問題。下手に踏み込めば取り返しのつかないことになるのは目に見えている。
だから今は、亮くんとの日常を全力で楽しもう。
「今日は何するの?」
「そろそろトーンがきれそうだし、買い物にでも行こうかと思ってる」
学校には行かなくても外出はするんだ。いやまあ、いいことではあるんだけどね。少なくとも、引きこもっているよりかはずっといい。
「私も付いていっていい?」
「……いいけど、外ではあんまり話しかけないで。独り言喋ってる奴だと思われたくないから」
「わかった!」
「じゃあ準備してくるからここで待ってて」
そう言って、亮くんは部屋を出た。
亮くんはあまり私を部屋から出したがらない。
昨日も、亮くんが晩御飯を食べる時や、お風呂に入る時には「ここで待ってて」と言われた。
私の姿は亮くん以外には見えないし、声も聞こえない。だから私がこの部屋を出たところで問題はないはずなのに。
それでも、私が何気なく部屋のドアに近寄ると警戒したようなそぶりをみせる。
あからさまに、私がこの部屋を離れるのを嫌がっているのだ。
意図はわからないけれど、亮くんが嫌がる以上は無理に出ることはしたくない。そもそも自分では扉さえ開けられないのだけど。
亮くんが部屋に戻ってきたのは準備を始めてからちょうど五分後だった。
先ほどまでは手櫛で雑に寝かしつけられていた髪の毛はしっかりと整えられていた。逆に言えばそれだけなのだけど、それでもモデル並の美しさだ。
服装だって黒のズボンに白のシャツという非常にシンプルな組み合わせなのに、放たれる雰囲気はとてもお洒落だ。
元がいいから何を着ても似合うのだろう。心底羨ましい。
「早くして」
見惚れる私を急かし、亮くんはそそくさと階段を降りていく。
この部屋を出るのは初めてだ。
もしかしたら私を部屋から出したがらない理由が見つかるかもしれない。
申し訳なく思いながらも、私はあたりを見回した。
しかし、特に変わった物は見つけられなかった。
何かあるのではないかと疑っていたためか、あまりにも普通の光景に若干戸惑ってしまう。
二階は亮くんの部屋を含めて三つの部屋がある。亮くんの部屋が一番端にあり、廊下を歩いて二つの部屋の前を通り過ぎれば一階へ続く階段だ。
階段を下ると、すぐ左手側に玄関が見えた。右側に顔を向けると、長い廊下とこれまた幾つもの部屋がある。相当大きい家だ。
お父さんかお母さんの姿でも見えないものかと一階を見回す。けれど、人の気配はなかった。
代わりに、お父さんの趣味と思わしき野球のポスターが廊下の壁に大きく飾られていた。
結局、二階にも一階にもこれといったものはなかった。