いつも明るくて誰にでも優しい、天使のような子だった。
とりわけ私とは仲が良く、家が近いということもあってよく一緒に遊んでいた。
だから、彼女が不登校になった時、誰よりも動揺したのは他でもないこの私だった。
心配になって電話をかけたりメールを送っても、彩月は適当に誤魔化すだけで一向に学校へは顔を見せなかった。
クラスのみんなで手紙を書いて送ったこともあったし、文化祭のような一大行事の前にはみんなで家まで行って「楽しいからおいで」と言ったこともある。
でも、ダメだった。
学校に来ないのは別にいい。もちろん、できることなら来てほしかったけれど、学校に来ないことよりも、学校に来なくなった理由を私は気にしていたのだ。
だから、悩みがあるのなら聞くと言って何度も電話した。
直接言いづらいのならメールでいいとも言った。
けれど、
「迷惑をかけたくないから」
そう言うばかりで、全く話をしてくれなかった。
きっと本心なんだろう。仲が良いからこそ迷惑をかけたくない。彼女がそう思っていたことくらい私にでもわかる。
わかるからこそ、つらかった。
私はあの子のことを親友だと思っていた。楽しいことだけじゃなく、つらいことや悲しいことも共有できる、そんな仲なのだと。
苦しんでいるのなら話だけでも聞いてあげたい。役に立てるのなら役に立ちたい。決して迷惑なんかじゃない。
何度も繰り返しそれを伝える。
それでも彼女の態度が変わることはなかった。
次第に、私の中に怒りが芽生えてくる。
これだけ歩み寄って手を差し伸べているというのに、彩月は私を信じてくれない。それが許せなかった。
だからつい、彼女にきつくあたってしまった。
「みんなが勉強してる間も家で楽ができていいね」
怒りに身を任せ、そんな皮肉のこもったメールを送ってしまった。彼女が家で何をしているかなど知りもしないのに。
一晩眠って冷静になり、私はすぐに後悔した。
朝一番に慌てて携帯を開き、謝罪のメールを送る。
一日中携帯を握りしめ、彼女からの返信を待ち続けた。
けれど、彼女からメールが届くことはなかった。
大切だったはずなのに。親友だったはずなのに。たった一通のメールでそれが崩壊してしまった。
後悔した時には、全て終わっていたのだ。
それ以来、私は自分をどうしようもないクズだと思うようになった。
漫画家の夢を諦め、友達を失い、進路さえ決められない。挙句の果てには事故に遭って両親に心配までかける始末。
そんな私が不登校の子を救おうなど、思い違いも甚だしいのではないだろうか。
「後悔、してるんでしょ?」
ふと、子供に言い聞かせるような優しい声色で、猫ちゃんが囁いた。
まるで私の心のうちを見透かしたような物言いに、心臓が跳びはねそうになる。
まさか、私の心を読んでいるのだろうか。
「仮にも神様の使いだよ? 君の過去くらい知ってるし、心も読める。だからこその提案」
そう言って私の顔をじっと見つめてくる。
最初に話しかけてきた時のようなお茶目な雰囲気も、ぽんこつさも微塵も感じられない。まさに神様の使いといったような神妙な面持ち。
「すごく後悔してるよ。今でもたまに夢で見るくらい。でも、私に不登校の子を学校に行かせてあげられるとは思えないよ」
「じゃあやめる? 人助けの内容はなんでもいいからね。苦しんでいる少年少女を見捨てて、後悔を払拭するチャンスもみすみす見逃すと言うのなら、他の案を考えてあげるよ」
「う……」
そう言われると凄く断りづらい。
確かにこれはチャンスでもある。
今度こそ不登校の子の救い、前を向かせてあげる。もしそれが成功すればきっとこの胸に絡みつく後悔も随分とマシになるだろう。
けれど、やはり不安なものは不安なのだ。
私が関わったところで果たして学校に行かせてあげられるのか……。
「うーん、勘違いしているみたいだけど、ボクは別に学校に通わせろなんて言ってないよ。救ってあげてとは言ったけどね」
私の思考を読んでいるらしく、言葉を発するまでもなく返答が返ってきた。
一体何が違うんだろう。救うのも学校に行かせるのも同じことのように思えるけれど。
「全然違うよ。学校に行かせるだけなら縄で縛って引きずればいいからね。大事なのは心の支えだよ」
「心の支え……?」
「そう、心の支え。不登校児っていうのは多かれ少なかれ苦しんでいるんだ。もちろん、中にはただの怠け者もいるけどね」
「じゃあ私は元気が出るように支えてあげればいいの?」
「うん、そういうこと。目的はあくまで心を救うことであって、学校に行かせることじゃないからね」
……なるほど。
不登校の子を救うと言うのだから、てっきり学校に通わせるものだと思っていた。
「じゃあ学校に行かせる必要はないの?」
「うん。学校なんて行かなくても生きていけるからね。救われた上で行かない道を選ぶのならそれはそれでいいと思うよ」
言われてみればそうかもしれない。
普通の大人なら、学校くらい行けと声を荒げるだろう。義務教育だからとか、将来困るからとか、そんな理由をつけて。
もちろんそれが間違いだとは思わない。
行かないよりかは行った方がいいに決まっている。
けれど、猫ちゃんはそういった価値観の押し付けではなく、あくまで本人の意思を尊重しているように思える。
ここにきて、ようやく猫ちゃんの優しさに気が付いた。
人助けの条件を不登校の子にしたのだって、私にチャンスを与えるためだ。
ぽんこつかと思っていたけれどそうじゃないらしい。
……このチャンスを、無駄にしていいのだろうか。
いいや、本当はわかっている。ここで逃げてしまえば私はもう取り返しのつかない人間になるのだと。
「ねぇ猫ちゃん。私、上手くやれるかな」
「君と相性のいい子を選んであげるから安心して。あと、猫じゃないからね!」
よほど猫扱いされるのが嫌なのか、肉球で太ももを叩いてきた。
その光景がまさに猫だったものだから、思わず笑ってしまう。
こういうお茶目な面も、きっと私を和ませようとしてやってくれているんだろう。
私は胸に手を当て、自分自身に問いかける。
もう一度前に踏み出す覚悟はあるのか、と。
答えはもう、決まっていた。
「猫ちゃん。私、やるよ。ちゃんとできるかはわからないけど、やれるだけやってみる!」
「それはよかった!」
猫ちゃんは感心したように言うと、今度は優しく前脚を乗せてきた。労っているつもりらしい。可愛い。
不安はあるけど、私なりに頑張ってみよう。
そして、元の体に戻れたらもう一度彩月に謝ろう。
「それじゃ対象の家まで瞬間移動させちゃうけど、心の準備はいいかな?」
「うん!」
私は覚悟を決め、深く頷いた。
途端に目眩がして視覚が奪われる。
あるのは耳に響く蝉の声と、夏の暑さだけ。
けれど、猫ちゃんが何かを呟いた途端、それも消えてしまった。
何秒かして目眩が収まり、視界が正常になった時にはもう、私は山にはいなかった。
日差しもなければ暑さもない。むしろ少し肌寒いくらい。
確認するまでもなく、ここが屋内なのだとわかった。
室内を見渡すと、まだ日が高いのにカーテンが閉められ、電気も消されていた。
タンスに本棚、そしてベッドなど、さまざまな家具が置かれている。しかし可愛らしいデザインのものは一つもなく、ここが男の子の部屋だというのがわかる。
外からは相変わらず蝉の声が聞こえるけれど、薄暗い部屋が夜を連想させるせいか不思議と煩わしいといった印象は受けない。
そして、その薄暗い部屋の机に、彼はいた。
中学二年生くらいだろうか、男の子にしては華奢な体型だと思う。まだ成長途中って感じだ。後ろ姿だけなら女の子に間違われてもおかしくない。
彼はこちらに気づく様子もなく、一心不乱に机と向き合っている。
……声をかけてもいいのかな。
猫ちゃんが言うには私のことも見えるし、声も聞こえるらしい。
触ることはできないけど、コミュニケーションをとるくらいなら問題ないはず。
突然声をかけるのだからビックリされてしまうだろうけど、驚かせない方法も思いつかないのでとりあえず声をかけてみることにする。
少しばかり緊張してきた。
猫ちゃん曰く相性はいいらしいので彼と関わる上での不安はない。でも緊張はする。
私は大きく息を吸って覚悟を決める。そして、
「こ、こんにちは」
若干吃りながらも当たり障りのない挨拶をしてみた。挨拶は人間関係の基本だからね。
彼は一瞬だけびくっとして、そしてゆっくりと振り向いた。
薄暗い部屋の中で、彼と目が合う。
華奢な体型に見合うような、可愛い顔だ。
思春期の男の子とは思えないような綺麗な肌で、余計な肉は一切ついていない。顔も頭も小さいのに見開かれた目はとても大きくて、それが余計に可愛らしい雰囲気を出している。
美少年という言葉がこれほど似合う少年は他にはいないだろう。
かっこいいというよりかは、可愛い。そういった顔立ちだ。もっとも、あと数年もすれば成長してハンサムになるのだろう。
ちょっとドキドキしてきた。
美形の少年に見つめられているからというのもあるけれど、彼がどんな言葉を返してくるのかが気になってしまう。
警察とか呼ばれちゃったらどうしよう。
彼は何を言うわけでもなく、ぼうっと私の顔を眺めるばかり。
沈黙の時間が凄く気まずい。お願いだから早く喋ってほしい。
私の願いをくみ取ってくれたのか、数秒ほど経って彼はようやく口を開いた。
私は一言一句聞き逃さないよう、彼のふっくらとした唇を注視する。
しかし、彼の口から出たのは、
「はぁ……」
言葉ではなく、大きなため息ひとつだった。
彼はそのまま何事もなかったかのように机に向き直ると、再び何かを書き始めた。
……え? どういうこと?
もしかして無視されちゃった?
しかも凄く迷惑そうな顔をしていた気がするんだけど……。
「こんにちは!」
リトライしてみた。
さっきは私の声が小さくてよく聞こえなかったに違いない。多分そう絶対そう。
「――って」
よかった、今度は何か言ってくれた。
しかし、声が小さくて上手く聞き取れなかった。
「ごめんね、もう一回言ってもらえる?」
申し訳なく思いながらも聞き返すと、彼は再びこちらを向いてくれた。
そして一言だけ呟く。
「帰って」
声変わりする前の可愛い少年の声で、そんなことを言われた。
……どうしよう、泣きたい。
いわゆる反抗期というやつだろうか。
可愛いお口からこんなに可愛くない言葉が飛び出してくるなんて思いもしなかった。
「ごめんね。でもちょっとお話を聞いてくれると――」
「ていうか誰? なんで勝手に入ってきてるの?」
今度は最後まで言わせてすらもえなかった。
……この子はあれだ、世間一般でいう礼儀知らずのクソガキだ。
事情があるとはいえ、勝手に侵入している私も私で礼儀知らずだから文句は言えないけれど。
「突然おしかけてごめんね。私は佐々木こころだよ」
内心傷つきながらも名乗ってみた。
クラス替えで自己紹介をするとき、必ずと言っていいほど噛んでしまう私としては百点満点をつけたいほど流暢な自己紹介だ。
けれど彼にとってはこの上なく不出来な自己紹介だったらしく、
「いいから帰って」
眉をひそめながら、あからさまに嫌そうな目を向けてくる。
そんな目で見つめられてしまっては本当に帰りたくなってしまう。来て早々心が折れてしまいそう。
相性がいいから大丈夫なんて言ったのは誰だ。大嘘つきめ!
でもここで挫けてはいけない。
割と、いやとてつもなく泣きたい気分だけど、今は我慢だ。
「とりあえずお話を聞いてほしいなぁ」
「僕忙しいから」
再び机に向き直る彼。
我慢しようと誓ったばかりだけど、我慢できる気がしなかった。
こうなったら強硬手段だ。
まずは何としてでも話を聞いてもらう必要がある。
私は彼の傍に駆け寄り、手を伸ばす。
接近する私に気がついた彼は咄嗟にこちらへ振り返る。その反応はむしろ好都合だ。
私は手を引くことなく、彼の胸に向けて伸ばす。
もちろん、触れないことはわかっている。
私の手は彼の胸をすり抜け、机の縁に当たる。はたから見れば彼の胸を貫通しているように見えるだろう。
でも、それでいい。
彼はすり抜けた腕を見て目を丸めた。信じられないものを見ているといった表情だ。
それもそのはず。私だって最初は何が起きたかわからなかったのだから。
「話、聞いてもらえるかな?」
努めて優しく、言い聞かせるように同意を求めた。
体がすり抜けるとあってはただごとではない。話のひとつくらいは聞いてくれると思う。
彼からの反応はない。完全に言葉を失っている。しかし放心状態というわけでもなく、ただただ戸惑っているといった感じだった。
やがて、私の腕と私の顔を交互に見て、彼はようやく首を縦に振ってくれた。
それを確認してから、私はここに至るまでの過程を大まかに話した。
といっても、説明したと言えば精々車に轢かれて幽霊同然になったということだけ。
不登校児――つまり、目の前の彼を救わなければ体に戻れないという部分は当然隠した。
体に戻るために人助けをする偽善者だと誤解されかねないし、そもそも神様の使いの存在を信じてもらえるかも怪しい。
最悪の場合、胡散臭い幽霊と思われる可能性すらある。
だから、私がここに居る理由はただ迷い込んだだけということにしておく。
事故にあって、魂だけになって、焦って走り回っているうちにここに迷い込んだ。そういう設定。
ひとしきり説明が終わると、彼は疑うような視線をこちらに向けてきた。
「それっておかしくない?」
そう言って、私の目をじっと見つめてきた。
思わず心臓が跳びはねそうになる。
大きくて澄んだ黒い瞳がじっと私の瞳を覗き込み、まるで全てを見透かされているような気分になる。
「お、おかしいって?」
まずい、動揺を隠せない。思いっきり声が震えてしまった。
その反応を見て、彼はますます疑うような瞳をこちらへ向けてくる。
「体をすり抜けるのはさっき見たから信じる。事故にあったのも魂だけになって焦ったのも本当だと思う。でも、どうしてここに迷い込んだの? 誰にも気付かれないのが怖くて逃げるように走っていたのなら、人がいる可能性のある民家には入らないよね」
……どうしよう、その通りすぎて何も言い返せない。
言われてみれば矛盾だらけじゃないか。自分のバカさ加減に呆れてしまう。だって他に思いつかなかったんだもの。
猫ちゃんみたいに何かの神様とか、その使いを名乗ろうにも制服姿だし。一瞬で女子高生だとバレてしまう。
「ほら、何となくというか……ピンときたというか……」
「何となくここを思いついて、何となく侵入して、何となく僕の部屋に入って、そしたらたまたま僕にだけ君の姿が見えた。そう言いたいの?」
うわぁ、要約されるともの凄く不自然だ。そりゃあ疑われるわけだ。
正直、中学生だから誤魔化せるだろうといった油断はあった。
でもまさか、ここまであっさり見抜かれてしまうとは思いもしなかった。
この子は賢い。
顔も整っているし、きっと勉強だってできると思う。
女の子にもモテるだろうし、こんな子が不登校なのはちょっと意外だ。
「……聞いてる?」
黙り込んで彼を観察していると、不満そうに首をかしげてきた。
呑気なことを言っている場合ではないのだけど、ちょっと可愛い。
「き、聞いてるよ? 不思議だねー、まさか何となく入った家に私が見える人がいるなんてー」
こうなったらもうこの設定をつき通すしかない。
ただでさえ怪しまれているのに、嘘でしたと言ってしまえば本当に追い出されかねない。
とにかく今はどんな形であれこの子とコミュニケーションをとるのが先決だ。
「ふーん……」
彼はなおも疑う素振りを見せる。
落ち着け私。ポーカーフェイスを崩しちゃいけない。
何秒か無言のまま顔を見合わせた後、彼はひと際大きく息をついた。
そして、
「まぁ、正直どうでもいいんだけどね」
そう言って彼は肩の力を抜いた。
釣られるようにして私も肩の力を抜く。
……助かった。
押し通すと言ったものの、このままつっこまれ続けたらいつかは必ずボロが出る。彼が粘着質な性格じゃなくてよかった。
それよりも、大事なのはこの先だ。
「それで、これからどうするの?」
彼がそんなことを訊いてきた。
今度は訝しげな態度ではなく、純粋な興味の色が見える質問だった。
この子を救う私としては、ここで言うべき答えは決まっている。
おそらく、いや、確実に嫌がられる。でも言うしかない。
「他に私のこと見える人いないし、迷惑じゃなければしばらくここに居たいなーって」
「うん、迷惑」
とてもつらい。
ここまでストレートに拒否されるとさすがにへこむ。
しかし今はそんなことを言っている場合ではない。
どうにかして納得してもらわなきゃ。
稚拙でもいいから、とにかく策を考えよう。
よし、まずは彼の羞恥心を煽る作戦だ。
「そうだよね、迷惑だよね。えっちな本とか見れなくなっちゃうもんね」
「今すぐ帰って」
「ごめんなさい冗談です見捨てないでください」
……ダメだった。
えっちな本など無いと言われれば、すかさず「じゃあ私がいて何も困ることはないね!」と言ってつけ込む作戦だったのに。手ごわい。
でも私は諦めないよ。
次だ次。
「女の子と話すのが恥ずかしいのかな?」
「別に」
よしきた、ここまでは予想通りだ。
要領はさっきと同じで、
「じゃあ別に困ることはないよね!」
こう言って断る理由をなくしてしまう作戦。
即興で考えたにしては天才的な発想だと思う。
「いや、普通に考えて迷惑。いくら体がないからって初対面の人の家に何日も居座るとか図々しいと思わない?」
「凄く思いますごめんなさい」
ダメでした。
どうしよう、つけ入る隙が全くない。私の辞書に難攻不落の文字が追加されそうな勢い。
仕方ない、こうなったら最後の作戦だ。
「お願いですここに居させてください!」
私は、恥もプライドも捨てて綺麗な土下座を見せつけた。
両手をハの字にして床につき、頭だけでなく体全体を前に倒すようにして深々と頭を下げる。
そして相手からの返事がくるまでこの姿勢を保つのだ。
昔茶道で習った作法をこんな形で使うとは思わなかった。
「はぁ……。いくらなんでもそこまでする?」
明らかに呆れた声。
本当に、心の底から迷惑がっているんだと思う。
でも、私はまだこの子のことを何も知らないし、この子も私のことを何も知らない。
この子は苦しんでいる。そして、私はこの子を救うためにここにいる。
ならば諦めることはできない。
それに、この子を見捨ててしまえば私は彩月に合わせる顔がなくなってしまうのだから。
「だって、誰にも気付かれない人生なんて寂しすぎるよ」
頭を下げたまま、顔も見ずにそう言った。
しばらくして、彼がぽつりとつぶやく。
「寂しい……か」
居つくことを許可するわけでも、否定するわけでもなく、何かを考えるように言って、彼は再び黙り込んでしまった。
何十秒経っただろうか、それさえわからないほど長い時間が過ぎていた。
その間、私は何も言わず、じっと彼の返答を聞くべく耳を澄ます。
もう一度帰ってと言われるのだろうか。
迷惑だからと拒絶されてしまうのだろうか。
そんなことを考えながらも、私はじっと待ち続ける。
そして、
「石丸亮」
脚がしびれてきた頃、彼が呟いた。
「え?」
思わず顔を上げて聞き返す。
それが誰かの名前だというのはわかる。でも、どうしてこのタイミングで?
「名前。僕の」
彼は私から目を逸らしながら、バツが悪そうに言った。
それから、
「しばらくここに居るんでしょ。だから自己紹介」
そう付け加えて、彼はそそくさと机に向き直った。
「……居てもいいの?」
あまりに突然だったため、理解が追い付かない。
念のため、もう一度確認する。
「邪魔だったら追い出すから」
彼は単調に言って、また何かを書き始めた。
その後ろ姿を見てようやく状況を把握することができた。
どうやら私は、ここに居てもいいらしい。
途端に嬉しさがこみ上げてくる。
「ありがとう!」
私は後ろから彼に抱きつこうとした。
――が、触れないことをすっかり忘れていた。
私は彼の体をすり抜け、勢いよく顔から机に衝突した。
鈍い音とともに顔面に痛みが走る。
「早速邪魔なんだけど……」
「ご、ごめんね!」
慌てて机から離れる。
危ない危ない。いきなり追い出されるところだった。気をつけよう。
それにしても、どうやって仲良くなればいいのだろう。この子を救う以前に、円滑なコミュニケーションをとれなければ話にならない。
猫ちゃんは相性がいいから大丈夫と言っていたけれど、今のところそんな節は全くないし、どちらかと言えば悪いとさえ思える。
このままじゃいけない。
何か、少しでも仲が進展するような話題を振らなければ。
「ねぇ、亮くんって呼んでもいい?」
「好きにすれば」
「私のことはこころって呼んでいいよ」
「嫌だ」
あっけなく会話が途切れた。
初対面の人と同じ空間にいて、なおかつ会話がないというのはとても気まずい。向こうはそんなこと思っていなさそうだけど。
「亮くんは何年生なの?」
「中二」
「そっかー、成長期だね」
「うん」
……どうしよう、全く会話が続かない。
亮くんはこちらへ振り返ることさえなく、淡々と何かを書き続けている。
あまりに適当な返事なものだから私の話をちゃんと聞いているのか不安になってしまう。
そういえば、さっきからずっと机と向き合っているけれど何を書いているんだろう。
「ねね、何書いてるの?」
会話も兼ねて、後ろから机を覗き込んだ。
「勝手に見ないで」
亮くんは咄嗟に紙を手で覆うが、成長途中の男の子の手では隠しきれず、いとも簡単に見ることができた。
しかし、見たと同時に胸の内に嫌な感覚が湧き上がってくる。
「おーすごい、漫画描いてるんだね」
口ではそんなことを言いながら、心の中はとても穏やかとは言えない状況だった。
漫画家という夢を諦め、ずっとそのコンプレックスを抱いてきた私にとって、目の前にあるそれはとても刺激が強い。
進むのを断念した道に今もなお人がいるのだと思うと、簡単に投げ出した自分がたまらなく情けなくなってくる。
もちろん、だからと言ってその道の人を妬んだりするつもりはない。
今でも漫画は好きだし、暇な時にはよく読んでいる。
ただ、もう自分で描く気にはなれないというだけ。
「見ないで」
亮くんは原稿用紙に敷いてあった緑の下敷きを抜き取り、原稿の上に被せる。
何で隠す必要があるんだろう。
一度は漫画を描いていたからこそわかる、この子は上手い。
子供にしては上手いだとか、中学生にしては上手いなんていう括りではなく、漫画業界の第一線に出しても活躍できるような、そんな上手さ。
「亮くんすっごく絵上手だね。漫画家さんなの?」
「違う」
「じゃあ漫画家さんになりたいの?」
「それも違う」
あ、違うんだ。
もったいない。こんなに上手いのなら絶対なれると思うのに。
そんなことを考えていると、亮くんは少しばかり照れ臭そうに続ける。
「なりたいんじゃなくて、なる。絶対に」
「おぉ……」
予想外の言葉につい息を漏らす。
「……なに? 悪い?」
私は慌てて首を横に振る。
悪くない、何も悪くない。
それどころか、かっこいいとさえ思う。
夢を夢のままで終わらせない。願ったからには必ず叶える。そんな決意が見てとれる言い方だったから。
「絵を描くの、好きなの?」
「……うん。僕にはもうこれしかないから」
一瞬、何かを躊躇したような表情を見せてから、力なくそう言った。
何故だろう、心なしか寂しそうにも見える。
好きだというのなら、どうしてそんな言い方をするのだろう。
亮くんの絵は十人が見れば十人ともが上手いと口を揃えるようなレベル。私がここに来るずっと前から努力していたのがひしひしと伝わってくる。
描えがかれたキャラクターの表情はとても活き活きとしていて、まるで魂でも宿っているような錯覚に陥る。あるいは本当に宿っているのかもしれない。
絵が好きでなければこうは描かけない。
だから含みのある言い方をした亮くんに少しだけ違和感を覚えた。
もしかしたら踏み込んでほしくない領域の話だったのかもしれない。
「凄いなぁ。いつから絵を描いてるの?」
一度話を振ってしまった手前、急に話を変えるのも申し訳ないので、深く踏み込みすぎないように注意しながら会話をしよう。
悩み事があるのならすぐにでも聞いてあげたい気持ちはあるけれど、それは私のエゴだ。私が彩月と疎遠になった原因がそれなのだから。
だから少しずつ心の距離を近づけて、いつか本人が話したくなった時に優しく聞いてあげるのが今は一番だと思う。
「絵を描き始めたのは幼稚園の頃。漫画家を目指し始めたのは小学校に入ってから」
それを聞いて納得した。
どうりで上手いわけだ。
それにしても、漫画の話を振った途端に口数が多くなったのは私の気のせいだろうか。
あまり踏み込まない方がいい話題だと思ったのだけど、意外とそうでもないらしい。
「ねえ、さっきの絵もう一回見せてよ!」
「やだよ。知り合って間もない人に絵を見せるのって何か恥ずかしいし」
「でも漫画家になったら顔も知らない大勢の人に絵を見せることになるんだよ? 私にも見せられないのに漫画家になれるのかなー?」
私が茶化すように言うと、亮くんはむっとした表情になった。
何も言い返せないのを悔しがるような、そんな表情。可愛い。
「ほら、早く早く!」
「わかった……。少しだけだよ」
亮くんが渋々と下敷きを退けると、私は食い入るように絵を眺めた。
少女漫画ばかりを描いていた私とは反対に、亮くんの絵はいかにも少年漫画といったものだった。
ローブを羽織った魔法使いが巨大な龍を討伐するシーン。
魔法を唱えるキャラの鬼気迫る表情が言葉では言い表せない緊張感を生み出していた。
「すっごい……! 亮くん天才だよ! 絶対漫画家になれるよ!」
「こ、これくらいは描けて当然だよ」
亮くんはさも当然のように言ってのけたが、私は彼の口の端が歪んでいるのを見逃さなかった。
これは褒められて嬉しいのを必死に隠している顔だ。
「亮くん口元がニヤついてるよ」
「ニヤついてないから。事故って目ん玉おかしくなったんじゃない?」
ムキになって張り合ってくる亮くんの態度は歳相応のそれで、私は密かに安堵した。妙に大人びていたものだから、こうして幼い一面を見ると可愛い弟ができたような気がして微笑ましくなる。
よかった、口は悪いけれど、根は素直な子みたいだ。
猫ちゃんの言った相性がいいという言葉の意味を少しだけ理解した。
この子となら、上手くやっていける気がする。
亮くんの家に来てから、初めての朝を迎えた。
同時に、私が幽霊同然の体になってから迎えた初めての朝でもある。
幽霊になった影響なのか、昨夜は一睡もすることができなかった。眠気さえ訪れない中、退屈を潰す術もなくずっと床で体育座りをしていた。
本棚には沢山の漫画があるというのにそれを手に取ることすらできないもどかしさ。物に触れないというのはこれほどまでに不便なのかと実感した夜だった。
時折こっそりベッドに近づいては眠っている亮くんの顔を眺めていたりもしたけれど、美少年の寝顔ですら私の退屈は誤魔化せなかった。
眠くなることもなければ空腹感に襲われることもない。
それだけ聞くと便利なように感じられるけれど、実際は苦痛でしかなかった。
亮くんを起こさないようにじっとしていたせいで体も凝るし、何か対策を練らなくては。
朝から元気な蝉の声を聴きながら、私は凝り固まった体をほぐすべく大きく伸びをした。
まだ部屋の電気は消えているけれど、黒いカーテン越しに差し込む朝日のおかげで十分に明るいと言える。いい朝だ。
欲を言えばカーテンを全開にして朝日を一身に浴びたいのだけど、残念ながら今の私ではこの薄いカーテン一枚さえ開けることはできない。
唯一開けることのできる亮くんは未だ夢の中。これではどうしようもない。
仕方がないから、カーテンの僅かな隙間から朝日を浴びることにした。
隙間から見える空は雲ひとつない。晴天だ。海のような青空がひたすら続いている。
ふと単純な疑問がわいた。
ここ、どこだろう?
猫ちゃんに瞬間移動させられちゃったせいで、ここがどこなのかわからない。
昨日のうちに亮くんに訊いておくべきだったかな。
真っ青な空を眺めるだけでは答えは得られそうにない。
私は答えを求め、視線を空から地へ落とす。
亮くんの部屋は大きな一軒家の二階にあるらしく、下を眺めればそれなりに街を見渡すことができた。
大きな建物や広い道路があるわけでもなく、どこにでもある住宅地といった感じ。
遠くの方には大きな建物がいくつも見える。
目を凝らしてみれば、私が住んでいる地域に建っている工場の看板が見える。どうやらあまり遠くはないみたい。一駅か二駅くらいの距離だろう。
別に近くても遠くてもいいんだけどね。ただ地元が近いと何となく安心感があるというだけの話で。
さて、現在地の確認が意外にもあっさり済んでしまったことでまた暇を持て余すことになった。
物には触れないから漫画も小説も読めないし、テレビだってつけられない。
だからと言って亮くんを起こすのも申し訳ない。
私にできることといえば、このカーテンの隙間から外を眺めるだけ。
でも、それじゃあ退屈はつぶせない。
私に小学生や中学が登校する様子を延々と眺め続けるような変態的な趣味でもあればまた違ったのだけど、残念ながらそんな趣味はない。
外では制服姿の小中学生たちが鞄を持って行進している一方、亮くんはというと、今でもぐっすりと寝息をたてている。
目覚ましすらかけていないのを見るに、登校する気は欠片もないらしい。
改めて実感する。本当に、この子は不登校なんだと。
あらかじめ猫ちゃんから聞いてはいたけれど、いざ学校を休む様子を見ると微妙な気持ちになる。行かなくてもいいのかなと思う反面、無理して行ってほしくないといったような、そんな複雑な気持ち。
それから、亮くんが目覚めるまで私はずっと窓の外を眺めていた。
とくに何かを考えるわけでもなく、道行く中高生を目で追うだけ。
時計の短針が完全に左を向いた頃には、中学生だけでなく、高校生の姿も見当たらなくなる。
亮くんが目を覚ましたのはその頃だった。
「あ、起きた?」
「ん……」
返事と呼べるか微妙な声を漏らし、亮くんはベッドから身を起こす。
まだ少し眠そうだ。
目をこすり、あちこちに跳ねた髪を手櫛で整える姿は毛繕いをする猫の姿を思わせてとても可愛らしい。
ずっと暇だったせいで、ただ亮くんが目を覚ましただけでもテンションが上がる。
それにしてもよく寝る子だ。
昨日は夜の十時頃にはもう寝ていた気がするから、十一時間くらいは眠っていた計算になる。
「まだ九時か」
「もう、じゃないの?」
「まだ、だよ。いつもは昼まで寝てるから」
凄まじい……。
成長期にそれだけ眠っていたら将来すごく高身長になりそう。
私もそれなりに寝る方だけど、それでも身長は百六十センチぴったり。
現段階で既に亮くんは私と同じくらいの身長だから、これからもっとたくましくなるに違いない。
「また寝るの?」
「寝ないよ。というか、つっこまないんだ」
「何を?」
「学校行ってないこと」
そりゃあ不登校なの知ってるからね。
ただ、この子には偶然迷い込んだって説明しちゃったから猫ちゃんから聞かされているってことは黙っておかないと。
しかし、そうなると何と答えればいいのか判断に迷う。
「私も今学校行けてないからねー」
あんまり答えになっていないけど、そう答えた。私が学校に行けていないことと、この子が学校に行っていないことは無関係だもの。
「……まぁいいや」
亮くんは一瞬だけ何かを言いたげな表情になっていたけれど、諦めてくれた。
私が微妙にずれた返事をしたことに気付いていたんだと思う。
追及を避けたのは寝起きで面倒だったのと、単にどうでもよかったからだろう。何はともあれ助かった。
学校行ってませんよ、不登校ですよ、って部分を前面に出されると反応に困ってしまうからね。
逆に、そこでこちらから質問をすればどうして亮くんが不登校なのかを知ることができるかもしれないけど、そんな度胸はない。
彩月との一件以来、どうしても人間関係では慎重になってしまう。
とはいえ、今はそれでいいとさえ思う。
きっとこれはデリケートな問題。下手に踏み込めば取り返しのつかないことになるのは目に見えている。
だから今は、亮くんとの日常を全力で楽しもう。
「今日は何するの?」
「そろそろトーンがきれそうだし、買い物にでも行こうかと思ってる」
学校には行かなくても外出はするんだ。いやまあ、いいことではあるんだけどね。少なくとも、引きこもっているよりかはずっといい。
「私も付いていっていい?」
「……いいけど、外ではあんまり話しかけないで。独り言喋ってる奴だと思われたくないから」
「わかった!」
「じゃあ準備してくるからここで待ってて」
そう言って、亮くんは部屋を出た。
亮くんはあまり私を部屋から出したがらない。
昨日も、亮くんが晩御飯を食べる時や、お風呂に入る時には「ここで待ってて」と言われた。
私の姿は亮くん以外には見えないし、声も聞こえない。だから私がこの部屋を出たところで問題はないはずなのに。
それでも、私が何気なく部屋のドアに近寄ると警戒したようなそぶりをみせる。
あからさまに、私がこの部屋を離れるのを嫌がっているのだ。
意図はわからないけれど、亮くんが嫌がる以上は無理に出ることはしたくない。そもそも自分では扉さえ開けられないのだけど。
亮くんが部屋に戻ってきたのは準備を始めてからちょうど五分後だった。
先ほどまでは手櫛で雑に寝かしつけられていた髪の毛はしっかりと整えられていた。逆に言えばそれだけなのだけど、それでもモデル並の美しさだ。
服装だって黒のズボンに白のシャツという非常にシンプルな組み合わせなのに、放たれる雰囲気はとてもお洒落だ。
元がいいから何を着ても似合うのだろう。心底羨ましい。
「早くして」
見惚れる私を急かし、亮くんはそそくさと階段を降りていく。
この部屋を出るのは初めてだ。
もしかしたら私を部屋から出したがらない理由が見つかるかもしれない。
申し訳なく思いながらも、私はあたりを見回した。
しかし、特に変わった物は見つけられなかった。
何かあるのではないかと疑っていたためか、あまりにも普通の光景に若干戸惑ってしまう。
二階は亮くんの部屋を含めて三つの部屋がある。亮くんの部屋が一番端にあり、廊下を歩いて二つの部屋の前を通り過ぎれば一階へ続く階段だ。
階段を下ると、すぐ左手側に玄関が見えた。右側に顔を向けると、長い廊下とこれまた幾つもの部屋がある。相当大きい家だ。
お父さんかお母さんの姿でも見えないものかと一階を見回す。けれど、人の気配はなかった。
代わりに、お父さんの趣味と思わしき野球のポスターが廊下の壁に大きく飾られていた。
結局、二階にも一階にもこれといったものはなかった。
「亮くんのお父さんってどんな仕事している人なの?」
炎天下の中、私は語りかける。
けれど亮くんから返ってきたのは言葉ではなく、視線。極めて迷惑そうな視線だった。外だから話しかけるなということらしい。
亮くんは一言も喋らないまま淡々と住宅街を歩いていく。
少しくらい喋ってくれてもいいのに。
私の姿が見えるのは亮くんだけ。だから外で話すと周囲の目には亮くんがひとりで喋っているようにしか見えない。それはわかっている。
でも、今は十時過ぎ。学生も社会人もみんな外にはいない時間帯だ。周囲に人の気配はないし、私を無視する必要はない気がする。
なので、ひたすら話しかける。
それでもやはり返事はしてくれなかった。それどころか、途中からは迷惑そうな視線すら向けてくれなくなった。
人の多い場所では無視されると予想はしていたものの、まさか人気のない道でさえ会話してもらえないとは……。
「ちょっとくらい話してくれないと寂しくて泣いちゃうよー」
なんてことを言っても無駄だろうなと思いながらも、言ってみた。
この子が無愛想だなんて承知の上だし、今更泣くようなことでもないんだけどね。
「……はぁ、面倒くさい人だなぁ」
「あ、お話してくれるの?」
亮くんは街中の酸素が全て吸われてしまうのではないかというほど深く息を吸って、そのまま深くため息をついた。
「いいけど、駅につくまでだから」
「やった!」
昨日といい今といい、どうやらこの子はしつこく言うと折れてくれるらしい。
何はともあれこれでお話ができる。といっても特に話したいことがあるわけではないのだけど。
しかしせっかくの機会を無駄にするわけにはいかないので、色々と訊いてみよう。
「亮くんは彼女いたこととかないの?」
「ない」
即答された。それも、恋愛には欠片も興味がありませんといったような、無関心な物言いだった。
「モテそうなのになぁ。告白されたことは?」
「あるけど、興味ないから振った」
「ドライだねぇ」
ちくしょう、なんて羨ましい子だ。興味がないから振るなんて恋人が欲しい人間からすれば贅沢すぎる選択だよ。
私なんて告白されたことはおろか、ろくに男友達すらいないというのに。
まあ、別に恋人とか男友達が欲しいってわけでもないんだけどね。
「そろそろ黙って」
亮くんは目線を前に向けながら言う。
釣られて見てみると、既に駅が見えていた。
平日の昼前ということもあって人の出入りは少ない。けれど全くいないわけでもない。
このまま話をすればすれ違う人たちから冷たい目線を送られることだろう、亮くんが。
それは可哀想なので言われた通り大人しくしておく。元から静かにするのを条件についてきたわけだし。
駅につき、券売機にお金を入れると亮くんは二人分の切符を購入した。
「二人分……?」
静かにしろと言われたものの、つい口に出してしまった。
確かに電車に乗るのは私と亮くんの二人。買った切符の枚数も二人分。計算としては合っているのだけど、今の私は幽霊のような状態だ。態々買う必要はない気がする。
亮くんは周囲に人がいないことを確認すると、小声でささやく。
「何かずるい気がするから、払う」
……感心した。というより、感動した。
なんていい子なんだろう。改札を素通りする気満々だった私とは大違い。
薄々思ってはいたけど、今確信を持てた。この子は真面目な性格だ。
口は悪いし態度は冷たい。でも、根底にあるのは優しさだ。
散々辛辣な態度を取られた割に平然としていられるのは、亮くんのそういった面を無意識に感じ取っていたからなのかもしれない。
「ごめんね、ありがとう。元の体に戻ったらちゃんと返すね」
「いいよこのくらい。電車来ちゃうから早く行こう」
「あ、うん」
若干急ぎ足で改札を抜ける亮くんの後を追い、私も改札を抜ける。
目的地はすぐ隣の駅。
時間にして五分か六分ほど揺られると、すぐに到着した。
亮くんが住んでいる地域は住宅地ということもあって、会社のビルや工場はほとんどない。
しかし一駅電車に揺られるだけでその景色は全くの別物になる。
私たちが今いるのは、高層ビルが立ち並ぶ都会の街。
巨大な建物を見上げる首が痛くなりそう。
「えっと、トーン買うんだっけ?」
「そう」
漫画を描く人間が言うトーンとは、大抵はスクリーントーンのことを指す。
絵の影になる部分や、髪の毛に貼ったりする網点状のシールのようなもの。
それを買うということは、行き先は文房具屋だろうか。
――数分後。
「こ、ここは……!」
私は、大量のアニメグッズが陳列する棚の前にいた。
文房具屋? なんのことやら。
ここはアニメ専門店「アニメイツ」。パッと見たところ、アニメの原作や同人誌など、アニメ関連のグッズが幅広く取り揃えられている。
果たしてこんなところにトーンが売っているのだろうか。
間違えてこのお店に来てしまったのかと亮くんを見やる。しかし、その足取りに迷いはなかった。
私も昔漫画家を目指そうとしただけあって、アニメや漫画は好きだ。でもこういったお店にくるのは初めてだったりする。
「トーン買うんじゃなかったの?」
「うん」
周りに人がいるせいか「うん」とか「そう」としか答えてくれない。
適当に相槌を打っているだけのようにも聞こえるから少し不安だ。
ふと亮くんが足を止めた。後ろをついていた私はぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。といっても、ぶつかることはないんだけど。
そんな私をよそに、亮くんは腰をかがめて棚を眺めていた。
見てみると、大量の文房具が商品棚に敷き詰められていた。
スケッチブックからコピック、果てはデッサン人形まで、絵にまつわるグッズがこれでもかと並べられている。
アニメや漫画のグッズが置いてある店としか思っていなかったから、少し驚いた。漫画グッズだけでなく、漫画を描くグッズまで取り揃えているとは恐れいった。
「あった?」
「あった」
半透明の黒い引き出しから何枚かトーンを取り出し、亮くんはレジへ向かった。選ぶ手つきに迷いがなかったあたり、何度もここで買い物をしていることがわかる。
せっかくだから亮くんがお会計を済ませるまでの間に店内を探検してこよう。
アニメ主題歌が収録されたCDやコスプレグッズ、果ては男の子同士が恋愛する漫画まで取り揃えられている。本当にアニメ関連のグッズなら何でも揃ってしまいそう。
ちょっと楽しいかもしれない。体に戻れたらお買い物をしに来てみよう。
でもこういうお店に一人で来るのは何だか気が引ける。
亮くんを誘っても絶対来てくれないだろうし、アニメに興味がある知り合いがいるわけでもない。
「買った」
そんなことを考えていると、突然背後から声をかけられた。
「うわ、びっくりした」
振り返ってみると、トーンの入った袋を持つ亮くんが立っていた。
気配もなく話しかけてくるのだから心臓に悪い。
「もういいの? 他に買うものとかないの?」
「ない」
きっぱりしてるなぁ。
そういえば、男の子は買うものを決めているからすぐにお買い物が終わるという話を聞いたことがある。私なんていつもふらふらと店内をさまようというのに。
お店から出ると、物凄い人混みにのまれる。
来るときもそうだったけれど、都会というのは本当に人が多い。密度が高すぎるせいで避けようとしても人をすり抜けてしまう。
例えすり抜けたとしても痛くも痒くもないのだけど、なんか嫌だ。
それに、こうも人が多いと亮くんが全く返事をしてくれなくなる。
会話はない。しかし足取りを見るに目的地は駅なのだと推測できた。もう帰るつもりらしい。
せっかく私の分まで余分にお金を払ってくれたというのに、一時間もしないうちに帰るなんてもったいない。
それに、私は亮くんともっと仲良くなりたい。
幸いこの街は色んなお店があるし、交流を深めるにはうってつけだ。
「ねぇ、亮くん。せっかくだから寄り道しない?」
……案の定、亮くんは無言だ。ひたすら人混みをかきわけ駅へと歩いていく。
このままでは帰る羽目になってしまう。それは何としても避けたい。
「お願い! どうしてもまだどこかで遊びたいの!」
「このまま帰るなんてもったいないよー!」
「遊ぼう! ねぇ! 遊ぼう!」
そんなことを何度も繰り返した。
すると、
「……はぁ」
軽いため息をひとつ。
それから亮くんはくるりと方向を変え、近くの大型ショッピングセンターに入っていった。やった、折れてくれた。
「ありがとう!」
ショッピングセンターの入口で、私は子供のように跳びはねた。
「それで、何するの」
ショッピングセンター内は外よりも比較的人が少なく、話してもいいと判断したのだろう、ようやく亮くんが口を開いてくれた。
「えっとね……」
私は深く考え込む。
しつこく誘ったのはいいものの、その実頭の中は空っぽだった。
私は自分で思っている以上に後先考えずに突っ走ってしまうタイプらしい。
こんな風に進路も決めちゃえればいいのに。それができないのだから人生は難しい。
それはそうと、本当に何をするんだろう。提案した張本人でさえ困ってしまう。
洋服屋さんを見てみたいけど、亮くんは興味ないだろうし、きっと退屈させてしまう。
そもそも今の私じゃ試着すらできない。
ゲームセンターや飲食店に行ったところで私は見るだけしかできないし。
というか今の私は何をやっても見るだけしか――――って、あれ?
そうか、見るだけだ! 閃いた!
「映画なんてどうかな!?」
我ながら名案だ。
これなら私も亮くんも問題なく楽しめる。
デートみたいで少し気恥ずかしいけれど、見終わった後に映画の感想を語り合うというのは少し憧れでもある。
話が弾めば仲良くなれるかもしれないし、まさに一石二鳥。
お金は元の体に戻ったら必ず返そう。
しかし、
「うん、却下」
私の名案はいとも簡単にはじき返された。
「なんで!?」
「めんどくさいし、興味ない」
……ああ、すっかり忘れていた。この子はこういう子なんだった。
そもそもショッピングセンターに来てくれたこと自体が私にとっては奇跡みたいなものだし、少し調子に乗りすぎていたのかもしれない。
でもそれとこれとは別だ。
面倒くさいからダメというのならどうしてここに来たの! 理不尽だ!
「じゃあ何ならいいの?」
「さぁ」
……このクソガキめ。
根は真面目でいい子だと思った私が間抜けじゃないか。断固抗議だ。
「亮くんはさ、漫画家さんになるんだよね?」
「うん」
「漫画家に必要なものって何かわかる?」
「絵の上手さと物語の構成力」
「そうだね。それもあるけど、私は好奇心が大事だと思うなぁ。どんなことでも興味を持って経験して、それを自分の作品に活かすの」
「……う、うん」
私の話を聞いているうちに、段々と亮くんの表情が真面目なものになってくる。
思った通り、漫画のことになるとこの子はどこまでも真面目で、どこまでもストイックだ。
これならいける。
「全然人生経験のない人が描いたお話と、経験豊富な人が描いたお話なら、どっちが面白いと思う?」
「……経験豊富な方」
「そうだね。だから好奇心は大事だよ。あれ? でも亮くんはどうなのかなぁ。面倒くさいからって映画を観たくないなんて言っているけど、それで漫画家になれるのかなぁ?」
わざとらしく煽るように言ってみせて、ちらっと亮くんの顔を見やる。
……どうやら私が思っていた以上に効果があったらしい。いつも無表情で淡々としている亮くんの顔に焦りが見える。
「わかったよ……。映画観に行こう」
「やった!」
この子の純粋さを利用するようで申し訳ない。でも私が言ったことも的外れではないと思うから許してほしい。
実際、私が漫画家を目指していたころは周囲の人からよくそんなことを言われたし、何事も経験というのは今でも何となく信じている。
「亮くんはどんな映画が観たい?」
「お任せする」
「そっかー、じゃあ恋愛ものとかどう? 亮くん普段そういうの観ないでしょ?」
「うん。じゃあそれで」
意外にも素直だ。よっぽど漫画家になりたいらしい。
賢いし、妙に大人びているけれど、時折見せる子供な一面は本当に可愛らしい。なんだかんだ子供なんだなと思うと悪態も許してしまえる。
でも、夢があるという点に関して言えば、私よりはるかに大人だとも思う。
進路さえ決められず、ずっと行き当たりばったりの生活を続けている私からしてみれば、夢に向かって一直線に進んでいく亮くんの姿はとても眩しい。
私も何かに夢中になれればいいのに。
そんなことをもう何年も考え続けた。
漫画家という夢を捨てずに今でも絵を描き続けていれば、そんなことも考えた。
そしてそのたびに、現実の自分が惨めに思えてくる。
だから、まっすぐ進む亮くんを見ると少しばかり胸が痛む。
私もこんな風になれたらいいのに。
「ほら、早く」
「あ、うん! ごめんね。やっぱり映画も二人分買うの?」
「うん」
「ありがとう、ごめんね。体に戻ったら絶対返すから」
「だからお金のことはいいって。気にしないで」
やっぱり、この子は優しい。
クソガキかと思えば優しくて、大人かと思えば子供っぽい一面もあって、亮くんと話すのは新鮮なことだらけで飽きることがない。
それはそれとして、お金は必ず返すけどね。嫌がっても絶対押し付ける。
そんなことを考えながら、私は先導する亮くんの後を追う。
さすがは都会のショッピングセンターというべきか、一階には大きな映画館があった。私の近所のショッピングセンターにはそんなものないというのに。
都会は便利だ。人混みで疲れてしまうのが唯一の難点だけれど。
しかし、いくら都会とはいえ今は平日の昼間、さすがに映画を観に来るお客さんは少なかった。
タッチパネルでチケットを購入する際、空いている座席を確認する。
やはりというか、予想通りというか、私たち以外のお客さんはいなかった。
上映時間まであと十五分もない。
周りを見てもお客さんらしき人は見当たらないから、貸し切り状態だ。
チケットを購入し、係員さんに一番シアターへ案内される。
私たちが買った座席は前から三列目のど真ん中。
最前列だと必然的に画面を見上げることになり、首が痛くなる。だからといって最後列にしてしまえばせっかくの大画面が小さく感じてしまう。
だから前列から三番目という位置取りが私の中では最高の位置だ。
そんな席を取れた上、貸し切り状態。更に言えば亮くんと観る映画。
必然的に私のテンションは最高潮に達する。
しかしシアタールームに入って、私はすぐに困惑した。
映画館の椅子は座の部分が背もたれの部分に密着していて、座るためには一度手で引き下げなければいけない。
そのことをすっかり忘れていた。
今の私は椅子どころか紙きれ一枚すら動かせない状態。これでは座ろうにも座れない。
亮くんに一度下げてもらったとしても、亮くんが手を離した途端にすり抜けてしまう。
制止している物体に触れることはできても、その物体が動いてしまえば強制的にすり抜けてしまうのだ。
座が背もたれにくっついた状態で無理矢理座るのも手だけど、亮くんの前でそんな恥ずかしいことはしたくない。
「どうしよう……私座れない」
「本当に面倒な人だなぁ」
席に座ってメロンソーダを飲みながら、亮くんは呆れたように言う。
それから、私が座れるように座を引き下ろしてくれた。
「映画終わるまで抑えとくから、早く座って」
「でも……腕疲れない?」
「漫画家はずっと腕を使って描くから、持久力はある……と思う」
「……ありがと」
本当になんなのこの子……優しすぎる。
突然こんなことをされたのだから思わずどきっとしてしまった。
普段冷たいくせにこういう時は優しいって、狙ってやっているんじゃないかと勘繰りたくなる。
私は速まる鼓動を悟られないように、ゆっくり腰を降ろした。
それを確認すると、珍しく亮くんの方から口を開く。
「恋愛映画かぁ、楽しめる気がしない……」
「あはは、亮くん少年漫画の方が好きそうだもんね。バトル系の方がよかった?」
「いや、こっちでいいよ。少年漫画にも恋愛要素はあるし」
上映前の長いコマーシャルをぼんやりと眺めながら、雑談を交わす。
昨日と今日で、とりあえずわかったことは一つ。
漫画やアニメの話になると、亮くんは沢山話してくれるということ。
それも凄く楽しそうに、活き活きとして話すものだから、何だかこっちまで愉快な気分になってくる。
周りに人がいなくてよかった。
もし人がいたら、きっと亮くんは周囲の目を気にして椅子を下げることも、こうして話をしてくれることもなかっただろうから。
とはいえ、さすがに私も上映中に話をする気はない。映画館で映画を観る時は静かに没頭するのがマナーであり、私のモットーでもある。
長いコマーシャルが終わると今度は上映前の注意事項が流れる。
頭がカメラになっているスーツ姿の男と、同じく頭がパトライトになっている男が独特な動きで映画の盗撮・盗聴を警告する。映画館ではお馴染みの映像だ。
それが終わるといよいよ本編が開始する。
結論から言うと、映画の出来は素晴らしかった。
絶対に結ばれないはずの二人が様々な困難を乗り越え、ついに結ばれるという結末には思わず涙してしまった。
「面白かったね」
「うん、面白かった」
あまりのクオリティに、楽しめる気がしないと言っていた亮くんも圧倒されたらしく、素直に映画の出来を褒めている。
てっきり意地を張って「普通だった」と言うと思っていたから、こんなに素直な反応をされると私が作者というわけでもないのに嬉しくなってくる。
この二日でわかったことがもう一つある。
この子は嘘をつかない。
面倒なら面倒だと言うし、面白いなら面白いと言う。
良くも悪くも素直なのだ。
裏を返せば私のことは本気で面倒くさがっていることになるから、そこは悲しいけれど。
それでも今は、よく喋ってくれる。
どのシーンがよかったとか、役者さんの演技力が凄いとか、そんな話を自分から進んでしてくれている。
普段は無口なだけに、それがとても特別なことのように感じられて、胸が温かくなる。
ショッピングセンターを出て、電車を降りるまでの間は話をしてくれなくなったけれど、それでも私は満ち足りていた。
亮くんと仲良くなりたいという想い。それが少しだけ叶えられたような気がした。
些細なことではある。でも、私にとっては大きな進歩だった。
「今度お出かけする時、また連れて行ってね」
改札を抜けた後、周りに人がいないのを確認してから私はそう言った。
「うん」
相変わらず短い返答。
けれど悪い気はしなかった。
小さく頷く亮くんはどことなく嬉しそうで、私のことを認めてくれているような気がしたから。
家に戻ると亮くんは着替えもせず、すぐに机についた。
買ってきたトーンを袋から取り出し、慣れた手つきで原稿用紙に貼っていく。
「凄い気合い入ってるね。どこかの賞に応募するの?」
「うん。初めて応募するからちょっと緊張してる」
「受賞するといいね!」
「うん。頑張る」
そう言って亮くんは淡々と作業を続ける。
もう、邪魔しないでと言われることはなかった。
後ろから覗きこんでも、話しかけても、きちんと応えてくれる。
昨日とはえらい違いだ。
私は嬉しさのあまり、亮くんに気付かれないよう小さくガッツポーズをきめる。
――その時だった。
大きな家具が倒れるような、物凄い音が一階から響いてきた。床が振動するほどの轟音だ。
それから程なくして、女性が怒鳴る声が聞こえてくる。
一階から二階に響くほどの怒号。何を言っているのかまではわからなかったけれど、ただ事ではないことは伺える。
「……気にしないでいいから」
訝しく思う私に気付いたのか、亮くんはそう言ってヘッドホンをつけた。
まるで、何も聞きたくないと言わんばかりに。
こういう時、なんと声をかけたらいいのだろう。
あるいは声をかけるべきではないのかもしれない。
ひたすら作業を続ける亮くんの背中を、私はただ眺めることしかできなかった。
――心なしか、その背中が少しだけ、震えているような気がした。
草木も眠る丑三つ時。
隙間なく閉められたカーテンは月明かりさえ通さず、部屋は暗闇に包まれていた。
私は床に寝転がり、ぼうっと天井を見つめていた。
既に眠りについた亮くんを起こさないよう、朝まで大人しくしているつもりだ。
動かず、言葉も発さず、暇を持て余した私は必然的に思考を働かせる。
これからのこと、これまでのこと、様々な思考が頭に浮かぶ。
その中でも、特に鮮明に湧き上がる記憶について私は思考を割いていた。
そうだ、あの時、亮くんは確かに震えていた。
もしかしたら、私の見間違いかもしれない。けれど、もしそうでなかったとしたら?
亮くんは不登校だ。
表に出さないだけで、彼はずっと苦しんでいる。
そして、私の役目はそんな亮くんを救うこと。
あの時聞こえてきた怒鳴り声、そして震える背中。
これは私の直感でしかないけれど、亮くんを苦しめているのは恐らくあの怒鳴り声だ。少なくとも無関係ではないはず。
声の主は亮くんのお母さんだろう。
……私に、救えるだろうか。
そんな不安が頭をよぎる。
今の私がしていることと言えば、せいぜい亮くんと雑談をするくらい。
家庭の問題に口出しなんてとてもできない。もっとも、まだそれが原因だという確証は微塵もないのだけど。
それをハッキリさせるためにも私はもっと亮くんと仲を深めなくては。
でも、仲を深めたとしてどうやって話を切り出せばいいのだろう。
下手に踏み込んで反感を買うのは絶対に避けなければならない。
これは非常に難しい問題だ。
……こんな時、相談に乗ってくれる人がいればいいのに。
無理だとわかっていても、そんなことを考えてしまう。
と、その時だった。
「呼んだ?」
ふいに、そんな声が聞こえた。
聞き慣れてこそいないものの、聞き覚えのある声。
少年とも少女ともとれる涼やかな声、間違いない。猫ちゃんだ。
びっくりして起き上がると、猫ちゃんは机の上にちょこんと座っていた。
そうだ、私には猫ちゃんがいた!
「こんばんは、こころちゃん。暇だから会いにきちゃった。あ、今は彼にも君の声は聞こえないようにしてあるから普通に喋っていいよ」
「猫ちゃん……! 会いたかったよ!」
「だから猫じゃないってば~。まぁそれはいいとして、どう?」
「どうって?」
「上手くやれてる?」
「うーん……」
私は言葉を詰まらせた。
仲良くなる、という意味ではそれなりに上手くやれていると思う。
亮くんを救うという意味なら、まるで進展はないと答えるしかない。
そこから導き出される返答はひとつ。
「微妙……かな」
そう、微妙だった。
「ぱっとしないねぇ。まぁデリケートな問題だからね、ゆっくり時間をかけるといいよ。でもゆっくりしすぎると今度は君の進路がまずくなっちゃうから急いでね」
ゆっくり時間をかけろって言ったくせに急かすようなことを言わないでほしい。
でも正論だ。
すっかり忘れていた。亮くんを救うとか、仲良くなるとか、それ以前の問題を。
私、受験生なんだった。
「どうしよう! 忘れてた!」
「君はおっちょこちょいだなぁ。仕方ないからヒントをあげよう。そうだなぁ、君が今一番疑問に思っていることをイエスかノーで答えてあげるよ」
「一番疑問に思ってること……」
なんだろう、客観的に見て私の容姿は可愛いか否か……とか?
……って、そんな疑問なわけがない。
今、私が一番疑問に思っていることと言えばひとつしかない。
あの時聞こえた轟音、そして怒鳴り声。それらが亮くんを苦しめている原因かどうか、だ。
「うん、イエスだね。関係大ありだよ。ちなみに、客観的に見ても君は可愛いと思うよ」
「猫ちゃん大好き」
「えへへ、ありがと。ボクも好きだよ」
嬉しかったからさりげなく私のくだらない心を読んだことについては許してあげよう。
それよりも、今は亮くんの事の方が大事だ。
「怒鳴り声が聞こえたけど、亮くんの両親は仲が悪いのかな?」
「さぁ? 本人に直接訊きなよ」
「けち! ばか!」
「けちじゃない! ヒントをあげただけ感謝してよ! 普通はヒントなんて与えずに放置するんだよ!」
うぐ、それを言われると言い返せない……。
ヒントを貰っていなかったらいまだに悩んでいただろうし、ありがたいのは事実だもの。
「そうだね……ありがとう」
「ん、素直な子は好きだよ。まぁとりあえず上手くいっているみたいでよかったよ。また様子を見に来るから頑張ってね」
上手く……いっているのかな。正直あまり自信はない。
猫ちゃんは安心したように鼻を鳴らすと、すっと立ち上がった。
「もう行くの?」
「うん。神様の使いは忙しいからね」
「さっき暇って言ってたよね」
「うるさい」
「えぇ……」
いくらなんでもそれは理不尽だよ……。
でも、ありがとう。
猫ちゃんのおかげで、少し前に進んだような気がする。
「どういたしまして。また困ったことがあったら呼んでね。といっても、あんまり手助けしちゃうとボクが神様から怒られちゃうからあてにはしないでね」
「わかった、ありがと!」
壁をすり抜けて去っていく猫ちゃんの姿を見届けてから、私は寝転がった。
そしてもう一度、今日の出来事を思い出す。
椅子の件といい、映画の感想を語り合ったことといい、今日はいい日かもしれない。思い返すだけで嬉しくなる。
けれど、ヘッドホンをつけ、震える彼の姿を思い出すと途端に悲しくなる。
……どうにかして彼を救いたい。
ほんの少しだけど、仲良くなれた。
猫ちゃんからはヒントも貰った。
後は、私次第だ。
私は、寝息をたてる亮くんの頬にそっと手を伸ばす。触れることはできないけれど、亮くんが放つ温もりは感じられる。
普段は生意気でも寝ている顔は可愛らしい中学生そのものだ。
そんな子が苦しんでいるのなら、私は手を差し伸べたい。
「絶対、私が何とかしてみせるからね」
小さく囁いて、そう決意した。
亮くんの部屋に住み始めてから、もう一週間が経った。
猫ちゃんにヒントを貰い、改めて亮くんを救うことを決意したのはいいものの、あれから特に進展はない。
女性の怒鳴り声が聞こえてくることもなければ、大きな物音がすることもない。至って普通の毎日だった。
亮くんは暇さえあれば漫画を描き、その光景を私が後ろから眺めるのがお決まりのパターンになりつつある。
この一週間で打ち解けたのか、亮くんは以前よりもずっと多くのことを語ってくれるようになった。
最初は漫画の原稿を見せるのさえ嫌がっていたのに、今では自分から絵を見せるようにすらなった。それどころか、キャラクターの構図や台詞についての意見を私に求めてくることさえある。
こういうとき、漫画を描いた経験があってよかったと思う。
それに、なんだろう。一生懸命に絵を描いている亮くんの姿を見ると、自分でもわからない感覚に陥ってくる。嫉妬でも羨望でもない、けれど憧れにも近いような、何とも言えない感覚。
自分ですら理解できない感情に戸惑いはある。それでも、決して悪い感情ではないことだけは断言できる。
だから私は今日も、彼の背中を見守るつもりだ。
まだ寝ている亮くんの顔を見つめながら、そんなことばかりを考える。
亮くんの朝はとても遅い。彼にとっての朝は普通の人にとっての昼なのだ。
夜更かしして睡眠時間がずれているわけではなく、単純に睡眠時間が長い。
もうすぐお昼だというのに、安らかな寝息をたてている。
亮くん以外に話し相手がいない私としては退屈ではあるけれど、こんなにも可愛い寝顔を見せられてしまえば文句を言う気も失せるというもの。
最近ではこの可愛い顔から吐かれる毒にも随分と慣れてきた。おかげで私も物怖じせず思ったことは堂々と口にできる。
ひとしきり寝顔を楽しんだ後、私は静かにベッドを離れる。
もうすぐ起きてくる頃合いだ。
まだ寝顔を見ていたい気もするけれど、起きた時に目が合うのが気まずい。
実際、この一週間の間にそうなってしまったことがある。
もちろん怒られたし、夕方まで口を効いてくれなくなった。だから起きる前に退散する必要がある。
そういった理由もあって、私が彼の顔を眺められるのは昼前まで。
寝ている男子中学生の寝顔を眺め続けるなんて我ながら変態だと思う。
でも、まつ毛が長くて肌も白くてすべすべ、髪の毛だってさらさらな男の子が寝ていたら誰だって直視すると思う。少なくとも私はやる。
……というのは半分冗談で、本当は単に退屈だから眺めているだけだ。
なので、亮くんが目覚めると寝顔を見れない名残惜しさよりも、話ができるという喜びが勝る。必然的にテンションも上がる。
ベッドから離れ、部屋の中央で体育座りをすると、タイミングよく亮くんが目を覚ました。早めに離れて正解だったかもしれない。
「ん……」
「あ、おはよう!」
「ん」
亮くんの朝は「ん」から始まる。
寝起きが悪いみたいで、起きた直後はいつもぼうっとしている。
普段の凛々しい状態とのギャップが激しくて、男の子相手なのに思わず可愛いと思ってしまう。
「朝ごはん食べてくる」
「いってらっしゃい」
眠たい目を擦りながら部屋を出ていく亮くんを私は笑顔で見送る。
随分と打ち解けたものの相変わらず私を部屋から出すつもりはないらしく、ご飯を食べる時はいつも一人で行ってしまう。
猫ちゃんから貰ったヒントを考えると、私を部屋から出したがらないのはきっと自分の家族を見られたくないからだろう。
それはそうと、今はもう朝ごはんの時間じゃないよ。言わないけど。
亮くんが階段を降りる音をしっかりと聞き届けた後、私は机に近寄る。
机の上には二十枚ほどの漫画原稿用紙が重ねられている。新人賞に向けて製作中の漫画だ。
完成度は既に七割を超えている。あとはスクリーントーンを貼りつけたり、影の部分や黒髪のキャラクターの頭髪部を墨ベタで塗りつぶすだけ。
とはいえ、その作業も決して楽ではない。応募締め切りは既に明後日にまで迫っている、あまり余裕があるとは言えない。
今日も朝ごはんを食べ終えたらすぐに作業に取り掛かるんだろう。
この一週間ずっとその調子だから容易に想像できる。
原稿を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考える。
私の予想とは裏腹に、その日はいつもとは違っていた。
朝ごはんを食べ終えた亮くんは、すぐに作業に取り掛かると思いきや、そのままベッドに寝ころんでしまった。
不思議に思い、顔を覗き込む。
「漫画、描かないの?」
「……今日はいい」
「でももうすぐ締め切りでしょ?」
「……わかってる。でも今日はいい」
……明らかに、様子がおかしかった。
口調はいつもと同じ抑揚のない淡々としたものだったけど、どうも何かが違う。
朝食を食べている間に何かがあったのかもしれない。
「何かあった?」
「何にもない。ただ今日は面倒なだけ」
嘘だ。
女の勘だとか、そんな曖昧なものではなく、はっきりと嘘だとわかる。
確かに亮くんは面倒くさがりだ。でも、漫画だけは絶対に疎かにしない。
毎日コツコツと描き続け、将来は絶対に漫画家になるのだと胸を張って言っていた亮くんが、締め切り間際のこの状況でそんなことを言うわけがない。
必ず、何か理由がある。
そうだ、亮くんが抱えている悩みは家族に関すること。本人から直接聞いたわけではないけれど、猫ちゃんがそう言っていたのだから間違いない。
私は亮くんを救いたいし、できることならこの子の夢を叶えてあげたい。
きっと今日作業を放り出せば、もう間に合わない。
だから私は、慎重になってずっと胸の奥にしまいこんでいた言葉を取り出すことにした。
それは私にとって嫌な思い出のある言葉でもあり、同時に今の私の気持ちをそのまま表したものでもある。
恐る恐る、私は口にする。
「悩みがあるのなら、つらいのなら話だけでも聞くよ」
はたから見れば何てことはない普通の言葉。けれど私の心臓ははちきれんばかりに昂っていた。
「だから何でもないってば。寝るから放っておいて」
亮くんの返答には、はっきりと拒絶の色が含まれていた。
嫌われてこそいないだろう。しかし、私の心は穏やかではなかった。
彩月も亮くんも、やはり簡単には差し伸べた手を握ってはくれない。
途端に恐ろしくなる。
このまま踏み込み続ければ、またあの時と同じことを繰り返すのではないかと。そう思えば思うほど、開いた口が重く閉じようとする。
でも、それじゃあダメだ。
「あんなに漫画家になりたいって言っていたのに、面倒だから寝るなんて亮くんらしくないよ。無理に聞くつもりはないけど、それでも、悩んでることとか悲しいことがあるのなら私は役に立ちたいの」
今まで私に話してくれなかったということは、やはり踏み込んでほしくない問題なのかもしれない。しつこく訊けば嫌われるかもしれない。
やっと仲良くなれたのだから、この関係を壊したくはない。けれど、保身のためにこのまま放っておくのも嫌だ。
「心配してくれるのは嬉しい。でも、話したくない。迷惑をかけたくもないし、誰かに話したところで解決する問題でもないから」
……迷惑。それを聞くとただでさえ痛んでいる胸が更に締め付けられる。
どうして彩月も亮くんも、人を頼ろうとしないのだろう。
私はそんなに信用できない相手なのだろうか。
「迷惑なんかじゃないよ。それに、ずっと自分一人で抱え込んでたらいつか壊れちゃうよ」
「……わかってる。でも、話すつもりはないから」
食い下がってはみるものの、変化はなかった。
「……私も無理に聞くつもりはないよ」
結局私は、怖くなってそれ以上聞くことができなかった。
彼の心に踏み込もうとすればするほど、過去の過ちが脳裏をよぎって足が震えてしまう。
度胸のない自分が憎い。けれど、このまま終わるつもりもなかった。
「ねぇ」
「なに」
「気分転換にお出かけしようよ!」
話してくれないのなら、せめて外の空気を吸ってもらおう。
ここに閉じこもっているより、その方がずっといい。
それに、私も行きたいところがある。
「面倒だから嫌だよ。そもそもどこに行くつもりなの」
「ん、私の病室。お見舞いに来てよ」
「はぁ……。事故で寝たきりの人がいる病院なんて気分転換にならないでしょ」
確かにそうだ。
私の本体は今も寝たきりで、大きな傷はないにせよ立派な患者さんだ。
そんなところに悩める少年を連れて行くのはとても気分転換とは言えない。
でも気分転換なんてただの口実だ。亮くんを外に連れ出せるなら何でもよかった。
私は亮くんに見せたいものがある。いや、見せなければいけないものがある。
夢を諦めて放りだし、適当に生きたらどうなるか。それを物語るしわだらけの紙切れを、彼に見せなければならない。
「確かにあんまり気分転換にはならないかもしれないけど、ここで寝ているよりかはずっといいよ! それに、どうしても元の体がどうなっているか気になっちゃうしさ……」
「虫歯とかできてるかもね」
「うげ……そういうこと言うのやめて! 不安になっちゃう!」
どうしよう、全然そんなこと考えてなかった。
そういえば寝ている間は口内の雑菌が一番増えるって聞いたことがあるような……。一週間以上寝たきりってことは相当やばいのでは?
「冗談。いいよ、行こう」
「あれ、意外とあっさりオーケーしてくれるんだ」
「僕を何だと思ってるの」
「面倒くさがり屋さん」
私がそう言うと、亮くんは一瞬だけむっとした。否定しないあたり、一応自覚はしているみたい。
「はぁ。僕だってこのままじゃダメだってことくらいわかってるよ。だから行く。それに……」
「それに?」
「もう知らない仲じゃないんだから、お見舞いくらい行くよ」
……また不意打ちをくらってしまった。
突然真顔でそんなことを言い出すのだから恐ろしい。
思わずどきっとしてしまう。
「あ、でも匂いとか嗅がないでね……。一週間寝たきりだから多分臭い……」
「はいはい。それで、どこの病院?」
「あ、えっとね」
病院の場所を話すと、亮くんはすぐに準備を始めた。
また電車代を払わせてしまうことになるのは申し訳なく思う。