「記憶が消える……?」
思わず聞き返した。
私には理解のできない言葉だったから。いや、私の心が理解するのを避けていたと言うべきか。
「うん。消えちゃうんだよ。君が体に戻った瞬間、君たちはお互いのことを全て忘れてしまう。更に言えば、君は彼の記憶どころか体から抜け出た間のことを全て忘れるんだ」
聞き返し、そして返ってきた言葉はやはり変わりないものだった。
私は深く息を吸う。静まり返った部屋には時計が秒を刻む音だけが響いていた。
蝉の声も夏の暑さもなく、不気味な静寂だけが今はこの空間を満たしている。
十秒か二十秒、あるいはもっとかかったのかもしれない。猫ちゃんの言葉から多くの時間が過ぎ去り、ようやく私は理解する。理解せざるを得なかった。
私が何分何時間と黙り込み、逃げたとしても、この現実は変わらない。何度聞き返しても答えは変わらないのだから。
「そっか……」
遅すぎる返事はすぐに空気に溶け込み、消滅する。
全部、消えちゃうんだ。
一緒に映画を観て、ああでもないこうでもないと言いながら漫画を描いて、励ましあった記憶が、全て。
……そんなの、絶対に嫌だ。
「記憶が消えると言っても、君が彼から貰った想いまで消えるわけじゃない。彼のことは思い出せなくても君はまた漫画家を目指すし、彼も君から与えられた勇気を持ったまま歩み続ける。……それでも、君は嫌がるだろうけど」
そんなの当たり前だ。
確かに、想いが残るのなら猫ちゃんの言った通り私はもう一度漫画家を目指すと思う。でも、だからと言って亮くんのことを忘れるなんて納得できない。
亮くんは私にもう一度夢をくれた大切な人。
大切なものをくれた人を忘れるなんて嫌に決まっている。
「猫ちゃん、どうにか――」
「できないよ。残念だけど」
私の言葉を遮り、猫ちゃんは断言する。
「こればっかりはボクにもどうにもできないことなんだ。ちょっと関わる程度、それこそ前にも言ったように幽霊のふりをして道端に現れるくらいなら記憶を消す必要はないんだけどね」
そういえば、最初私に説明したときにもそんな例え話をしていたっけ。
「でも、君たちは違う。君たちは深く関わりすぎてしまったんだ。互いに心の闇を全て打ち明けられるほどに」
「……それの何が悪いの?」
「何も悪くないよ。ボクだってできることなら君たちの記憶を消したくはないんだ。でもごめんね、これは決まりなんだ」
決まりだからって、そんなの受け入れられるわけがない。
信じあって、励まし合って、頑張った結果がそれなんてあまりにも理不尽だよ。
猫ちゃんだってたった今、仲良くなるのは悪くないと言ってくれた。なのに、どうしてダメなの? 私の心が読めるというのならすぐに答えて。
「……君たちは本来なら今頃出会っていない運命だった。それはわかるね?」
私は無言で頷く。
私は事故に遭って、猫ちゃんに頼まれてここに来た。それはとても特別なことで、普通に生きていれば出会うことはなかったはずだ。
「出会うはずのない二人が記憶を持ったまま再会するとね、その後の運命まで変わっちゃうんだよ。君が変えていいのはあくまで彼の不幸だけだからね」
そして、その不幸な運命は既に解決してしまった。
さっきから徐々に押し寄せてくる眠気は、そんな私をもとの体に引き戻すためのものらしい。
互いの記憶が消えて出会う前の状態に戻れば、必要以上に運命が変わることはない。猫ちゃんはきっとそう言いたいのだろう。
「じゃあ、記憶が消えた後は会ってもいいの?」
「うん。それは問題ないよ。といっても何の接点もない君たちがもう一度出会える確率なんてたかが知れてるけどね」
確かにそうだ……。
口ぶりからして、亮くんと一度話しているお母さんの中からも彼の記憶が消されてしまうだろうし。
もし私が眠ってしまったら、もう亮くんに会えなくなってしまうかもしれない。
そう思った途端、この眠気がたまらなく恐ろしくなる。
本当に何も手はないんだろうか。
「どうしてもダメなの?」
「んー……一応、記憶を残せないわけでもないんだけど、それをするともっと辛くなると思うよ?」
「……教えて」
懇願する私に、猫ちゃんはため息をついた。
そして、
「記憶を残すことはできる。でも、その代わり君たちは二度出会うことができない運命になってしまうんだ」
そう言って、憐れむような瞳でこちらを見つめてきた。
元々出会うはずのない運命だったから、記憶を残すのなら今後は一切接触することができなくなるということだろうか。
「そういうこと。記憶を消す理由はさっきも言った通り、記憶を持ったまま再会させないためだからね。逆に言えば再会さえさせなければ記憶を消す必要もないんだ」
「どうやっても絶対に会えないの?」
「うん無理だよ。もし記憶を残すと、君はどんなに頑張っても二度とこの家に辿りつけない運命になるし、手紙やメールなどの意思疎通すらできなくなっちゃうんだ。それでもいいの?」
「嫌に決まってるでしょ……」
「……だろうね。でもどちらかを選ばなきゃいけないよ」
記憶を消す道を選べば、亮くんと会うことはできる。でももう一度出会って仲良くなれる確率は無いに等しい。
記憶を残せば、もう二度と亮くんと出会うことはできない。どれだけ会いたくて、想い続けても道ですれ違うことさえできない。
そんなの、どちらも嫌だ。
亮くんを忘れるのも、会えなくなるのも嫌だ。
けれど、選ばなくてはいけない。私がこの眠気に負けてしまう前に。
「……すぐに選ばせるつもりはないよ。ボクだってできることなら君が納得できる形で終わらせてあげたいんだ」
納得できる形と言われても……。
どちらを選んでも報われないのだから納得も何もない気がする。
思い悩んでいると、猫ちゃんは机から飛び降りて私の膝に乗ってきた。
「どうしたの?」
「好きなところに連れて行ってあげる。ピラミッドでもマチュピチュでもどこでもいいよ。世界中の観光名所を案内してあげるよ。何なら月面でもいいくらい」
「……ありがと。でもごめんね、今はここから離れたくないの」
きっと気を遣ってくれているんだろう。
正直、ピラミッドもマチュピチュも凄く気になる。月面なんてもっと気になる。でも、今は残された時間を一秒でも多く亮くんの傍で過ごしたい。
「私が眠らなかったら、ずっとここに居られるの?」
「理屈ではそうなるね。でも、段々眠気が強くなってくるよ」
「あとどれくらい耐えられるかな」
「多分、明日の朝くらいが限界だと思う。六時か七時」
それを聞いて私は壁の時計に目をやる。
時刻は十九時手前。明日の朝までちょうど半日くらいだ。
それまでに、決めなくちゃいけない。
「ありがとね、猫ちゃん。ちょっと考えてみるよ」
「そっか。決断ができたら呼んでね。すぐに駆け付けるから」
「うん、ありがとう」
猫ちゃんは私の膝から降りると、段々と透けていき、いなくなった。
それを見届けてから、私は床に寝ころぶ。
頭の中はさっきの二択でいっぱいだった。
もう一度出会えるという僅かな望みをかけて記憶を失うか、二度と会えない代わりに亮くんとの思い出を守るか。
タイムリミットは明日の朝。とはいえその前に眠気に負けてしまう可能性もある。かろうじて意識を保ったとしても、正常な判断ができるとも限らない。
あまり時間は残されていないように思える。
やはり亮くんの意見も訊くべきだろうか。
これは私だけでなく亮くんの問題でもある。
しかし私は亮くんに猫ちゃんのことや、体に戻る条件があることを話してはいない。
ただ迷い込んだから居候しているだけ、そういう設定だ。
だから体に戻る際に記憶が消えるなんて言えば「何でそんなことがわかるのか」という違和感を与えてしまう。
でも、どちらを選ぶにせよもう最後なのだから、全て打ち明けてもいいかもしれない。いや、きっとその方がいい。
隠していたことをきちんと謝って、その上で記憶のことを話そう。
亮くんなら、どちらを選ぶだろうか。
もう会えなくても、私との思い出を優先するだろうか。それとも、もう一度私と会える可能性を信じて記憶を捨てるのだろうか。
……考えても、私にはわからない。
やっぱり全部話してしまおう。
明日は学校も休みだし、話し合う時間は十分にある。二時か三時か、それはわからないけれど深夜になれば目を覚ますはずだ。
何の憂いもなく安心しきった表情で眠る亮くんを見ると、胸が苦しくなる。
泣いても笑っても、この愛おしい寝顔を見るのは今日が最後になるのだから。
思わず聞き返した。
私には理解のできない言葉だったから。いや、私の心が理解するのを避けていたと言うべきか。
「うん。消えちゃうんだよ。君が体に戻った瞬間、君たちはお互いのことを全て忘れてしまう。更に言えば、君は彼の記憶どころか体から抜け出た間のことを全て忘れるんだ」
聞き返し、そして返ってきた言葉はやはり変わりないものだった。
私は深く息を吸う。静まり返った部屋には時計が秒を刻む音だけが響いていた。
蝉の声も夏の暑さもなく、不気味な静寂だけが今はこの空間を満たしている。
十秒か二十秒、あるいはもっとかかったのかもしれない。猫ちゃんの言葉から多くの時間が過ぎ去り、ようやく私は理解する。理解せざるを得なかった。
私が何分何時間と黙り込み、逃げたとしても、この現実は変わらない。何度聞き返しても答えは変わらないのだから。
「そっか……」
遅すぎる返事はすぐに空気に溶け込み、消滅する。
全部、消えちゃうんだ。
一緒に映画を観て、ああでもないこうでもないと言いながら漫画を描いて、励ましあった記憶が、全て。
……そんなの、絶対に嫌だ。
「記憶が消えると言っても、君が彼から貰った想いまで消えるわけじゃない。彼のことは思い出せなくても君はまた漫画家を目指すし、彼も君から与えられた勇気を持ったまま歩み続ける。……それでも、君は嫌がるだろうけど」
そんなの当たり前だ。
確かに、想いが残るのなら猫ちゃんの言った通り私はもう一度漫画家を目指すと思う。でも、だからと言って亮くんのことを忘れるなんて納得できない。
亮くんは私にもう一度夢をくれた大切な人。
大切なものをくれた人を忘れるなんて嫌に決まっている。
「猫ちゃん、どうにか――」
「できないよ。残念だけど」
私の言葉を遮り、猫ちゃんは断言する。
「こればっかりはボクにもどうにもできないことなんだ。ちょっと関わる程度、それこそ前にも言ったように幽霊のふりをして道端に現れるくらいなら記憶を消す必要はないんだけどね」
そういえば、最初私に説明したときにもそんな例え話をしていたっけ。
「でも、君たちは違う。君たちは深く関わりすぎてしまったんだ。互いに心の闇を全て打ち明けられるほどに」
「……それの何が悪いの?」
「何も悪くないよ。ボクだってできることなら君たちの記憶を消したくはないんだ。でもごめんね、これは決まりなんだ」
決まりだからって、そんなの受け入れられるわけがない。
信じあって、励まし合って、頑張った結果がそれなんてあまりにも理不尽だよ。
猫ちゃんだってたった今、仲良くなるのは悪くないと言ってくれた。なのに、どうしてダメなの? 私の心が読めるというのならすぐに答えて。
「……君たちは本来なら今頃出会っていない運命だった。それはわかるね?」
私は無言で頷く。
私は事故に遭って、猫ちゃんに頼まれてここに来た。それはとても特別なことで、普通に生きていれば出会うことはなかったはずだ。
「出会うはずのない二人が記憶を持ったまま再会するとね、その後の運命まで変わっちゃうんだよ。君が変えていいのはあくまで彼の不幸だけだからね」
そして、その不幸な運命は既に解決してしまった。
さっきから徐々に押し寄せてくる眠気は、そんな私をもとの体に引き戻すためのものらしい。
互いの記憶が消えて出会う前の状態に戻れば、必要以上に運命が変わることはない。猫ちゃんはきっとそう言いたいのだろう。
「じゃあ、記憶が消えた後は会ってもいいの?」
「うん。それは問題ないよ。といっても何の接点もない君たちがもう一度出会える確率なんてたかが知れてるけどね」
確かにそうだ……。
口ぶりからして、亮くんと一度話しているお母さんの中からも彼の記憶が消されてしまうだろうし。
もし私が眠ってしまったら、もう亮くんに会えなくなってしまうかもしれない。
そう思った途端、この眠気がたまらなく恐ろしくなる。
本当に何も手はないんだろうか。
「どうしてもダメなの?」
「んー……一応、記憶を残せないわけでもないんだけど、それをするともっと辛くなると思うよ?」
「……教えて」
懇願する私に、猫ちゃんはため息をついた。
そして、
「記憶を残すことはできる。でも、その代わり君たちは二度出会うことができない運命になってしまうんだ」
そう言って、憐れむような瞳でこちらを見つめてきた。
元々出会うはずのない運命だったから、記憶を残すのなら今後は一切接触することができなくなるということだろうか。
「そういうこと。記憶を消す理由はさっきも言った通り、記憶を持ったまま再会させないためだからね。逆に言えば再会さえさせなければ記憶を消す必要もないんだ」
「どうやっても絶対に会えないの?」
「うん無理だよ。もし記憶を残すと、君はどんなに頑張っても二度とこの家に辿りつけない運命になるし、手紙やメールなどの意思疎通すらできなくなっちゃうんだ。それでもいいの?」
「嫌に決まってるでしょ……」
「……だろうね。でもどちらかを選ばなきゃいけないよ」
記憶を消す道を選べば、亮くんと会うことはできる。でももう一度出会って仲良くなれる確率は無いに等しい。
記憶を残せば、もう二度と亮くんと出会うことはできない。どれだけ会いたくて、想い続けても道ですれ違うことさえできない。
そんなの、どちらも嫌だ。
亮くんを忘れるのも、会えなくなるのも嫌だ。
けれど、選ばなくてはいけない。私がこの眠気に負けてしまう前に。
「……すぐに選ばせるつもりはないよ。ボクだってできることなら君が納得できる形で終わらせてあげたいんだ」
納得できる形と言われても……。
どちらを選んでも報われないのだから納得も何もない気がする。
思い悩んでいると、猫ちゃんは机から飛び降りて私の膝に乗ってきた。
「どうしたの?」
「好きなところに連れて行ってあげる。ピラミッドでもマチュピチュでもどこでもいいよ。世界中の観光名所を案内してあげるよ。何なら月面でもいいくらい」
「……ありがと。でもごめんね、今はここから離れたくないの」
きっと気を遣ってくれているんだろう。
正直、ピラミッドもマチュピチュも凄く気になる。月面なんてもっと気になる。でも、今は残された時間を一秒でも多く亮くんの傍で過ごしたい。
「私が眠らなかったら、ずっとここに居られるの?」
「理屈ではそうなるね。でも、段々眠気が強くなってくるよ」
「あとどれくらい耐えられるかな」
「多分、明日の朝くらいが限界だと思う。六時か七時」
それを聞いて私は壁の時計に目をやる。
時刻は十九時手前。明日の朝までちょうど半日くらいだ。
それまでに、決めなくちゃいけない。
「ありがとね、猫ちゃん。ちょっと考えてみるよ」
「そっか。決断ができたら呼んでね。すぐに駆け付けるから」
「うん、ありがとう」
猫ちゃんは私の膝から降りると、段々と透けていき、いなくなった。
それを見届けてから、私は床に寝ころぶ。
頭の中はさっきの二択でいっぱいだった。
もう一度出会えるという僅かな望みをかけて記憶を失うか、二度と会えない代わりに亮くんとの思い出を守るか。
タイムリミットは明日の朝。とはいえその前に眠気に負けてしまう可能性もある。かろうじて意識を保ったとしても、正常な判断ができるとも限らない。
あまり時間は残されていないように思える。
やはり亮くんの意見も訊くべきだろうか。
これは私だけでなく亮くんの問題でもある。
しかし私は亮くんに猫ちゃんのことや、体に戻る条件があることを話してはいない。
ただ迷い込んだから居候しているだけ、そういう設定だ。
だから体に戻る際に記憶が消えるなんて言えば「何でそんなことがわかるのか」という違和感を与えてしまう。
でも、どちらを選ぶにせよもう最後なのだから、全て打ち明けてもいいかもしれない。いや、きっとその方がいい。
隠していたことをきちんと謝って、その上で記憶のことを話そう。
亮くんなら、どちらを選ぶだろうか。
もう会えなくても、私との思い出を優先するだろうか。それとも、もう一度私と会える可能性を信じて記憶を捨てるのだろうか。
……考えても、私にはわからない。
やっぱり全部話してしまおう。
明日は学校も休みだし、話し合う時間は十分にある。二時か三時か、それはわからないけれど深夜になれば目を覚ますはずだ。
何の憂いもなく安心しきった表情で眠る亮くんを見ると、胸が苦しくなる。
泣いても笑っても、この愛おしい寝顔を見るのは今日が最後になるのだから。