地平線の向こうから太陽が顔を出す早朝、まだ薄暗い室内に大きなベルの音が鳴り響いた。
何事かと思い音の出た方向へ首を向けると、音の出どころは亮くんの枕元に置かれた目覚まし時計だとわかった。
こんな時間に目覚ましをかけるなんて珍しい。
壁時計を見ると時刻はまだ朝の六時。亮くんが倒れるように眠りについてからたったの三時間しか経っていない。設定時刻を半日間違えてしまったのだろうか。
「ん……」
亮くんは眠そうに目を開け、静かに目覚まし時計の頭を叩く。
そのまま、今にも閉じてしまいそうなほど頼りなく開かれた瞳で目覚まし時計の針を見つめ、ゆっくりと起き上がる。
設定時刻を間違えたわけではないらしい。
「おはよ、早いね。どこか行くの?」
「ん、学校」
「あ、学校かぁ。……ん?」
学校? 今この子学校って言った?
「えっと、学校って、中学校のこと?」
「他に何があるの」
「ほぉー……」
どうやら私の聞き間違いや勘違いではないみたい。
漫画のことといい家族のことといい、物凄くやる気に満ち溢れているようだ。
「私も行っていい?」
「うん、ついてきて」
亮くんはクローゼットから制服を取り出し、手で埃を払う。
亮くんの制服姿を見るのは初めてだ。きっと凄く似合うのだろう。着る前からわかる。
「ねね、早く着て!」
「急かさないで。準備が先」
「はーい」
亮くんは日課表を見ながらスクールバッグに教科書を詰め込み、慌しく準備を始めた。
どうして急に登校する気になったのか訊きたい気持ちはあるけれど、やめておこう。きっと無駄な質問だから。
このままじゃいけないという焦り、それと同時に現状を打開してみせるという固い決意。亮くんの瞳からはそんな強い意志をひしひしと感じる。
「準備できた」
久しぶりの登校で緊張しているのか、支度を終えた亮くんの表情は若干強張っていた。
「大丈夫? ちゃんとハンカチ持った? 忘れ物はない? 教科書入れた? 車に気をつけるんだよ?」
「お母さんか」
「お姉ちゃんだよ」
「はいはい」
少しでも緊張をほぐしてあげたくて、笑いを誘いもしないようなくだらないやり取りを交わす。心なしか緊張がほぐれたような気がして、何故だか私の方が嬉しくなる。
それにしても、思った通りだ。亮くんの制服姿は目に多大な幸福感を与えてくれる。
「……じろじろ見ないで」
「いやーごめんね。あんまりにも制服が似合うから目に焼き付けておこうと思って」
「お世辞はいいから」
「むう、本心なのに」
お世辞でも冷やかしでもなく、本当にそう思う。
夏でも涼しそうな半袖の白シャツと黒いズボン。
完璧な配色と亮くん自身の完成された容姿が相まってまるで違う生物なのではと思えるほどの美しさに仕上がっている。ずっと眺めていたいくらい。
「いいから早く行こう。遅刻する」
「あいあいさー!」
部屋の扉を開け、階段を降りる。
きっとその音で目が覚めたのだろう、私たちが一階へ降りると、階段の下で亮くんのお母さんが立っていた。
たしか、涼子さんだったかな。
お父さんの名前が涼平で、どちらも「りょう」がつくから覚えやすい。
亮くんの名前もきっとそこからきているんだろう。
「亮、その恰好……」
かすれきった声の涼子さんは酷く驚いた表情をしている。
亮くんが学校に行くというのだから驚くのも無理はない。私だって今朝は凄く驚いたのだから。
「うん、学校だよ。お母さん」
亮くんはお母さんの目を見つめて、ハッキリと言った。
そして、強い口調で確認する。
「まだ離婚届は出してないよね」
「え、えぇ」
「……よし」
お母さんの返答を聞いて安堵したのか、亮くんは僅かに息を漏らす。
それから、
「僕が帰ってくるまで待っていてほしい。話したいことがあるから」
そう言って、返答も聞かずに家を出た。
日差しを遮る雲すらない空の下、亮くんは落ち着かない様子で足早に歩く。
温められたアスファルトと頭上から降り注ぐ日光に挟み撃ちにされ、みるみるうちに汗が噴き出てくる。
今年の暑さは尋常ではない。
よほどの物好きでもなければこの暑さの下で歩きたいとは思わないだろう。道行く人はみんな汗を垂らして歩いていた。
そんな猛暑とは反対に、私は涼やかで落ち着いた声で語りかける。
「亮くん」
「なに」
「久しぶりの登校で不安だろうけど、緊張しなくても大丈夫だよ。私が傍にいるから」
「うん、ありがとう」
亮くんもまた、落ち着いた声で返してくる。
内心、不安と緊張で穏やかとは言えない状態だろうに、それでも落ち着いた態度を見せてくるのは私に対する気遣いだろう。
そんな優しさを持った少年が頑張るというのだから、応援しないわけにはいかない。
学校に近づくに伴い、段々と道ゆく生徒の数が増えてくる。
なんだか緊張してきた。
本来なら全く関係ないはずの私でさえこうなのだから、亮くんの緊張は私の比ではないだろう。
「学校の中じゃ全然会話できないと思うけど、ちゃんと傍にいるからね」
「ん」
朝練で校外を回る野球部の行列を横切り、私たちは校門をくぐる。
「おぉ、石丸じゃないか!」
校門を抜けたと同時に、誰かが亮くんの名を呼んだ。
その人物は大急ぎでこちらへ駆け寄ってくる。その様子から、亮くんが登校するのを心待ちにしていたことが伺えた。
「よく来たな! ずっと待ってたぞ!」
「おはようございます先生」
紺色のジャージを着たいかにも体育会系といった雰囲気の先生はバシバシと力強く亮くんの背中を叩く。
対する亮くんはいつも通りの淡々とした対応だ。
少しだけ安堵した。
昨日、亮くんは学校にも家にも居場所が無いのだと嘆いていたけれど、こうして歓迎してくれる先生がいるのは亮くんにとって心強いことだと思う。
亮くんが孤独を感じていたのはきっと、こういった先生たちすら信用できないほど追い詰められていたからだ。
「久しぶりで不安だろうからな、何か困ったことがあったらすぐ言うんだぞ!」
「わかりました」
「つってもお前のことだからな~心配はないと思うけどな! 勉強は大丈夫か? ちゃんと家でやってるか? それから――」
「すいません、早めに教室に入ってみんなと顔を合わせたいので、お話は後でお願いします」
しつこく話を振ろうとしてくる先生が面倒なのか、亮くんは半ば強引に逃げだし、足早に下駄箱に向かう。
こういう時でも態度がブレないのは憧れてしまう。私なんて先生にぺこぺこしてばかりなのに。
「今の先生いい人そうだね」
「ん、一応担任だからね」
「亮くんって二年生だったよね」
「うん」
上靴に履き替え、階段を昇る。足を前に突き出すたびに、少しずつ教室との距離が縮まっていく。
「緊張してる?」
「……うん、かなり」
「上手く馴染めるといいね」
「うん」
亮くんが言うには、二階に上がって右折するとすぐに教室があるらしい。
私たちは階段の踊り場で立ち止まると、緊張をほぐそうと深く息を吸う。
あと十数段ほど階段をのぼるともう教室。ここが息を整えられる最後の場所だ。
「なんで君まで深呼吸してるのさ」
「私だって緊張してるもん」
不登校の生徒が学校に行くという行為が、ただごとではないとわかる。
何度か深く息を吸ったあと、私は確かめるように語りかける。
「……心の準備はできた?」
「……うん。多分」
「よし、なら行こう!」
いつまでも踊り場に立ち尽くすわけにはいかない。
私たちは意を決し、一段、また一段と階段を踏みしめる。
二階へ上がり少し歩くと、既に教室からの声が聞こえてくる。
男子も女子も入り混じった楽しそうな笑い声。
覚悟を決めたと思っていても、いざその声を聞くと怖気づいてしまいそうになる。部外者の私でさえそうなのだから、亮くんはもう気が気ではないだろう。
亮くんが不登校になったのは中学一年生の秋ごろ。
二年生になってクラスが替わったため、亮くんが知らない子も沢山いるだろう。だから余計に緊張すると思う。
ここを右に曲がれば、一組から六組までの教室が連なる廊下になっている。そして一番手前が亮くんの向かう一組の教室。
気温が高いせいか、それとも緊張しているせいか、段々と嫌な汗が滲んでくる。
幽霊みたいな体になっても汗をかくというのは凄く嫌だ。お風呂にも入れないし、べたべたして気持ち悪い。いつもは気が付いたら治ってるけど。
あまりの緊張に思わず立ち止まる。しかし、当の亮くんはとっくに覚悟決めていたらしく、臆することなく右へ進んだ。
「あ、待って」
置いていかれまいと私も後へ続く。
閉められたドアのすぐ向こうに、クラスメイトがいる。私の心臓はもはや限界を超えて全身に血液を送り込んでいた。
「……あけるよ」
「……うん」
短く呟く亮くんに対し、同じく短く返す。
私の声を聞き、亮くんは扉に手をかける。
――そして。
「おはよう」
そう言って、亮くんは勢いよくドアを横に引いた。
何事かと思い音の出た方向へ首を向けると、音の出どころは亮くんの枕元に置かれた目覚まし時計だとわかった。
こんな時間に目覚ましをかけるなんて珍しい。
壁時計を見ると時刻はまだ朝の六時。亮くんが倒れるように眠りについてからたったの三時間しか経っていない。設定時刻を半日間違えてしまったのだろうか。
「ん……」
亮くんは眠そうに目を開け、静かに目覚まし時計の頭を叩く。
そのまま、今にも閉じてしまいそうなほど頼りなく開かれた瞳で目覚まし時計の針を見つめ、ゆっくりと起き上がる。
設定時刻を間違えたわけではないらしい。
「おはよ、早いね。どこか行くの?」
「ん、学校」
「あ、学校かぁ。……ん?」
学校? 今この子学校って言った?
「えっと、学校って、中学校のこと?」
「他に何があるの」
「ほぉー……」
どうやら私の聞き間違いや勘違いではないみたい。
漫画のことといい家族のことといい、物凄くやる気に満ち溢れているようだ。
「私も行っていい?」
「うん、ついてきて」
亮くんはクローゼットから制服を取り出し、手で埃を払う。
亮くんの制服姿を見るのは初めてだ。きっと凄く似合うのだろう。着る前からわかる。
「ねね、早く着て!」
「急かさないで。準備が先」
「はーい」
亮くんは日課表を見ながらスクールバッグに教科書を詰め込み、慌しく準備を始めた。
どうして急に登校する気になったのか訊きたい気持ちはあるけれど、やめておこう。きっと無駄な質問だから。
このままじゃいけないという焦り、それと同時に現状を打開してみせるという固い決意。亮くんの瞳からはそんな強い意志をひしひしと感じる。
「準備できた」
久しぶりの登校で緊張しているのか、支度を終えた亮くんの表情は若干強張っていた。
「大丈夫? ちゃんとハンカチ持った? 忘れ物はない? 教科書入れた? 車に気をつけるんだよ?」
「お母さんか」
「お姉ちゃんだよ」
「はいはい」
少しでも緊張をほぐしてあげたくて、笑いを誘いもしないようなくだらないやり取りを交わす。心なしか緊張がほぐれたような気がして、何故だか私の方が嬉しくなる。
それにしても、思った通りだ。亮くんの制服姿は目に多大な幸福感を与えてくれる。
「……じろじろ見ないで」
「いやーごめんね。あんまりにも制服が似合うから目に焼き付けておこうと思って」
「お世辞はいいから」
「むう、本心なのに」
お世辞でも冷やかしでもなく、本当にそう思う。
夏でも涼しそうな半袖の白シャツと黒いズボン。
完璧な配色と亮くん自身の完成された容姿が相まってまるで違う生物なのではと思えるほどの美しさに仕上がっている。ずっと眺めていたいくらい。
「いいから早く行こう。遅刻する」
「あいあいさー!」
部屋の扉を開け、階段を降りる。
きっとその音で目が覚めたのだろう、私たちが一階へ降りると、階段の下で亮くんのお母さんが立っていた。
たしか、涼子さんだったかな。
お父さんの名前が涼平で、どちらも「りょう」がつくから覚えやすい。
亮くんの名前もきっとそこからきているんだろう。
「亮、その恰好……」
かすれきった声の涼子さんは酷く驚いた表情をしている。
亮くんが学校に行くというのだから驚くのも無理はない。私だって今朝は凄く驚いたのだから。
「うん、学校だよ。お母さん」
亮くんはお母さんの目を見つめて、ハッキリと言った。
そして、強い口調で確認する。
「まだ離婚届は出してないよね」
「え、えぇ」
「……よし」
お母さんの返答を聞いて安堵したのか、亮くんは僅かに息を漏らす。
それから、
「僕が帰ってくるまで待っていてほしい。話したいことがあるから」
そう言って、返答も聞かずに家を出た。
日差しを遮る雲すらない空の下、亮くんは落ち着かない様子で足早に歩く。
温められたアスファルトと頭上から降り注ぐ日光に挟み撃ちにされ、みるみるうちに汗が噴き出てくる。
今年の暑さは尋常ではない。
よほどの物好きでもなければこの暑さの下で歩きたいとは思わないだろう。道行く人はみんな汗を垂らして歩いていた。
そんな猛暑とは反対に、私は涼やかで落ち着いた声で語りかける。
「亮くん」
「なに」
「久しぶりの登校で不安だろうけど、緊張しなくても大丈夫だよ。私が傍にいるから」
「うん、ありがとう」
亮くんもまた、落ち着いた声で返してくる。
内心、不安と緊張で穏やかとは言えない状態だろうに、それでも落ち着いた態度を見せてくるのは私に対する気遣いだろう。
そんな優しさを持った少年が頑張るというのだから、応援しないわけにはいかない。
学校に近づくに伴い、段々と道ゆく生徒の数が増えてくる。
なんだか緊張してきた。
本来なら全く関係ないはずの私でさえこうなのだから、亮くんの緊張は私の比ではないだろう。
「学校の中じゃ全然会話できないと思うけど、ちゃんと傍にいるからね」
「ん」
朝練で校外を回る野球部の行列を横切り、私たちは校門をくぐる。
「おぉ、石丸じゃないか!」
校門を抜けたと同時に、誰かが亮くんの名を呼んだ。
その人物は大急ぎでこちらへ駆け寄ってくる。その様子から、亮くんが登校するのを心待ちにしていたことが伺えた。
「よく来たな! ずっと待ってたぞ!」
「おはようございます先生」
紺色のジャージを着たいかにも体育会系といった雰囲気の先生はバシバシと力強く亮くんの背中を叩く。
対する亮くんはいつも通りの淡々とした対応だ。
少しだけ安堵した。
昨日、亮くんは学校にも家にも居場所が無いのだと嘆いていたけれど、こうして歓迎してくれる先生がいるのは亮くんにとって心強いことだと思う。
亮くんが孤独を感じていたのはきっと、こういった先生たちすら信用できないほど追い詰められていたからだ。
「久しぶりで不安だろうからな、何か困ったことがあったらすぐ言うんだぞ!」
「わかりました」
「つってもお前のことだからな~心配はないと思うけどな! 勉強は大丈夫か? ちゃんと家でやってるか? それから――」
「すいません、早めに教室に入ってみんなと顔を合わせたいので、お話は後でお願いします」
しつこく話を振ろうとしてくる先生が面倒なのか、亮くんは半ば強引に逃げだし、足早に下駄箱に向かう。
こういう時でも態度がブレないのは憧れてしまう。私なんて先生にぺこぺこしてばかりなのに。
「今の先生いい人そうだね」
「ん、一応担任だからね」
「亮くんって二年生だったよね」
「うん」
上靴に履き替え、階段を昇る。足を前に突き出すたびに、少しずつ教室との距離が縮まっていく。
「緊張してる?」
「……うん、かなり」
「上手く馴染めるといいね」
「うん」
亮くんが言うには、二階に上がって右折するとすぐに教室があるらしい。
私たちは階段の踊り場で立ち止まると、緊張をほぐそうと深く息を吸う。
あと十数段ほど階段をのぼるともう教室。ここが息を整えられる最後の場所だ。
「なんで君まで深呼吸してるのさ」
「私だって緊張してるもん」
不登校の生徒が学校に行くという行為が、ただごとではないとわかる。
何度か深く息を吸ったあと、私は確かめるように語りかける。
「……心の準備はできた?」
「……うん。多分」
「よし、なら行こう!」
いつまでも踊り場に立ち尽くすわけにはいかない。
私たちは意を決し、一段、また一段と階段を踏みしめる。
二階へ上がり少し歩くと、既に教室からの声が聞こえてくる。
男子も女子も入り混じった楽しそうな笑い声。
覚悟を決めたと思っていても、いざその声を聞くと怖気づいてしまいそうになる。部外者の私でさえそうなのだから、亮くんはもう気が気ではないだろう。
亮くんが不登校になったのは中学一年生の秋ごろ。
二年生になってクラスが替わったため、亮くんが知らない子も沢山いるだろう。だから余計に緊張すると思う。
ここを右に曲がれば、一組から六組までの教室が連なる廊下になっている。そして一番手前が亮くんの向かう一組の教室。
気温が高いせいか、それとも緊張しているせいか、段々と嫌な汗が滲んでくる。
幽霊みたいな体になっても汗をかくというのは凄く嫌だ。お風呂にも入れないし、べたべたして気持ち悪い。いつもは気が付いたら治ってるけど。
あまりの緊張に思わず立ち止まる。しかし、当の亮くんはとっくに覚悟決めていたらしく、臆することなく右へ進んだ。
「あ、待って」
置いていかれまいと私も後へ続く。
閉められたドアのすぐ向こうに、クラスメイトがいる。私の心臓はもはや限界を超えて全身に血液を送り込んでいた。
「……あけるよ」
「……うん」
短く呟く亮くんに対し、同じく短く返す。
私の声を聞き、亮くんは扉に手をかける。
――そして。
「おはよう」
そう言って、亮くんは勢いよくドアを横に引いた。