「亮くんのお父さんってどんな仕事している人なの?」
炎天下の中、私は語りかける。
けれど亮くんから返ってきたのは言葉ではなく、視線。極めて迷惑そうな視線だった。外だから話しかけるなということらしい。
亮くんは一言も喋らないまま淡々と住宅街を歩いていく。
少しくらい喋ってくれてもいいのに。
私の姿が見えるのは亮くんだけ。だから外で話すと周囲の目には亮くんがひとりで喋っているようにしか見えない。それはわかっている。
でも、今は十時過ぎ。学生も社会人もみんな外にはいない時間帯だ。周囲に人の気配はないし、私を無視する必要はない気がする。
なので、ひたすら話しかける。
それでもやはり返事はしてくれなかった。それどころか、途中からは迷惑そうな視線すら向けてくれなくなった。
人の多い場所では無視されると予想はしていたものの、まさか人気のない道でさえ会話してもらえないとは……。
「ちょっとくらい話してくれないと寂しくて泣いちゃうよー」
なんてことを言っても無駄だろうなと思いながらも、言ってみた。
この子が無愛想だなんて承知の上だし、今更泣くようなことでもないんだけどね。
「……はぁ、面倒くさい人だなぁ」
「あ、お話してくれるの?」
亮くんは街中の酸素が全て吸われてしまうのではないかというほど深く息を吸って、そのまま深くため息をついた。
「いいけど、駅につくまでだから」
「やった!」
昨日といい今といい、どうやらこの子はしつこく言うと折れてくれるらしい。
何はともあれこれでお話ができる。といっても特に話したいことがあるわけではないのだけど。
しかしせっかくの機会を無駄にするわけにはいかないので、色々と訊いてみよう。
「亮くんは彼女いたこととかないの?」
「ない」
即答された。それも、恋愛には欠片も興味がありませんといったような、無関心な物言いだった。
「モテそうなのになぁ。告白されたことは?」
「あるけど、興味ないから振った」
「ドライだねぇ」
ちくしょう、なんて羨ましい子だ。興味がないから振るなんて恋人が欲しい人間からすれば贅沢すぎる選択だよ。
私なんて告白されたことはおろか、ろくに男友達すらいないというのに。
まあ、別に恋人とか男友達が欲しいってわけでもないんだけどね。
「そろそろ黙って」
亮くんは目線を前に向けながら言う。
釣られて見てみると、既に駅が見えていた。
平日の昼前ということもあって人の出入りは少ない。けれど全くいないわけでもない。
このまま話をすればすれ違う人たちから冷たい目線を送られることだろう、亮くんが。
それは可哀想なので言われた通り大人しくしておく。元から静かにするのを条件についてきたわけだし。
駅につき、券売機にお金を入れると亮くんは二人分の切符を購入した。
「二人分……?」
静かにしろと言われたものの、つい口に出してしまった。
確かに電車に乗るのは私と亮くんの二人。買った切符の枚数も二人分。計算としては合っているのだけど、今の私は幽霊のような状態だ。態々買う必要はない気がする。
亮くんは周囲に人がいないことを確認すると、小声でささやく。
「何かずるい気がするから、払う」
……感心した。というより、感動した。
なんていい子なんだろう。改札を素通りする気満々だった私とは大違い。
薄々思ってはいたけど、今確信を持てた。この子は真面目な性格だ。
口は悪いし態度は冷たい。でも、根底にあるのは優しさだ。
散々辛辣な態度を取られた割に平然としていられるのは、亮くんのそういった面を無意識に感じ取っていたからなのかもしれない。
「ごめんね、ありがとう。元の体に戻ったらちゃんと返すね」
「いいよこのくらい。電車来ちゃうから早く行こう」
「あ、うん」
若干急ぎ足で改札を抜ける亮くんの後を追い、私も改札を抜ける。
目的地はすぐ隣の駅。
時間にして五分か六分ほど揺られると、すぐに到着した。
亮くんが住んでいる地域は住宅地ということもあって、会社のビルや工場はほとんどない。
しかし一駅電車に揺られるだけでその景色は全くの別物になる。
私たちが今いるのは、高層ビルが立ち並ぶ都会の街。
巨大な建物を見上げる首が痛くなりそう。
「えっと、トーン買うんだっけ?」
「そう」
漫画を描く人間が言うトーンとは、大抵はスクリーントーンのことを指す。
絵の影になる部分や、髪の毛に貼ったりする網点状のシールのようなもの。
それを買うということは、行き先は文房具屋だろうか。
――数分後。
「こ、ここは……!」
私は、大量のアニメグッズが陳列する棚の前にいた。
文房具屋? なんのことやら。
ここはアニメ専門店「アニメイツ」。パッと見たところ、アニメの原作や同人誌など、アニメ関連のグッズが幅広く取り揃えられている。
果たしてこんなところにトーンが売っているのだろうか。
間違えてこのお店に来てしまったのかと亮くんを見やる。しかし、その足取りに迷いはなかった。
私も昔漫画家を目指そうとしただけあって、アニメや漫画は好きだ。でもこういったお店にくるのは初めてだったりする。
「トーン買うんじゃなかったの?」
「うん」
周りに人がいるせいか「うん」とか「そう」としか答えてくれない。
適当に相槌を打っているだけのようにも聞こえるから少し不安だ。
ふと亮くんが足を止めた。後ろをついていた私はぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。といっても、ぶつかることはないんだけど。
そんな私をよそに、亮くんは腰をかがめて棚を眺めていた。
見てみると、大量の文房具が商品棚に敷き詰められていた。
スケッチブックからコピック、果てはデッサン人形まで、絵にまつわるグッズがこれでもかと並べられている。
アニメや漫画のグッズが置いてある店としか思っていなかったから、少し驚いた。漫画グッズだけでなく、漫画を描くグッズまで取り揃えているとは恐れいった。
「あった?」
「あった」
半透明の黒い引き出しから何枚かトーンを取り出し、亮くんはレジへ向かった。選ぶ手つきに迷いがなかったあたり、何度もここで買い物をしていることがわかる。
せっかくだから亮くんがお会計を済ませるまでの間に店内を探検してこよう。
アニメ主題歌が収録されたCDやコスプレグッズ、果ては男の子同士が恋愛する漫画まで取り揃えられている。本当にアニメ関連のグッズなら何でも揃ってしまいそう。
ちょっと楽しいかもしれない。体に戻れたらお買い物をしに来てみよう。
でもこういうお店に一人で来るのは何だか気が引ける。
亮くんを誘っても絶対来てくれないだろうし、アニメに興味がある知り合いがいるわけでもない。
「買った」
そんなことを考えていると、突然背後から声をかけられた。
「うわ、びっくりした」
振り返ってみると、トーンの入った袋を持つ亮くんが立っていた。
気配もなく話しかけてくるのだから心臓に悪い。
「もういいの? 他に買うものとかないの?」
「ない」
きっぱりしてるなぁ。
そういえば、男の子は買うものを決めているからすぐにお買い物が終わるという話を聞いたことがある。私なんていつもふらふらと店内をさまようというのに。
お店から出ると、物凄い人混みにのまれる。
来るときもそうだったけれど、都会というのは本当に人が多い。密度が高すぎるせいで避けようとしても人をすり抜けてしまう。
例えすり抜けたとしても痛くも痒くもないのだけど、なんか嫌だ。
それに、こうも人が多いと亮くんが全く返事をしてくれなくなる。
会話はない。しかし足取りを見るに目的地は駅なのだと推測できた。もう帰るつもりらしい。
せっかく私の分まで余分にお金を払ってくれたというのに、一時間もしないうちに帰るなんてもったいない。
それに、私は亮くんともっと仲良くなりたい。
幸いこの街は色んなお店があるし、交流を深めるにはうってつけだ。
「ねぇ、亮くん。せっかくだから寄り道しない?」
……案の定、亮くんは無言だ。ひたすら人混みをかきわけ駅へと歩いていく。
このままでは帰る羽目になってしまう。それは何としても避けたい。
「お願い! どうしてもまだどこかで遊びたいの!」
「このまま帰るなんてもったいないよー!」
「遊ぼう! ねぇ! 遊ぼう!」
そんなことを何度も繰り返した。
すると、
「……はぁ」
軽いため息をひとつ。
それから亮くんはくるりと方向を変え、近くの大型ショッピングセンターに入っていった。やった、折れてくれた。
「ありがとう!」
ショッピングセンターの入口で、私は子供のように跳びはねた。
「それで、何するの」
ショッピングセンター内は外よりも比較的人が少なく、話してもいいと判断したのだろう、ようやく亮くんが口を開いてくれた。
「えっとね……」
私は深く考え込む。
しつこく誘ったのはいいものの、その実頭の中は空っぽだった。
私は自分で思っている以上に後先考えずに突っ走ってしまうタイプらしい。
こんな風に進路も決めちゃえればいいのに。それができないのだから人生は難しい。
それはそうと、本当に何をするんだろう。提案した張本人でさえ困ってしまう。
洋服屋さんを見てみたいけど、亮くんは興味ないだろうし、きっと退屈させてしまう。
そもそも今の私じゃ試着すらできない。
ゲームセンターや飲食店に行ったところで私は見るだけしかできないし。
というか今の私は何をやっても見るだけしか――――って、あれ?
そうか、見るだけだ! 閃いた!
「映画なんてどうかな!?」
我ながら名案だ。
これなら私も亮くんも問題なく楽しめる。
デートみたいで少し気恥ずかしいけれど、見終わった後に映画の感想を語り合うというのは少し憧れでもある。
話が弾めば仲良くなれるかもしれないし、まさに一石二鳥。
お金は元の体に戻ったら必ず返そう。
しかし、
「うん、却下」
私の名案はいとも簡単にはじき返された。
「なんで!?」
「めんどくさいし、興味ない」
……ああ、すっかり忘れていた。この子はこういう子なんだった。
そもそもショッピングセンターに来てくれたこと自体が私にとっては奇跡みたいなものだし、少し調子に乗りすぎていたのかもしれない。
でもそれとこれとは別だ。
面倒くさいからダメというのならどうしてここに来たの! 理不尽だ!
「じゃあ何ならいいの?」
「さぁ」
……このクソガキめ。
根は真面目でいい子だと思った私が間抜けじゃないか。断固抗議だ。
「亮くんはさ、漫画家さんになるんだよね?」
「うん」
「漫画家に必要なものって何かわかる?」
「絵の上手さと物語の構成力」
「そうだね。それもあるけど、私は好奇心が大事だと思うなぁ。どんなことでも興味を持って経験して、それを自分の作品に活かすの」
「……う、うん」
私の話を聞いているうちに、段々と亮くんの表情が真面目なものになってくる。
思った通り、漫画のことになるとこの子はどこまでも真面目で、どこまでもストイックだ。
これならいける。
「全然人生経験のない人が描いたお話と、経験豊富な人が描いたお話なら、どっちが面白いと思う?」
「……経験豊富な方」
「そうだね。だから好奇心は大事だよ。あれ? でも亮くんはどうなのかなぁ。面倒くさいからって映画を観たくないなんて言っているけど、それで漫画家になれるのかなぁ?」
わざとらしく煽るように言ってみせて、ちらっと亮くんの顔を見やる。
……どうやら私が思っていた以上に効果があったらしい。いつも無表情で淡々としている亮くんの顔に焦りが見える。
「わかったよ……。映画観に行こう」
「やった!」
この子の純粋さを利用するようで申し訳ない。でも私が言ったことも的外れではないと思うから許してほしい。
実際、私が漫画家を目指していたころは周囲の人からよくそんなことを言われたし、何事も経験というのは今でも何となく信じている。
「亮くんはどんな映画が観たい?」
「お任せする」
「そっかー、じゃあ恋愛ものとかどう? 亮くん普段そういうの観ないでしょ?」
「うん。じゃあそれで」
意外にも素直だ。よっぽど漫画家になりたいらしい。
賢いし、妙に大人びているけれど、時折見せる子供な一面は本当に可愛らしい。なんだかんだ子供なんだなと思うと悪態も許してしまえる。
でも、夢があるという点に関して言えば、私よりはるかに大人だとも思う。
進路さえ決められず、ずっと行き当たりばったりの生活を続けている私からしてみれば、夢に向かって一直線に進んでいく亮くんの姿はとても眩しい。
私も何かに夢中になれればいいのに。
そんなことをもう何年も考え続けた。
漫画家という夢を捨てずに今でも絵を描き続けていれば、そんなことも考えた。
そしてそのたびに、現実の自分が惨めに思えてくる。
だから、まっすぐ進む亮くんを見ると少しばかり胸が痛む。
私もこんな風になれたらいいのに。
「ほら、早く」
「あ、うん! ごめんね。やっぱり映画も二人分買うの?」
「うん」
「ありがとう、ごめんね。体に戻ったら絶対返すから」
「だからお金のことはいいって。気にしないで」
やっぱり、この子は優しい。
クソガキかと思えば優しくて、大人かと思えば子供っぽい一面もあって、亮くんと話すのは新鮮なことだらけで飽きることがない。
それはそれとして、お金は必ず返すけどね。嫌がっても絶対押し付ける。
そんなことを考えながら、私は先導する亮くんの後を追う。
さすがは都会のショッピングセンターというべきか、一階には大きな映画館があった。私の近所のショッピングセンターにはそんなものないというのに。
都会は便利だ。人混みで疲れてしまうのが唯一の難点だけれど。
しかし、いくら都会とはいえ今は平日の昼間、さすがに映画を観に来るお客さんは少なかった。
タッチパネルでチケットを購入する際、空いている座席を確認する。
やはりというか、予想通りというか、私たち以外のお客さんはいなかった。
上映時間まであと十五分もない。
周りを見てもお客さんらしき人は見当たらないから、貸し切り状態だ。
チケットを購入し、係員さんに一番シアターへ案内される。
私たちが買った座席は前から三列目のど真ん中。
最前列だと必然的に画面を見上げることになり、首が痛くなる。だからといって最後列にしてしまえばせっかくの大画面が小さく感じてしまう。
だから前列から三番目という位置取りが私の中では最高の位置だ。
そんな席を取れた上、貸し切り状態。更に言えば亮くんと観る映画。
必然的に私のテンションは最高潮に達する。
しかしシアタールームに入って、私はすぐに困惑した。
映画館の椅子は座の部分が背もたれの部分に密着していて、座るためには一度手で引き下げなければいけない。
そのことをすっかり忘れていた。
今の私は椅子どころか紙きれ一枚すら動かせない状態。これでは座ろうにも座れない。
亮くんに一度下げてもらったとしても、亮くんが手を離した途端にすり抜けてしまう。
制止している物体に触れることはできても、その物体が動いてしまえば強制的にすり抜けてしまうのだ。
座が背もたれにくっついた状態で無理矢理座るのも手だけど、亮くんの前でそんな恥ずかしいことはしたくない。
「どうしよう……私座れない」
「本当に面倒な人だなぁ」
席に座ってメロンソーダを飲みながら、亮くんは呆れたように言う。
それから、私が座れるように座を引き下ろしてくれた。
「映画終わるまで抑えとくから、早く座って」
「でも……腕疲れない?」
「漫画家はずっと腕を使って描くから、持久力はある……と思う」
「……ありがと」
本当になんなのこの子……優しすぎる。
突然こんなことをされたのだから思わずどきっとしてしまった。
普段冷たいくせにこういう時は優しいって、狙ってやっているんじゃないかと勘繰りたくなる。
私は速まる鼓動を悟られないように、ゆっくり腰を降ろした。
それを確認すると、珍しく亮くんの方から口を開く。
「恋愛映画かぁ、楽しめる気がしない……」
「あはは、亮くん少年漫画の方が好きそうだもんね。バトル系の方がよかった?」
「いや、こっちでいいよ。少年漫画にも恋愛要素はあるし」
上映前の長いコマーシャルをぼんやりと眺めながら、雑談を交わす。
昨日と今日で、とりあえずわかったことは一つ。
漫画やアニメの話になると、亮くんは沢山話してくれるということ。
それも凄く楽しそうに、活き活きとして話すものだから、何だかこっちまで愉快な気分になってくる。
周りに人がいなくてよかった。
もし人がいたら、きっと亮くんは周囲の目を気にして椅子を下げることも、こうして話をしてくれることもなかっただろうから。
とはいえ、さすがに私も上映中に話をする気はない。映画館で映画を観る時は静かに没頭するのがマナーであり、私のモットーでもある。
長いコマーシャルが終わると今度は上映前の注意事項が流れる。
頭がカメラになっているスーツ姿の男と、同じく頭がパトライトになっている男が独特な動きで映画の盗撮・盗聴を警告する。映画館ではお馴染みの映像だ。
それが終わるといよいよ本編が開始する。
結論から言うと、映画の出来は素晴らしかった。
絶対に結ばれないはずの二人が様々な困難を乗り越え、ついに結ばれるという結末には思わず涙してしまった。
「面白かったね」
「うん、面白かった」
あまりのクオリティに、楽しめる気がしないと言っていた亮くんも圧倒されたらしく、素直に映画の出来を褒めている。
てっきり意地を張って「普通だった」と言うと思っていたから、こんなに素直な反応をされると私が作者というわけでもないのに嬉しくなってくる。
この二日でわかったことがもう一つある。
この子は嘘をつかない。
面倒なら面倒だと言うし、面白いなら面白いと言う。
良くも悪くも素直なのだ。
裏を返せば私のことは本気で面倒くさがっていることになるから、そこは悲しいけれど。
それでも今は、よく喋ってくれる。
どのシーンがよかったとか、役者さんの演技力が凄いとか、そんな話を自分から進んでしてくれている。
普段は無口なだけに、それがとても特別なことのように感じられて、胸が温かくなる。
ショッピングセンターを出て、電車を降りるまでの間は話をしてくれなくなったけれど、それでも私は満ち足りていた。
亮くんと仲良くなりたいという想い。それが少しだけ叶えられたような気がした。
些細なことではある。でも、私にとっては大きな進歩だった。
「今度お出かけする時、また連れて行ってね」
改札を抜けた後、周りに人がいないのを確認してから私はそう言った。
「うん」
相変わらず短い返答。
けれど悪い気はしなかった。
小さく頷く亮くんはどことなく嬉しそうで、私のことを認めてくれているような気がしたから。
家に戻ると亮くんは着替えもせず、すぐに机についた。
買ってきたトーンを袋から取り出し、慣れた手つきで原稿用紙に貼っていく。
「凄い気合い入ってるね。どこかの賞に応募するの?」
「うん。初めて応募するからちょっと緊張してる」
「受賞するといいね!」
「うん。頑張る」
そう言って亮くんは淡々と作業を続ける。
もう、邪魔しないでと言われることはなかった。
後ろから覗きこんでも、話しかけても、きちんと応えてくれる。
昨日とはえらい違いだ。
私は嬉しさのあまり、亮くんに気付かれないよう小さくガッツポーズをきめる。
――その時だった。
大きな家具が倒れるような、物凄い音が一階から響いてきた。床が振動するほどの轟音だ。
それから程なくして、女性が怒鳴る声が聞こえてくる。
一階から二階に響くほどの怒号。何を言っているのかまではわからなかったけれど、ただ事ではないことは伺える。
「……気にしないでいいから」
訝しく思う私に気付いたのか、亮くんはそう言ってヘッドホンをつけた。
まるで、何も聞きたくないと言わんばかりに。
こういう時、なんと声をかけたらいいのだろう。
あるいは声をかけるべきではないのかもしれない。
ひたすら作業を続ける亮くんの背中を、私はただ眺めることしかできなかった。
――心なしか、その背中が少しだけ、震えているような気がした。
草木も眠る丑三つ時。
隙間なく閉められたカーテンは月明かりさえ通さず、部屋は暗闇に包まれていた。
私は床に寝転がり、ぼうっと天井を見つめていた。
既に眠りについた亮くんを起こさないよう、朝まで大人しくしているつもりだ。
動かず、言葉も発さず、暇を持て余した私は必然的に思考を働かせる。
これからのこと、これまでのこと、様々な思考が頭に浮かぶ。
その中でも、特に鮮明に湧き上がる記憶について私は思考を割いていた。
そうだ、あの時、亮くんは確かに震えていた。
もしかしたら、私の見間違いかもしれない。けれど、もしそうでなかったとしたら?
亮くんは不登校だ。
表に出さないだけで、彼はずっと苦しんでいる。
そして、私の役目はそんな亮くんを救うこと。
あの時聞こえてきた怒鳴り声、そして震える背中。
これは私の直感でしかないけれど、亮くんを苦しめているのは恐らくあの怒鳴り声だ。少なくとも無関係ではないはず。
声の主は亮くんのお母さんだろう。
……私に、救えるだろうか。
そんな不安が頭をよぎる。
今の私がしていることと言えば、せいぜい亮くんと雑談をするくらい。
家庭の問題に口出しなんてとてもできない。もっとも、まだそれが原因だという確証は微塵もないのだけど。
それをハッキリさせるためにも私はもっと亮くんと仲を深めなくては。
でも、仲を深めたとしてどうやって話を切り出せばいいのだろう。
下手に踏み込んで反感を買うのは絶対に避けなければならない。
これは非常に難しい問題だ。
……こんな時、相談に乗ってくれる人がいればいいのに。
無理だとわかっていても、そんなことを考えてしまう。
と、その時だった。
「呼んだ?」
ふいに、そんな声が聞こえた。
聞き慣れてこそいないものの、聞き覚えのある声。
少年とも少女ともとれる涼やかな声、間違いない。猫ちゃんだ。
びっくりして起き上がると、猫ちゃんは机の上にちょこんと座っていた。
そうだ、私には猫ちゃんがいた!
「こんばんは、こころちゃん。暇だから会いにきちゃった。あ、今は彼にも君の声は聞こえないようにしてあるから普通に喋っていいよ」
「猫ちゃん……! 会いたかったよ!」
「だから猫じゃないってば~。まぁそれはいいとして、どう?」
「どうって?」
「上手くやれてる?」
「うーん……」
私は言葉を詰まらせた。
仲良くなる、という意味ではそれなりに上手くやれていると思う。
亮くんを救うという意味なら、まるで進展はないと答えるしかない。
そこから導き出される返答はひとつ。
「微妙……かな」
そう、微妙だった。
「ぱっとしないねぇ。まぁデリケートな問題だからね、ゆっくり時間をかけるといいよ。でもゆっくりしすぎると今度は君の進路がまずくなっちゃうから急いでね」
ゆっくり時間をかけろって言ったくせに急かすようなことを言わないでほしい。
でも正論だ。
すっかり忘れていた。亮くんを救うとか、仲良くなるとか、それ以前の問題を。
私、受験生なんだった。
「どうしよう! 忘れてた!」
「君はおっちょこちょいだなぁ。仕方ないからヒントをあげよう。そうだなぁ、君が今一番疑問に思っていることをイエスかノーで答えてあげるよ」
「一番疑問に思ってること……」
なんだろう、客観的に見て私の容姿は可愛いか否か……とか?
……って、そんな疑問なわけがない。
今、私が一番疑問に思っていることと言えばひとつしかない。
あの時聞こえた轟音、そして怒鳴り声。それらが亮くんを苦しめている原因かどうか、だ。
「うん、イエスだね。関係大ありだよ。ちなみに、客観的に見ても君は可愛いと思うよ」
「猫ちゃん大好き」
「えへへ、ありがと。ボクも好きだよ」
嬉しかったからさりげなく私のくだらない心を読んだことについては許してあげよう。
それよりも、今は亮くんの事の方が大事だ。
「怒鳴り声が聞こえたけど、亮くんの両親は仲が悪いのかな?」
「さぁ? 本人に直接訊きなよ」
「けち! ばか!」
「けちじゃない! ヒントをあげただけ感謝してよ! 普通はヒントなんて与えずに放置するんだよ!」
うぐ、それを言われると言い返せない……。
ヒントを貰っていなかったらいまだに悩んでいただろうし、ありがたいのは事実だもの。
「そうだね……ありがとう」
「ん、素直な子は好きだよ。まぁとりあえず上手くいっているみたいでよかったよ。また様子を見に来るから頑張ってね」
上手く……いっているのかな。正直あまり自信はない。
猫ちゃんは安心したように鼻を鳴らすと、すっと立ち上がった。
「もう行くの?」
「うん。神様の使いは忙しいからね」
「さっき暇って言ってたよね」
「うるさい」
「えぇ……」
いくらなんでもそれは理不尽だよ……。
でも、ありがとう。
猫ちゃんのおかげで、少し前に進んだような気がする。
「どういたしまして。また困ったことがあったら呼んでね。といっても、あんまり手助けしちゃうとボクが神様から怒られちゃうからあてにはしないでね」
「わかった、ありがと!」
壁をすり抜けて去っていく猫ちゃんの姿を見届けてから、私は寝転がった。
そしてもう一度、今日の出来事を思い出す。
椅子の件といい、映画の感想を語り合ったことといい、今日はいい日かもしれない。思い返すだけで嬉しくなる。
けれど、ヘッドホンをつけ、震える彼の姿を思い出すと途端に悲しくなる。
……どうにかして彼を救いたい。
ほんの少しだけど、仲良くなれた。
猫ちゃんからはヒントも貰った。
後は、私次第だ。
私は、寝息をたてる亮くんの頬にそっと手を伸ばす。触れることはできないけれど、亮くんが放つ温もりは感じられる。
普段は生意気でも寝ている顔は可愛らしい中学生そのものだ。
そんな子が苦しんでいるのなら、私は手を差し伸べたい。
「絶対、私が何とかしてみせるからね」
小さく囁いて、そう決意した。
亮くんの部屋に住み始めてから、もう一週間が経った。
猫ちゃんにヒントを貰い、改めて亮くんを救うことを決意したのはいいものの、あれから特に進展はない。
女性の怒鳴り声が聞こえてくることもなければ、大きな物音がすることもない。至って普通の毎日だった。
亮くんは暇さえあれば漫画を描き、その光景を私が後ろから眺めるのがお決まりのパターンになりつつある。
この一週間で打ち解けたのか、亮くんは以前よりもずっと多くのことを語ってくれるようになった。
最初は漫画の原稿を見せるのさえ嫌がっていたのに、今では自分から絵を見せるようにすらなった。それどころか、キャラクターの構図や台詞についての意見を私に求めてくることさえある。
こういうとき、漫画を描いた経験があってよかったと思う。
それに、なんだろう。一生懸命に絵を描いている亮くんの姿を見ると、自分でもわからない感覚に陥ってくる。嫉妬でも羨望でもない、けれど憧れにも近いような、何とも言えない感覚。
自分ですら理解できない感情に戸惑いはある。それでも、決して悪い感情ではないことだけは断言できる。
だから私は今日も、彼の背中を見守るつもりだ。
まだ寝ている亮くんの顔を見つめながら、そんなことばかりを考える。
亮くんの朝はとても遅い。彼にとっての朝は普通の人にとっての昼なのだ。
夜更かしして睡眠時間がずれているわけではなく、単純に睡眠時間が長い。
もうすぐお昼だというのに、安らかな寝息をたてている。
亮くん以外に話し相手がいない私としては退屈ではあるけれど、こんなにも可愛い寝顔を見せられてしまえば文句を言う気も失せるというもの。
最近ではこの可愛い顔から吐かれる毒にも随分と慣れてきた。おかげで私も物怖じせず思ったことは堂々と口にできる。
ひとしきり寝顔を楽しんだ後、私は静かにベッドを離れる。
もうすぐ起きてくる頃合いだ。
まだ寝顔を見ていたい気もするけれど、起きた時に目が合うのが気まずい。
実際、この一週間の間にそうなってしまったことがある。
もちろん怒られたし、夕方まで口を効いてくれなくなった。だから起きる前に退散する必要がある。
そういった理由もあって、私が彼の顔を眺められるのは昼前まで。
寝ている男子中学生の寝顔を眺め続けるなんて我ながら変態だと思う。
でも、まつ毛が長くて肌も白くてすべすべ、髪の毛だってさらさらな男の子が寝ていたら誰だって直視すると思う。少なくとも私はやる。
……というのは半分冗談で、本当は単に退屈だから眺めているだけだ。
なので、亮くんが目覚めると寝顔を見れない名残惜しさよりも、話ができるという喜びが勝る。必然的にテンションも上がる。
ベッドから離れ、部屋の中央で体育座りをすると、タイミングよく亮くんが目を覚ました。早めに離れて正解だったかもしれない。
「ん……」
「あ、おはよう!」
「ん」
亮くんの朝は「ん」から始まる。
寝起きが悪いみたいで、起きた直後はいつもぼうっとしている。
普段の凛々しい状態とのギャップが激しくて、男の子相手なのに思わず可愛いと思ってしまう。
「朝ごはん食べてくる」
「いってらっしゃい」
眠たい目を擦りながら部屋を出ていく亮くんを私は笑顔で見送る。
随分と打ち解けたものの相変わらず私を部屋から出すつもりはないらしく、ご飯を食べる時はいつも一人で行ってしまう。
猫ちゃんから貰ったヒントを考えると、私を部屋から出したがらないのはきっと自分の家族を見られたくないからだろう。
それはそうと、今はもう朝ごはんの時間じゃないよ。言わないけど。
亮くんが階段を降りる音をしっかりと聞き届けた後、私は机に近寄る。
机の上には二十枚ほどの漫画原稿用紙が重ねられている。新人賞に向けて製作中の漫画だ。
完成度は既に七割を超えている。あとはスクリーントーンを貼りつけたり、影の部分や黒髪のキャラクターの頭髪部を墨ベタで塗りつぶすだけ。
とはいえ、その作業も決して楽ではない。応募締め切りは既に明後日にまで迫っている、あまり余裕があるとは言えない。
今日も朝ごはんを食べ終えたらすぐに作業に取り掛かるんだろう。
この一週間ずっとその調子だから容易に想像できる。
原稿を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考える。
私の予想とは裏腹に、その日はいつもとは違っていた。
朝ごはんを食べ終えた亮くんは、すぐに作業に取り掛かると思いきや、そのままベッドに寝ころんでしまった。
不思議に思い、顔を覗き込む。
「漫画、描かないの?」
「……今日はいい」
「でももうすぐ締め切りでしょ?」
「……わかってる。でも今日はいい」
……明らかに、様子がおかしかった。
口調はいつもと同じ抑揚のない淡々としたものだったけど、どうも何かが違う。
朝食を食べている間に何かがあったのかもしれない。
「何かあった?」
「何にもない。ただ今日は面倒なだけ」
嘘だ。
女の勘だとか、そんな曖昧なものではなく、はっきりと嘘だとわかる。
確かに亮くんは面倒くさがりだ。でも、漫画だけは絶対に疎かにしない。
毎日コツコツと描き続け、将来は絶対に漫画家になるのだと胸を張って言っていた亮くんが、締め切り間際のこの状況でそんなことを言うわけがない。
必ず、何か理由がある。
そうだ、亮くんが抱えている悩みは家族に関すること。本人から直接聞いたわけではないけれど、猫ちゃんがそう言っていたのだから間違いない。
私は亮くんを救いたいし、できることならこの子の夢を叶えてあげたい。
きっと今日作業を放り出せば、もう間に合わない。
だから私は、慎重になってずっと胸の奥にしまいこんでいた言葉を取り出すことにした。
それは私にとって嫌な思い出のある言葉でもあり、同時に今の私の気持ちをそのまま表したものでもある。
恐る恐る、私は口にする。
「悩みがあるのなら、つらいのなら話だけでも聞くよ」
はたから見れば何てことはない普通の言葉。けれど私の心臓ははちきれんばかりに昂っていた。
「だから何でもないってば。寝るから放っておいて」
亮くんの返答には、はっきりと拒絶の色が含まれていた。
嫌われてこそいないだろう。しかし、私の心は穏やかではなかった。
彩月も亮くんも、やはり簡単には差し伸べた手を握ってはくれない。
途端に恐ろしくなる。
このまま踏み込み続ければ、またあの時と同じことを繰り返すのではないかと。そう思えば思うほど、開いた口が重く閉じようとする。
でも、それじゃあダメだ。
「あんなに漫画家になりたいって言っていたのに、面倒だから寝るなんて亮くんらしくないよ。無理に聞くつもりはないけど、それでも、悩んでることとか悲しいことがあるのなら私は役に立ちたいの」
今まで私に話してくれなかったということは、やはり踏み込んでほしくない問題なのかもしれない。しつこく訊けば嫌われるかもしれない。
やっと仲良くなれたのだから、この関係を壊したくはない。けれど、保身のためにこのまま放っておくのも嫌だ。
「心配してくれるのは嬉しい。でも、話したくない。迷惑をかけたくもないし、誰かに話したところで解決する問題でもないから」
……迷惑。それを聞くとただでさえ痛んでいる胸が更に締め付けられる。
どうして彩月も亮くんも、人を頼ろうとしないのだろう。
私はそんなに信用できない相手なのだろうか。
「迷惑なんかじゃないよ。それに、ずっと自分一人で抱え込んでたらいつか壊れちゃうよ」
「……わかってる。でも、話すつもりはないから」
食い下がってはみるものの、変化はなかった。
「……私も無理に聞くつもりはないよ」
結局私は、怖くなってそれ以上聞くことができなかった。
彼の心に踏み込もうとすればするほど、過去の過ちが脳裏をよぎって足が震えてしまう。
度胸のない自分が憎い。けれど、このまま終わるつもりもなかった。
「ねぇ」
「なに」
「気分転換にお出かけしようよ!」
話してくれないのなら、せめて外の空気を吸ってもらおう。
ここに閉じこもっているより、その方がずっといい。
それに、私も行きたいところがある。
「面倒だから嫌だよ。そもそもどこに行くつもりなの」
「ん、私の病室。お見舞いに来てよ」
「はぁ……。事故で寝たきりの人がいる病院なんて気分転換にならないでしょ」
確かにそうだ。
私の本体は今も寝たきりで、大きな傷はないにせよ立派な患者さんだ。
そんなところに悩める少年を連れて行くのはとても気分転換とは言えない。
でも気分転換なんてただの口実だ。亮くんを外に連れ出せるなら何でもよかった。
私は亮くんに見せたいものがある。いや、見せなければいけないものがある。
夢を諦めて放りだし、適当に生きたらどうなるか。それを物語るしわだらけの紙切れを、彼に見せなければならない。
「確かにあんまり気分転換にはならないかもしれないけど、ここで寝ているよりかはずっといいよ! それに、どうしても元の体がどうなっているか気になっちゃうしさ……」
「虫歯とかできてるかもね」
「うげ……そういうこと言うのやめて! 不安になっちゃう!」
どうしよう、全然そんなこと考えてなかった。
そういえば寝ている間は口内の雑菌が一番増えるって聞いたことがあるような……。一週間以上寝たきりってことは相当やばいのでは?
「冗談。いいよ、行こう」
「あれ、意外とあっさりオーケーしてくれるんだ」
「僕を何だと思ってるの」
「面倒くさがり屋さん」
私がそう言うと、亮くんは一瞬だけむっとした。否定しないあたり、一応自覚はしているみたい。
「はぁ。僕だってこのままじゃダメだってことくらいわかってるよ。だから行く。それに……」
「それに?」
「もう知らない仲じゃないんだから、お見舞いくらい行くよ」
……また不意打ちをくらってしまった。
突然真顔でそんなことを言い出すのだから恐ろしい。
思わずどきっとしてしまう。
「あ、でも匂いとか嗅がないでね……。一週間寝たきりだから多分臭い……」
「はいはい。それで、どこの病院?」
「あ、えっとね」
病院の場所を話すと、亮くんはすぐに準備を始めた。
また電車代を払わせてしまうことになるのは申し訳なく思う。
準備が終わると、私と亮くんはすぐに出発した。時刻は正午、太陽がアスファルトを焦がし、外にいるだけで汗が流れそうになる。
蝉の声を聴きながら駅へ向かう。その間、他愛もない話を沢山した。
この前とは大違いだった。
あの時は周りに一人でも人がいれば話してくれなかったけれど、今は周りに一人か二人歩いているくらいなら話してくれる。
やっぱり段々と心を開いてくれているんだ。
実感が湧くと、ものすごく嬉しくなる。
「車には気をつけて歩いてね」
「轢かれた人に言われたくないんだけど」
「だから言ってるんだよ。戒めだよ」
「凄い説得力」
そんなくだらない会話をしながら切符を買い、電車を待つ。この前とは反対方面の列車だ。ここからなら二駅くらいで着くと思う。
電車に揺られ、病院の最寄り駅に到着すると、見覚えのある景色ばかりで何だか懐かしくなった。まだ地元を離れて一週間だというのに。
「ここからなら私が案内できるよ」
「ん、よろしく」
亮くんの住んでいる地域と同じように、この地区も昼間は人通りが少ない。
一軒家やアパートだらけで、商業施設と言えばコンビニかスーパーくらいのものだ。だから退屈することなく雑談を交わしながら歩くことができた。
病院に着き、私のいる病室へ足を運ぶ。
一人用の小さな個室。その目の前に来ると、私は大きく息を吸った。
寝たきりの自分の顔を見るという普通ならありえない経験をするのだから緊張するのは当然だ。死んでいたらどうしようとか、色々不安になってくる。
「失礼します」
亮くんは病室のドアを軽くノックし、静かに戸を引く。
病室に入って最初に感じたのは、安堵だった。
眠っている私はしっかりと呼吸をしているようで、こまめに胸が上下していた。
顔や腕の傷もこの一週間でほとんど消えていた。
ぱっと見ではもはや女の子が昼寝をしているだけにしか見えない。
「本当に魂だけになってるんだ」
眠っている私と、今こうして立っている私を交互に見て、亮くんはそんなことを言った。確かにそう言いたくなる気持ちはわかる。
「漫画みたいだよね。あ、いくら寝てるからって胸とか触っちゃだめだよ」
「触らないよ、臭そうだから」
「泣きそう」
こんな時でも容赦ないね。もう慣れたからいいけど。
それよりも、今は亮くんに見せなきゃいけないものがある。
「亮くん、ちょっと私の鞄あけて」
「え、何で。泥棒みたいだから嫌だよ」
「いいから」
私が少しだけ強めに言うと、亮くんは渋々床に置かれた鞄を開いた。そして、私はある物を取り出すように促した。
「進路希望調査書……?」
すっかりしわだらけになったその紙を一瞥し、亮くんはこちらを見つめてきた。これがどうしたと問いたげな表情だ。
「実はこれを見せたかったの」
「ほとんど空白なのに?」
「空白だから、だよ」
それを聞いて亮くんは首をかしげた。
少しだけ、自分語りをしようと思う。
「私さ、今高校三年生なの。本当ならとっくに進路が決まっている時期なのに、今でもずっと迷ってる」
「夢とか、将来就きたい仕事は?」
亮くんの問いかけに対し、私は大きく息を吸って、強く断言する。
「ないよ。夢も目標も、学びたいこともなりたい職業も、何もない」
それから、
「私も昔は漫画家を目指していたって言ったよね。でも、今の私はこんな状態なの。何一つ目標もなくて、ただ毎日逃げるように遊ぶだけ」
いつもヘラヘラしている私がこんなことを言うのだから、ただ事ではないと思ったのだろう。亮くんは何も言わず、真面目な顔つきでじっと私の話を聞いている。
「私は亮くんに私みたいになってほしくないの。諦めずに頑張って、ちゃんと最後までやり遂げてほしい」
いわゆる、反面教師というやつだ。
夢を諦めて、無気力に生きる人間がどうなるかは私が一番わかるから。
「それを言うためにここに連れてきたの?」
「あはは、ばれちゃった」
この子は賢いから、きっと私の言いたいことを全部わかってくれるはず。
こんな自分語りじゃ救いにも何もならないかもしれない。
でもどうか、夢を途中で放り出すことだけはしないでほしい。
亮くんは俯き、じっと何かを考えている。
そして、ようやく口を開くと、
「……帰る」
とだけ言って踵を返した。
私の想いは、通じなかったのだろうか。
そう思って落ち込んでいると、亮くんは静かに言葉を続ける。
「いい気分転換になったから、また描く」
「……うんっ!」
思わず口元が緩んでしまう。
でも今はそれを抑える気もしない。嬉しいのだから喜ぶのは当然の反応だ。
私は跳びはねるような気持ちで亮くんの後に続く。
亮くんが病室の扉に手をかけようとした瞬間、扉がひとりでに開いた。正確には、扉の向こう側にいた女性が、戸を引いた。
「あ、お母さん……」
戸を引いた女性――お母さんの顔を見て、私は目を丸めた。
同時に、嫌な記憶が蘇る。
どれだけ声を発しても気付いてもらえない寂しさ。あの時の恐怖と焦燥は今でもはっきりと覚えている。
私は咄嗟にお母さんの体をすり抜け、逃げるように病室を出た。
もうあんな思いはしたくなかった。
亮くんがいる今となっては、道行く人に気付かれないことを寂しく思ったりはしない。でも、家族は別だ。
ずっと自分を育ててくれた大切な家族が、自分に気付かず誰かと話をする場面をもう見たくなかった。
逃げ出してしまったことは後で亮くんに謝ろう。
私は二人の声が聞こえないくらい遠くまで走り、その場に座りこんだ。病院の廊下、その端っこだ。ここなら誰も通らないし、あの時の気持ちを味わうこともない。
ちょうど私の病室も見える位置だし、亮くんが出てくればすぐに気付ける。
亮くんが私以外の人と話すところはあまり見たことがない。映画館の係員さんにチケットを見せる時くらいだ。
だからお母さんと鉢合わせた亮くんがどんなことを話すかは気になる。でも、やっぱりあそこに戻る気にはなれなかった。
私は膝を抱え込みじっと病室の方を眺める。
ふと、視界の隅に真っ白な毛の塊が映りこむ。同時に涼やかな声も聞こえてくる。
「もう、逃げちゃダメでしょ」
慌てて横に目をやると、私の隣に猫ちゃんがちょこんと座っていた。
「あ、猫ちゃん」
「……うん、もう猫ちゃんでいいよ」
ついに折れてくれた。それよりも、どうしてここにいるんだろう。
「どうしてって、そりゃあ君が気になるからだよ」
「優しいんだね」
「君ほどじゃないよ」
涼しげな声で言って、猫ちゃんは大きなあくびをした。ちょっと眠そうだ。夜更かしでもしたのだろうか。
そもそも神様の使いって睡眠が必要なのかな。
「眠りはしないけど、疲れはするよ。今日はちょっと神様にお願いしてきたから余計にね」
「お願い?」
「うん、お願い。君が頑張っているみたいだからご褒美をあげようと思って」
まさかのご褒美。なんだろう、気になる。
「ご褒美といってもそんなに期待しちゃいけないよ。ほら、今の君って物に触れないでしょ?」
「うん」
「だから、君が好きなタイミングで少しの間だけ人や物に触れるようにしてあげる。時間で言えば十分か二十分くらいかな。ただし一回だけだから使いどころをしっかり考えるんだよ」
なるほど、それは便利かも。
漫画のお手伝いとかもできるし、一回きりで二十分というのが少し物足りないけど、無いよりかは全然ましだ。ありがたい。
「わかった、ありがとう!」
「うんうん。彼、締め切り近いんでしょ? きっと猫の手も借りたい気持ちだろうからね」
そう言うと、猫ちゃんは何故か自慢げに鼻を鳴らした。
自分の姿が猫だからって上手いことを言った気になっているのかな。
「全然上手いこと言えてないよ……」
「あ、やっぱり? まぁいいや。伝えることは伝えたから、後は頑張ってね」
「うん、ありがとう!」
短くお礼を言って手を振ると、猫ちゃんも尻尾を振り返してくれた。
そして私が瞬きをすると、もうそこに猫ちゃんの姿はなかった。
ちょくちょく様子を見に来て励ましてくれるなんて本当にまめな猫ちゃんだ。上司にしたいタイプ。
感謝ついでに感心していると、ちょうど亮くんが病室から出てくるところが見えた。
亮くんはこちらに気付くと早足で近寄ってくる。そして、
「勝手に行かないで」
そう言って睨んできた。さすがにちょっと怒っているみたい。
「ご、ごめんね……。ちょっと怖くて」
「ん、まぁいいけど」
「それより、お母さん何て言ってた?」
「別に変わったことは言ってなかったよ。お見舞いに来てくれてありがとうとか、そんな感じ」
「そっか」
ちょっとほっとした。
お母さんは私に負けず劣らずお調子者だから、変なことを口走るんじゃないかと思って不安だった。
「あ、でも……。君が中学一年生まで一人で眠れなかったとか、小学校高学年になってもおねしょしていたとか、そういうのは言ってた」
「そっかぁ~」
よし、体に戻ったらお説教だね。
人の恥ずかしい体験を勝手に喋るなんて言語道断、名誉毀損だ。
「締め切り間に合わなくなるから早く帰ろう」
「あ、うん。そうだね」
そうだった。
今は私のおねしょよりそっちの方がよっぽど重要だ。
ちゃんとやる気になってくれたみたいで本当によかった。
病院を出て、相変わらず蒸し暑い街なかを私たちは再び歩く。
基本的に、亮くんの方から私に話しかけることはない。
だから私が無言でいると、ずっと無言のまま歩き続けることになる。
でも、今日は違った。
「ねぇ」
電車を降り、亮くんの地元に戻ったタイミングで、珍しく亮くんの方から声をかけてきた。
「どうしたの?」
「どうして、漫画家を諦めたの?」
道を歩く私の足が停止する。それに気付いた亮くんもすぐに足を止めた。
……正直、意外だった。
亮くんの方から話しかけてくることもだけど、亮くんが私のことについて尋ねてくることが意外だった。
本音を言うと、あまりそのことについて語りたくはない。
さっきは亮くんのやる気を出すために諦めたと語ったけれど、何故諦めたとか、そういう具体的な部分は極力誤魔化してきた。
だから、こうして改めて訊かれるとどう答えていいものかと悩んでしまう。
話したくはない。でも、亮くんが初めて私のことに興味を持ってくれたような気がして、押し黙るつもりにもなれない。
私に訊かれた時の彩月や亮くんも、もしかしたらこんな気持ちだったのかもしれない。言うか言うまいかを天秤にかけた結果、言わない方向に傾いたというだけで。
「バカにしない?」
「しないよ。絶対に」
「そっか」
亮くんは真っすぐ、一点の曇りもない瞳でじっと見つめてくる。
私が確認するまでもなく、バカにするつもりなんて微塵もない真面目な表情だった。
意味のないことを確認してしまったと自虐的な笑いが出てしまう。
「道の真ん中で話すのもあれだからさ、近くの公園とかで話さない?」
「それならすぐに近くにいい場所がある」
私は亮くんに連れられ、その公園を訪れた。
別にわざわざ公園に来なくても亮くんの家で話せばいいのだけど、何となく開放的な場所で話をしたかった。
そういう意味ではこの公園はまさに私の望み通りだった。
このあたりでは一番海抜の高い土地に作られた公園だったため、公園から街中を見渡すことができる。
公園自体の広さはそこまででもなく、バスケコート二面くらいの広さ。でも見晴らしがいいおかげで窮屈な印象は全くない。
滑り台以外の遊具はなく、そのせいか人も寄り付かない。話をするにはちょうどいい場所だと思う。
「ここ、昔初めてお父さんに連れてきてもらった公園なんだ。気に入ってるから、特に理由がない時でもよく来たりする」
入口から一番遠い場所、フェンスのすぐ際にあるベンチに腰掛けながら亮くんが言う。
「そうなんだ。確かにいい場所だね」
そう言って、私も亮くんの隣に腰掛ける。
本当はもっと亮くんの話を聴きたかったけれど、今は私が話す番だ。そのためにここに移動してきたのだから。
やはり、話すのは怖い。
軽蔑されるかもしれない、そんな思いがどうしても拭いきれない。
けれど、話そうと思う。
この子は、決してバカにしないと言ってくれた。だから勇気を持って話してみよう。
私は真っ青な空を見上げて、話し始める。
「簡単に言うとね、身の程を思い知っちゃったの」
そもそも、私が漫画家を目指そうと思ったきっかけは凄く単純だった。
私はそのきっかけとなる言葉を、記憶の引き出しから取り出した。
「――こころちゃんは絵が上手だね」
それは保育園で絵を描いていた時に、保育士さんが私に言った何気ない一言。
今考えるとただのお世辞だとわかるのだけど、当時の私はそれを本気にしてしまった。
自分には絵の才能がある。愚かにもそう思ってしまった。
当時の私は絵を描く仕事と言えば漫画家だと思っていたものだから、自然に漫画家を目指すようになる。
祖母や祖父は、漫画家は食べていけないからやめなさいと言っていたのだけど、お父さんとお母さんは私の味方をしてくれた。
だから私は安心してその道を歩み続けた。
保育園を卒業して、小学校に入学し、来る日も来る日も絵を描き続けた。
お父さんもお母さんも、私が絵を描くと褒めてくれた。上手だねと言って頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、私はますます絵を描くようになった。
小学校三年生になる頃にはそれなりに上達もして、クラスで遠足のしおりを作る時には表紙のイラストを任されたりもした。
友達からも将来は絶対漫画家になれるよ! などと言われていたから、きっと天狗になっていたんだと思う。
自分は天才。
自分は特別。
きっと漫画家になれる。
そう思っていたから、現実を知ったその日、私はあっさり漫画家の夢を放り捨てた。
なんてことはない、よくある話だ。
進級して新しいクラスメイトたちと自己紹介をしたときに、クラスメイトの一人がこう言った。
「趣味は絵を描くことです」
あ、同じ趣味だ。そう思った。
私の周りにも絵を描いているお友達は沢山いた。でも私はその誰よりも上手だったから、その子もたいしたことないのだろうと思っていた。
だって私は天才だから。アドバイスでもしてあげよう。
そんなことを思いながら、私はその子に絵を見せてもらった。
そして、衝撃を受けた。
自分なんて足元にも及ばないほど、圧倒的な力量。
聞けば、その子が絵を描き始めたのは小学二年生からだと言う。
保育園の頃から毎日描いていた私よりも後に始めた女の子が、先に始めた私より圧倒的に上手い。これほど悔しいことは他にない。
天才だからアドバイスをしてやろう。そんなことを考えていた自分が酷く滑稽に思えた。
そして私は思い知った。自分なんて所詮ちょっと絵が上手いだけの凡人なのだと。
それからは、絵を描くのが嫌いになった。
絵を描くたびに、あの子のイラストが頭をよぎるからだ。
自分が描いている絵など、所詮子供が描いた低レベルな落書きだと言われているような気がして、何度も声をあげて泣いた。
だから、私は漫画家という夢を手放した。自分でも驚くほどあっけなく。
それからはずっと無気力だった。
夢もない。目標もない。
空っぽの自分に嫌気がさしても、どうすることもできない。
だから私は今日までずっと、逃げ続けてきた。進路さえ決めずに。
全ては膨れ上がった自尊心が招いた自業自得。
ただ調子に乗って身の程知っただけの、よくある話。
本当に、くだらない。
「ざっと話すとこんな感じかな」
私が話し終えるまでの間、亮くんはずっと静かに聴いてくれていた。
でも、それが怖かった。
亮くんが本気漫画家を目指していることは私も知っている。
だからこそ怖い。
本気で目指している人間からすれば、私みたいに中途半端に手を出してすぐに挫折する人間なんて、きっと目障りだろうから。
「ごめんね、バカみたいだよね私。高校三年生にもなってみっともない」
だから、自虐的に笑って亮くんの顔色を伺いながら話すことしかできなかった。
軽蔑される前に、自分で自分を貶す。そうすれば、きついことを言われたとしても心を保てるような気がするから。
逃げ続けて後悔して、変わりたいと願っている今この瞬間でも、私は弱い自分を守るために醜く足掻いているのだ。
そんな自分を意識するたび、私は自己嫌悪と罪悪感に苛まれる。
けれど、
「全然、みっともなくなんかない」
亮くんが放った一言は、そんな罪悪感を一瞬で消し飛ばしてくれた。
「悩むのも、空っぽな自分に嫌気がさすのも、悪いことじゃない……と思う」
亮くんは慎重に言葉を選んでいるようで、少しばかり歯切れが悪い。
いつもは思ったことを思ったまま口にする亮くんが、あろうことか私に気を遣ってくれているらしい。
嬉しい反面、申し訳なくなる。こんな私のために気を遣うなんて、と。
私が黙っていると、亮くんは難しい顔でしばし考えた後、再び言葉を紡ぎだす。
「だって、罪悪感があるってことは変わりたいって思っているってことだから、全部諦めて開き直るよりよっぽどいいよ」
「亮くん……」
「それに、こんなことを言ったら失礼かもしれないけど、もし君が反面教師になってくれなかったらきっと僕も漫画家の夢を放り出していたと思う……。だから、感謝してる」
……なんだろう、この気持ち。凄く、胸が温かい。
夢を諦めてからずっと空っぽだった心の中が満たされていくような、そんな感覚。
今までだって、夢がないのが普通だとか、悪いことじゃないとか、色んな人からそんなことを言われてきた。
でも、気休めにすらならなかった。大きく空いた穴を埋めるには至らなかった。
亮くんが言ってくれた言葉だって、今までかけられた言葉と大差はない。
なのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
いや、本当は自分でもわかっている。
私はずっと、認められたかったのだ。過去の自分と同じ夢を見るこの少年に。
他の誰かと同じような言葉でも、他でもない亮くんに言われたからこそ、私は嬉しいのだ。
同じ夢を持つ亮くんだからこそ、響く言葉なのだと思う。
漫画家を目指したのも、挫折したのも、全部無駄ではない。亮くんに、そして過去の自分自身にそう言われているような気がして、満たされなかった心の渇きが満たされていく。
気が付けば、私は涙を流していた。
「な、なんで泣くの」
「ごめんね、嬉しくって」
嬉し泣きなんて、ドラマや映画の世界だけかと思っていた。
この子を救うつもりで来たのに、救われたのは私の方だなんておかしな話だ。
「そろそろ帰ろっか。早くしないと締め切りに間に合わなくなっちゃうよ」
「あ、うん」
私は涙を拭い、満面の笑みとともに一歩、足を踏み出す。
まだ目が潤んでいるけれど、悪い気はしない。
さっきからずっと、私の心は満たされているのだから。
隣を歩く亮くんの顔を横目で見ながら、私は手を胸にあてる。
亮くんと言葉を交わすたびに、その顔を見るたびに、温かい気持ちが増していく。
今まで感じたこともない気持ち。けれど、何故だか私にはこの気持ちの正体がはっきりと理解できる。
ああ、私は亮くんを好きになってしまったらしい。
「ありがとね、亮くん。なんだか救われた気がする」
「別にお礼なんていらない。思ったことを言っただけだし」
「あはは、そうだね」
相変わらず不愛想だ。
いつも無表情だし、抑揚のよの字もないほど淡々とした口調。
最初はその態度に緊張させられていたはずなのに、今となってはその冷たささえ温かく感じられる。他の誰の言葉よりも、深く安心できる。
「受賞するといいね」
「うん。もしダメでも諦めないから」
亮くんの家のすぐ手前で、そんな話をする。
締め切りは二日後、余裕は全くない。すぐにでも作業に取り掛かるべき時だ。
猫ちゃんのおかげで、少しの間だけ手伝うことができる。
今までは意見を出すくらいしか役に立てなかった私が初めて直接的な手助けを行えるのだ。
私も亮くんもやる気に満ちている。
反面教師になって背中を押すだけのつもりが、本当にいい気分転換になったのはラッキーだ。
「ただいま」
鍵を挿しこみ、亮くんは扉を引く。
それにしても大きな家だと思う。
白を基調とした二階建ての一軒家。白は汚れが目立つ色なのに、驚くほど綺麗だ。まるで新品の白紙のよう。
人工芝が敷かれた庭も大人数人でバーベキューができるくらいには広い。
きっと裕福な家庭なのだろう。
亮くんのお母さんにもお父さんにも会ったことはないから、一体どんな人なのかとても気になる。
そう思ったからなのか、あるいは単に偶然なのか、開かれた扉の先には亮くんの母親と思わしき女性が立っていた。
亮くんの母親というだけあって、綺麗な人だ。どことなく亮くんに似ている。
しかし、心なしかやつれているというか、どこか覇気のない印象を受ける。
「亮、どこに行っていたの」
亮くんのお母さんは、感情のない声でそう言った。喋り方までそっくりだ。
唯一亮くんと違うのは、その声質。
かすれていた。
完全にガサガサというほどではないにしても、とても見た目の麗しさとは似ても似つかない疲れきった声だった。
「ごめん。ちょっと気分転換に散歩してた」
「いいから早く入ってちょうだい」
「……うん」
家に入り、ドアを閉めたのを確認すると、亮くんのお母さんは大きくため息をついた。それから、
「今朝も言ったけど、離婚することになったから。どっちについてくるか早いうちに決めてちょうだい」
そう言って、奥の部屋に入っていった。
瞬間、私の中で全てが繋がった。
元々、確信が持てなかったというだけで予想自体はしていた。
大きな物音、激しい怒鳴り声。
それらが導く答えはそう多くない。
亮くん自身の口から聞くよりも先に、図らずも答えを得てしまった。
「…………そっか、わかった」
既に部屋に戻った母親に対してなのか、それとも自分自身を納得させるためなのか、玄関に立ち尽くしたまま亮くんは静かに頷いた。
私は、何も言うことができなかった。
部屋に戻ると、亮くんはすぐに机についた。
確かに締め切りは近い。だから漫画を描くのはわかる。激励したのも私だ。でも、今は緊急事態ともいえる状況なのではないだろうか。
それなのに、亮くんは随分と落ち着いているように見える。
私の両親はとても仲が良くて、今でも休みの日には一緒に出掛けたりもしている。
もしその二人がいがみあって、離婚するとなればきっと私は立ち直れない。
子供にとって両親の不仲というのは、人生を左右しかねない大きな不幸だ。
それなのに、どうしてそこまで淡々と作業できるのだろうか。
「亮くん、さっきの……。いいの……?」
たかが一週間程度の付き合いである私が口出しする問題ではないことはわかっている。でも、聞かずにはいられなかった。
「うん、いい。前からわかりきっていたことだから。気にしてない」
そう言って亮くんは原稿用紙にトーンを貼りつける。
「貼るところ、間違ってるよ」
普段の亮くんなら絶対にしない凡ミス。
私の指摘を受け、亮くんはすぐに貼ったトーンを剥がす。
私は確信した。
気にしていないなんて、嘘だ。
だって、その手は震えているのだから。
「気にしてないって、嘘だよね」
なるべく優しく言いつつも、そう尋ねる。
亮くんは剥がしたトーンを力いっぱい握り潰した。
そして、
「……嫌だ。別れてほしくない」
力なく言って、俯いた。
原稿用紙の上に、一粒、二粒と水滴が零れ落ちていく。
胸が締め付けられるのを感じた。
同時に、大きな使命感に駆られる。
――この子を、助けたい。
「ねえ、亮くん」
「……なに」
「今まで何があったのか、聞かせてほしいの。もちろん無理強いはしないよ。でも、少しだけでも楽になるかもしれない」
話したくないのなら、私もこれ以上は踏み込めない。
誰にだって話したくないことの一つや二つは必ずある。私だって、亮くんに話すのを躊躇したくらいなのだから。
でも、それでも、私は話した。呆れられるかもしれない、軽蔑されるかもしれない。そんな不安を乗り越え、勇気を出して全てさらけ出した。
そして、救われた。
だから今度は私の番だ。この子が苦しんでいるのを放っておくなんて絶対にできない。
「……迷惑かけたくない」
「迷惑なんかじゃないよ。力になりたいの。だから、苦しい時は頼ってもいいんだよ」
努めて優しく、生まれたばかりの雛を暖かく包み込むように、私は亮くんに声をかける。
「本当に……?」
「うん。本当に」
「……わかった」
亮くんは震える手で涙を拭い、椅子から降りて私と向き合うように座る。
そして腫れぼったく、充血した瞳でまっすぐ私を見つめて、
「全部、話すよ」
覚悟を決めたように、そう言った。
僕は、ずっと寂しかった。
目の前にいる幽霊のような少女――佐々木こころに対し、今からそんなことを語るのだと思うと、少しばかり気恥ずかしい。
それでも、僕は話そうと思う。
彼女が僕に話してくれたように、僕も勇気を出して自分をさらけ出す。
「全部、話すよ」
とは言ったものの、何から言葉にしていいのかまるでわからない。
漫画を描く時は次から次へと言葉が浮かんでくるというのに。
きっと僕は人と話すことに慣れていないのだと思う。いまいち要点を抑えて説明できる気がしない。
だから、一から十まで、全てを話す。
「最初は、普通だったんだ」
そう言って僕は記憶を辿る。遠い過去の記憶。唯一僕が幸せだった頃の記憶を。
本当に、最初は普通だった。
お父さんがいて、お母さんがいて、休みの日には家族で遊園地に行ったり水族館に行ったりした。近場の公園でお父さんとキャッチボールをすることもあった。
ある程度裕福だったおかげで、広い家に住めて、欲しい物はなんでも買ってもらえた。恵まれていたと思う。
そんな僕が漫画家を目指すようにったきっかけは、公園で彼女が話してくれたのと同じように、褒められたからだった。
幼稚園が終わりお母さんに手を引かれて帰る途中、僕はその日描いた絵を見せていた。
お母さんはいつも笑いながら、
「亮は将来漫画家さんになるのね」
なんて言っていた。
お母さんは僕が描いた絵を見ていつも喜んでくれた。
それが嬉しくて、もっと喜ばせたくて、僕はどんどん絵の世界にのめり込んでいく。
お父さんに至っては額縁を買ってきて僕の絵をリビングに飾っていた。あれは今思い出しても大げさすぎると思う。
でも、嬉しかった。
仲のいい両親に愛されて、風邪を引けばお母さんが看病してくれる。たまに怒られたりもするけれど、僕は両親が大好きだった。
「俺たちは運命の出会いをしたんだ」
それがお父さんの口癖だった。
休みの日にキャッチボールをしていた時も、そんなことを聞かされた。
「もう何回も聞いたよー」
聞き飽きた話に耳を抑えたくなりながらも、僕はお父さんのグローブめがけて球を投げる。
ぱん、とボールがグローブに収まる心地いい音が響き渡ると、耳を抑えなくてよかったなと思い直した。
お母さんもお父さんも、結婚する前から苗字が同じだったらしい。
石丸涼子と、石丸涼平。
中学一年生の頃に出会い、ただ名前が似ているというだけで話すようになった二人。お父さんはそれを運命なんて言っているのだから大げさだ。
僕の絵を飾った時といい、お父さんはどことなく豪快なイメージがある。
お母さんもお母さんで、そんなお父さんとの出会いをどこか神聖視している節がある。似たもの同士というか、夫婦揃ってお気楽だった。
でも、運命だと言うだけあって二人は本当に仲が良かった。
どんな時も笑いあいながら、僕も交えてみんなで食卓を囲う日々。
僕は家族が大好きだったし、お父さんもお母さんも僕を愛してくれていた。
だから、ずっとそんな生活が続くのだと思っていた。
幸せの終わりは、あまりにも突然のことだった。
忘れもしない。それは僕が小学校に入ってすぐのこと。
父が、肺癌で倒れたのだ。
目の前で血を吐いて倒れるお父さんを、お母さんが泣き叫びながら抱き起こしていたのを今でも鮮明に覚えている。
お父さんはすぐに入院した。
それまで賑やかだった石丸家は、あっという間に静まり返った。
幼かった僕は、癌という病気は絶対に治らないもので、一度かかってしまったら死んでしまうものだと思っていた。
お父さんが死ぬなんて嫌だ。そんなことを考えて毎日のように泣いていた。
けれど、不幸中の幸いだったのは、父の癌は病状の割にどこにも転移していなかったこと。
手術をすれば助かる見込みは十分にある。
僕もお母さんも、お父さんのことが大好きで、お父さんがいなくなるなんて考えたくもなかった。
当然、お父さんは手術を受けることになった。
結果は大成功。僕もお母さんも大喜びして、心の底から安堵した。
お父さんも、
「お祝いに今度旅行に行こう」
なんて言って嬉しそうに笑っていた。
よかった、これでまた幸せな生活を送れるんだ。当時の僕はそんなことを考えていたと思う。
僕は知らなかった。本当につらいのはそこからだということを。
闘病中に失った体力と、社会的信用はそう簡単には戻らない。
退院してすぐに、お父さんは今までの遅れを取り戻すために休日を返上してまで会社に通い詰めるようになった。
「無理する必要はないんじゃない?」
「自分の体が第一だよ」
毎日のように、お母さんはそんなことを言っていた。
しかしお父さんが会社を休むことはなかった。きっと僕たちに苦労をかけまいと意地になっていたのだろう。
無理をし続け、日に日に痩せていくお父さんの姿を僕たちは不安げな眼差しで眺めることしかできなかった。
やがて、仕事のストレスが限界に達したお父さんは、煙草を吸い始めるようになった。
軽く嗜む程度だったお酒も自然と量と頻度が増え、いつしかお父さんは家にいる間は常にお酒を飲むようになっていた。
会社の愚痴を言いながら酒をあおり、酔いつぶれる。
目が覚めたかと思えば大声を出しながら家中を歩き回り、壁に穴をあけ、訳もわからずお母さんを殴る。
そうして暴れるだけ暴れた後は寝室で泥のように眠るのだ。
ショックだった。
優しくて、それでいて豪快だったお父さんは、全くの別人に変わってしまった。
運命の出会いをしたのだと、愛おしそうな眼差しを向けていた相手を躊躇なく殴り倒し、悪びれもせず自宅と会社を往復する毎日。
「パパ……落ち着いて……」
ある日、いつものように暴れる父を僕は制止した。
日に日に痣が増えていくお母さんを見ていられなくなったのだ。
酔いが醒めれば、お酒をやめてくれれば、きっと元のお父さんに戻ってくれる。それまでは僕がお母さんを守る。
そんな決意を胸に、僕は父の前に立ち塞がった。
子供の力では抑えられないし、怖かったけど、大丈夫だという確証はあった。
お父さんはどれだけ酔っていても僕を殴ることはなかったのだから。
身をていしてお母さんを守れば何とかなると思っていた。
事実、その日は僕もお母さんも殴られることはなかった。
……代わりに、殴られていた方がずっとましだったと思わされることになる。
「クソガキが、邪魔しやがって。こんな下手くそな絵描いてる暇があったら酒買ってこい!」
怒鳴りながら、お父さんは額縁を地面に叩きつける。
割れたガラスが飛び散ると、お父さんは中に入っていた僕の絵を拾い上げた。
そして、僕のすぐ目の前で、それを破り捨てた。
……それまで、心のどこかでまだ期待していた自分がいた。
仕事が落ち着いて、お酒を飲む機会が減ればお父さんは元に戻るのだと。
酔っているから暴れているだけで、本当のお父さんは僕たち家族のことを大切にしてくれるんだって。
けれど、破り捨てられた絵を目の当たりにしたとき、僕は悟った。
僕の知っている優しいお父さんは、もう我が家にはいないのだと。
父が寝た後、散らかった家を僕とお母さんは暗い表情で片づける。
ガラス片を箒で集め、壁に空いた穴はポスターを貼って誤魔化した。
「ごめんね亮。お母さんがもっとしっかりしてれば……」
「ううん、大丈夫。お父さんだって仕事が落ち着けばまた優しくなるよ」
思ってもいないことを言いながら僕は笑顔を作る。
本当はすぐにでも泣きだしたかった。
破り捨てられた絵を見るたびに、使い物にならなくなった額縁を見るたびに、僕の心は苦しみで満たされていく。
それでも涙は流さなかった。お母さんに心配をかけたくはなかったから。
「亮は優しいね、ありがとう」
お母さんは傷だらけの腕で僕を抱き寄せ、頭を撫でてくれた。
その震える手に包まれたとき、僕は誓った。
僕だけは絶対お父さんのようにはならない、と。
そのためには手のかからない子にならなければいけない。
少しでもお母さんの負担を減らすんだ。
それからはもっと絵を描く頻度が増えた。
絵を描けばお母さんが喜んでくれるし、お父さんに絵を破り捨てられたことを気にしていないというアピールにもなったから。
当然気にしていないわけがなく、絵を描くたびにつらくなる。
つらいはずなのに、それでも絵を嫌いにならなかったのはお母さんのおかげだ。
喜んでくれるし、褒めてくれる。だから絵を描くのは好きだ。
勉強も頑張った。算数は凄く苦手だったけど、毎日遅くまで勉強をして、テストでは毎回百点を取っていた。
学校から帰り、満点の答案用紙とその日描いた絵を見せる。僕にとってそれだけがお母さんを元気付ける手段だった。
「亮は凄いね」
褒められるのは嬉しかった。
お母さんはまるで自分のことのように喜んでくれて、そのたびに優しく僕の頭を撫でてくれる。
僕はそれが嬉しくて、ますます頑張るようになった。
……それが、お母さんが僕を気遣ってくれていただけとも知らずに。