家に戻ると亮くんは着替えもせず、すぐに机についた。
 買ってきたトーンを袋から取り出し、慣れた手つきで原稿用紙に貼っていく。

「凄い気合い入ってるね。どこかの賞に応募するの?」

「うん。初めて応募するからちょっと緊張してる」

「受賞するといいね!」

「うん。頑張る」

 そう言って亮くんは淡々と作業を続ける。
 もう、邪魔しないでと言われることはなかった。
 後ろから覗きこんでも、話しかけても、きちんと応えてくれる。
 昨日とはえらい違いだ。
 私は嬉しさのあまり、亮くんに気付かれないよう小さくガッツポーズをきめる。
 ――その時だった。
 大きな家具が倒れるような、物凄い音が一階から響いてきた。床が振動するほどの轟音だ。
 それから程なくして、女性が怒鳴る声が聞こえてくる。
 一階から二階に響くほどの怒号。何を言っているのかまではわからなかったけれど、ただ事ではないことは伺える。

「……気にしないでいいから」

 訝しく思う私に気付いたのか、亮くんはそう言ってヘッドホンをつけた。
 まるで、何も聞きたくないと言わんばかりに。
 こういう時、なんと声をかけたらいいのだろう。
 あるいは声をかけるべきではないのかもしれない。
 ひたすら作業を続ける亮くんの背中を、私はただ眺めることしかできなかった。
 ――心なしか、その背中が少しだけ、震えているような気がした。



 草木も眠る丑三つ時。
 隙間なく閉められたカーテンは月明かりさえ通さず、部屋は暗闇に包まれていた。
 私は床に寝転がり、ぼうっと天井を見つめていた。
 既に眠りについた亮くんを起こさないよう、朝まで大人しくしているつもりだ。
 動かず、言葉も発さず、暇を持て余した私は必然的に思考を働かせる。
 これからのこと、これまでのこと、様々な思考が頭に浮かぶ。
 その中でも、特に鮮明に湧き上がる記憶について私は思考を割いていた。
 そうだ、あの時、亮くんは確かに震えていた。
 もしかしたら、私の見間違いかもしれない。けれど、もしそうでなかったとしたら?
 亮くんは不登校だ。
 表に出さないだけで、彼はずっと苦しんでいる。
 そして、私の役目はそんな亮くんを救うこと。
 あの時聞こえてきた怒鳴り声、そして震える背中。
 これは私の直感でしかないけれど、亮くんを苦しめているのは恐らくあの怒鳴り声だ。少なくとも無関係ではないはず。
 声の主は亮くんのお母さんだろう。
 ……私に、救えるだろうか。
 そんな不安が頭をよぎる。
 今の私がしていることと言えば、せいぜい亮くんと雑談をするくらい。
 家庭の問題に口出しなんてとてもできない。もっとも、まだそれが原因だという確証は微塵もないのだけど。
 それをハッキリさせるためにも私はもっと亮くんと仲を深めなくては。
 でも、仲を深めたとしてどうやって話を切り出せばいいのだろう。
 下手に踏み込んで反感を買うのは絶対に避けなければならない。
 これは非常に難しい問題だ。
 ……こんな時、相談に乗ってくれる人がいればいいのに。
 無理だとわかっていても、そんなことを考えてしまう。
 と、その時だった。

「呼んだ?」

 ふいに、そんな声が聞こえた。
 聞き慣れてこそいないものの、聞き覚えのある声。
 少年とも少女ともとれる涼やかな声、間違いない。猫ちゃんだ。
 びっくりして起き上がると、猫ちゃんは机の上にちょこんと座っていた。
 そうだ、私には猫ちゃんがいた!

「こんばんは、こころちゃん。暇だから会いにきちゃった。あ、今は彼にも君の声は聞こえないようにしてあるから普通に喋っていいよ」

「猫ちゃん……! 会いたかったよ!」

「だから猫じゃないってば~。まぁそれはいいとして、どう?」

「どうって?」

「上手くやれてる?」

「うーん……」

 私は言葉を詰まらせた。
 仲良くなる、という意味ではそれなりに上手くやれていると思う。
 亮くんを救うという意味なら、まるで進展はないと答えるしかない。
 そこから導き出される返答はひとつ。

「微妙……かな」

 そう、微妙だった。

「ぱっとしないねぇ。まぁデリケートな問題だからね、ゆっくり時間をかけるといいよ。でもゆっくりしすぎると今度は君の進路がまずくなっちゃうから急いでね」

 ゆっくり時間をかけろって言ったくせに急かすようなことを言わないでほしい。
 でも正論だ。
 すっかり忘れていた。亮くんを救うとか、仲良くなるとか、それ以前の問題を。
 私、受験生なんだった。

「どうしよう! 忘れてた!」

「君はおっちょこちょいだなぁ。仕方ないからヒントをあげよう。そうだなぁ、君が今一番疑問に思っていることをイエスかノーで答えてあげるよ」

「一番疑問に思ってること……」

 なんだろう、客観的に見て私の容姿は可愛いか否か……とか?
 ……って、そんな疑問なわけがない。
 今、私が一番疑問に思っていることと言えばひとつしかない。
 あの時聞こえた轟音、そして怒鳴り声。それらが亮くんを苦しめている原因かどうか、だ。

「うん、イエスだね。関係大ありだよ。ちなみに、客観的に見ても君は可愛いと思うよ」

「猫ちゃん大好き」

「えへへ、ありがと。ボクも好きだよ」

 嬉しかったからさりげなく私のくだらない心を読んだことについては許してあげよう。
 それよりも、今は亮くんの事の方が大事だ。

「怒鳴り声が聞こえたけど、亮くんの両親は仲が悪いのかな?」

「さぁ? 本人に直接訊きなよ」

「けち! ばか!」

「けちじゃない! ヒントをあげただけ感謝してよ! 普通はヒントなんて与えずに放置するんだよ!」

 うぐ、それを言われると言い返せない……。
 ヒントを貰っていなかったらいまだに悩んでいただろうし、ありがたいのは事実だもの。

「そうだね……ありがとう」

「ん、素直な子は好きだよ。まぁとりあえず上手くいっているみたいでよかったよ。また様子を見に来るから頑張ってね」

 上手く……いっているのかな。正直あまり自信はない。
 猫ちゃんは安心したように鼻を鳴らすと、すっと立ち上がった。

「もう行くの?」

「うん。神様の使いは忙しいからね」

「さっき暇って言ってたよね」

「うるさい」

「えぇ……」

 いくらなんでもそれは理不尽だよ……。
 でも、ありがとう。
 猫ちゃんのおかげで、少し前に進んだような気がする。

「どういたしまして。また困ったことがあったら呼んでね。といっても、あんまり手助けしちゃうとボクが神様から怒られちゃうからあてにはしないでね」

「わかった、ありがと!」

 壁をすり抜けて去っていく猫ちゃんの姿を見届けてから、私は寝転がった。
 そしてもう一度、今日の出来事を思い出す。
 椅子の件といい、映画の感想を語り合ったことといい、今日はいい日かもしれない。思い返すだけで嬉しくなる。
 けれど、ヘッドホンをつけ、震える彼の姿を思い出すと途端に悲しくなる。
 ……どうにかして彼を救いたい。
 ほんの少しだけど、仲良くなれた。
 猫ちゃんからはヒントも貰った。
 後は、私次第だ。
 私は、寝息をたてる亮くんの頬にそっと手を伸ばす。触れることはできないけれど、亮くんが放つ温もりは感じられる。
 普段は生意気でも寝ている顔は可愛らしい中学生そのものだ。
 そんな子が苦しんでいるのなら、私は手を差し伸べたい。

「絶対、私が何とかしてみせるからね」

 小さく囁いて、そう決意した。