どこの階も、一番騒がしくなるのは、お昼休み。
特にC棟の二階は、国語ゼミ側から伸びる外の通路が体育館に続いているので、人通りも多い。
そんな中私は川にせり出す岩のごとくしばらく立ち尽くして、下級生からの注目を浴びていた。
今、私は今年一番の窮地に立たされていた。
ラスボスに丸腰で足し向かって行くのと、同じような気分だ。
今日、月曜日。
いつも通り登校した、その道でも弘海先輩を見ることはなかった。
朝きいちゃんと水やりしているときにも、弘海先輩は姿を現さなかった。
あの時の言葉は本当だ。
もう私に構うことはないんだ。
きっともう二度と弘海先輩に会うことはないだろう。
そう思っていたのに。
考えても仕方がない。この状況が変わるわけでもない。
意を決して、国語ゼミのドアを二回ノックし、ドアノブを回して扉を開けた。
ふわりと風が吹いて、スカートの裾が翻った。
手前の壁に向かった生徒机で、ノートパソコンに向かっている弘海先輩がまず目に入った。
この場合は挨拶するのが礼儀だという瞬時の判断で、軽く会釈したものの、私に気づいた弘海先輩は驚く様子もなく、ただ私を一瞥して、軽く頭を下げて、また画面に向かった。
予想は確信に変わった。
この人は本当に徹底的に私との接点を無くそうとしている。
これでもう何人も邪魔するものはいない。
そう喜ぶべきはずなのに、何故だか胸の奥がキュッと苦しくなった。
「八城さん来たのね?」
向かい合わせの右側のオフィスデスクから、キャスター椅子に身体を預けて私を確認した花純先生は、「こちらに、いらっしゃい」と迎えてくれた。
「失礼します」
「こっちに座って」
「はい……」
花純先生がデスクの前に開いて置いてくれたパイプ椅子に腰を下ろす。
背後の気配にピンと背筋を伸ばし、鼓動が落ち着いてくれるよう深く息を吸った。
今朝ホームルームが終わって「八城さん」と声かけられたときは、まさか花純先生の耳に入ったのかと身構えた。
でもそういうわけではなく、面談に呼ばれただけだった。
高校三年生は、一学期期末テストが終わると三者面談が始まる。
今までの模試の結果を広げて、親を交え、受験の最終進路について相談、確認するのだ。
その前に、先生と生徒の二者面談がこれまでお昼と放課後に行われていた。
ランダムに生徒は選ばれて、先週までに私以外の生徒はあと一人を残して全員面談を終えていたのだが、朝のホームルームで「八城さん、今日お昼弁当持っていらっしゃいね」と花純先生が声をかけて来たとき、私も教室も凍りついた。でもすぐに「元村くんは放課後にいらっしゃいね」と言ったので、ホッとため息をつくのが聞こえた。
私が固まるのはわかるけれど、周囲も同じように凍てついたのを見て不思議でおかしくもあった。
だって本人たちは悪気があって、私を村八分にしていたわけではなかっただろうし。
自分たちの集中を削ぐものは排除したいというのは真っ当な考えだ。
そんな彼らにとって私が目障りなのは当然のこと。
でも私は変える気がないし、変わる気がなかった。
私がパイプ椅子に腰掛けると、背後の弘海先輩が立ち上がった。
ガタガタと何か整理する気配がしたかと思えば、ギイっと扉が開いて弘海先輩はゼミ室を出て行った。
「八城さん、お弁当それだけ?」
「えと……はい」
「少食なのね」
花純先生は弘海先輩の退室を気にすることなく、机の上に曲げわっぱの弁当箱を取り出した。
私のお弁当はおにぎり2つ。具は梅と昆布。
基本的に教室では食事をしたくないので、休み時間の間で済ませられるようなおにぎりとか、コンビニのパン。非常階段のところでも食べたりする。そして、図書館に退散する。
時々は本を読んだりするが、大抵の場合は置いてあるソファーに身を沈めて静かに時間が過ぎてゆくのを待つ。
何も考えなくていい、その時間が私にとっては唯一の息抜き時間だった。
いただきます、と花純先生が言ったのに倣って、私も一応手を合わせた。
花純先生のお弁当は、豚の生姜焼きがメインの手作り弁当だった。
「八城さんは就職よね?」
「一応、そのつもりです」
つい最近までは天国に就職希望だったことは黙っておく。
でも実は漠然と「就職」を決めていただけで、希望する企業なんかは特に決めていなかった。
そこを突かれたら困る。
花純先生は箸でブロッコリーをつまみあげた。
「進学するつもりは本当にないの?」
「ない、ですね」
「勉強が嫌い?そうでもないか。成績は悪くないよね」
「嫌いではないです」
勉強は嫌いじゃない。
きっちり答えの出る数学とかは割と好きだったりする。どんなに複雑な問題でも、必ず答えが1つと決まっている。そういうのはわかりやすいから好き。
どれだけ悩んでも、ちゃんと答えが出てくれる。
だけど、国語はあまり得意ではない。
特に心情を読み解こうとする小説は苦手。
文章題は感情移入して解くものでないと教わっているけれど、どうしても読んでいると感情移入してしまうし、何よりもまず苦手意識が来てしまう。
「でもここの学校に入ったのは、大学受験を見越してじゃなかったのかな。多くの人はその様みたいだし」
「……もしそうなら、就職するという娘を父は止めるはずです」
「そうなのね」
そもそも私の入学動機は「環境を変えたい」で、大学受験は二の次だった。
どこも同じようなものだとは思うが、進学予定だった中学校には同小上りが大多数。
小学校で人間関係に失敗した私は、とりあえずあのぬるま湯から抜け出したかった。
結果的にここでも同じような理由で、上手くいかなかったわけだが。
花純先生は唸りながらご飯を咀嚼していたけれど、私は自分のおにぎりに手がつけられず、手のひらで転がして、包んでいたラップをいじっていた。
そこから会話が途切れて、黙々と食事する花純先生を箸運びを眺めていたが
「八城さん、明日から私と一緒にお昼食べない?」
「……私ですか?」
遊んでいた手を止めた。
突然の提案に、戸惑う。
「うん、そう」
「如何して、ですか?」
「私の話し相手かな。八城さんは大学受験ないから、早弁して先生捕まえるなんてことも……ある?」
「ないです」
「うん。それに……教室、居づらいでしょ?」
これが少し前なら、死にたいと決心して線路に飛び込むことをする前だったなら、うまくポーカーフェイスの下に隠して「そんなことありません」と躱すことができたはずだが、私はすぐには言葉をつなげなかった。
弘海先輩のことが頭を過ぎったから。
すっと胸のあたりが冷めて、むくりと憎悪が芽を出しかけたが、それは杞憂だった。
見かねて花純先生は、笑顔を作った。
「何となく察するのよ。高校三年生を受け持ったことはこれまで三回あるんだけど、三年生にもなると意識が高いというか、余裕がなくなるというか、自分に精一杯でね。成績順にクラスが分かれているわけではないから、ひとクラスには下から上まで満遍なく振り分けられるでしょ?そうすると、ちょっと怠けてる様に見える子がいると、気になってしまうみたい。しかもこれからになると、国立受験組には最大のストレスになるであろう私大推薦とか」
推薦受験と結果発表は年を越えるまでにわかることが多い。
なので二学期中に進路が決まる人も結構いる。そうすると、一月にセンター試験を控えている人間からすれば目障りだ。ストレスだ。本人に自覚がなくても、浮かれているのが雰囲気でわかるから。
しかも学校が掲げる「現役合格」という三年生の学年目標故、浪人回避に焦る人も出てくる。それで無理をして体調を崩したり、酷いと精神を病んだりする人も出てくる様で、教師はそういうことにも最大限気を使うのだと、来年30歳になる花純先生は言った。
「だから周りが八城さんのこと、あんまりよく思ってないこと分かっちゃうのよ。ごめんね、傷つけたいわけではないよ」
「分かってます。大丈夫です」
「どうかな?昼になると酒田先生ってふらっと何処かに行っちゃうし、話し相手が欲しいな、なんて」
内申あげるわよ、という声は弾んでいた。
花純先生は迷える子羊に手を差し伸べるような気持ちなのだろうが、私は素直にその手を取るには少し大人になってしまった。
以前なら「じゃあ、来ちゃおうかな」なんて無邪気に返しただろうが、私はもう昔のように担任をあだ名で呼んだり、タメ口をきいたり、馴れ馴れしく慕うタイプの人間じゃなくなった。
怖い、という感情が先立ってしまう。
優しくされると、怖い。
親切にされると、怖い。
親しくなると、怖い。
だって国語ゼミに来ていいなんて、逃げ場にしていいなんて、もしかしたら思っていないかもしれない。
ただの言葉の綾で、気にかけているということだけ伝えたいのかもしれない。
鎧を身につけていない私は、もう素直に好意を受け取ることができない。
まず相手を疑ってしまう。
「考えて、おきます」
だから私の答えはこうだ。
曖昧な返事にも関わらず、花純先生は恰も私が肯定を示したかのように笑顔で頷き「待ってるよ」と笑顔を向けて来た。