だからある日、学校で自分が嫌われていると知った時、空が落ちてくるような衝撃と、とどめを刺された絶望が同時に襲い掛かった。
今までの自分が崩れていく、そんな瞬間を自分自身の目で時を超越したスローモーションでみてしまった。
最悪の瞬間がやってきてしまった。
もう生きていけないほどに打ちのめされ、弱気で臆病な呆然自失の自分がそこに居た。
仲良くしていたと思っていた友は、自分の粗を探すために見張っていたスパイ。
そんな事も知らずに、心許して何でも話していた自分。
時には人に聞かれたらいけないような事も、そいつになら正直に話せた──というより、自分と同じ思いでいると思ったから共有したにすぎなかった。
ところが、それが罠だった。
そこに尾ひれをつけて、もっと心証が悪くなる方向へと話をすり替えて、クラス中に言いふらした。
自分よりも人望があるそいつの言葉は、例え嘘が混じっていてもそれをみんな鵜呑みにしてしまう。
裏切りとそれに飲み込まれ同調する周りの人々。
流れは、嫌悪の対象として疎外され、がんじがらめに意味もなく負の鎖を巻き付けられる。
身動きとれず、悔しい気持ちで苦痛に震えながら、怯える毎日が続く。
それはただのきっかけに過ぎなかったのか、そこから負の連鎖が続き、汚いものでも見るような目つきの奴らには、とことん僕は、悪者にされていく。
どんなにもがいてもいい方向に行かない、運の悪さ。
心には傷。
体には身を守るための精一杯の棘。
それが武器にもならないとわかっていても、悔し紛れに無意味な対抗をしようとしていた。
アップアップと苦しくて、かろうじて息を吸おうと水から顔を出そうとする。
そんな自分にも、まだなんとかなると、かすかな希望があったのかもしれない。
自業自得と言えばそれまでだが、本心は誰かに助けてほしかった。
手を差し伸べてほしかった。
僕は絶望のなかで、何かにすがろうとしていた。
だから、あの時、車が激しく行き交う道路で、本能のままに思わず飛び込んでしまった。
そこにはヤケクソと、どうにかしたい小さな希望、ただ衝動的に体が動いた無謀な行動。
全てが最悪に結び付いた結果だった。
そして案の定、車に轢かれてしまった。
轢いた人も、まさか僕が飛び込んでくるなんて思わなかっただろうから、迷惑で怒っているかもしれない。
この場合、轢いた人にもなんらかのペナルティがあるのだろうか。
そうだったら、申し訳ない。
そんな事を考えられるほどに、轢かれて転がって行く時間がゆっくりで、不思議と周りがスローモーションとなって、ぐるぐると色んな物が回って、見えていた。
これもなるべく時になってしまったのか、運命だったのか、もし自分がこの世から消えたら、アイツらはなんて思うのだろう。
虐めた奴らへの、精一杯の当てつけ。
でも遺書がなければ、虐めがあったとは学校は認めないだろう。
せめてそういうのをどこかに残しておくべきだった。
何月何日、アイツが僕の事をこうやって虐めた。
何月何日、アイツが僕をこうやって貶めて、僕は皆から嫌われ虐められるようになった。
何月何日、アイツとアイツも、便乗して僕を虐めるようになった。
なんて詳しく教科書やノートのどこかに記録でもつけておくべきだった。
こんな時のために。
今更遅いけど、この時点ではどうにもならなかった。
どこからともなく、何かの意思が感覚として体に入り込んでくる。
良く言われる神の光に包まれるという感じ。
今自分はどこにいるのだろう。
いっそうの事、このまま、目を覚まさずに消えてもいいかもしれない。
こんな自分、いない方がいいのかもしれない。
やっぱり今もやけくそになっている。
でも心では悔しくて寂しくて泣いていた。
こういう時に都合よく、父と母の事を考えてしまう。
きっと僕がいなくなったら、一番悲しむことだろう。
これでもやっぱりあの人達の一人息子だから。
ゆらゆらと彷徨い、なんとなく、噂で聞いた三途の河を渡っているような気分だ。
自分が自分でなくなるような、生と死のあわいに身を置いて宙ぶらりんの訳のわからない真っ白になった状態。
こういう時、人は一生分の思い出を走馬灯のように再生すると良く言われる。
一生分?
それは、一生分と表すにはあまりにも短すぎる年月だった。
何かが側で弱々しくないている。
その声を聞きながら、脳裏に映像が浮かび上がり、徐々にはっきりと見えてきた。
それはとても奇妙な、意味なんてまったくない馬鹿げた映像だった。
だけど、僕もまた自分と言う入れ物から離れて、誰だかわからなくなってきていた。
僕と言う個体が、薄れていく中で流れる映像は、訳がわからなかった。
誰かが変な格好して、くねくねと体を動かして唄っていた。
聴いた事があるメロディだ。
チャラララララ~♪
チャラララララ~ラ~♪
手品のBGMで良く使われる『オリーブの首飾り』だった。
それはこの状況にとても怪しげで、僕を益々惑わした。
「手品ってもんはね、ハートで伝えるんだよ。失敗したってなんのその。焦っちゃいけねぇ。自分で思いっきり楽しんでやんなくっちゃ。要は気合だ。その意気込みが手品の心意気」
金ピカの派手な衣装を身に着けた爺さんが道具らしき箱を持って、そこから花を取り出した。
「よっ、ほっ、それ~、あー手品は楽しいぞ。そら、お前らもやってみろ。手品は魔法だ。そらよっと。ほうら、手品で奇跡を起こして見せよう。そしてみんなが幸せに。そしたら自分も幸せに。失敗したってもう一度。何度でもやればいいのさ。そしていつかきっと上手くいくものさ」
手品をしている爺さんの観客は、全部『サボテン』だった。
サボテン?
丸いサボテン、平たいサボテン、長い柱のサボテン、枝分かれしたサボテン、肉厚の葉が重なり合ったサボテン、ありとあらゆるサボテンが大人しくじっとそこに佇んで、爺さんの手品を見ていた。
その中で一つ、ところどころ茶色くなって枯れかけた丸い形のサボテンが、食い入るように一番その手品を見ているように思えた。
そのサボテンには見覚えがあるような気がする。
だけどなんでサボテンなんだろう。
これも最後に見る奇妙な走馬灯の一種なのかもしれない。
あっ、なんか思い出した。
確かに、あのサボテンを見た事あった。
どこで見たんだろう。
こんな映像を見て、考えを巡らせられることは、死ぬまでまだ時間があるらしい。
僕はしっかりとその光景を見ていた。
そのうち場面が変わり、僕に似たような奴が見えてきた。
ここから僕の真の物語が始まるのかもしれない──
1
その街は、そこに足を踏み入れる度に、柔らかいものに包み込まれるような不思議な感覚を感じさせてくれた。
街全体が大きく構えていて、平和という安定したものが集まっているように見えたからかもしれない。
そこには俺の親戚、厳密に言えば、俺の母親の姉夫婦と、俺よりも5歳年上の従兄弟の芳郎兄ちゃんが住んでいた。
閑静な住宅地といったら、どの住宅地にも一般的に当てはまる決まり文句になるけど、その辺り一帯は本当に住み心地良さそうな気品が誰の目にも見えたと思う。
坂の上の丘に集まるその家々は、大きさからして、お金持ちの地域に分類されると思う。
伯父は常に仕事に忙しそうで、名前を聞けばステイタスがたっぷりしみこんだ大きな会社に勤めていたし、伯母もお金に余裕があるので、自分の趣味に力を入れた生活をしていた。
そのせいか、伯父はどっしりと構えた紳士、伯母はおおらかで優しい淑女と、どちらもいつも落ち着きを払った貫録があった。
だから伯父は、家族を大事にする人であったし、仕事が忙しくても家に帰れば温かな家庭が心の支えとなって、羨ましいほど幸せな生活を送っていた。
そんな夫婦の間に生まれた息子の芳郎兄ちゃんも、落ち着いた幸せ一杯の家庭で勉強に励み、文句なくよく出来る子供となっていった。
また見掛けもすれたところがなく、礼儀正しくすっきりとした精悍さがにじみ出ていた。
見るからにいいとこのおぼっちゃまという感じだった。
そこの家もまた、アパート住まいの自分ちよりも広々としてたし、しゃれた家具や行き届いた掃除でいつも高級感溢れていた。
庭もあったし、洋風の洗練された白い外壁は子供心ながらいい家だなと思っていた。
俺はそこの家に遊びに行くのが好きだった。
伯父も伯母も優しいし、芳郎兄ちゃんも弟のように俺を可愛がってくれた。
正月や夏休みといった、纏まった休みが取れると、母は俺を連れて、泊りがけでよく遊びに行った。
母にとっての両親はすでに他界し、実家と呼べる場所がなく、頼れるのは姉しかいなかったからだった。
そして結婚生活が上手く行ってなかったために、何かと姉の家に行っては暫しの逃避をしていた。
その夫、即ち俺の父親になるのだが、これが短気で口が悪く、さらに酒飲みときている。
酔えば普段以上の嫌な男となりうるだけに、そんな日は必ず喧嘩が勃発する。
物は飛ぶし、壊れるし、自分の部屋に閉じこもって見ないようにしても、狭いアパートでは音が耳に入って過敏になり、体は強張って安らぐ時がない。
ヘッドフォンをつけて音楽でも聴いてりゃいいのかもしれないが、もし包丁が出てきたらとでも思うと、親の言い争いは全く無視することも出来ず、非常事態に備えて覚悟するような戦闘体制と身構えてしまう。
いつもどこかビクビクするような家庭だからこそ、あの街のあの家に行くときはオアシスのように感じてしまった。
伯父、伯母、芳郎兄ちゃんと会うのは俺の楽しみだったが、もう一人、俺が会いたいと思う人がその街にいた。
でもあの時は、俺はまだ子供過ぎて、そう思うのがかっこ悪いと感じて全然素直になれなかった。
要するに意地を張ってわざと悪ぶってみせるというアレだ。
とくに子供時代というのは、いろんな意味でバカな事をする時期だと思う。
心と体がバラバラで、不安定で、反抗期で、それらが全部混ざり合うと正しい事が分かっていてもその軌道に乗れない。
自分を守ることだけに必死で、回りのことに目を向けられない。
普通は皆そうだと思う。
世間では立派な大人と呼ばれる人だって、自分の抱える苦しみに溺れてしまえばその中だけに閉じこもって、それが精神不安定やら鬱やらという病名に変わっていくと思う。
世の中、何を持って、何を基準にするかで見方が変わってしまう。
だけどあの子だけは違った。
今だからなぜあのように俺に振舞ってくれたのか、心痛いほどよく分かる。
特に大人になって、自分が小学校の教師になった今、子供達一人一人の顔を見れば、あの時の俺と同じようなのがいる。
彼らはやはり助けて欲しいと、言葉なく訴えてくる。
それがよく見えるからこそ、今度は俺が子供達を喜ばせるマジシャンになって、魔法を使うように救ってやりたい。
少しでもいい方向に向かうようにと、その道を一緒になって見つけてやりたい。
そんな思いが湧き出てくる。
俺が教師の道に進んだのは、そういう事情も入っているのだが、でも一番の理由は、
『将来先生になるよ』
と、あの子に言われたからだった。
マジシャンに憧れて、俺に手品を見せてくれたあの子。
それがまた下手くそで、常に失敗ばかりしていた。
それでもいつも笑顔で、俺に手品を見せてくれた。
いつもどこか抜けていてボロがでたけど、最後に一つだけ奇跡的なマジックを俺に見せてくれた。
だから俺は心から、今、笑うことができる。
俺はこの瞬間心の中が満たされて、とてもハッピーな気持ちだったのかもしれない。
そして俺は、この時『サボテンの鉢植え』をしっかりと腕に抱えていた。
放課後、子供達が家路に着こうとしているざわざわした教室内で、俺はサボテンの鉢植えを、そっと教室の後ろの棚の上に置いた。
「あれ? 先生さっき教室から出て行ったと思ったのに、そんなとこで何してるんですか?」
「あっ、サボテンだ。なんでそんなの持ってるんですか?」
あどけない目をした数人の生徒達が寄ってきては、不思議そうに俺とサボテンを見ていた。
俺はその時、幸せすぎて目が潤んでいたかもしれない。
そんな表情をさとられまいと、体にぐっと力を入れて、子供達を見て微笑んだ。
「これか? これは先生の大切な人がくれたんだ」
「大切な人?」
さらにまた数人の子供達が集まってきて、俺の周りを取り囲み、好奇心一杯の目をサボテンに向けた。
好奇心が膨らみすぎて、誰かが触ろうと指を伸ばしかけるのを、俺は笑って忠告した。
「棘に触れたら痛いぞ」
その指はすぐに引っ込んだと同時に、その生徒は怖がって海老のようにぴょんと後ろに下がっていた。
「そんなに逃げなくても大丈夫だ。サボテンは襲わないから」
子供達はその行動がおかしかったのか、ケラケラと笑いだす。
「ねぇ、先生、これって花が咲くんですか」
また誰かが質問してくる。
俺は正直その質問になんて答えていいかわからなかった。
サボテンが花を咲かせることは知っているが、このサボテンは花をこの先も咲かせるのだろうかと、ふと思う。
『このサボテンは三回だけ花を咲かすの』
あの声が蘇る。
そしてその三回目の花は、今ちょうど咲き終わったところだった。
「そうだな、そうだといいな。さあ、皆、そろそろ家に帰る時間だぞ。暗くなるの早いから道草せずに真っ直ぐ帰れよ」
生徒達は教室から追い出されようとするも、嫌な顔せず元気な声で俺と挨拶をする。
子供達が去ると、教室は音を消したように静かになった。
秋の西日が柔らかく教室に入ってくる中、俺は暫くサボテンと二人っきりで見詰め合っていた。
そして下手くそな手品を披露してくれた、あの子の事を考える。
花咲葉羽(ハナサキハバネ)、俺専属のマジシャンであり、そして本当に奇跡を起こす女の子だった。
2
俺が小学4年生の頃、夏休みに母に連れられて伯母の家に数日の泊りがけで遊びに行ったことがあった。
芳郎兄ちゃんはちょうど高校受験を控えた忙しい夏で、その時は塾の強化合宿があったらしく、家には居なかった。
いつも相手してくれる芳郎兄ちゃんが居ないと、少しがっかりしたが、その分、伯父も伯母も自分の息子を補うように俺を可愛がってくれた。
「折角来てくれたのに、芳郎がいないと悠斗ちゃんも遊ぶ相手が居ないから、つまらないかもね」
伯母が気を遣ってくれる。
いつも遊んでくれる芳郎兄ちゃんがいないのは残念だったが、受験だし、いてもきっと遠慮して遊べなかったと思うと、俺は気を遣って首を横に振った。
「あっそうそう、お向かいに葉羽(はばね)ちゃんという女の子がいるんだけど、悠斗ちゃんと同じ学年だから、一緒に遊べるか頼んであげる」
俺は一瞬、女の子と聞いて気が乗らなかった。
そこまでして自分の遊び相手を無理に用意されなくてもいいのに。
自分の意見を言いたいと唇が微かに動いたが、伯母に遠慮して声が伴わなかった。
ニコニコとたおやかな笑顔の伯母に、逆らってはいけないものを子供心ながら感じ、俺はただ曖昧に笑ってごまかした。
それを歓迎とみなした伯母は、俺のために躍起になって、早々と家を出て向かいの家に走り、その日の午後一緒に遊ぶ約束を取り繕ってきた。
伯母の事だから、俺が是非とも遊びたがっていると、大げさに言ったことだろう。
伯母はこの近所でも頼られてるところがあり、何かあると面倒見がとてもいい。
そうなるとその反対も然り、伯母が頼みごとをすれば、拒む人がいないくらい、とても信用された人望の厚い人だった。
だから俺もそれを充分理解してたからこそ、気乗りしなくても断ることなどできなかった。
伯母の意見は、素直に聞くのがいつも正解だった。
自分の母親と言えば、そんな姉に甘えて頼りきっては、俺のことなどすっかり眼中から消えて好きな事をし始めた。
手始めに買い物に行くと言い出して、伯母に車を出してもらってさっさと準備をしてしまうから、俺も同じように家からほっぽりだされて、そのお向かいの葉羽の家に嫌がおうでも行くことになってしまった。
「よろしく頼みます」
頭を下げて、母も伯母も俺を向かいの家に置いて、さっさと去っていった。
こんなことが出来るのも、伯母の近所付き合いの中で、花咲家は特に仲がいいからだった。
芳郎兄ちゃんが、ときどき葉羽の勉強を見てやることもあるらしく、この花咲家は俺が芳郎兄ちゃんの従兄弟というだけで、面識なくとも、すでに芳郎兄ちゃんと同じ分類として信用しきって受け入れてくれた。
実際俺は、芳郎兄ちゃんなんかと比べものにならないくらい、月とすっぽんだというのに。
知らない家で気を遣うのも、かったるかった。
あまり愛想もなく、その家の敷居をまたぐ。
「いらっしゃい」
その家の母親が、上品な笑みを浮かべ明るく歓迎してくれた。
庶民代表の生活に疲れきっている俺の母親と、全く対照的な気品と優雅さに、俺は一瞬たじろいだ。
この街に住んでいるというだけで、この辺りは誰も彼もが生活に余裕を持った金持ちということなのだろう。
それについては俺は子供過ぎてまだ妬みも感じなかったが、子供心ながら金があるところは生活に余裕があるだけじゃなく、心にも余裕ができて自然と優しくなれるんだと自分の生活と比べて感じていた。
だから葉羽にもそういう気質が元から備わっていたから、むっつりした俺でも、気遣って優しくしてくれたに違いない。
そういう気遣いを肌で感じ、俺はどういう態度で接したらいいのか困惑して、玄関先で棒のように突っ立っていた。