またすぐに会えると高を括っていたが、次、この姉弟と会うのは俺が中学の2年生になった頃だった。

 結構な時間が空いてしまい、その年月の中で、俺自身やその周辺もかなり変化を遂げてしまった。


 この間に、俺の家族は完全に崩壊してしまい、母親は離婚を決意。

 その準備のために働き出して、俺と二人の生活をするために資金を貯め込み出した。


 母親が忙しくなると、伯母の家に遊びに行く時間がなくなった。

 離婚の話しを母が持ち出したとき、感情で動く父親はまず激怒した。


 その後、なかなか離婚を承諾しないために調停へと持ち込むことになっていった。

 そして、おまけのように俺の親権で揉めに揉め、ぐだぐだな修羅場が続く。


 結局は母親が親権を取り、めでたく離婚になったが、この場合めでたいと表現していいのか子供心ながらに悩む。 


 その後の生活は少し苦しくなり、一層狭いアパートで母子家庭となってしまった。


 父親の暴力を見て育っていたので、居ない方が平和かなとも思ったが、多感なときに両親が離婚するという経験はこんな俺にでもしっかりとダメージを与えていた。


 あんな父親でも家族が欠けるということは、世間一般の法則を破るような不自然な違和感を覚えるし、突然目の前の道が塞がって、やむを得ず見知らぬ道を入り込んでいくという先行きの見えない不安があった。


 無理して見かけは平気を装ってみても、お金に余裕がないと欲しいものも買えず、最低限の生活を強いられるという窮屈さが、心の余裕までも失くしていく。

 この先の生活の不安を考えたとき、自分で何かできるようにと勉強には打ち込んだつもりだ。

 それでも時折感じる圧迫感が不安を引き起こし、時々眠れない夜を過ごすこともあった。

 そんな時に伯母の家のことや、あの街の居心地のよさを思い出すとなんだか惨めになっていった。

 でも男だし、そんな愚痴も言ってられないと思っていたが、心に受けた衝撃は少なくとも自分の性格形成に影響を与え、ひねくれに拍車がかかったようだった。


 人と付き合うのも億劫になり、コミュニケーションも次第と不得意になっていった俺は、中学生に上がった頃からどうやら世間一般でいう虐めというものにぶち当たってしまった。

 当たり障りのない目立たない生徒だと思っていたが、黙りこくっていることが不遜な態度にみえるのか、虫が好かない奴と思われてなめられてしまった。